私がいなくなっても?


   懐ける猫と

 日の高いうちに訪う折の景色の差異に怯んだ。日が高いと言っても彼は誰時である。朱色に染まる門扉の節穴や傷みに不意に気づかさせられる。見えないところで傷を負うのは家主に似ている。家族はとうに亡いと聞いている。連れ合いもいないという。維持のためにはある程度の労力がいる庭と生け垣だ。雨を含んだ黒土はしっとりとして靴先で掘れば薬草のような匂いがする。指定された鉢植えや郵便受けを漁る。鍵があるはず、という話で、しかも家主の藤堂がどこへ置いたか忘れたと言う。不用心だと諫めるのを困ったように笑う。盗られて困るものもない。家ごと持って行かれても構わん。惜しげもない藤堂の小間物や衣類は一流の粋を集めたものばかりだ。卜部程度では購入はもとより選び取ることさえ難しい。手入れのために帰るようなものだな。空き家は傷みが早いというから。
 土埃にまみれた鍵を探りだす。矯めつ眇めつして何とか鍵穴へ嵌めると回す方向や把手の手加減に四苦八苦する。年月を経たものの気難しさは人も物も変わらないようだ。ぽいぽいと靴を脱ぎ捨てて上がり込む。手元に提げた袋がガサガサと音を立てる。雨戸は閉てない。注意もされなかったしそもそも卜部の中で雨戸の存在が希薄である。鎧戸や雨戸は暴風雨の際に閉めるものだと思っている。障子や襖は閉める。蒼白い月光の導きであかりのスイッチへたどり着く。しばらく明滅を繰り返したがやめた。台所へ行くに支障がない情報だけを記憶してスイッチを切る。台所に着くと明かりをつけて小振りな冷蔵庫を開ける。食材は好きに使って構わないとの許しを得ている。季節を大事にする性質ではないが店頭で新しいものが見つかれてば迷う。野菜の泥を落とすと皮を剥いて面取りをして鍋へ放り込む。煮物を作る間に新たな惣菜を作る。豆腐があったな。
 簡単な惣菜をこしらえてしまうとやることがない。飯は炊飯器が炊くし。風呂場を覗く。木造でほんのりと香りがする。蛇口の銀色が伸びて湯殿へ溜めるようになっている。熱湯と冷水で調節するタイプだ。茫洋と眺める内に空気が湿ってくる。造りの木が呼吸する。藤堂が湯を浴びた際の湿気を吐いているに違いなかった。今から溜めても藤堂が帰宅する頃合いまで保つか判らない。藤堂が食事をしている時に湯殿は溜めることにして掃除だけした。擦った泡を落とす際の流れにさえ反応する木肌はしっとりとして吸い付くようだ。濡れた手脚を拭ってまくりあげていた部分を直す。畳敷きの部屋へ戻ると縁側に青白い光があたっている。いつ帰るかも確かめなかった訪いであるから文句をいう筋合いではないが、早く帰ってくればいいと思うから不思議だ。庭に面した縁側に腰を下ろすと微睡んだ。卜部は少しだけ眠った。
 がたがたと揺れる音がして目を覚ます。手加減が判らず強引に揺らすというよりは塩梅の結果であっても建て付けが悪くて軋むのだ。縁側と廊下を兼ねた造りであるから玄関へそのまま通じている。卜部は雨戸はおろか硝子戸さえ開け放したまま眠っていた。
「…卜部?」
瞬間的に迷った。藤堂、と名を呼ぶか中佐と階級で呼ぶかを惑う。藤堂も狭量ではないからしくじったところで何もない。卜部の方でもやもやするだけだ。月明かりの具合で藤堂の居るところから卜部の姿はすっかり見えているはずだ。
「中佐」
飯はありますよ。風呂はまだですけど掃除は済んで。立ち上がろうとして目線が縁側へ向く。俯けて張り詰めたうなじへふわりとやわいものが触れた。身動きがとれない卜部に調子を良くしたのか触れるだけではなく吸い付いてくる。頚椎に噛み付かれてそれが藤堂の口唇であると気づいた。実感がわかない。藤堂の長い指や大きな手の平が卜部の髪を梳いては頭を押さえる。
「石鹸の匂いはあまりしないな」
「…ば…ッ………だ、から、きたな」
発条仕掛けで跳ね上がる。体を引きながら顔を上げるのは藤堂の手を避けるためだ。顔を上げきったところであっさり捕まった。頤や頬骨を抑えられる。唇を好きに貪られる。仰け反っても俯いても逃げ道がない。息をつまらせて逃げる体が傾ぐ。
「…――ぅ、……ッン…」
自分の手は骨ばって見苦しいと思う。藤堂の手や指には剣戟の熟練である証のように肉刺があるのにそれさえひどく美しい。こうせつ。藤堂の声は凛とする。卜部は藤堂の手の甲へきつく爪を立てた。ぎちりと皮膚の擦れる音がする。刹那にばちっと弾かれたように藤堂が体を離す。互いの唇が唾液で濡れ光る。藤堂の体は手抜かりなく卜部の脚の間にある。
 慄える指先が卜部の服を掴む。釦や襟や裾で躊躇するように旋回する。卜部は自分からボタンを外して留め具を緩めた。藤堂の指先と卜部の腹部は剥離して零度の壁が二人を分かつ。だがその低温こそが快感の引き金になっていてひどく酩酊する。冷たい藤堂の指が胎内に入り込むと思うだけで体が燃えた。退こうとする藤堂の手首を卜部が掴んだ。骨の突起が卜部の肉を圧す。
「…う、ら」
泣き出しそうに怯む藤堂の顔が一瞬だけ照らしだされる。月白の瞬きはすぐに藤堂の表情へ夜色の幕を被せてしまう。
「判って、居るのか」
卜部は問い返さない。藤堂の紡ぐ音が通る。玲瓏としたその響きは鈴より重く鐘より軽い。鼓のように腹の底へたまっては霧散し、余韻を振りまく。卜部は藤堂の声を聞くのが好きだ。叱りつけるときは空気が鳴動すると思うほどなのに一時呟く言葉は掻き消える。頼りなさげにか細い藤堂の声はひどく脆かった。
「私のもとへとどまるということが、どういうことか判って、居るのか」
藤堂も卜部も軍属だ。最前線で戦闘をこなしている。それでいて一兵士でしかない存在は。
「…日本は、もう」
言われるまでもない。日本はブリタニアという大国に勝ち目のない戦いを挑まされて今まさに負けそうになっている。落ち目の国がたどる運命はわかりきっている。国のどこが制裁の対象になるかさえも。
「食ってる途中で毒だって判っても多分俺は食うぜ」
「皿まで喰らうか」
「もう食っちまってるんだからどれだけ食らったって同じでしょう。だったら俺は腹一杯になる方がいい」
「下したり吐いたりするぞ」
「きったねぇ話してんなぁ」
くっくっと笑う卜部の喉がごろごろ鳴った。藤堂の指先が慄えた。その手首を掴む。指先が食い込む。血の流れを阻んで重たく腫れていくように藤堂は目を眇めた。
 「あんたは…――」
卜部の声がかすれた。そのまま言葉は喉の奥でくぐもった。

