愉しい弛み


   厄介な奴

 暑い盛りであるから夕方でも気温が下がらない。気温と同じように上がり続ける湿度を恨めしげに卜部が舌打ちしてうるさく鳴く蝉の姿を探した。様々に入りじまったそれはミンミンなどと単調に鳴かない。しかもうるさい。脳髄に響くような大声は人間には出せぬ。卜部は陰り出す太陽を横目に木陰や緑陰を見据える。暗くなり始めた頃合いは目が慣れていないので見知った庭であっても別物のそれのようだ。ブチブチ文句を垂れる卜部を藤堂は黙ってやり過ごしている。卜部も何か明確な返答が欲しいわけではないから素通りする。冷茶を呑む音がする。藤堂が入れてくれたそれを卜部は疾うに飲み干している。
「…蝉が喰いてェ」
ぶふ、と茶を吹く音がして卜部が背後を見ると藤堂が激しく咳き込んでいる。横を向いているが灰蒼は潤んで卜部を恨めしげに見る。
「美味いスよ」
「…………遠慮する」
藤堂がようやく息を取り戻す。ふうっという呼吸がため息に聞こえたが卜部は言及しなかった。
 「木ィ蹴ったら落ちてこねェかなァ」
「…それはカブトムシだと思う」
ごろごろ転がる卜部に実行する気はないが藤堂がひどく気がかりそうに窺う。卜部はへらりと笑ってひらひら手を振る。
「平気ッすよいきなり調理場に持ち込んだりはしませんから。勝手に灼いて食います」
「それも止めてくれ」
口元を覆う藤堂がうぅ−んと斜め下を見る。卜部はそんなものかとハァと返事をした。
「でも蜂の子だって食うじゃないすか。蝗とか」
「蝉は食わん」
「食えますって」
実際に食っている。それを藤堂が何とも言えない顔で見返してくるので卜部は言い募るのを止めた。藤堂はいいから少し我慢しなさいと言いつけて水場へ向かう。調理を始める気配と音がしはじめてから卜部は再度縁側に転がった。卜部も料理が出来ぬわけではないが藤堂がやってくれるらしいので乗っかることにした。だいたいにしてここは藤堂の私邸なのだから調理場をあれこれ動かされても面倒であろうと言い訳のように考える。家主の動かしやすいように置いてあるのだから門外漢は客に徹する。
 空はそろそろ夜色に染まりそうだ。碧色が橙に染まるかと思えば思わぬような深い紺青が満ちて夜が来る。夜半になれば過ごしやすいかというとそうでもない。庭へ出た方が少し涼しい。夜に冷えた空気と草木の吐き出す昼の名残が混じり合う。早朝は少し涼しい。暑さで寝付けなかった卜部が庭へ顔を出したら案外過ごしやすかったのだ。まだ太陽も出ていない白々とした時間帯が好い。卜部が夏で好きなのはこの頃合いくらいだ。
「夜が来るなァ」
空を見ようと仰け反った拍子に頭が落ちた。首が痛いほど反るかと思った刹那にガツンと音がして目の裏で火花が散った。
「いってェ…!」
思わず頭を抱えて気付いた。沓脱ぎの石に後頭部をぶつけたらしい。傍に履物が揃っている。目の裏をちかちかさせたまま卜部がのそりと起き上がる。ぶらりと垂らした腕が地盤を撫でる。この家は今時珍しく床下があるのだ。猫の仔でも二三匹いるんじゃなかろうかと卜部が覗きこむ。
「何をしてる」
ひらひら指を床下に向けて振りながらいいえ別にと言い逃れる。刹那にがぶりとやられた。飛び上るほど痛い。
「いっつ…ッ!」
ひらりと白い毛なみが翻って緑陰を突っ切っていく。指を舐める卜部をよそに藤堂がご近所の猫だと言う。シロとか。安直だ。
「噛まれたなら消毒するが」
がたがた慌ただしくなる藤堂に卜部はいやいいですと指を咥えたまま言った。血は出ていない。少し皮膚がへこんだ。仔犬の甘噛みのようでもある。ぴらぴら振っているうちに痛みも消える。
 藤堂がそんな卜部をじっと見ている。
「なに?」
びくっと弾かれたように藤堂が跳ねた。何でもないと言いながら慌ただしく戻る。卜部が首を傾げるが次には飯の支度を持って来たので飯が出来たと言いに来たのだろうとオチをつける。そのまま二人で食事を摂る。その間にも藤堂の目線がちろちろと卜部に流れる。その意図に気付かないわけではないが少し意地わるい気持が働いて知らぬ顔で料理を褒めた。


