くすぶり続けている
苦い好さと甘い痛み
水の滴る音がしたような気がして視線を泳がせた。巡らせた先には床の間が設えてあって何某かの花を活けてある。藤堂の私邸だ。藤堂は卜部の戦闘能力を見出したし、卜部の方でも成り上がる。目についたから引き抜いたという言い訳が通るくらいには実績も叩き出す。その藤堂と枕を交わすようになってからの目覚めはいつも同じだ。古いし傷んでいるという藤堂の私邸は主がいない割に傷んでいない。久しぶりに帰り着くというから卜部がついでのつもりで声をかけた。一人寝? 露骨な言葉にさえ藤堂は笑ってそうだな、寂しいかな、と言うから卜部はのこのこ付いて行く。傷んだ箇所の修繕を手伝い食事と風呂ももらって客間に通される。そこでおおよそ客にはしない部類のことをする。
もっともそのつもりで来ているから拒否はあまりしない。どうしても無理であればはなっから明かしてしまうし藤堂も無理強いはしない。起き出そうとして刺し貫く痛みが走って思わず痙攣した。鍛えようもない部位を使うから負荷がそれなりにある。ぅぎ、と喉を鳴らした悲鳴に隣で蠢く気配がする。
「…どうした?」
艶事の後でも藤堂の声は清浄だ。玲瓏と低い声は鈴振るとはいかないが聞き慣れたものには心地いい。黙る卜部にそっと手が伸びた。爪を撫でて指を絡め、股をなぞって手首を這ってくる。蠢く熱源は明確だ。藤堂の裸身はすでに火照りを帯び始めている。乱暴に引き抜くのを藤堂も追わない。もう一度、どうかしたのかと問いがあった。
「ケツが痛い」
今度は藤堂が黙る。その間に卜部は布団の上に体を投げ出した。毛布を奪ってくるまろうとするのを藤堂も抵抗する。卜部も藤堂も力加減を心得ている。諍いで終わる程度のやりとりだ。そもそも脚の間をさらした相手に裸を見られることに対する抵抗は気休めでしかない。
「巧雪」
毛布ごと抱きすくめられる。決着はそれでつく。起きだした卜部に付き合って藤堂も体を起こし背中合わせになると互いの腰部を毛布で覆う。大判であるから男二人でも保った。藤堂と卜部では丈は卜部のほうがあるが厚みは藤堂のほうがある。それはそのまま戦闘力の安定感にも直結した。どんな状況でも藤堂の戦闘力はある程度見込める。卜部は腰を浮かせて布団の縁と裏を探る。客分扱いで先に入浴した卜部は煙草とライターを布団の底へ隠した。藤堂が入浴している間に行ったことで藤堂は知らない。呑口を咥えてライターで火をつける。振り向く藤堂が渋い顔をした。
「あんたザルなのに煙草駄目なんだよな」
くっくっと笑う卜部の背中へ肘鉄が極まる。笑って咳き込むふりをして煙草を喫む。ふぅと吐き出す紫煙が月光を透かす欄間や長押へ拡散する。藤堂を酔い潰すつもりで勇んだ朝比奈はあっさり返り討たれた。いつまでも帰ってこないから様子うかがいのつもりで顔を出した卜部の前で朝比奈は轟沈して藤堂が一人で飲んでいた。飲め飲めというから飲んでいる。そういう藤堂の顔色はしれっとしたもので潰れた朝比奈は翌日に半日以上を便所で過ごした。
ちょっとした逸脱のつもりで喫んだ煙草だがいつの間にか習慣づいた。なくても構わないのにあれば喫む。禁断症状が出るほどハマっていないが捨てるほどに嫌ってもいない。隣が喫めば俺にもくれという。軍属設備の喫煙室で卜部はいつも一緒に喫みながら失敬する。階級によって銘柄が違うから面白い。それなりにとりどりに集まった蒐集に口元が弛んだ。美味いものもあればいがらっぽいだけで不味いものもある。
「喫みます?」
煙草の箱を差し出せば藤堂がむっと顔をしかめた。藤堂が卜部より上級の者の名をあげつらう。彼らが喫んでいる銘柄だな。べちゃべちゃしゃべっている間って案外狙い目なんですよ。卜部の方でも悪びれない。躊躇する藤堂に卜部はあっさり退いた。酒なら呑むんでしょう。微妙な発音での使い分けを藤堂も心得ていて、そうだな、呑むかなと返事があった。
