好きなのだもの
装いと言葉のアソビ
ばたばたばた、と段々と足音が高くなっていく。卜部は近づいているなぁなどと思いながら手元の端末を操作した。食事を作るのが面倒だし作らせるのも悪いので携帯食料だ。加熱も冷凍もいらないビスケット状のこれはなかなか便利だと思う。払い下げや改造もの戦闘機であってもある程度のシステム情報の更新などが必要だった。ぱちぱちとキィボードをたたく音が一定だ。口元でははむはむとかじる軽食の先端が上下する。
「卜部!」
けたたましく叩き壊すような音がして突風よろしく突撃してくるのは藤堂だ。周りの整備班が驚いているのも藤堂の目には入っていない。たわわに実った豊満な乳房を揺らして近づいてくる。軍服の襟元もとい胸元がきつそうである。卜部は女性の中でも小振りな胸であるからそのあたりの苦労はほぼ判らない。走ってきた先刻の足音が藤堂のものであるように、藤堂は息を弾ませて頬を上気させている。長い栗色の髪が大雑把にひとくくりにされ、軍服にも色気を感じさせるようなカスタムはしない。きっちりと襟と胸を締めている。それでも揺れる胸は重量も占有率も高そうだ。
「こ、こう、せつ!」
意を決した呼びかけであったらしく、藤堂の指先が服の裾をきつく掴んでいる。スカートを抑えるように添えられていても力の入れ方が違う。
「なンすか」
卜部が平坦な返事をすると一瞬ふぇっとしたような顔になったがすぐに表情を引き締める。
「巧雪!」
「だから何」
改めて呼ばれて改めて問い返す卜部に藤堂は失望と安堵と遺憾をにじませてその場に頽れた。卜部としては藤堂を杜撰に扱うと同僚の仕返しが怖い。それを知ってかどうか藤堂は時折卜部に対して挑むようなことをする。わがままを言う。年齢は大して変わらねェんだけど、とは卜部の談であり藤堂しか見えていない面々には論外だ。
藤堂がきっと顔を上げた。卜部は身動き一つとっていない。端末に向けていた体を藤堂の方へ向けただけである。面倒じゃなきゃあいいなぁと移ろう卜部の思惑を藤堂が吹っ飛ばした。
「デートしよう、巧雪」
咥えていた軽食が落ちた。うまい具合に精密機器である端末は避けてくれたが膝の上で跳ねて床へ落ちる。凍りつく卜部の思考が完全に停止した。まぁ藤堂が相手なら断るやつはいなさそうだがなぜ俺。しかも藤堂と同性の女性である。そういうこたァ野郎に言えよ。
「だめか? その、私はお前とでぇとしたくて……」
恥じらいがいっそ不穏だ。周囲はすでに元の作業に戻っている。藤堂が卜部にだけわがままを言うのは公然の秘密であるから周囲は慣れている。気づいていないのは千葉や朝比奈といった藤堂が好きすぎてそれ以外見えていないタイプだ。
「……だめか? …でぇと…」
惜しんでいる。目に見えて藤堂がしおれた。動物の耳や尻尾があったら間違いなく垂れている。長い髪が心なしか落ち込んでいる。
卜部は軽食を拾いながら頭を動かそうとする。まぁ同性同士であれば間違いは発生しようがないか。いや違う意味での間違いはすでに発生しているのだが。藤堂には退く気配がない。もともと藤堂自身が熟慮の末に発言する性質であるから言ったことは早々撤回しない。卜部は息を吐くと肩をすくめた。
「…いいスよ」
花がほころぶ。灰蒼の目が嬉しそうに潤んで瞬く。睫毛まで鳶色だ。鋭く睥睨している目つきはすっかりなりを潜めて子供の無邪気さで卜部を見て、そうかそうかと喜んでいる。藤堂の指先にぴらっと紙片が躍る。
「ここに詳細があるから」
