なんの確証もなくて
でも
言葉にならない
何がそんなに気になるのかは判らない。ただ居場所から逃げ出した自分を留め置く所属が必要だと言うから手を貸している。黙って何もしないで居るのは性に合わない。働かないものを抱えて置けるほど余裕のある団体でもなかった。払い下げや改造の戦闘機に乗ってライはいくつかの作戦に参加した。過去や血統を全く覚えていない胡乱な自分であっても最後の縁が戦闘機の扱いと知識だ。軍事作戦の意味や役割も認識できる。そこから経歴を辿ろうとすると今度は年齢という壁が立ちはだかる。経験値と体の成長から測れる年齢が食い違う。違和感もあった。戦闘機の表示画面を眺めながらライは茫洋と思った。これからここで生きていく。機体の微調整を繰り返す。操縦席を密閉せずに整備のものとやり取りする。直接的に伝えると話は早い。
顔を真っ直ぐ上げると近くで調整している卜部が見えた。奇跡の名を冠する藤堂鏡志朗の腹心とも言える四聖剣。男女取り合わせた彼らは四の字のとおりに四人で構成される。少しずつ回復する戦闘設備と戦力。復帰した戦力は直ぐに次の救出の駒になる。何度かそれを繰り返した。ライも加わっている。強引に決めた所属だったが戦闘機の腕前はライが自覚する以上のものだったようで評判はいい。経歴の埃より即戦力となり得る腕前が物を言った。四聖剣は取り戻されつつある。千葉、仙波と続いた後に捕縛されていた卜部を取り戻した。この卜部がクセモノなのだと思った。事前情報が乏しい。四聖剣に名を連ねるのだから戦闘力はあるのだろうに印象に残っていない。ことさら強い自己主張もなかったようだ。女傑の千葉のほうがある意味で名を轟かせている。
戦闘機の操縦室を閉めていないから高い位置からかなりの範囲が見渡せる。機械に特有の羽虫のような演算音や作業音がおんおんと木霊す。この戦闘機の使用を始めて、戦闘における体格差は解消されたと思われる。手元の作業に背の高い低いや目方のあるないはほとんど影響しない。操縦に必要な筋肉量の差くらいだ。だからそのひょろりとした体躯はひどく目についた。額とうなじをあらわにして黒い髪は蒼い艶を見せる。年齢もよく判らない。正面切って何歳ですかと訊いたらお前よりは上だぜと一蹴されたきりだ。ライの見た目はどう見積もっても十代で、見れば判ることでごまかされた。淡青いライの目がじっと卜部に据えられた。体に密着する専用のスーツを着ているから体つきがハッキリ判る。背丈はあるのに目方はなさそうだ。痩せている。軍属としての敏捷や腕力は見ても曖昧だ。裏をかくタイプ。油断を誘う見た目だ。しかもそれは性差などではないから根底からの油断だ。こいつなら倒せそう。卜部もそれを識っている節がある。決断しかねた時に多数決を持ち出す。自己がないと言うよりは主張しないだけだ。妥協やすり合わせの方法が判ってる。
卜部の声が聞こえた。飄然とした声で独特の間がある。違ぇそれじゃあねぇよ。あぁそこもそうなンだけどな。実動した時にここが違うと死ぬンだって。戦闘機もお釈迦だからな。苦しいのか留め具を終わりまで締めていない。喉仏の気配が不規則に点滅する明かりで窺える。コマ落としのようなそれを眺めならライはその姿を焼き付ける。不意に指が留め具へ伸びた。鎖骨のあたりまで無理やり開くと手で風を扇いでいる。後ろ盾がいても余裕はないから施設の過ごしやすさは後回しにされる。そういえば少し暑いかな。スーツは密閉性が高いから体温や発汗が微妙な狂いを見せる。