短くなる煙草の灰を携帯用灰皿の中へ落とす。藤堂がおとなしく背中を預けてくる。一息深く吸ってからタバコを携帯用の灰皿へ押しつぶす。ぱちんと留め具を閉じればただの小間物入れにしか見えない。加工がしてあって火を潰すのに耐えるだけの耐久性がある。火が消えたのを確かめる。卜部? 藤堂の声がして卜部は灰皿を放り出すと藤堂を押し倒した。互いの腰部を覆っていた毛布が複雑に絡む。それが戒めのように楔になる。なんだ、逃げないのかよ。お前が乱暴するとは思えないし。いっそ無垢な藤堂の信頼に卜部の目が眇められる。
「俺があんたを犯したらどうするんだよ」
「どうもしない。今まで私の無理を聞いてもらっているからお前の言い分も聞くつもりだ」
閨に及ぶに至って藤堂は上がいいとすがるように口にした。立場に対する執着がない卜部はあっさりとそれを了承した。ある程度の慣れが必要なその立場にようやく最近慣れてきた。卜部の立場では安定したものなど何もなかった。それは己の性別や有り様にまで及んで、卜部は何度も折られて組み伏せられてきた。藤堂の来歴は知らないし、自分の来歴をひけらかすつもりもない。軍属で高位になるものほど藤堂の味を口の端にのぼせるのを卜部は下士官として見聞きした。実物を見て意外だと思ったくらいだ。色で成り上がるような奴じゃあ、ないな。卜部は単純に見下ろすなとか愚にもつかない理由でくじかれていたから藤堂から接触があった時には面倒で仕方なかった。立場の優劣を寝床へ持ち込む輩は多い。
すっと伸ばされた藤堂の手が卜部の腰を掴む。腰骨の尖りさえ覆われてビクリと卜部が慄えるのは遅すぎた。もう一試合しようか。藤堂の言葉は絶対だ。直属に組み入れられてから反発した卜部に藤堂は手加減しなかった。卜部の基準で卜部を挫く。それはどこまでも貪欲だ。手折られるというより粉砕される。言い訳も拠り所もない。気がついたら卜部は裸身で仰臥し、胎内に藤堂を受け入れて啼いていた。四肢も意志も卜部の自覚より藤堂の強制力を選んだ。卜部は生まれて初めて肉体という器の脆弱性を悟った。弾かれたように仰け反る卜部の腰から毛布が解ける。藤堂の手がゆるやかに腰骨をなぞっては尾骨や恥骨を探ろうとする。不用意な侵略に卜部はいつも声を上げそうになる。仰け反ってしなう背を抱き寄せられて有耶無耶だ。藤堂の舌が卜部の胸を這う。指は肩甲骨や肩を撫でて絡みつく。思わぬ位置を撫でられて震え上がる。藤堂の有り様は侵略的だ。受け身かどうかは問題ではない。藤堂の熱は触れるものを犯す。
卜部は絡みつくものを振り払って結合部でわだかまるものを取り払う。顕になったのは侵される卜部の体だけだ。驚いたのは卜部だけで藤堂はたじろぎもしない。藤堂の熱が胎内にある。かすれる喉を叱咤する。乾いた喉をドロリと粘性の唾液が降りていく。藤堂は無心に卜部の胸を吸う。膨らみも柔らかさもない胸を吸う楽しみは判らない。それでも腰へ奔る刺激は本物でその度に卜部は慌てふためいた。
「ッ…ふ…――…」
唇が重なる。貪られるように持って行かれた。口の中が拭われたと思うそばから流し込まれて溢れかえる。藤堂の手が卜部の腰骨を固定し、しなう背さえ抱き寄せる。卜部は唇を食まれてようやく剥離した。潤んだ視界で藤堂は欲に濡らした灰蒼を卜部へじっと据えていた。
「こうせつ」
濡れた唇が名を紡ぐ。藤堂の発音には訛りもなく聞き辛さもない。いっそ平坦に無味乾燥であればいいと思うのに藤堂の声は艶めいた。濡れた声で名前を呼ばれると己がそういうものであるように思う。
「こうせつ」
卜部の体が傾いだ。そのまま仰臥する上に藤堂が覆いかぶさってくる。寝乱れた敷布や布団からはみ出す。畳の匂いが鼻腔をくすぐった。
「煙草は、よしなさい」
すでに卜部の意識は途切れ途切れで体は断続的に痙攣した。胎内の藤堂に触発されるように卜部の体も火照った。仰け反る嬌声に藤堂は目を細めて笑う。卜部は四肢を繰った。藤堂の熱が近い。触れる肌は汗を通して領域を犯した。卜部の中に藤堂があふれる。藤堂の背中へ爪を立てた。藤堂は黙って笑うと、代償は何にしようか、とうそぶいた。卜部の視界は潤んで瞬いた。
《了》