君のこと
責任を取って嫁になれ
ザァザァと繰り返す海鳴りは枝葉の摩擦にも似ている。釣り糸を海面に垂らしたままで藤堂はわずかに揺れながら広がる波紋を眺めた。釣りをするのが好きだと言うと意外そうな顔をされる。難しいことをこじつけもするがやはり単純にこういう時間が好きなのだと思う。釣果があれば嬉しいが坊主でもそれなりに瞑想の時のように無心になれていたりするので収穫はある。照りつける日差しが熱い。そろそろ日陰へ避難しようか、と思いながら機を逃している。次の瞬間には釣果があるかもしれないと未練がましいのは穴掘りに似ている。
「なんだァ、あんたか」
拍子抜けしたような色を含むその声はますます飄々としている。藤堂が弾かれたように振り向くと卜部がいた。私服だ。常時戦闘態勢の部署であるから大抵の時間は軍服を着用している。その所為かひどく新鮮だ。細い首がよく判る襟刳りで時節がら袖は短い。駆動部はけして華奢ではないがこのまま海に飛び込んでもよさそうな軽装だ。体はそれなりに作られているがやはり軍属として見ると細い気がする。縹藍の髪をかきあげて暑そうにひらひら手で扇ぐ。
「珍しいな、お前が顔を出すなんて」
藤堂の釣果を卜部は遠慮なしに確かめる。隠すほど意気込んではいなかったので藤堂も好きにさせた。坊主だ。卜部の登場はいい見切りになるだろうと藤堂は糸を手繰り寄せていく。
「あれ、いいンすか」
気付いた卜部がすぐさま問う。飄々として軽薄に見られがちだが案外目敏い。藤堂は肩をすくめて、坊主だからかまわない。止めようと思っていたところだとあっさり白状した。卜部が買って出て少ない荷物を分けた。
「そういやぁ、面白いとこ見つけたンすよ。人がこないからあたりも多いかもしれねェですよ。ちょっとした入江とか湾みたいになってて――」
いきなり卜部が方向転換した。日差しが白く灼く卜部のうなじを見つめていた藤堂がギクッと跳ねあがる。取り落としそうになった荷物を抱え直して話の続きを促すふりをした。卜部は訥々とまァ人がこねェから魚もいねェかもしれませんがね。俺は釣りやらないんでどこが好いとかよく判らねェんですよ。ただまァ水浴びするにはいい穴場ですよ。がざがざと腰の高さほどの灌木の茂みをかきわけて卜部が踏み行っていく。野生種らしいそれは夏らしく白い花を咲かせている。甘くまとわりつくような強い香りを漂わせながらその源を悟らせることはない。蜜に浸したかと思うほど強い香りに目を凝らしても触れる花さえ稀だ。水場が近いと言うのは本当らしく地面が少しずつぬかるむ。植物の保水能力や排水を甘く見てはいけない。張り巡らせた根が吸い上げ溜めこむ能力は水田の上を行くとか。
気を紛らわせようとして知識の抽斗を無差別に引き開ける。藤堂とは裏腹に卜部は歓声を上げている。
「ひっさしぶり」
藤堂が灰蒼の目を瞬かせた。人影どころか足跡さえない。まっさらの砂浜と岩場、確かに釣り糸を垂れるだけのスペースはありそうだ。草木がせり出して茂る所為かうまい具合に木陰が発生している。暑さ負けすることも少なくなりそうだ。
「珍しいな」
卜部が何か言いたげだったが黙る。んー、などと唸るところを見ると何か指摘でもあったのかと藤堂が待つがない。藤堂は早速場所を見つけて糸を垂らした。初めての場所は年齢に関係なく気分が華やぐものだ。わくわくと糸を垂らす横で卜部が転がったまま浅瀬の生物をいじったり手を浸したりしている。
「ンあッ」
ざり、と身を乗り出す卜部の服がしわになる。容よく並んでくぼむ脊椎が見える。痩せた腹。下着が少しだけ覗いてそれがひどく藤堂の気分を落ちつかなげにする。
「おッ、なんかいる。こりゃあ当たるかもなぁ。どうすか釣れそうですか」
言いながら卜部は返事など求めていない。ずりずり動いて服がずれる。あぁあぁぁ尻が出る!
