今だけ、今だけ
侵蝕してくるもの
手脚は鉛のように重く体全体がだるい。視線は書類の字面を追うものの内容は半分も頭に入っていないことが判った。それでも決まりきった会議を終えて帰途につくころにはギルフォードは何のために歩いているのかすら危うい意識になっていた。体は燃えているかのように発熱し、それでいて鳥肌が立つ。上着を着るべきなのか脱ぐべきなのかギルフォードは無為な判断に迷った。軍服以外の外套はあいにく持参していないことをようやく思い出す。とにかく体が変調をきたしていることだけは確実だった。喉は喘鳴を繰り返し肺に何かがわだかまっているかのようだ。食欲も起きない。会議室から自室までがひどく遠かった。階段を上っては踊り場へしゃがみこんで休憩を繰り返す。立ち上がると視界がくらんだ。頭部が別物のように重くぐらぐらとして安定しない。
「…疲れた」
ついには壁にもたれかかって足を止めて息を整える。自室はおろか仕事場の建物から出ることすら出来ていない。これでは帰宅にどのくらいの時間がかかるか知れたものではない。すれ違う人々の視線が痛い。これでギルフォードが意識をなくしでもすれば誰かが助けてくれるかもしれないが、意識のあるうちは人々は意外と冷淡だ。気にかけるような視線を投げるがそれきりで手は出さない。誰だって面倒事に巻き込まれるのは御免だろう。
「…クッ」
勢いと気合で立ち上がると歩を進める。具合が多少悪くても顔色にあまり出ない性質なのが災いしてか、会議中は誰もギルフォードの異変に気付いた様子はなかった。意見を求められたりする内容でないことが救いだった。今の頭でまともな思考ができるとは限らない。
「…だるい」
口にするだけでそれは事実となって重みを増した。熱量は通常の何倍もの量を発散し、体の温度は上昇を続けているだろう。喉はからからに渇いている癖に痰が絡むのか吐きだしたいような何かがわだかまっていた。壁伝いに手をついて歩く。もう自分がどんな姿に見られているかなど構う余裕もなかった。唐突にこみ上げた咳は渇いた喉を直撃して激しく咳きこむ。これで痰が吐き出されれば楽になるのだろうが唇からあふれ出るのは唾液ばかりだ。激しく咳きこみしゃがみこんでしまったギルフォードの視界へ、男が立ちはだかった。
綺麗に磨かれた靴先。視線を上げれば中華服にも似た白衣を身にまとう痩身の男。薄く色づいた藤色の髪と天藍の瞳。穏やかそうなフレームの眼鏡とつり上がった口の端は常に微笑しているかのようだ。
「…ロ、イド…伯爵」
「具合悪そうだねぇ? 会議のときから気になってたんだぁ、これでも僕、勘はいいんだよぅ?」
「たいしたことではありません」
ひときわ大きな咳をして落ち着いたギルフォードが立ち上がる。口の端からあふれた唾液を乱暴に拭って凛とした態度で一礼すると立ち去ろうとする。そこへロイドは執拗についてきた。
「本当に大丈夫ですかぁ? 見たところ熱もありそうだし、立っているのもつらいでしょ?」
ロイドの声がわんわんと響く。耳元で叫ばれているかのように思えば離れた位置から聞こえる囁きのように聞こえるような気もする。一定しないそれはぐらつくギルフォードの意識と相まって混乱をきたした。脚が重い。靴先が廊下の絨毯に引っ掛かって何度も足を引きずり転びそうな羽目になる。そのたびにロイドはケタケタと癇に障る笑い声を立てた。それを振り払うように歩を進めた。
「無理だと思いますよう、家まではもちませんよぅ? 足が動かないでしょ? ふらふらしてるしぃ」
客観的に言われて限界を迎えたのか唐突に膝ががくんと抜けた。咄嗟に手をついて四つん這いになるのが精一杯でそこから体を動かせない。呼吸が荒く体を支える腕がぶるぶる震えた。体は意味もなく発熱して蓄えていたカロリーを惜しげもなく消費する。咳は激しく止まらない。喉はむやみに渇き、口の中にはこみ上げる唾液があふれて口の端から伝い落ちた。醜態に気づきながら、その体裁を整えるだけのエネルギーは明らかに不足していた。
ロイドはそこへひょいと屈みこむと携帯をいじりながら言った。
「休んでからお帰りになった方がいいと思いますけどね、帰りつく前に倒れますよぅ? あっはぁ、もう無理みたいですねぇ」
ギルフォードの意識があったのはそこまでだった。