ライも喉の部分の留め具を外した。仄白いようなライの喉に惹きつけられたように卜部の目がライを見た。小振りな茶水晶の動きが明瞭に見えた。目線の向きがハッキリと判るのに動物のそれのように受ける側の意識の差で印象が違う。猫の狡猾さと小動物の癇症が同居する。口元が嘲笑った。ニヤリと裂けるそれは一瞬で、だがライにとってはひどく長かった。整備員と何か話しながらしきりに留め具や胸の位置を指先がかすめる。口が裂けるように笑っても唇の感触を想像させるだけの蠱惑がある。
指先が留め具を一気に開いた。インナーに覆われた胸部に目が眩んだ。
卜部の印象を問われればそれはその背丈に終始する。背が高くて痩せてて。たいていその後が続かない。唇が印象的だとライは思っている。紅を差すわけでもないのにふくりとした膨らみは明瞭で感触を想像する。キスしたらどんな感じなんだろう。唇が薄いと情に薄いなどという伝聞を聞いたことがあるがそうだとすると卜部はことさら優しいことになる。卜部は特に過干渉でもない。控えめなくらいだ。藤堂鏡志朗と部下の四聖剣というくくりで個人名を挙げろというと忘れられるのはたいてい卜部だ。あまりに顕著だから一度名簿を無理やり見た。読めなかった。日本語や漢字に疎いと言うよりは日本人でもあまり読めていないようだ。なんと読むのかと訊いたら複雑な顔をされた。周りだけではなく卜部当人までそういう調子なのでますます忘れられる。
軍属の明確な階級社会にライは少し閉口した。階級ごとに違う呼び名を覚える気がない。中佐と中尉を取り違える。最初の頃はどちらが上かも判らなかったし大中小を繰り返す類語にも困った。藤堂中佐以外に中佐が居るのかと思っただけで気が遠い。四聖剣も大尉や中尉や細々違うからもの知らずを開き直って名前で読んだ。そのうちに名前に連なる形で覚えてきたのでよしとする。
倉庫から出てきた卜部を見つけた。階級を考える前に声が出た。卜部さん。一級の反射神経で振り向く卜部は驚いたような哀しいような切ないような顔をする。うらべ、さん? …あぁ、あんたか。ライを認識した時から卜部はいつもどおりの飄然とした空気をまとう。弛んだ口元と脱力した眦。油断や侮りばかり増長させる。ぱたぱたと軽やかな足運びで駆け寄るライより背は高い。先程開いたところより更に解かれた留め具はすでに意味の半分を失っている。へそが覗いた。胸部を覆うサポーターから痩せて平らな腹が続く。尖った腰骨の先端が覗くが其処から先は巧妙に隠されて見えない。体の線が判るから骨格の歪みや姿勢が明確だ。卜部さんはスポーツとかやってたんですか? 藪から棒じゃねぇかよ。あんまり歪みがないから。背が高い人って猫背の人も多いじゃないですか。卜部さんは綺麗な背中だなぁって。中佐の道場に顔は出したよ。トウドウチュウサ。あの人武道教えてたンだよ。
歩き出す卜部にライは当然の顔でついていく。過去や後ろ盾のなさは柵のない身軽として捉えることにしている。遠慮しない。卜部は片眉だけ釣り上げたが何も言わない。卜部さんはトウドウチュウサのなんですか? 部下だよ。即答だ。不自然さも躊躇さえもない。惑いも迷いもない。手慣れたそれは過去にそういう質問があったのだと。恋人? 卜部の向かう方向がずれた。空調や温度を調整する機械室へ向かっている。設備が地下に及ぶ場合換気は思いの外重要だ。どこに行くんですか? へぇ箱入りだなァあんた。その返答で目的が知れる。強制したつもりはないんですけど。やる気はあるンだな? むっと唇を尖らせて黙るライに卜部は嗤う。どいつもこいつも何がそんなにいいンだかな。なにそれ。さぁな。奥まで来ると卜部が不意に振り向いた。ほら、もっと脱いでやろうか。長い指が下腹部を移ろう。どういう意味。どうせ脱がされるンなら自分で破らずに脱ぐってことだよ。
