たまに気づいてしまう、事

   戦闘開始

 夏も終わりに近い。立秋を迎えれば暮方には涼やかな風が吹いた。昼日中は汗ばむほど暑いのに日が沈むごとに気温を下げる。そうなれば日が暮れるのも早く、西日が差すと思う頃気づけば薄暗くなっている。だんだん道場の子供たちを帰す時間も早くなっていく。帰り道で何かあっては困るし暗い道を帰すことには抵抗がある。少し遠くから通う子もいるしきりが好ければ藤堂はさっさと帰す。むやみやたらに引き止めない。鍛錬は積んだほうがいいが無駄に間延びした長時間より密度のある短時間の方が効果がある。
 扉の前に立つ。瞬間にびりっとうなじが灼けついた。皮膚を刺すそれは闘気だ。鳥肌が立つのに似たその刺激は感じるようになるまである程度の鍛錬が要るし、放つにも必要だ。明らかにある程度の手練れがいると判る。藤堂の呼気が整い、すっと引き戸を開ける。子供たちの喧騒が失せた玄関は日ごろの口やかましさのおかげかきちんと整頓されている。一足だけあるのが逆に目を引く。大人か。藤堂の道場の間口は広いから乞われれば大人にも教える。子供たちを帰した後に、頻繁ではないが大人たちにも教える。戦争景気にわく風潮のように、子供だけではなく大人も武道を学ぼうとするものが増えた。
 足音を殺して滑り込むとそれは藤堂の部下だ。防具をつけていない体は彼の性質のように飄然として痩せており、それでいながら貧弱だとは思わない。構えた木刀の切っ先が揺れない。いつの間にか差している仄白い月光が彼の顔の凹凸を暴いて照らす。顔貌は悪くないと思うのに人を食ったことを言ったりやったりするから時々暴力沙汰の始末をしている。それでも基本的に諍いを嫌うらしく、朝比奈ほど神経を逆なでする気はないようだ。声をかけずに藤堂は見据えた。卜部巧雪。日本人の美意識の満ちた名前だと思う。本人は変でしょうなどと言うが静まり返った水面のように涼しげで風に似た彼にあう名前だと思う。捕まえることはおろか押すことも引くこともできない。
 声をかけそびれているうちに卜部の方が気付いた。あっさりと構えを解いて木刀を下ろす。いつも飄々とした雰囲気だ。片足へ重心を預ける立ち方など直らない。
「黙って見てんな」
藤堂と卜部の間には敬語がない。無論、軍属の上下関係として人目がある際にはわきまえるのに二人だけになると卜部の言葉は途端にぞんざいになる。藤堂も気づいているから遠慮はしない。不遜にさえ思えるはずの卜部の態度は藤堂が鎧うものを剥いでしまう。
「見事だったから見とれていた」
「言ってろ」
はん、と卜部が笑う。小馬鹿にしているようだがこれも卜部の感情表現だ。藤堂が卜部と付き合いだして判ったのは感情や思考を表す方法はまっすぐだけではないということだ。卜部は常に斜を向く。礼も言うし感謝もするが皮肉も忘れない。照れ隠しの一種だと藤堂は判じている。ある程度の子供や父兄との経験としてそういう性質がいることは受け入れている。
