狂ってるって、判ってる


   気狂いの恋

 破瓜は突然であった。一人で居た時を狙われて、隙があったのかもしれないと後から思う。日本人という出自はそれだけで不平等を引き起こした。それは対人から待遇からあらゆる全てに及ぶ。電灯の切れた薄暗がりが初夜だった。悲鳴を上げるような女々しさはなかったが口にハンカチを押し込められた。無情に激しい突き上げに何度も吐き出すのを繰り返し押し込まれた。抵抗して立てる爪や拳さえいなされてリョウは完膚なきまでに叩きのめされた。股が裂ける激痛と感じたことのない恐怖。目の前に突きつけられる銃口より己の脚の間を揺さぶる男のほうが怖かった。男はリョウとそう歳も変わらないだろう少年だ。それでも明確に男だった。引きずり降ろされて膝のあたりでわだかまる衣服にさえ体液が飛散した。じとりと濡れたハンカチを腹にこぼして壁にもたれて呆然と喘ぐリョウを見下ろす男の目線はただ冷徹だった。揺らがない目線と対照的に揺れる三つ編みは印象的だ。
 行為の間隔は不定期でこの間もと思うほど近くそういえば久しぶりだと思うほど遠く。初夜の後に寝込んだリョウに手法が変わる。避妊具の使用。これはある意味で防衛手段だ。リョウ自身、自分が持っているものなど把握していない。綺麗汚いとこだわれるほど上等ではなかったから手当としてこなしていた。知らぬうちに体を冒すものがあることも考えられる。ひとりきりを狙われる。同時期に所属したリョウの身内といっていいだろう少年少女を伴うときはしれっと知らぬ顔をされる。
 日向アキトという名前をいつしか覚えた。苗字で呼ぶのも名前で呼ぶのも具合が悪い。そも威圧的で威嚇的なリョウは大抵の相手はお前やあんたで済ませる。名前を覚えることさえ稀だ。脚の間を晒した相手を親しげに呼ぶのも嫌うのもリョウには腑に落ちないだけだった。親しいつもりはないが何故だか嫌悪するほどアキトを知らない。上面の付き合いなど星の数ほどこなしていたし取引も繰り返していたのにアキトが相手の場合だけどうにも調子が狂う。その間に何度も抱かれた。二人きりの任務もこなした。それでもアキトのことをどう呼んだらいいかだけが全く判らなかった。ユキヤやアヤノのときはこんなに迷わなかったのに。