目を開ければ見慣れない天井と明かりが目についた。頭がぼうっとする。ぼやけた視界は眼鏡がない所為なのだと気づいて眼鏡を探して頭を巡らせると額からぱたりと濡れたタオルが落ちた。眼鏡をかけて体を起こす。見慣れない部屋だ。調度類はいかにも高級な貴族趣味でその一つ一つが高価なものばかりだ。サイドテーブルには水の満ちた水差しとコップ、吸い飲みと薬が置いてあった。わきには屑籠があって薬の包装が捨てられていた。体のだるさが少し楽になっていることに気づく。辺りを見回すとちょうど部屋に入ってきたロイドと目があった。
「あぁ、起きられましたぁ? 気分はいかが?」
そこでギルフォードは改めて己の状態に気づいた。気を失った時に着ていた軍服ではなくゆったりとした部屋着に着替えさせられている。髪を結っていた結い紐もサイドテーブルに置いてあった。長い漆黒の髪がさらさらとギルフォードの肩の上を滑った。
「あの、ここは? 私は一体」
「あぁ、ちょっと医者を手配して診てもらったんですよぅ、目の前で気絶されたら放っとくわけにいかないでしょ? 僕だってそこまで人間離れしてませんよぅ」
ロイドは飄然と言い放ってベッドへ腰をおろした。長い脚をぶらぶらさせて遊ばせている。こつん、と合わせた額は陶器のように冷たい。それともギルフォードの体がまだ発熱を続けているのか。ロイドは苦笑するとギルフォードから離れた。
「まだ熱がありますねぇ、咳止めは効いているみたいですけど」
言われたそばからこみ上げる咳にギルフォードは難儀した。激しく止まらない。口元を手で覆うが応急処置にもならない。喉と胃袋が一直線につながったような錯覚と腹の底から込み上げる咳。
「――ぐぅッ」
まずい、と思った刹那にロイドが咄嗟に屑籠を差し出した。ギルフォードは意識する間もなくそこへ吐瀉した。嘔吐は連続して腹部が異様な痙攣をおこす。逆流した胃液が喉を灼いた。何度か空嘔を繰り返してようやく嘔吐が止まった。
「…すみません、弁償します」
ロイドの手がギルフォードの背をさする。ロイドはけらけらと笑って言った。
「別に気にしなくっていいと思いますよぅ。人間の体ってナイトメアフレームと似てますからねぇ、応急処置はしたんですけど。ただバリエーションが多いって違いだけで反応は一緒、一緒。それにここ、僕の部屋じゃあないんですよぅ?」
「――? じゃあ、ここは」
「殿下に君を運ぶの手伝ってもらったんですよぅ。お忙しいらしくてすぐ消えちゃいましたけどぉ。君のそばにいたがってましたよぅ?」
「わ、私はとんでもない迷惑ばかりかけて…ッ?! かえ、帰ります…!」
ロイドの口から飛び出したとんでもない名前にギルフォードが仰天した。てっきりロイドの家に世話になっているとばかり思っていたのだ。それがまさか皇族の世話になっているとは。
「だって君、会議室の目と鼻の先で倒れたでしょ。殿下はすぐ気付いてくれましたよ、呼ぶまでもありませんでしたぁ」
飄然とした身振りで説明するロイドを押しのけてギルフォードはベッドから降りた。途端に視界がくらりとくらんで膝をつく羽目になる。休息を覚えてしまった体は疾うに自力での帰宅を放棄していた。長い黒髪がさらさらと滑り落ちる。ロイドは屑籠を床へ置くとギルフォードを助け起こした。
「ほらぁ、無理でしょ? 好意に甘えた方がいい場合だってあるんですよぅ」
気絶と嘔吐はただでさえ弱っていたギルフォードの体力を疲弊させたらしく立ち上がるのがやっとだ。歩いて帰ることなど無理に等しい。着替えも見当たらない。開いた襟繰りから覗く細い首にロイドは口付けた。
「ベッドへ戻って、いい子だから」
黒褐色の長髪をもてあそぶように指先に絡めて梳くように撫でる。嘔吐で潤んだ薄氷色の瞳がロイドを映し出した。嘔吐は呼吸のリズムを狂わせてエネルギー消費を増やし、喘鳴する。もう吐き出すものなどないのに咳は絶え間なく出て空嘔を繰り返す。ロイドは意外な力強さでギルフォードの体躯を抱えあげるとベッドへ寝かせた。仰向けの状態で肺が軋む。激しくなる咳に、ギルフォードは体の向きを横に変えた。背を向けられたロイドは黙って屑籠を片づけている。
「…すみ、ません。ご迷惑ばかりおかけして」
咳が治まった合間に言う礼にロイドはにやあと笑った。
「うふ、実はね、ここは正真正銘僕のうちですよ。殿下にお手伝いいただいたのは事実ですけど、車に乗せるのを手伝ってもらっただけ。だから君が負い目を追う必要はありませぇん」