卜部は黙ってそれを受け取ると軽やかな足取りで戻っていく藤堂の背中を眺めた。くくられた髪がばっさばっさと藤堂の背中で跳ねて散った。すれ違う男性の目線がギクッとするあたり胸が揺れている。あの人自覚ねぇから。他人事のように思いながら卜部はひらりと紙片を透かす。折りたたまれたそれを開くと時間と場所の指定があった。
とりあえず自分の分の仕事を終えて何とか指定の時間と場所に滑り込んだ。幸いにも藤堂はまだ来ていなくて卜部は肩透かしと安堵を同時に感じた。あたりを見る。手慣れた地域ではないが全くの初見というわけでもない。既視感がある。見たことあるなぁどこでだっけ。とりあえず軍服は脱いで私服だが印象としては卜部の場合、大して変わらない。男性物のシャツとジーンズだ。卜部は女性にしては長身で四肢も長い。そのくせ幅と厚みと重さはないから、余りすぎるゆとりを承知で大きい既製服にするか、いっそ男性物のそれにする。男性物の方が胸も尻もない卜部にはなじんだ。情けないが事実なので仕方ない。色気がないだの男みたいだの朝比奈あたりからさんざん揶揄されるが金銭的にも容認せざるを得ないのだ。時々朝比奈が服の交換や譲渡を申し出る。上着類は応じる。
からころ、と独特の音がして卜部が振り向いて仰天した。
「…へ、変か?」
廃れつつある和服に身を包んで藤堂は慎ましやかにそこにいた。海松と紫苑の半襟が落ち着きながら藤堂の首元を映す。立秋を迎えたことを思い出す卜部に藤堂が、桔梗のあわせにしたがおかしいかと問うた。確か秋の季節合わせの色である。藤堂の家では和服が現役であるから周りの者も多少聞きかじって覚える。練色の道行きは藤堂の皮膚を白く光らせる。鼻緒の紅色が鮮やかだ。
「…お、おかしい、かな」
何も言わない卜部に藤堂がじっと上目づかいにうかがう。卜部はたいていの同性より背が高いから上目づかいに見られることに慣れている。
「いや、いいんじゃねェですか」
かえって卜部の方がもっと気を使った格好をしてくるべきだったと思った。卜部はその辺を出歩くような荒い恰好であり、藤堂のように身づくろいもしていない。だが藤堂は卜部の言葉にそうかと笑みをほころばせて薄紅の唇で微笑んだ。
藤堂が卜部の手を引く。卜部も引かれるままに歩く。そもそも卜部の手足の長さはたいていの人間と合わない。先に行ってしまうか遅れるかどちらかだ。目の前で藤堂の鳶色の髪が跳ねた。大雑把な一括りではなく念入りな編みこみと三つ編みがリズミカルに揺れている。そういえば髪のくせが強くて強く結ばないとまとまらないから平素は簡単な一括りで済ませていると言っていた。卜部の縹藍の髪はバッサリと短く切られてうなじさえ見える。髪型と痩せた体形から、華奢な男性に間違われることも多い。体のラインがはっきり出るような服は着ないし胸もないからますます女性性から遠い。髪くらい伸ばせと言われるが所属する団体の傾向として動きやすさや効率を求めるとどうしても短髪になる。そういえば千葉も髪は短い。
「巧雪?」
ふわり、と三つ編みが流れた刹那に石鹸の香りがした。卜部は口元を引き結んで唸ってから、短く別にィと返事をした。
藤堂の衿の奥が薄暗い。そこは卜部の暗渠のようにとろりと黒い。藤堂は卜部が細い細いというが藤堂自身も決して太ってなどいない。頚骨の凹凸が判るうなじを卜部は茫洋と眺めた。藤堂は慣れているようで和物の履物も滞りなく歩いている。裾もひるがえさないし衿も乱れない。
「卜部、私はその、そのうちに――」
