お願いだから、見ないで
目の毒
薄暮が差す頃合いになってもリョウは自室へ引き取らずに歩きまわる。揃いで与えられた制服を着崩して適当に手を加える。そのまま貰い受けられる気はさらさらない。元々が政治的な理由で隔離された地域から飛び出した日本人だ。公的な後ろ盾さえない中でリョウが今も生きているのはありとあらゆる暴力で自身の権利を勝ち取ってきたからだ。欧州ではアジア人の顔立ちは明白で、歩いているだけで避けられたり絡まれたりする。軽視するものもへりくだるものも全部リョウは拒否した。自分が欲しいものは自分の力で手に入れる。金も寝床も食事も居場所さえそうして勝ち取った。いつの間にかそんな少年少女が集まって団体を成し、リョウはそれに指示を出していた。のみならず直接交渉にも応じる。日本人であるというだけで世界は底辺だ。下水に飛び込むし鮮血をかぶることも頻繁だ。汚水に手脚を浸し、銃器や爆発物、精密機器にも精通する。俺は欲しいものは全部自分で手に入れてきた。自負が在る。
リョウの足音がそっと潜んだ。なんとなく落ち着かない気配は覚えがある。非合法組織であるから摘発の恐れは常にあって日頃から人の気配には敏感だ。そっと壁に背を寄せて窺う。濡れた音と熱い息の音がして舌打ちしたくなるのを必死に堪えた。見つからないところで盛れよ。リョウの目線の先で二人はしきりに唇を合わせているようだ。軍属しか基本的に出入りしない場所であるから性別は明らかだ。まぁ好き好きだからな。ふわりと尻尾のように揺れる三つ編み。リョウは目を瞬かせて身を乗り出した。こちらに背を向けている男はリョウに気づいていない。撫でられ吸われているのはアキトだ。撃破された相手の顔くらい覚えている。アキトはリョウとの戦闘時に戦闘機を捨て、備え付けの銃器のみで戦闘機ごとリョウを撃破した。
アキトは無関心に唇を合わせていたが不意にリョウの方を見た。びくりと肩が跳ね上がってしまったことに気づく前に、リョウは翻って身を隠す。間をおいて覗いてもアキトに気づいた様子もない。気配の揺らぎでどちらかが退席するのだと気づいてリョウは身を潜めた。袋小路ではあってもすぐに往来へ通じる場所だ。ばたばたと慌ただしく立ち去る男の背中を眺めながらリョウは気が抜けたように肩を落とした。馬鹿馬鹿しい。アキトがどういう嗜好であろうとリョウに興味はない。政治的に成り上がる気がないから相手の男の顔も階級さえも胡乱だ。制服であるから軍属だろうと思うのに階級さえ覚えていない。はぁっとため息をついた瞬間ににゅうと白い手が伸びた。その繊手は強靭にリョウの口を覆って暗がりへ引っ張りこむ。往来は真っ当であるほどに構成員の顔ぶれなど気にしない。人が一人姿を消すくらいは許容範囲だ。
羽虫の慄えるような音を立てて往来に明かりがつく。袋小路のそこには明かりがないようで暗がりだけが際立つ。無意味に照らす入り口が遠ざかる。闇に呑まれると思うほど深い位置でリョウを捕える手が解かれた。尖った頤がリョウの肩へ乗せられる。視界の端で三つ編みが踊る。
「いい趣味だ」
飄然として抑揚のない声音はアキトだ。相手をする理由はないと立ち去ろうとするところを白い襟巻きを引っ張られて喉が絞まった。激しく咳き込むのをアキトは助けもしない。伸びた手がリョウの胸倉を掴みあげて壁へ叩きつける。背中を打って肺が軋む。
「感想は?」
紫がかる青い目がじっとリョウを見据える。振り払って顔を背ける。怯むべきはアキトの方であると思うのにリョウばかりがいたたまれない。人の閨を覗いて平気でいられる経験はリョウにはない。性交渉の経験はあるし、それゆえに却って気まずさばかりが募る。立ち去ろうとするのをアキトはあっさり阻んだ。桜色に揃う爪先がリョウの硬い鳶色の髪を梳いた。一房だけ額へかかるのをアキトは無垢に玩ぶ。リョウは睨みつける名目でアキトの容貌を眺めた。正面から見るぶんには蒼い黒髪の短髪であるのにうなじあたりから伸びる三つ編みは長く、腰へ届くほどだ。顔の半分を覆いかねない前髪を払うでもなく垂らしている。与えられた制服も真っ当に着こなしている。過剰な装飾も逸脱したきくずしもない。留め具をきちんと留め、釦も揃う。細い腰が顕だがその像は完全に男性体だ。
不意に唇を吸われた。アキトの良識を無根拠に信じていたリョウの落ち度であると判っていても感情が逆なでされた。舌を絡めようと開く唇へ思い切り噛み付いた。口の中に広がる錆の味に睨みつけてもアキトは微動だにしない。リョウの口へ広がった血液さえも飲むばかりに唾液をすする。リョウの背後は壁で逃げ場もない。アキトの目は強くリョウを射抜く。逃げようと探る指先は無為に壁を引っ掻いた。
「どうした。拒否じゃないなら同意とみなすぜ」
