それでも惹かれる
超えられないもの
微温くべたつく風が頬を撫でる。野営の際に屋根になる木々の茂りがあればマシな方だ。この地域ではイレヴンに貶された日本人を別枠で扱う。軍属であり隊を編成しながらリョウたちは正規国民としての数には入らない。侵略的に広がりつつある勢力である大国に反発しながらも鼻息を窺うように、イレヴンは隔離される。理由は単純で日本は侵略されてエリア11となり日本人はイレヴンという蔑称をいただくことになったからだ。隷属民として底辺を這う民族の扱いに困った結果として、識らぬふりをされる。息の詰まる箱庭からリョウは飛び出した。それがもうどのくらい前なのかさえも判らない。命を賭けた日々の密度は進行の実感を惑わせる。案外時間は経っていないかもしれないし、驚くほど経ているかもしれない。突き抜けるほど深い闇の夜空はそれでも幕のように星を散りばめる。
リョウ、と静かに名を呼ばれて振り向く。小振りな角灯を持ったアキトが佇む。アキトはリョウが仲間と計画した襲撃を迎撃、撃退した張本人だ。戦闘機を乗り捨ててなお、戦闘機に乗ったリョウを撃破し、ユキヤとの駆け引きにさえ勝利した。テロリストだったリョウたちを今の上司が迎え入れた。私の部隊に入れと。身内の少女と同じ年頃に見える少女の台詞に嗤った。それでも今の生活の保証と資金はそこから出ている。黙っているとアキトも何も言わない。もともとアキトもリョウも御託を並べる性質ではないのだ。リョウは立場と必要に応じて威嚇的であったり口も回るが、アキトは必要があってもなお口数の少なさを改めたりしない。悪びれもしない。怒るのも失望するのも勝手にやっていろと言っているようにみえる態度さえ不遜だ。
「なンだよ」
角灯の光源は乏しい。アキトの端正な顔立ちの細部は闇に融けて見えない。艶めくように紅い唇だけが見える。小さくまとまる口元は常に上品に引き締まっている。
「気づかないというのは呑気でいい」
「どういう意味だそれ」
アキトはもう何も言わずに佇む。根負けしたリョウの方がアキトの方へ戻ると嬉しそうに口角がつり上がった。淡く単調に整っていた表情が躍動的に歪む。それでもアキトの顔の片鱗は綺麗だと思うから厄介なのだと思う。リョウはなりも性質も攻撃的で顔立ちも精悍だ。口元を歪めると凶悪だなどと言われたこともあるから自分の程度くらい心得る。アキトは興味も懸念もないのに妙に綺麗だ。特別な手入れでもしているのかと思ったがそうでもないようだ。
瞬く明かりが不意に目蓋の裏へ突き刺さった。目を瞬かせて怯むリョウの方へアキトのしなやかな腕が絡む。猫のような体がしなだれて来るのを払いのけるか悩むうちに唇が近づく。紅玉の照りと艶に艶めく唇が蠢いた。
「お前は可愛いな」
指先が一房だけ垂れているリョウの前髪を玩ぶ。アキトの双眸の色さえ判らないのに眼差しばかりが突き刺さる。手をかけずとも保たれる美貌の片鱗が爪先にさえあらわだ。同じ制服のはずなのにアキトのほうが細身だしきちんと着込んでいる。それでいて態度は砕けているのだから要領がいいとしか思えない。
「やめろ」
女子供ではないのだから可愛いと言う言葉は褒め言葉ではない。苛立ちをにじませて顔を背ける。払い落とした指先はすぐさま舞い戻ってリョウの頬を撫でて唇を圧し、頤を固定する。眼差しが交じり合う。アキトの目は無欲でいて強かった。何者にも影響されない強さと孤独に魅せられる。揺らぐリョウの双眸を見据えてはアキトは口元を弛めた。絵画の静謐さがその時だけ艶かしい動きに変わる。篝火のように燃える舌先がチロチロと覗いた。
目線や囁きでアキトは満足しなかった。その細い指は弛めた服の隙間から忍び込んではリョウを焦らせた。白い襟巻きを巻きつけ引っ張り、へそが覗くほど服をたくしあげて腹を撫でる。膕を撃ちぬかれて強姦されないことが不思議なほどアキトの指先や唇や舌は領域をわきまえた。その気遣いを嬉しく思ってしまうことにリョウの方がたじろいだ。慌ただしく払い除けて逃げるリョウをアキトは追わない。襟首を掴んで猫の子のように釣り上げる。そっちへ行くな。明かりが届かないぞ。暗がりなど怖くはないのに。きょろりと動く淡紫色の双眸が瞬く。蒼い艶の髪は正面から見ると短髪だと思うのに背中を向けられた途端に、隠されもしない長い三つ編みが尻尾のように揺れる。切り落としてやりたくなるのに取り返しの付かないと思わせるほど長い三つ編みが怯ませる。