「脱がなくていいです」
ライの言葉に卜部が驚いたように目を瞬かせた。破かれても困るンだけど。備品の申請は理由が要るンだよ。つけつけ言葉を吐き出す口元は引き締まって見苦しくない。唇がふくよかでも重みで垂れることもない。頤も形が良い。ライは躊躇も遠慮もなく手を這わせた。卜部の顔を確かめるように念入りに撫で回す。額から鼻梁を撫でて目蓋の奥の眼球を探る。唇や頤は綺麗だ。偏食の有無が頤で判る。卜部のそれは形がよく衰えてもいない。
「うらべ、さん」
指や掌が撫で回しながらライの重心が徐々に卜部の方へもたれていく。少年一人の重みで揺らぐほど軍属は脆弱ではない。痩躯に見えても卜部は軍属だ。ゆらぎもしない。双方が戦闘機用の専用スーツだからひたりと吸いついた。密着するほど逆上せる。触れる皮膚が融けるように内側へ沈みながらライの体は卜部の体を呑み込む。卜部の指が肩をつかむ。指先のぬくもりがライという沼に沈んだ。
喉仏を食んだ。骨でも筋肉でもない固い感触だ。同じ器官を自分も持つのだと思うのに卜部のそれは美味いもののようにライの唇の間で転がされる。卜部が咳き込む。透明な糸を引いて離れる口元が艶然と微笑んだ。指先がサポーターの上から胸部を探る。舐めたいな。強引に引っ張ってあらわにする胸部へ吸い付く。卜部の体がふるりと震えた。
「うらべ、さん」
目線を上げる。卜部の大きな手が口元を覆っていた。眇められた目が潤んで瞬く。口元の震えも隠せていない。不規則な呼吸に胸部や喉が痙攣している。ライの口元が弛んだ。
「かわいい」
スーツの上から卜部の細い腰を抱き寄せた。背骨がしなう。骨盤の傾きさえ判る気がした。尾骨をなぞりながら臀部の割れ目へ手を滑らせた。あ、ああ。卜部の声がひっくり返る。それでもまだ低くて独特の間がある。聞いてて気持ちいいな、卜部さんの声。もっと聞かせて?
双丘を撫で回しつつ谷間をたどる。大腿部に及んでも卜部は拒絶さえしない。内股を探っても文句が出ない。
「馬鹿にしてる?」
返事はなかった。触れた場所が融けると同時に戦慄に気づく。慄えは明確に息づいている。ライは認識を疑った。数をこなしても出来ぬことや慣れぬことがある。巧雪? 卜部の痩躯が後ずさる。抱き寄せて阻むと腕がはねた。ライが触れることは拒まなくても其処から先の干渉がない。
表情に乱れはないのに卜部の手元は執拗に口元を隠す。寄せられる眉根も。眇められる目も。ライは微笑んだまま卜部の手首を掴んだ。どうしたの、見せて。驚くほど脆弱な手を払いのけて戦慄く口元が見えた。笑みが深まる。何事も飄々とこなす卜部をここまで乱すこと。それを己が行なっているということ。歪んだ悦楽。歓喜の狂気。泣いているの。もっと、泣いて。吐息が触れるほど近くまで体を寄せる。慄える茶水晶は恐怖と期待で潤んでいる。柔らかそうな唇の震えも。覗く紅い虚さえも。性器のように愛撫できる。ライの篝火のように燃える赤い舌先が唇を舐めた。本当はこういうこと、苦手なんでしょう。やられるのが嫌だから誘うんでしょう。自分が原因だと思えば、言い訳は出来るもんね。
「ねぇ、巧雪?」
キスしていい?