ロイドは吐瀉物の入った屑籠を持って扉を開けた。控えいていた女中に何事か指示して屑籠の始末を頼む。女中はよくしつけられていて嫌な顔一つせず肯定の意を示して引きさがった。
「水でも飲みます? スポーツドリンクの方がいいかなぁ? 痰が少しは吐きだされているだろうから咳は少し楽になると思いますよぅ」
ギシリとベッドが軋んでロイドが腰をおろしたのが判る。火照った体にロイドの陶器のような皮膚は心地よかった。普段ならひるむような冷たさが発熱した体には心地いい。優しく撫でる手は慈愛の幻想を抱かせた。
解けた髪を梳いて後ろへ流してやる。現れた首筋にロイドは優しく吸いついた。喘鳴を繰り返す喉の震えをロイドは唇で感じようとしているかのようだった。ロイドの指先が眼鏡をはずす。それをサイドテーブルに置いて吸い飲みを差し出す。
「飲みます?」
ギルフォードは素直に吸い飲みを咥えた。ロイドは優しく頭部を支えて吸い飲みを傾けてやる。手慣れたその仕草の意外性にギルフォードが戸惑っているとそれを見透かしたかのようにロイドが笑った。
「僕も昔けっこう、これのお世話になったんですよぅ。だから扱いに慣れてるだけ」
吐瀉して胃液で灼けた喉に冷水は心地よかった。ギルフォードはかたくなに背を向けた。向かい合ったら甘えてしまいそうな、一線を越えてしまいそうな怖さがあった。
「勝手に医者に診せたこと怒ってるんですかぁ? でも君、体調管理だって自己責任ですよぅ」
「判っています」
ここ数日体がだるかったのは確かだ。それを単なる風邪と甘く見たのがたたって今に至っている。風邪には違いないだろうが重症度が違う。まさかここまでひどくなるとも思わずに放置したのは確かに失態だった。
ギルフォードは髪を梳くロイドの手に頬を寄せた。冷たいそれを体が求めた。
「きもち、いい…」
うっとりするように呟かれてロイドの白い頬が紅く染まった。ぱちぱちと目を瞬かせた後、困ったように口元を引き結んだ。
「反則ですよう、それぇ…!」
ギルフォードの意識はすでに曖昧で判然としない。触れてくる冷たさが現実なのかどうかの区別もつかなかった。時間の流れも麻痺してどのくらいまどろんでいたのか、今もまどろんでいるのかどうかすら判らない。ただ頬や首筋に触れてくる冷たさが心地よくてギルフォードが微笑した。
潤んだ薄氷色の瞳は無為に煌めいている。その瞳はなにも映さず何も見ていない。意識が判然とせず、ただ微睡の中にあることを示すように潤んでいた。眼鏡の硝子を取り除いた裸眼はただ美しい。ロイドは天藍の瞳でそれを愛しげに眺めた。艶やかな黒髪と薄氷色の瞳の対比はエキゾチックで美しいとロイドはぼんやり思った。緩く巻いた癖のある自身の髪と違ってまっすぐ伸びたそれは、女性たちが天使の輪と呼ぶ艶を持っていた。皇女の騎士であるという肩書きに恥じぬ身だしなみのギルフォードは律儀だとロイドは思う。ロイド自身、皇子であるシュナイゼルと浅からぬ関係にあるがそれによって自身を変えようと思ったことなどない。ギルフォードはロイドにはない何かを持っている。だからこそ、惹かれる。
「君は、罪な人ですねぇ」
ギルフォードは人を惹きつける何かを持っている。気真面目で律義なだけではない艶にシュナイゼルも惹かれるのだろう。その吸引力は絶大だ。問答も言い訳も許さずただ剥きだしの欲望をさらす。ギルフォードは眠りについたらしく穏やかな寝息を立てていた。激しい咳きこみを思えばよいことなのだろう。ロイドはその頬を撫でうなじに吸いついた。紅い鬱血点が残る。ロイドは満足げに微笑した。
「君が僕を捕らえるんなら、僕だって君を捕らえますよぅ」
「優しいんですね」
ロイドがびっくりして目を瞬かせてギルフォードの顔を覗きこめば、目を半分だけ開けたまどろみの状態でギルフォードが微笑していた。その目蓋が重たげに落ちる。長い睫毛も髪と同じ漆黒で長く美しい。それでいて瞳は薄氷色と薄い色素だ。どんな遺伝情報なのだろうと科学者の興味が頭をもたげる。ギルフォードの皮膚はロイドほど白くはないが浅黒いわけでもないし、適当に健康的な色艶をしている。
「僕はいつか、君を解剖するかもしれませんねぇ」
ロイドの指先が優しくギルフォードの頬を撫でる。ギルフォードの口の端がわずかに吊り上って笑みをかたちどった。
《了》