言ってくれたら、もしかしたらって
違うの? なくても、いいけど
曖昧なだけの自分が明確になる。夕食を済ませて鎧戸を開けると夜空が見える。むらのある呼び出し頻度の所為でこういう不意に与えられる自由時間は貴重だと判っているのに扱いにくい。目隠しのように植えられた植樹は花を付けないものらしく夜闇に黒く沈んだ。空気だけは清浄で肺腑に沁みる。地下組織の活動拠点はどうしても違法のまかり通る地下に偏るから新鮮な空気はそれだけで久しぶりな気もする。こもった火薬と汚水の絡む臭いと冷たく区切られた天井が世界の全てだ。この欧州の地でもなお、日本人は消滅したままだ。閉じ込められた箱庭からリョウは仲間を連れて飛び出した。覆しようなく迫る絶望や狂乱する歓喜や媚びた嬌態。人間が何で出来ているかも判ったしどういうものかもそれなりに見てきた。爪先や四肢の先端まで衣服で覆っても浴び続けた体液は染み付いている気がした。余暇を持て余す思考はつらつらとそんなことを考える。普段は見えないことが見えて知らなく過ごしていたことに気づいてしまう。暇をつぶす相手がいないのも運が悪い。リョウと行動を共にしてくれたユキヤやアヤノと離れて結局不機嫌そうに唸るしかすることがない。なりが明確に雄でありその上威嚇的な言動だから既存の集団に融けこむのが意外と難しい。遠巻きにされることには慣れたが時間の進みの遅さにはいつもうんざりする。
前兆さえなく扉が開く。設備は上等だから解除キィを知っているものが開けたのだ。反射的に目線を向けてしまってから眉間にシワが寄った。黒くて蒼い三つ編みは背中で跳ねるほど長い。固く結われているからほつれもなく本当に尻尾でもあるかのようだ。うなじの分の幅だけ長くて後は短くしている。その髪型の理由は知らないし興味もない。アキトは小首を傾げたがその表情は無表情だから滑稽を通り越して揶揄されているかのようだ。
「なンだよ」
黙っているからリョウから声をかけた。扉が閉まると自動で施錠される。間遠に白い明かりが消えて部屋が黒く潰れる。リョウが居る窓辺の鎧戸を開けたところだけ月明かりでかすかな濃淡が読み取れる。互いの顔さえ曖昧に沈む。アキトの靴音は一定で迷いもない。扉の開閉での明暗に構えのなかったリョウだけが距離感をはかりかねた。アキトはリョウがどの位置にいるか見当が付いているようだ。身構えるリョウの頤は闇からぬっと伸びた白い指に固定された。上品に整っているくせに強くて野卑だ。
夜闇でも唇の朱さが見えた。重ねられた唇に驚いて怯んだ歯列が押し開かれる。噛み千切ろうとしてその柔さに逆に慄く。
「お前を抱きたくなった」
手をあげなかったのは驚いたからだ。この発言をユキヤがしていたら間違いなくリョウは殴りつけている。リョウは感情の発露も暴発も厭わない。その強引さで地下組織を率いた経験と自信がある。
「…なんだ、それ」
「そのままだ。オレがお前を抱きたくなった」
よどみもない。アキトは当たり前のことを話すような口を利く。不自然にも思わないのか言葉が淀まないばかりか纏う空気さえ動じない。しかもその冷静さはリョウの受諾を前提とする。険しい顔をするリョウに、アキトは不鮮明に暗い視界の中で平然と返事を待っている。断られるなどということは考えていない。男同士であるとか襲撃者とその捕縛者という関係さえ踏み越えた。
返事をしかねるリョウを無視してアキトの指は留め具を外していく。仄白いスカーフが取り除かれて襟を緩められ、ベルトを揺すられてリョウは初めてたじろいだ。吐息が触れるほど近くに見えるアキトのぬくもりは遠い。それでもその熱の余波で体温さえ上がるような気がした。おい、待て。なにを? 訊きながらアキトの手は止まらない。むずがる子供をいなすようにアキトは薄く笑っている。それが癪に障る事自体が稚気のようでリョウは素直にやめろと言えなくなる。明確に計算されていると判っているのにそうだろうと指摘することさえ躊躇う。言ってしまったら負ける気がする。双方ともが避ける何かがあって、それを直接口に出したらあっさりと退路を断たれそうだ。
中へ着るシャツの裾から滑り込んだアキトの手が滑らかだ。カサついて皮膚をひっかくこともない。ある程度の膨らみがあり皮膚の状態もいい。芯はあるがそればかりでもない。薄衣を重ねて透けるようなそれはもどかしい。アキトは焦りもせずにゆっくりとリョウの腹や胸を撫でた。筋肉や骨格の凹凸を撫でてくぼみや虚を探し当てる。関節や肉も皮膚も薄いそこをアキトは見つけ出して攻め立てる。リョウはその度に体を震わせたりほとばしりそうになる声を殺した。全裸にされたわけでもないのにそれ以上の羞恥がリョウの中で渦を巻いた。布地を隔てたはずの内側はグズグズに崩されて脱がされたらそれがさらされるのだと思うと恥ずかしさと禁忌の興奮で熱が上がる。リョウはいつの間にか冷たい窓硝子へその背を当てていた。肘が窓枠へ引っかかる。アキトは更に覆いかぶさろうとしてきた。硝子のカタカタ鳴る音はそのままリョウの震えで、無機物を媒体にした音がつきつけるそれに更に煽られた。傍目から指摘されるとさらに燃えた。