 卜部は器用に木刀を回転させている。右でも左でも同じように回す。器用だ。今日の予定を引っ張り出す。子供たちはすでに帰したし、大人の弟子も来ない。それは藤堂と卜部がしばらくここを自由に扱えることでもある。
「一本やるか」
子供たちの稽古が終わってすぐに所用で席を外したから藤堂は道着のままだし、卜部も道着を着ている。亜麻色の荒い生地と紺袴の色彩。特に卜部は髪の艶が蒼いから呼応したように不自然さがない。同系色でうまくまとまっている。卜部はすぐさま肩をすくめた。
「いや、いいです」
藤堂がきょとんとした。卜部はあまり申し出を断らないし、藤堂が手合わせしたかった。
「そうか?」
「あんた相手にしたら心臓がいくつあっても足りねぇんだよ」
くるる、と卜部が木刀をバトンのように回転させた。ひねりや加減があるのか僅かな動きで回転を保ったまま放たれ、うまい具合に卜部の手のうちへ着地する。
 藤堂の灰蒼の双眸がそれを律儀に追う。卜部の目がきょろりと藤堂を見たが何も言わなかった。鈴蘭の摩擦に似た微音がして空気がそよいだ。頬や首を撫でる風が戦闘準備に火照る体を冷やした。卜部は痩せているから駆動部が明確だ。手首や足首、踝などの突起がよく見える。華奢に見えるそれらが十分に機能するのを藤堂は知っている。卜部はあっさりと木刀を片付ける。俯いたり前かがみになるたびに衿の奥の暗がりが見える。頚骨が数えられそうな首とそこから背中へ続く狭間は蠱惑的に昏い。卜部の姿が暗がりへ消える。すぐに出てくる。格子の嵌まった開口部からさす月光で卜部の動きがコマ送りになる。表情や細かい傷が見えなくなり、その双眸の煌めきや紅く虚を開ける口元があざとい。黒蒼の髪艶が見える。
 「どうか、した」
揶揄するように丁寧であり同時に藤堂の側など知れている。明かりが落ちて不鮮明になる視界に比例して人は大胆になる。藤堂は恥ずかしげもなく言った。
「巧雪が、きれいだと思った」
ぴく、と卜部が身じろぐ。言葉にすると余計に現実味を帯びた。触れたら割れそうな硝子の双眸。少し汗をかいている肌は雲英びき。日差しに焼けた肌は白くないのに艶めく。ふくりとした唇に触れたい。吸ってみたい。
「巧雪」
卜部の茶水晶が藤堂を値踏みするように見つめた。藤堂の体が知らずに緊張する。口元が引き締まり目を眇める。骨格のゆがみを正すように背が伸び腹に気をためる。とたんに藤堂は身なりが気になる。衿は締まっているか腰紐は緩んでいないか、少し裾や袖を直すべきだったか。
 卜部の目が藤堂の灰蒼を射抜いた。ぞくりと、した。卜部の硝子に映るのが自分だけであったら、どれほどの。享楽。悦楽。すべてと引き換えにしてもいい。
「あんた、その格好似合うな」
ざわりと藤堂の肌が総毛だった。言ってほしい。言わずにおいてほしい。反する衝動が複雑に絡み合った。卜部の方に気負いはないのか淡々と音を紡いだ。