あんたは、俺を

卜部の口の端が吊り上がる。馬鹿馬鹿しい。卜部? すいませんね。ちょっと血迷ったみたいで。藤堂は目を伏せる逡巡の後にポツリと言った。私も一緒に連れ回してくれたらいいのに。灰蒼は潤んだように濁って瞬く。茶水晶の煌めきを眩しげに目を眇める。縹藍の黒髪を梳く指先は優しい。お前の髪は癖が強いな。だから短く刈るんですよ。藤堂は表情だけをほころばせて頬ずりした。緩慢に触れる頬から広がる熱の余韻は緩やかだ。
「卜部、お前は私の感情を知って」
「さぁ? 俺がいつでもホイホイ言うこときくと思ったら間違いですよ」
軽薄に言い捨てるのを藤堂は緩慢に見つめる。どうせ嘘偽りだと判っているから潔い。卜部は藤堂に言われたらおそらくそれがなんであっても言うことを聞いてしまうと思っている。水が飲みたい腹が減った、から、命をかけた戦闘に至るまで。できるかどうかは問題ではないのだ。卜部は多分する。結果責められても貶められても、藤堂がしろというなら多分する。だがそれは殊更言葉にするほど決意が要るものではなくて。だから、言わない。
 唇が重なる。微温く蠢く舌が卜部の口腔を舐る。
「何か言いなさい」
「…あんたの目ってさ、時々藤色に見えるぜ。蒼が紫を帯びるんだよ。真っ昼間に見るときは灰蒼に濁ってんのに月明かりだと淡紫に視える」

「きれいだよ」

藤堂が戦慄く唇を噛みしめるのが見えた。まるで歯が浮くようだ、と思う。藤堂は名残を忌むように振り払って駆け出す。卜部は遠くでザァザァと水流のほとばしる音を聞いた。卜部は縁側に仰臥する。はじけ飛んだ釦があった。指を伸ばす。首を傾がせるように巡らせると夜空が見えた。何かを愛でる感覚はすでにない。摩滅した理性と本能の中で鑑賞眼は消え失せる。ただ在ると判るだけだ。
「眼の色、なぁ」
藤堂のほうがまだ感傷的だ。それでも嫌われたくないからまだ真っ当な振りをする。
「刳り抜いてやりてぇよ」
卜部の指が留め具を外して襟を肌蹴させた。

熱かった。


《了》

もうなにがなにやら          2013年9月8日UP

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