より鮮明に月明かりで照らされた視界でアキトの口元が裂けた。にぃい、と笑う唇の紅い鮮烈はそのままに細く広がり口の端は平坦な頬を歪ませる。白い歯が覗いた。どうした。もう文句はないのか。アキトの手がリョウの脚の間を握りこんだ。ビクつく体でリョウはアキトを突き飛ばして逃げた。あたふたと施錠を解くのをアキトは迫りもしないで眺めている。ほら、もうそっちへ行くぞ。這々の体で逃げた。
扉を開けたらアキトが待っていた。同室のものはいない。なんでお前がいるンだよ。お前を抱きにきたに極まってるだろう。平然と言い放つアキトはそれ以外の言い訳も嘘さえもない態度だ。おい、ひょっとしてそう言って追い出したのかよ。返事がない。言い当てられたバツの悪さというより、当然のことであるから返事の必要はないと判じているようだ。リョウは天を仰ぎたかったがアキトを睨みつけた。オレはお前の脚を開かせて啼かせたいんだよ。言ってのける台詞に惑いも躊躇いもない。反発して平然を装うリョウの後ろで不意に立ち上がったアキトが施錠の手続きを踏む。キィを打った指先が翻ってリョウのうなじを撫でた。普段は鳶色の髪で隠されている其処に感じる熱さとぬるさに跳ね上がって飛び退くのをアキトは揶揄も貶しも愛撫もしない。ただうっすらと微笑んだ。
「この間の続きをしようか」
状況はひどく似ている。部屋の照明はつけられていない。鎧戸が一部開けられて月白が降り注いだ。夜空は澄んで針で開けたような星光が瞬いた。圧が増したようにリョウの手脚は凝って動かなくなる。アキトの動きに障りはない。たおやかな指先が薄紅の爪を閃かせた。アキトの首や手首の細さがリョウの喉を狭めた。払い落としたら崩れそうに繊細な動きが息をつまらせる。アキトの動きや熱でリョウは殺される。アキトの静かな声がリョウの名前を呼んだ。呼気の音さえさせないアキトの出す音は玲瓏と響く。仏壇の鈴を思い出す。単純なのに沁み通る音だ。その震える余韻は心地よく終わると判っていてなおその震えに身を任せる。
アキトの口数は決して多くないしことさら飾り立てもしない。それでも言葉は水のようにリョウの末端までを震わせる。触れてくる指先の皮膚が融けて熱が行き交う気さえする。アキトは声だけでリョウを犯した。領域が侵されてアキトの声が熱が指がリョウの内部へ浸透する。身震いするのをアキトは嘲笑いもしないし可愛がりもしない。平静に冷淡に薄く笑ったままだ。リョウばかりが焦ったりたじろいだり熱を上げたりしている。それでもそれでいいのだと何処かで判っている。アキトの方でもそれを承知しているのか遠慮はない。
「お前なぁ」
気怠い声だ。力が入らない。
「せめて好きくらい、言え」
数瞬、動きが止まった。アキトの紫がかった双眸は真っ直ぐリョウを見つめた。その後に噴出して笑う。口元を隠すがかえってそれが憎らしい。なんだよ。苛立つリョウの恫喝さえアキトは笑い飛ばした。お前、好きだって言って欲しいのか? 案外純情なんだな。
指摘されたことにリョウは首まで真っ赤になった。耳が発熱で千切れそうだ。好きあった人だけと思いつめた未通女じゃあるまいし。アキトは笑ったままだ。けなさない。褒めない。そういうところは嫌いじゃない。慰めてンの。感想だ。余計に性質が悪い。嗤うなら嗤えよ。可笑しくはない。切り抜けられると思ってンのかよ。お前を抱きたいことに変わりはない。逆襲だ。黙りこむリョウにアキトは削がれたでもなく調子に乗るでもなく待っている。覚悟はいいか?うるせぇよくねぇ。良し悪しの区別が付くならそれは判っているということだな。アキトの唇がかぶさった。そのまま口内をなぶられて舌を吸い上げられる。流れこむ唾液を呑んだ。息を継ぐ間の濡れた音が奇妙に耳へ残る。
「ずいぶん、甘えるんだな」
突き飛ばしてやりたい指先はアキトの腕に食い込むだけだった。その疼痛さえアキトに変化を起こさせない。整然と調った顔は崩れもしない。アキトはリョウの唇を好き放題に貪った。
「そういうところが抱きたいと思うよ」
聞き返そうと開いた口を食まれた。唇を噛み舌を吸い上げ甘咬みする。溢れた唾液がリョウとアキトの双方の口腔を濡らす。喉を鳴らして呑んだ。アキトの指が襟を開く。リョウは身を任せた。強制でも譲歩でもない。艶めく肢体に欲望が発露した。
《了》