角灯を置いてアキトが席を外す。何かあったら呼べ。はぁ? 食事の配給を受け取ってくる。場合によっては戻る時間を変えるから気をつけろ。深意が呑み込めずに曖昧なわだかまりはアキトのせいだと決めてリョウはアキトを追い払った。アキトの方でも気を悪くするでもなく立ち去る。闇へ融けて消える後ろ姿に不意に不安を感じた。少し離れた位置に本体の宿営があるからそこまで行って食事の有無や何かを問うのだろう。ご苦労なこった、と鼻を鳴らす。戦力として無視できない能力を有しても彼らと違う血統は明確に横たわる。理不尽や不条理であると感じる気持ちさえ統制されてリョウは時々座標を見失う。その度に地下組織に居た頃を思い出す。食事も寝床も金も戦闘や駆け引きで勝ち取り、奪った。その世界で実力とは明確な破壊力と残酷さで、血統など考えなかった。
日向アキトという名前から察するにアキトもイレヴンで、その割に端正な顔だと思う。リョウが最後まで行動を共にした成瀬ユキヤや香坂アヤノはまだ成長の過渡期で顔立ちも体つきも初々しい。ユキヤなど刺激や反応で性別さえ変わるのではと思わせるほど華奢だった。そういえば彼らは今回同行していないのだ。同じ所属でも別動することも多い。戦力が欲しくてもイレヴンのそれを頼みにするのを本国が嫌うのだ。その複雑な相反する思考が人数の制限という妥協を見出した。ざり、と土を踏む足音が違う。アキトじゃねぇ。顔を上げた瞬間に口を覆われてそのまま地面に押し倒された。跳ねる四肢まで抑えこまれる。押さえ込む力の方向を考えると一人じゃない。てんでバラバラの方向からの暴力がリョウを抑えている。いいのかよ。イレヴンだしな。男だろ。はらまないぜ。目の前で交わされる会話にリョウの脳裏は血走って灼けた。眼球の裏さえ紅く燐光を放つようだ。襲撃者はリョウを性の慰みにするつもりのようだ。軍属という職種は性別の偏りが激しいから妥協点も低い。まして尊ぶ必要なしと底辺へ追いやられる日本人であれば、明確に守るものなどいない。申し立てが黙殺されるのは火を見るより明らかだ。
「――…ッ! ん、う…!」
口をふさぐ手に噛み付いてやりたい怒りと詰まりそうになる喉に喘ぐのを繰り返す。襟が開かれた。インナーまで破りそうなそれに目眩がした。衝撃や恐怖というより怒りの色合いが強い。末端であればなお備品の補給もままならない。ベルトが解かれてズボンを下ろされる。怒りと羞恥で脳裏が灼けた。行き場も解消もない激情に目が潤む。脚の間を這う手の熱さに嫌悪が湧いた。どこまでも異質で受け入れがたいものだった。
「おい、早く済ませろよ」
「次はおれだぜ」
ごそごそと動く熱やあてがわれる肉の感触に怖気が奔る。絶叫しそうな喉が引き攣った、刹那。
乾いた小さな微音をさせて男の額が噴いた。真紅の鮮血と純白の脳髄がリョウを濡らした。どさりと倒れかかる肉塊を反射的に払いのけた。襲撃者たちにも衝撃が走ったらしく拘束が緩んでいるのだ。立て続けに空を裂く音がして紅い噴水が幾つも出来た。脱がされかけたリョウに降り注ぐものは熱かった。どろどろとしたそれを拭うことさえ忘れてリョウは次々に斃れる襲撃者を呆然と眺めた。大量の肉塊と死の匂いがそこにある。肩の丸みもあらわにリョウの皮膚を温い血が伝った。抵抗で乱れた前髪がリョウの額をまだらに隠す。少し幼く見えるそれをリョウ自身は気づいていない。リョウを拘束して暴行しようとした輩は残らず頭部を撃ちぬかれて死んでいた。しかもリョウに怪我はない。狙撃手の完成度は高い。静かに土を噛む音がしてリョウがそちらを見るとアキトがバケツを持って銃を構えていた。問う前にアキトの淡紫色がリョウの周囲を確認する。怪我は。は? お前に怪我はないか。ないけど。ならいい。アキトは無造作に死体を蹴った。そこにあるのは憎悪や嫌悪というより、邪魔なものという認識だけだ。ぼやぼやとあたりを照らす角灯の明かりがバケツの表面を撫でる。水が満ちているようで明かりがキラキラ反射する。おい、それはなんだよ。