頭の芯が痺れる。ぼぉっと熱いものが不意に脳髄を犯して嗜好を滞らせる。アキトの指がリョウの腹を撫でる。着崩してあるっていうのもいいな。言い訳が広がる。突き飛ばして殴ってやりたい衝動を堪えた。そうしなかったのは自分にも落ち度があるとわきまえたつもりだからだ。さっさと立ち去ればよかったのだ。微温く濡れた舌先はリョウの顎をなぞっては頬裏を舐り舌を吸う。女を抱くのとはわけが違う。切り込むにはそれなりの手順が入り用で、知らずに踏まえていたのだと判る。アキトがリョウに施しているのは抱かれるための事前準備だ。
手がリョウのシャツを掴む。がばりと鎖骨辺りまでまくられてリョウが息を呑む。戦闘要員でもあったリョウの体は不均一に筋肉がついている。実戦で必要な場所にばかりつく。鑑賞が目的ではないから不意に虚を探られては慌てた。アキトは胸の突起をした先で転がしてから笑みを深めた。涙目だ。怖いのか? リョウの手が思わず自分の顔を覆った。リョウの人生において泣くことは醜態でしかない。恥じらいも可愛いな。怯んだ隙に両手首を捉えられた。柔らかい手首の内側をしきりに圧してくる。神経がゴリゴリとなぶられる。
胸部のサポーターさえ解かれてリョウの体を守るものはなくなった。
「おい…ッ」
アキトは無遠慮に胸に吸い付いてくる。アキトの唇が蠢いた。リョウがその音を認識する前に、コツコツと無機的な音が二人の意識を向けさせた。揃いの制服を綺麗に着こなすが小生意気な印象を拭えない。細い首をスカーフが覆い、肉桂色の髪はきつく巻いてパンを思い出させる。緑柱石の瞳は聡明に澄んだがそこへ滲むのは体の年齢と不相応な理知だ。
「いいことしてるね」
仲間であるかのような口ぶりだが明確な敵視だ。
「……ユキヤ」
リョウが漏らした名前にユキヤはにこりと笑ってからアキトを睨む。いいことしてるね。アキトは怯みもしない。子供は眠れよ、夜なんだから。あんたに子供とか言われたくないよ。ふぅん、それじゃあ眠らせるか。アキトは手の内に滑り込ませたナイフを構えた。同時にリョウの体を壁から引き剥がすと膕を蹴りぬいて組み伏せる。リョウの首筋へひたりと冷たい刃が添えられた。リョウの抵抗など想定内だと言わんばかりにいなされてなかったことになっている。ユキヤが怯む。オレは相手が動かなくても少しは楽しめる性質だ。滑る刃先がリョウのシャツをぷつぷつ裂いた。うっすら赤い線が残るのをアキトは眺めもしない。ユキヤは動きがあるたびに前かがみになってはすんでで堪える。
「馬鹿にしてんの」
「さぁ。居座るつもりなら見張りでもしていればいい。ひょっとしたらおこぼれがあるかもしれないぜ」
ユキヤの顔に朱が上り、アキトはその効果に口元を弛めた。リョウはアキトの口調に唖然とした。案外まともな口を利くな。その体勢で言うことじゃないけどな。好みがあるなら言えよ。耳から嬲られるのが好きな奴もいるからな。アキトはねじり上げたリョウの腕をさらに強く捻る。
「離せよ」
ヒステリックに甲高いユキヤの声が唸る。アキトの体が奔った。リョウを突き飛ばしてためを作る。リョウはユキヤの両脚をすくうようにして払った。バランスを崩してくずおれるユキヤの頭上を鋭利なナイフが掻き切った。リョウとアキトの両方から不意打ちを食らったユキヤは呆然とその場に座り込んでいる。
アキトの靴底がリョウの背中を踏みつける。どういうつもりだ。肺を圧されてリョウが喘いだ。
「うるせ、えよ。馬鹿野郎」
はん、とうそぶくリョウの背骨をアキトが踏みつけた。リョウは咳き込むようにして澱を吐く。透明な吐瀉物がリョウの頤を汚した。衣服を剥ぎ取られる。裂かれていたから皮でも剥くようにするりと剥けた。
「それで? お前はどうするんだ。見物か」
アキトはナイフをリョウの眼前に突き立てた。空いた手がリョウの下肢の衣服を剥ぎ取る。ユキヤは茫然としたままそれを見つめた。引き締まった内股や膕をアキトの指が殊更嫌らしく撫で回す。手応えが変わったぞ。脚の間を撫で回されてリョウは唇を噛んだ。
「いい格好だよ」
耳朶を食まれてリョウの顔が火照る。
「お前はだいぶ可愛い猫だ」
リョウの手が眼前のナイフを抜く。気づいたユキヤの制止さえ遅い。ひょうと空を切るナイフにアキトは眉筋ひとつ動かさずに対応した。ぐんと脚を掴まれて横抱きになる。アキトは猛る脚の間をリョウの腰へ押し付けてくる。その熱量にリョウが怯んだ隙にナイフを取り上げる。お前も相当馬鹿だな。ユキヤは腰が抜けたようにその場へへたり込んでいる。ふん、馬鹿がまだいる。
「ば――…ッ、ひ、…ぁ、あぁ」
リョウの脚の間でアキトの指や手の平は不穏に蠢く。何度も澱を吐いてリョウはその過ぎた快感に耐えた。嫋やかな指が鳶色の髪を掴んだ。引っ張られて痛みに顔が歪む。
「リョウ、僕…――ぼ、く…」
ユキヤの声の震えは痛罵に近い。
「ほら見せてやればいい。お前の艶をさ」
アキトはユキヤに構いもせずにリョウを犯した。手加減も躊躇も一切ない。ぞくぞくとした慄えに体を震わせてリョウが喘ぐ。固い床へ立てた爪が軋んだ。ユキヤの脚の間は反応していた。
《了》