一人で真っ赤に茹だった藤堂を気付いた卜部が不思議そうに見た。垂らした釣り糸がプルプル震えている。揺らしてんのかと卜部が手元を見るが手元自体から揺れている。藤堂は不機嫌そうに口元を引き結んでいるが真っ赤な顔をしている。その灰蒼は潤んで瞬きながら卜部を映す心算などないかのようにそっぽを向いてしきりに目を凝らす。
「――ッふ」
「ふ?」
「服を直しなさい」
「…んぁ。…あ、ぁ」
這いずったままでのそのそ身支度を整える卜部を見ながら藤堂はまたしても居心地が悪い。なんだか脱ごうとしているみたいだなんで脱ぐんだ。脱ぐわけじゃないと判っていても際に添えられた手や覗く下着に妙な色気を感じて動揺する。チラチラ見ていた卜部がふゥンと鼻を鳴らす。
勢いよく跳ね起きた卜部がその勢いのまま藤堂の頤を掴んで口付けた。噛みつかれたかのように藤堂がびくんと跳ねて反射的に拓いたそこへ卜部は舌を入れてくる。濡れた音がひどく耳につく。荒い呼気のまま離れた卜部がにゃあと笑う。
「なんか言いたいことは」
「お前が来るなんて珍しい」
「話がループしてまス」
ずばりと言われて藤堂がうゥッと黙る。うんうん唸ったがいう言葉がない。その間にも卜部の喉元やら鎖骨の窪みやらが目に入って思考が乱れる。
「えっと」
反射的に頭に手をやる。拍子に釣竿が落ちた。
「わ゛――ッ」
卜部が慌てて釣竿をぱッしぃと受け止める。びちびちと魚が跳ねる水輪を残して静まる。いつの間にか当たりが来ていたらしいが藤堂は気づかなかった。
「あぶッあぶねェ」
釣竿だって高いでしょうに! と説教しそうな卜部を藤堂がじぃっと見据える。
「うらべ」
がたり、と。藤堂の熱い手が卜部の肩を抑える。そのまま押し倒した。卜部は釣竿を握りしめていて特に目立った抵抗もしてこない。放り出せばいいのに、と思う反面でその拘束を喜んでいる自分がいることにも気付いている。びん、と引き攣れたような感触があったが無視する。卜部が顔を出したのは思わぬ釣果だった。ねばった甲斐があると言うものだ。
「つれた」
「…………そうですね」
何か言いたげな卜部がくいくいと竿を揺する。同時に藤堂のシャツが動いて藤堂が気づく。卜部の持った竿の針先が藤堂のシャツに引っかかってまさに釣れている。
「………」
「つれましたよ」
卜部の追いうちである。藤堂は黙ってごそごそとシャツを脱いだ。肩甲骨の真ん中くらいに引っかかっている。痛みはないから傷も負っていないのだろう。シャツだけ器用に引っ掛けたようだ。なんとか外そうとするが案外これが手間取る。しまいに藤堂はシャツを放り出した。その乱暴さが良かったのか取れた。パサリと落ちるのを確かめてから藤堂は視線を戻す。
穴場であるから人もこない。卜部と二人きりの状況においてシャツを脱ぐと言うことは藤堂の側を増長させこそすれ委縮はさせない。体が熱い。卜部の痩せた背や腹を撫でる。
「そんなものは放り出せ」
「高いじゃねェですか。しみったれてんですよ俺は」
藤堂は素早く卜部から竿を奪うと片手間にスタンドへ固定した。乱暴に固定したので暴れる獲物には耐えられないかもしれないが、現在の状況は藤堂にとっては釣竿より尊い。投げ打ってもいいくらいだ。
銃創や切り傷が絶え間なくついて切り刻む。そんな体を晒すことに抵抗がないかといわれれば嘘になるが藤堂本人は自分の体がどうあろうと気にもしない。藤堂の影が卜部の体へ覆うようにかぶる。そこだけ薄衣の衣のようにまとわりついて卜部の体を隠す。藤堂が震える手を這わせた。その震えが伝染したように卜部がびくんと震える。藤堂と卜部の双方がともに手探りだ。おっかなびっくりの態度は卜部にも経験がない。藤堂は慎重で臆病だ。態度を決めかねる卜部のように藤堂も態度を決めかねた。互いに探り合う時が流れる。試すように触れては指先を放す。藤堂は卜部の体の細さや骨格を少しずつ組み立てていく。頸椎や脊髄、肋骨や腰骨を触って頭の中で組み立てる。
「…あんたァいつも、あの場所…?」
「そうだが。お前が来るなんて珍しい」
「話がループしてまス」
二度目である。うぐぅと黙りこむのを卜部はどこか楽しげに見ている。
「まァ、だから、良いんですけどね」
「ループが?」
「違います」
すっぱりと言い渡されて藤堂は唸るだけだ。ぽけぽけする藤堂に卜部は嘆息しながら、だからなんだよなぁとうそぶく。藤堂は至って本気だ。だからこそ性質が悪いし気付けない。
「巧雪、判らない」
「あんたは予備動作なしで名前呼ぶなッ! エーまぁ…気付かないままでいてほしいっていうか」
藤堂があっさり口にしたことを卜部が真っ赤になって反論する。藤堂の方は何がよくないのか全く分からない。
「こうせつ?」
「わかんねェままでいてくださいッ」
ぐぎぎぎ、と卜部が藤堂を引っぺがそうとする。藤堂はただ楽しかった。平素から何事にも動揺しない卜部が顔を紅くしたり慌てたりするのが。かき乱すのが自分であるということがひどく嬉しい。
「好きだ、巧雪」
ぼん、と卜部の顔が燃えた。
《了》