「きれいだ」

静謐な空気が揺れた。ビクンとはじかれたように肩を跳ね上げた藤堂につられたように卜部がたじろいだ。
「なっきれ…きれい?!」
「えッあ、うん…」
気まずい沈黙が満ちたが藤堂の思考は卜部の言葉に埋め尽くされている。卜部の目がじっと藤堂を見ている。藤堂も前を見ているのだが認識できていない。
 朝比奈などは日常的に藤堂はきれいだと言っているが藤堂としては世辞のつもりだろうととらえていたので卜部に改めて言われて嬉しいやら戸惑うやらで混乱している。藤堂は卜部が好きだからその卜部から好意的な言葉を聞けるのは嬉しいのだが、自覚していないそこを言われて喜ぶべきかどうするべきか対応が決まらない。下手にうれしがって幻滅されたくない。しかも一連の思考や経路が藤堂は驚くほど表に出ないからはたから見ているとただ言葉を聞いて黙っているだけなのだ。
「変なこと言った?」
「いや、うん」
「どっちだよ」
気もそぞろな藤堂の返答に卜部がつっこんだ。
「う、うれしい!」
だん、と踏み出すと卜部がびくっとした。藤堂の顔が熱い。真っ赤になっているだろうことは言われなくとも見ずとも判る。
 「お、お前にそう言って、もらえて、う、うれしい…」
言葉にしたら余計に恥ずかしい。卜部はしばらく藤堂を見ていたがふぅと力を抜いた。
「アンタぁ天然だよなぁ」
「てん、ねん?」
「わかんねぇならそのままでいてくださいよ」
卜部は熱いのかひらひらと手で扇いで風を送っている。次第にもどかしげに衿をくつろげ、しまいにはがばりと裾を引っ張り出して合わせを開けた。卜部の胸部や痩せた腹が月光で浮かび上がる。くっきりした陰影がことさらいやらしい。藤堂の喉がごくりと鳴って目が離せない。卜部は気づいていないのかしばらく手で扇いだが道着をバタバタさせ始める。尖った腰骨が完全に覗いた。腰の少し低い位置で卜部は腰紐を締めているのだ。へそが見える。その下へ続くものを想像するだけで藤堂は体の支配権を奪われそうだ。刳れた腰回りが見えて藤堂はたまらず声を上げた。
「うっうらべッ」
「なに」
「…ッその、こ、…腰、が…見える…」
尻すぼみなそれを卜部はあっさり受け流す。ケツは見えてねぇなどと言うがへそがのぞくだけでも藤堂には一大事だ。腹が見えるだけでこれでは卜部の全裸など拝めない。判っていても初めて動揺するときの性のようにそれは藤堂の気を乱す。
 真っ赤になって震える藤堂にどう思ったか卜部が道着を脱いだ。胸部や肩が見える。細い首から連なる肩や鎖骨。汗で煌めく胸部からくれた腹部とへそのくぼみ。腰紐の上に腰骨の尖りが見える。卜部は躊躇なく藤堂の方へ来る。
「欲情する?」
卜部は動けない藤堂の手を取った。ぺた、と胸に当てる。藤堂は真っ赤になって耐えた。小刻みに震えてしまうそれが歓喜なのが情動なのか藤堂にはもう判らない。見開かれた灰蒼がすがるようにおびえるように卜部を見つめて離れない。呼気が乱れた。吐く息が熱い。
「う、らべ…」
唇が重なった。柔らかい。卜部の熱の断片が藤堂の中へ流れ込む。触れ合うそこから融けるようだと思った。卜部のことが判る。私のことが伝わる。歓喜。
 卜部はあっさり口づけを打ち切る。情報が途切れた。卜部は藤堂の眼前でにやにや笑う。ぺろりと赤い舌先が唇を舐めた。口が開く。紅くて黒い虚が見えた。底なしに落ちていく。堕ちる。
「俺はあんた好きだな、そういうとこが。馬鹿みたいだけど。馬鹿だから好きかも」
卜部の方が藤堂より丈がある。藤堂は目線を上に向ける。卜部は頤ではなく藤堂の頬を押さえた。それが互いの立場や力関係を明確にする。藤堂は早くも状況判断力を取り戻しつつある。瓦解したそれを挽回する。卜部は判っていて時間を与えている。
「鏡志朗」
卜部の声が藤堂の名を紡いだ。藤堂という家族名ではなく鏡志朗という、藤堂の個体名。
「アンタのそういう、馬鹿なとこは好きだ」
藤堂は卜部の唇に吸い付いた。卜部も拒否しない。情報の交歓。根底から感じる原始的な悦楽と理知的な快感。とろけると思った。
「巧雪」
浮かされたように名を紡ぐ。古来の日本では結婚相手にしか名を明かさなかった。名乗りはすなわち求婚であり結婚に直結した。
「好きだよ」
同時に同じ言葉と音を紡ぎ奏でた。笑う。わらう。
 卜部が腰紐を解く衣擦れの音がした。


《了》

誤字脱字がもうアレな感じ。読み返せ。恥ずかしィイィ
笑って流してくださいすいません   2012年9月10日UP

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