白い両手が素早く奔って卜部の頭部を固定する。噛み付く激しさでライは唇を貪った。卜部の唇は見た目以上に繊細だ。慄えも。ぬくもりも。柔らかささえも。ライは卜部の口ごと食むつもりでキスをした。息を継ぐ間に離れるだけで卜部は不慣れに息をした。わずかな振動にさえライは下腹部が震えるほどの衝動を感じた。卜部の唇は濡れて艶めく。痩せた体と不相応に厚い唇は蠱惑的だ。それでもふくよかなその感触は性衝動を呼んだ。気持ちいいキスだね。甘咬みすると卜部が体をすくませた。
「だいすき」
ライの手は卜部の体を這いまわる。背中を撫でては尻を這い、谷間や虚を探り当てて圧す。
「こうせつ、だいすき」
謳う。卜部の慄えが愉しい。愛しい。好きだ。腕の中へ卜部の痩躯を押し込んで、その圧迫に酔った。骨ばって硬い卜部の体。だいすき。
「ずっと、あなたを見てた」
拘束服に囚われたあなたを。のびのびと四肢を繰るキミを。楽しそうに笑う卜部巧雪を。
「僕は、あなたを」
頬を寄せる卜部のぬくもり。暖かくて融ける。領域を犯されることがこんなにも快感だと知らずに。あなたがお前がキミが。好きです。
「こうせつ」
胡乱なライの音が紡ぐ卜部の名前に意味を持つ。伏せる顔を、寄せる頬を。卜部は払いのけない。その優しさが。
好きです
「卜部、巧雪」
綺麗な名前。心地よい響き。動かす舌さえ快感だ。キミの名前を転がすだけで僕は幸せだ。比較するような過去はないのに、それでもこれが快感なのだと。心地良いのだと。好きなのだと、識っている。こうせつ、って綺麗な、名前。仰々しいだけだよ。でも、綺麗です。僕の名前、言葉って言うより音だし。何か意味があるんでしょうね。うらやましいな。由来のある名前って、嫌いじゃないです。
「ねぇよ、なにも」
ことさら野卑に言い捨てるのは卜部の照れのように。意味があるんじゃないの? 聞いたことねぇよ。きっとあるんだよ、意味が。知らなきゃねぇのと一緒だよ。あるってことが大事なんだ。
大事なことを忘れていると思うのに、キミの名前を聞くだけでそれさえ構わないような気がする。思いだせよ。けっこう無茶言いますね。大事なことなんだろ。
「泣きそうに慄える卜部さんも大事です」
噛み付く。このまま食いちぎって咀嚼して呑み込んでやる。対象が卜部であるだけでどんなに残酷なことさえ出来る気がする。流血も平気。あふれる血の一滴まで舐め拭って呑み込む。それが卜部であるというだけで。
「アァ、すいませ…うらべ、さん」
ぼろぼろと涙が溢れた。理由などないのに。だから泣くのかもしれない。卜部の抱える虚も切なささえも呑み込む。それは同時にライの臓腑をえぐる。なんで泣いてンの。たぶん、あなたが好きだからです。なにそれ。嫌ってこと? 嫌じゃないから泣いてるんです。
「あんたけっこういいやつなんだな」
「え?」
「人のために泣けるって、なかなかいないんだよ。たいてい自分に不利益があるから泣くンだ。自分の損得度外視して泣ける奴っていないんだよ」
卜部の指がライの亜麻色の髪を梳いた。毛先へいくほど蜜色に透き通る髪を梳く。卜部の長い指がライの髪を撫でる。
「僕は自分のため以外に動いたことないですよ」
「別にいいよ、それで」
あんたはそれでいいんだよ。卜部が笑った。慄えて、それでも明瞭として。それは自分の罪を識っていると言わんばかりの。ライの腕の中で卜部の強張りが融けていく。それでよかった。それが応えだった。慄然として、それでも卜部の眼差しはライから逸れない。それが好きだと思う。慄く原因が自分でも。卜部に無理を強いても。ライは卜部のそばにいたいし見ていたい。ライの体に触れていた卜部は無造作に言った。
「あんたの体、冷たいぜ」
「卜部さんが暖かくしてくれるんでしょ?」
あなたの怯れにさえ、私はなってみせる
それが、きっと
好きって言うこと
「巧雪の中は温かいんだろうね」
ライは調った顔を歪めて笑った。
《了》