藤堂の声が遠い。気が付くと人ごみの中だ。それでいて知り合いも顔見知りもいない。他人だらけ。よく知らない土地で放り出されたように卜部が藤堂とつなぐ手に力が入る。藤堂が振り向く。前を見ているから半身だけが向いている。道行の後ろ姿に見える帯は先取りのように氷重ねの組み合わせで刺繍を施してある。練色と雪白のそれがひどく映えて目に灼きついた。ところどころに褪せたような茶色が施してあるがそれは怠慢ではなく意識的な染だ。
「そのうちに、私はお前の髪のような色のものを仕立ててもらおうと思っている」
卜部がきょとんとした。卜部の髪は青黒いが艶を見れば蒼い。長く伸ばすと毛先は蒼い。蒼が重なって黒く見えるのだ。それでいながら瞳は茶褐色にありふれて、どういう遺伝情報なのか全く判らない。
「俺の髪?」
「きれいな蒼だから。……その、お前と、揃いで、持ちたいと思って…いる…」
藤堂の声はしりすぼみに小さくなっていく。周りの人ごみの不快が一掃した。卜部が口の端をつり上げて笑う。
「俺は金がねェですよ。そんな和物、高価いでしょうに」
「お前に出させる気はない。私が勝手にやることだ。だが、その、お前と揃いでもちたいから、少し意見を聞こうと思ったのだ…」
真っ赤になる藤堂に卜部は歩を止めた。つられて藤堂も止まる。白い袖がさわりと名残のようになびく。
「俺と揃い?」
卜部の骨ばった手が藤堂の頬を抑える。藤堂が何か言う前に唇が重なる。藤堂の口紅の感触がする。塗られたそれを拭うように舌を這わせるとそれだけで藤堂の体が震えた。人ごみは天然の生け垣だ。誰しもが己を守るために何物も認めない。蔓延した無関心は隣のだれが何をしているかさえ承知しない。
卜部の体はすぐに離れる。藤堂は熱っぽくうっとりと卜部を見ていた。灰蒼の双眸がいっぱいに広がって湖面のように眼球全体を揺らがせた。藤堂の瞳はすべて灰蒼であるように連動して静けさに満ちた。静謐な水面が恍惚と卜部を見つめていた。卜部の方がごくりと喉を鳴らす。先ほどまで触れていた唇は別物の艶めかしさで卜部を誘う。薄く開かれた紅い虚ろは蠱惑的な燃える舌先を覗かせる。きちんとした歯並びであるのが見えた。白く照る真珠の艶が見える。きゅっと引き結ばれた唇はきれいな山形につぼんでこくんと喉が動く。
「こうせつ…」
藤堂の口が一音一音を丁寧に紡いだ。唇の動きが見える。薔薇色に化粧した頬や天然で紅く惑わせる朱唇。桔梗の合わせの影と道行の白さが相まって程よく藤堂の顔を浮かび上がらせた。衿から覗く首や胸元が虚ろに黒い。紅い、虚ろが開く。卜部を呑みこむ。
「――ッ」
ばりっと藤堂を引きはがす。藤堂がきょとんと卜部を見た。
「どうか、したか?」
「どうもしません」
藤堂がどこに向かっているのか卜部にはもう判らない。ただ促すように黙っても藤堂はしれっと卜部の反応を待っている。卜部の喉が鳴った。
「…どこ、行くつもりなンすか」
「私の家」
「はぁ?」
「食事が作ってある」
思わず声を上げた卜部を藤堂が引っ張った。シャツの袖ごと引かれた。
「大丈夫だ、お前が嫌いなものは除けてあるから」
ぱっと身軽くひるがえす藤堂に引っ張られて卜部はあわただしく歩き出す。
「外で飯食った方がよかぁないですか」
「私の食事は不味いかな」
「食ったことないから知りません」
「じゃあ一度食べてみてくれ。合わないところは直すから」
何度食わせるつもりなのか。そもそも卜部は惣菜に楓蜜をかける癖がある。それを話すとたいていの相手に、お前に飯を食わせるほど無駄なことはないと言われる。藤堂にも知れているはずなのに、藤堂は食べに来いという。