 先に風呂をもらった卜部が待っている藤堂に声をかけた。藤堂は俯いて本を読んでいたがすぐに気付いて本にしおりを挟むと風呂へ行く。その後ろ姿を見送りながら卜部は藤堂の位置へ座る。本の題名を見るがそれがどうという感想がない。知らぬ本だ。こそこそと書店がサービスでつける紙の覆いを取って見るが過剰な装飾もない表紙で帯にも新刊としか書いていない。奥付を見ると初版だ。だが殊更話題になった記憶はない。読んでみるがやはり知らない。知らないので飽きる。卜部は本を放り出すと行儀悪く寝そべる。着替えは藤堂宅の浴衣を借りている。丈が足りるのでありがたい。卜部の身長は標準とは言い難い高さなので衣服のサイズが既製品では合わない。その点ではこの和服はなかなか高評価だ。多少の丈は誤魔化せる。
 空が夜色だ。食事も風呂もすっかりすんだ頃合いでは空は疾うに群青へと移行している。むくりと起き上がると雨戸も閉てていない縁側にいざり寄る。藤堂の家は平屋のくせに空が見える贅沢な造りだ。屋根にも上れそうだが一度上ってひどく叱られたような記憶がある。上る道はないから自分で雨樋などをよじ登ったのだ。上がった状態で叱られたのでそれではと飛び降りたら余計に叱られた。
 仰臥していたらどさどさと何か落とす音がして卜部が起き上がる。藤堂だ。慌てて拾うその目線が卜部に釘付けだ。気がつくとかなり裾が乱れていたので行儀が悪いと叱られるかと身構えた。濡れタオルを持った藤堂が慌てふためいたまま庭へ出て干している。なんだこれ。故意に素通りされた居心地の悪さに卜部が眉を寄せる。藤堂が脚も重く戻ってくる。卜部とは違う飛白だ。卜部が濃紺のそれを纏うが藤堂は暗緑色だ。
「中佐?」
思わず階級で呼ぶがこちらの方が呼び慣れているからしばらく違和感はなかった。藤堂の目が恨めしげだがどこか楽しげでもある。藤堂の目は灰蒼だ。日本人には珍しい色だと思う。見据えているうちにそれが近づいてくる。
「なん」
口がふさがった。卜部の茶水晶が集束する。見開かれるそれを藤堂の灰蒼は伏せられもせずに正面から見据えてくる。起き上がっていた体がそのまま押されて仰臥する。同時に何度もついばむような息継ぎと舌の侵入を赦した。すぐに息が上がる。藤堂の息さえ熱い。そのまま抱きしめられてひどく驚いた。たいていの相手はキスの手間さえ省いて体へつながる。体だけのつながりに余分な手順は要らない。卜部もそれは納得している。
「ちょッ、な…なに、する」
藤堂の熱い息が卜部の耳朶をくすぐる。体の緊張と同時に体が竦む。
「したい」
ぞくぞくと走りぬける何かがある。藤堂は駄目ならしない、お前次第だがどうする、と問うている。卑怯だと思う。引き結んだ卜部の口元が全ての答えだ。
「…――ッ」
馬鹿みたいに顔が火照る。卜部の体は脚の間の位置を取られた時点ですでに準備を整えつつある。
 気付くと藤堂がまっすぐ卜部を見ている。
「なンすか」
「顔が紅い」
瞬間、燃えるように卜部が顔を紅潮させた。夜闇に手元さえ見えない。明かりをつける前に藤堂はきっぱりと言い放つ。見えていないと思うのに卜部のそれは肯定するように血が上る。
「見えンのかよ」
「見える」
苦し紛れの悪態の返事がふるっていた。思わず呆気に取られる卜部に藤堂は頬に口付けた。
「ほら、熱い」
「…それ、見えてねぇってことだろ!」
「見える。お前だから」
「お、ま………!」
打ちあげられた魚のごとく口を開け閉めするだけで息はちっとも吸えない。顔が火照る。見なくても紅いことが判る。藤堂の指先がぐりぐりと卜部の顔を撫でまわす。そのたびに藤堂がふふっと含むような笑いをもらす。
 「素直だ。もう少しすれていると思っていた」
「ばッ」
あんただからだ、と言おうとしてそれがひどく気恥かしい。まるで卜部が藤堂を好きみたいだ。嫌いではないが。
「…――ッうぅ…」
言葉がない。藤堂はそれを承知の上のように殊更聞きたがる。灰蒼の目が理知的な潤みを湛えて卜部を見据えてくる。鼻先が触れ合うほどに位置にいながら唇は離れたままだ。それがひどく居心地悪いような気恥かしいような気を起こさせる。
「……ま、待て」
「ん?」
じりじり下がる卜部を藤堂のてががっしり掴んで放さない。藤堂の手が大きい。どうでもいいことに想いを馳せた。藤堂の指先はさらさらと卜部の縹藍の髪をもてあそぶ。濡れていたはずのそれはすでに乾いている。
「どうした、巧雪」
「あんたァ判ってンな?! 判ってンだろッ」
「言われなければ判らない」
「いわッ」
言いそうになった。唾液に噎せるのを藤堂が残念そうだ。けほ、と喉を鳴らして卜部が藤堂を見る。楽しそうだ。精悍な筈の藤堂の顔が嬉々として輝いている。
「…言わねェ」
藤堂がびくっと跳ねあがる。おたおたしているのが目に見える。憂さ晴らしとしてしばらく放置する。そのうち藤堂も落ち着いてじろりと卜部を睨んでくる。卜部は知らぬふうに目を伏せたり明後日の方を向く。
 「ならばそれでもいい」
「はッ?!」
言葉につられて顔を向けた刹那だった。食われた。

「すきだよ」
声が体の奥から聞こえる気がする。
「こうせつ?」

「畜生。俺だってあんたァ好きだよ」
藤堂がふわりと笑う。その顔が好きだと思った。


《了》

なんかこういうのもいいなって思った          2012年8月12日UP

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