 いつもいきなり消えるけど何してるの?
当然の問だ。言葉を濁すことも出来ずに呻いて黙るリョウをユキヤの早熟な双眸が射抜く。緻密な設計と情報処理を得意とするユキヤは年齢の割に早熟で小生意気だ。弁も立つからリョウが言い負かされることも少なくない。それでも不機嫌に押し黙って消えるリョウの背中を追いかけてはごめんね、怒った? と簡単に謝罪した。軽々しく謝ンなと言った後でアヤノに耳打ちされる。リョウ、ユキヤが早く謝るのリョウが相手の時だけよ。深意は測れなかったが怒鳴りつけるのだけはやめた。ユキヤも拗ねなくなったしリョウのほうで遠慮もしない。なにってなんだよ。こっちが訊いてるんだよそれ。机に頬杖をついて子供っぽく薔薇色の頬をふくらませる。ユキヤはまだ年少で体つきも不安定だ。ちょっとした刺激や反応で育つ性別さえ変えられるように性差は曖昧だ。体格も丈も少女であるアヤノと変わらない。アヤノは明確に胸もあるし女性であるのだが。
 「なにか、ってなぁ…」
抱かれていますとは口が裂けても言えない。ユキヤは特にアキトを毛嫌いするきらいがある。初対面で優位を取れなかったことも影響しているのだろう。ユキヤの挑発と賭けはあっさりとアキトに流されてなににもならなかった。
「リョウがいない時ってあいつもいないんだよね。連絡がつかないんだよ」
あいつって誰だよ。日向アキトだよ、判ってるのに訊かないで。むやみに不機嫌なユキヤの爪が机をかつかつ叩く。ねぇおかしなことになってないよね? おかしなことってなんだよ。言わせないで。訳が判らないリョウが問うてもユキヤは頬をふくらませるだけだ。明言しない。はっきりと拒まれてリョウも深追いできない。気まずい空気が流れてリョウは初めてユキヤとの間にいたたまれなさを感じた。アキトがリョウを抱くことは、双方ともに吹聴しないから知れていないようでもある。だが下手に嗅ぎまわって周囲にヒントやきっかけを与えたくなくて黙るしか路がない。綿のように優しい上面だけで判断しなければならない。こういうのは性に合わない。リョウは否応を明確にする。相手の条件や状況を顧みない分、可不可は明瞭だ。しがらみにとらわれない。どんな新参で経験がなくとも良いなら良いし、古株でも駄目なら駄目だ。
 からり、と扉の開く音にリョウとユキヤの目線が向いた。弾かれて跳ね上がるその強さを楊柳のしなやかさと手応えのなさでアキトが受け止め、捨てるように流した。たおやかに紅の映える唇が動く。形が良いのだ。歪みも欠損もなく生まれたままのふくよかを保っている。
「佐山リョウ」
アキトの声は高くなく低くない。ユキヤがまだ消しきれない幼い甲高さはすでにないが壮年の男の低さもない。玲瓏と響く声だった。
「こい」
有無を言わせない。リョウに選択する権利などなかった。黙って立ち上がるのをユキヤの手が掴んだ。袖を掴まれて向けた視線の先で、ユキヤは不遜に嗤わずその眼を見開いてリョウを見た。…どこに、行くの。さぁ、な。リョウには真実判らない。アキトは行為の舞台を千々に変えた。施錠できる部屋の時も通路の奥まった暗がりでも、アキトの熱だけは変わらない。不用意に熱く異質な熱だった。
「リョウ」
悲痛なユキヤの声を背にリョウは扉を閉めた。通路に佇むアキトの口元が弛んだ。無表情が崩れて人間ぽくなる。歪なそれでもアキトの状態が判るのは珍しい。抱いている時でさえアキトの顔が変わらずに、どうして抱かれているのだろうと煩悶することも多かった。痛撃はおろか快感でさえアキトの無表情を崩させない。こうした弛みは珍しい方だ。
 「可愛いものだな」
返事をしない。立場の優劣も上下も明確だ。アキトは捕食者でありリョウは獲物だった。覆しようも譲歩のしようもない明確な亀裂や溝がある。ああいうのは、嫌いなのか? お前のほうが嫌うんじゃねぇの。別に嫌いはしない。好きでもないがな。アキトはそれきり口を利かない。リョウは黙ってついていく。囚人と看守のように隔たった。アレは幸せなのだと、思う。あれって、なに。アキトは見下す笑みを浮かべて何も言わない。何も知らないのも幸せではあるか。無知と無自覚を責められたようでリョウは鼻を鳴らした。お前に訊いたのが悪かったかな。完成度は高いようだ。完成度ってなんだよ。だから、わからないならいいと言ってる。
 アキトは燕のように翻った。空気の流れをはらむ服の裾が呼吸する。たっぷりと間を持って作られた其処がなびく。黒青の長い髪は三つ編みにまとまる。固く結われた三つ編みは尻尾のようにアキトの動きに合わせて跳ねた。正面から見ると短髪に見える髪型と相反する長い三つ編みは消えない。切り落としてやりたくなる。出来ないと判ってる。知っているとも知らぬとも言わないアキトの情報は深刻な欠乏を引き起こした。どう出るかの判断さえ危ういことが合った。得た知識や価値観は滲み出るものだし、それに応じてリョウは出方を変える。その辺りの綱渡りでリョウは今まで生きてきた。だがアキトは明確な意思表示をしないからリョウが得られるものもない。きっかけがないのだ。リョウはアキトの態度に右往左往しながら抱かれている。
 「どういうふうに抱いてほしい?」
珍しくアキトが訊いてくる。好きにしろと言い捨ててリョウはアキトを窺う。普段譲歩しないものの譲歩は必ず裏がある。なにか無理を聞いて欲しいとか欲しいものがあるとか。アキトは困ったように小首を傾げてから、じゃあいつものとおりに抱くと宣言した。抱くっていうのは変わらないんだな。なんだオレを抱きたいのか? 冗談じゃねぇ。野郎抱いて何が愉しいんだよくそったれ。お前は楽しそうだしオレは気持ちがいい。隠さないどころかぼかしもしない。真っ赤になるリョウを見てアキトは声を潜めて笑った。馬鹿を言うな。そうか? けっこう事実だと思うぞ。
 あの子供はお前に思うところがあるのだろうな。子供? 成瀬ユキヤとか言ったか。お前とたいして歳が違わねぇよ。でも子供だ。まぁなぁ。ユキヤはその愛くるしさで世間を渡ってきた。評価として得られる愛くるしさはそのまま相手の好意だ。アキトはその辺りを指しているのだろうと思ってリョウは生返事をする。おまえもそうだな。思わず咳き込むのをアキトは振り向きもしない。好意は優しい。遠くを眺める深淵の双眸に見入ってしまった。紫を帯びる黒艶の双眸は艶めいた。アキトは綺麗ななりをしているのにそこはかとなく拭えない脱力感や意欲のなさで損をしていると思う。実際に何度か低く見積もられているようだがアキトは訂正もしない。熱や勢いと無縁ではないのにアキトのそれはひどく冷めている。
「お前も綺麗だと思うけど」
びっくりしたように目を瞬かせたアキトは、微笑った。ふわりと小動物の癇症のように痙攣的に。殺しきれずにこぼれたそれにアキト自身が戸惑っている。
 「ありがとう」
桜色の唇を弓なりに反らせてアキトが微笑む。惑いが明確に見えるそれは明らかに不慣れで、リョウの問いに対してだけ繕った不器用さと特別さがあいまった。とっさに返事が出なくて黙ってもアキトは不服そうにもしない。リョウのほうが怯んで二の足を踏む。笑顔で礼を言われることなど稀であるから慣れない。アキトは静かに笑みを引っ込めてリョウの襟を掴む。それじゃあ抱こうか。今ので少しは柔くなったか? 布地越しだと判っているのにアキトの手がリョウの胸ヘ添えられて動揺した。何度も体をつなげていつの間にかリョウの体はアキトの存在を受け入れつつある。馬鹿馬鹿しいと目を背けながらも体の方は正直で、その誤差にリョウはいつも倦んだ。ユキヤの問いを一蹴できなかったのはその惑いの自覚があるからだ。
「お前は案外、思慮深い」
酷薄に由来で笑うアキトの顔が見える。重なった唇はとろけるほど領域が曖昧なのに体の火照りが嘘のように冷たかった。冷たい指。熱い体。その誤差に酔いながらリョウの四肢から力が抜ける。

無理矢理の始まりで
それでも、たぶん
俺もお前も


《了》

いろいろとおかしかった          2013年5月7日UP

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