「俺のくせ、知ってるでしょう」
「楓蜜か? あとは、蝉を食べるらしいな。蝉は私も食べる。ただ、戦闘中で調理時間が限られる時だが」
少し甘めに味付たから、と藤堂はあっさり言う。卜部の方がうぐぅと黙る。
「どういうつもり」
「食事に来てほしい。あとは、その、すこし」
藤堂の目が泳いだ。隠し事ができない性質なのだ。卜部は嘆息してから藤堂の袖を引っ張る。脇から紅い襦袢の緋色が覗いた。
「行くって言ってるんですよ。どこ」
「――…こ、こっちだ」
藤堂は卜部の袖をきゅっとつかんで引っ張る。それは子供が待ちかねて袖を引っ張る強さに似た。自分のこととこれからのことで頭がいっぱいで、相手を気遣う余裕のない稚気。卜部はふっと笑って引っ張られるままについていく。逢瀬を申し出られて承知した以上、ある程度は付き合うべきである分別はある。そもそも藤堂はあまり無理を言わない性質であるから、あふれ出るわがままくらい聞いてやりたい気になる。だから藤堂が卜部にわがままを言うのだと知っていてもこれだけは冷淡になりきれない。
「巧雪」
なに、と言おうとした唇が中途半端に開く。そこを藤堂が食んだ。藤堂の差した薄紅が卜部の唇に移るほど長くて深い口付けだった。藤堂の豊かな胸の谷間が見える。薄暗くて虚ろなそこは堕ちていきそうな闇だ。藤堂の三つ編みが跳ねた。卜部は頬から耳にかけてを固定されて逃げようがない。虚ろに開いた口腔を藤堂は犯す。熱く濡れた舌が蠢いて卜部の舌を吸い上げては舐る。濡れた吐息が二人の間に満ちてあふれてこぼれる。
「…――ッ、ふ…」
「かわいい。好きだよ」
ぎゅう、と藤堂の豊かな胸が押し付けられる。圧したら弾けそうに張りつめながら掴む指先に歪んでは元に戻る。藤堂は自ら胸を触らせる。同時に卜部の体をまさぐった。痩せた体であり胸も小振りなのに藤堂はうっとりとシャツの上から卜部の体を感じ取っている。
「かわいい…愛らしい」
藤堂は何度もシャツの衿や胸元へ唇を寄せる。ぺろ、と舌先が胸の先端を舐った時、卜部は下着の装着を怠ったことを後悔した。ぶるりと震える卜部を藤堂はうかがい見上げながらふふっと笑う。
「巧雪。たまらない」
強く引っ張られて飛び込んだ道は人通りが少ない。他人の庭先をかすめるような細道を幾筋も通っていく入り組んだ先に藤堂の私邸があった。厳めしい造りのそれをくぐるともう庭先だ。ふわりと袖を揺らして振り向く藤堂は衿が締まっているのに艶めいた。細い首。固く結われた三つ編み。引っ張られたうなじ。卜部はその一つ一つに喉を鳴らす。自分にはないもの。手の届かないもの。
「こうせつ?」
ふわりと、藤堂が笑んだ。微笑みのそれはひどく生々しく、同時に艶を帯びた。唇の薄紅はすでに剥がれかけている。それでも地の紅さでかえって色気を増した。艶を帯びる紅さは不明瞭になりつつある視界の中で際立って見える。藤堂は言葉を話す際にことさらそれを強調するように、ゆっくりと話す。照る唇が艶めかしく蠢くのを卜部は黙って堪えて見ているしかない。
好きだよ。藤堂の鈴を震わせる声が耳朶を打つ。卜部は糊のきいた寝床でいただかれた。藤堂の拘束は緩かったが貫くような熱は熱かった。あふれ出る体液に浮かされて卜部は何度も反り返り、腰を震わせて脚を開いた。藤堂の嬉しそうな艶笑が見えた。気が付くと卜部は裸身で横たわっており、回復した折を見計らって食事がふるまわれた。言われていた通りに甘く味付られていた惣菜が並ぶ。見た目に違いはない。美味かった。
《了》