アキトは座り込んでいるリョウの頭からバケツいっぱいの水を浴びせかけた。思わず皮膚を打つ飛沫に眼をつぶる。ぽたぽたと髪や頤から水滴が垂れた。制服さえベッタリと濡れて透けた。ふんわりした襟巻きなど濡れそぼつ布でしか無い。通り雨や豪雨にあったよりひどく濡れた。アキトの散水の標的は明確にリョウだった。
「おい」
「血液は早めに落とさないと臭いが残る」
謝るどころか正当であると言わんばかりのアキトはリョウの反応など気にしない。濡れそぼつリョウが顔を濡れた袖で拭うのを愉しそうに眺めている。視線がなければ猫や犬のように体を震わせたいくらいだ。いまいち納得がいかないリョウの表情にアキトは口元だけを弛めて笑んだ。引っかかってくれてよかった。お前を晒したかいがある。
出汁にされた。睨むリョウの目線さえ知らぬげにアキトはしゃあしゃあと言ってのける。お前の色気が万遍なくて助かった。尻を撫でるくらいは役得だろう。なんで、殺したんだよ。疑わしいからだ。言葉少ななのは今に始まったことではない。アキトは平然と表情も変えない。眉筋一つ動かず、罪悪感もない。それは出汁にされたリョウの側にも適応される。アキトは目的完遂のために信頼関係さえ粉砕してもいいと言っているのだ。振り上げた拳が地面を打った。血だまりで泥濘んだ地面では手応えもなくもどかしさと不服ばかりが募った。喉を鳴らして唸るのをアキトの双眸は愛撫するように眺めた。なんでだよ。知らないし知ろうとも思わない。それが任務というものなのだと。責任の丸投げじゃねぇか。オレは責任をとるほど上位じゃない。歯車は思考しないほうがいい。躊躇いもなく放たれる言葉は歯車を組む位置に居たリョウを倦ませた。諦めに似た思いを強いていたのかもしれないと悔いる。
乾いた指先がリョウの頬を拭う。ひたりと吸いつく水分がリョウと指の境界線を曖昧にする。アキトの体温が伝わるようで、それは自分が淫蕩であるから感じるような羞恥を呼んだ。頬を寄せるほど厚顔ではないが払い落とすほどの嫌悪もない。リョウは胸のつかえを覚えたままアキトの愛撫を受け入れる。アキトの指先は遠慮もない。濡れて張り付く服をあっさり脱がせる。リョウの被る羞恥や被害は考慮しない。たじろぐリョウにアキトは優越の笑いを向ける。なんだ、ご褒美をやろうと思ったのに。…いらねぇ。残念だ。誰がだと言いそうになるのを堪える。引き攣るリョウの口元や目元には目もくれずアキトは言葉を転がした。脇へ置かれている銃の艶にリョウの目線がチラチラ向く。消音器を噛ませた銃身は少し長めだ。…お前が、撃ったのか。アキトは肩をすくめた。知ってどうする。償わせたり贖わせたりする気はない。それほどの繋がりも情もこの襲撃者たちに対して抱いていない。黙ってしまうリョウにアキトはあっさりとそれで正しいと判じた。
お前が馬鹿でなくてよかった。うるせぇよ。ご褒美だ。唇が重なる。血と水と鼻につく臭いに満ちたそこで、アキトは味わうようにねっとりと唇を舐めてくる。耳や頬を抑えられて逃げることも出来ない。指先がくすぐるのをさせるままにする。アキトの指がリョウの前髪をかき上げた。あらわになる額へキスが降る。なんだ泣いているのか? リョウは手加減なくアキトの足や腰を蹴りつけた。どこをどう見たらそうなンだよ。血塗れの閨は嫌いか。常識的に考えろ。お前が常識とか言うのか。口が減らない。リョウの威嚇にさえアキトは平然と言い返してくる。しかも暴力的に抑えこむようなことはなく、どこまでもリョウの力に対しての反発だけだ。泣きそうだったろう。誰がだ。お前が。目の潤みが明かりで反射していた。綺麗だったぞ。耳や首まで紅潮させるリョウにアキトは優しく口付ける。
かわいいな。温い滴が首や腰骨を撫でる。開いた口元へ狙ったように唇がかぶさる。呑み込まれた。リョウは力を抜いてアキトを受け入れる。アキトは優しくリョウを抱いた。…おい、飯は? 申請はしたから余剰分が出ればあるだろう。口元が裂けるような笑みを見せてアキトは凄絶に美しい。リョウは生返事をした。浅い泥濘へ体が沈んだ。
《了》