ずぶずぶと沈んでいく
悪人と悪党
鬱陶しい。何もかもが。その一言に尽きた。夜鳴きする木々も夜闇に白く翻る花も靴の下で噛む砂利でさえも。四肢が重い。無理やり拓かれた体が野放図に弛緩したままで気を抜くとその場へくずおれそうだった。すでに体は意味のなかった防御姿勢のように猫背で気を抜くと地面が鼻先をかすめる。支えになるものは何でも掴む。それは荒いブロック塀であったり蛇結茨の生け垣であったりする。手の皮膚が感じる痛みは疾うにない。体が弛緩する原因は明確な痛撃を帯びて体を拓いた。痛みという防御基準はあっという間に吹き飛ばされた。それがあの男のやり方なのだ。必要があれば殴るし蹴る。打たれた傷が裂傷になるのも珍しくなかった。
何が愉しいんだくそったれ。悪しざまに罵りたいのを必死にこらえて卜部は痛みさえも飲みこむ。慢性的に体がまんべんなく痛い。関節を逆に捻られたり切り裂かれたり殴打されたりたいていの痛みは経験できた。それでも卜部は涙さえ見せずにただいてェなァと思いながら身を任せた。その結果がこれであるしこれ以外に方法はないと知っている。相手の男は敵に回せば必ずひどい目を見るだろう。今だって味方などではないのだが。相手の男が卜部を葬ってしまわないのはそのあたりに要因がありそうだ。敵ではない。その一言に尽きる。
「くたばれ糞爺」
ざん、と殴りつけた生け垣はひどく棘があってそれがぶつぶつ体内に埋まっていく。疼痛がした。口元を引き結んだまま卜部がむやみに熱心に棘を抜いた。憤りのぶつけ先がなく吐き出したそれが戻ってくる。体の痛みと億劫さが輪をかける。怒りは熱量を消費する。
のろのろ帰った自宅の前に伸びた立ち姿の人影がある。最悪だ。雅な中に芯があるような凛として目を惹くが気安く触らせる性質ではない。騒ぎもせず時計を見さえもしないそれはただ黙って卜部の家の扉を眺めていた。
「なんであんたァいるんだ」
ゆっくり振り返る。鳶色の髪。灼けた肌。灰蒼の潤んだような双眸。凛とした男眉。うなじが見える。立ち居振る舞いがいちいち洗練されている。だが当人にその意識はほぼない。殊更に見せつけるような当てつけもない。あくまでの下地の一部分になっている。
「……中佐ァ」
「…寝たのかと思っていたが」
それはそれで迷惑だと思う。就寝したと思う時間に訪うこと自体が非常識だ。
「じゃあくんな」
思ったことが口に出る。それでも藤堂は気を悪くするでもなく微笑んだ。
「少し前に出入りがあったぞ。お前の知人かと思って声をかけることはしなったが。……あれは、閣下のところで少し見たことがある顔だ」
聞き流しながら取っ手を握る。施錠した筈の扉が開いている。
まさか、と思って慌ただしく駆け込んだ家の中が悲惨だ。明らかに悪意があるとしか思えないような荒らしようだ。ひとつとして元の場所におさまっているものなどないように見える。後ろから上がり込んだ藤堂がひどいな、と人ごとのように呟いた。犯人は土足で上がり込んだのか土まみれの靴跡がそこかしこにある。煎餅布団の上にまである。卜部の気力が一気に萎えた。ちゃっかり靴を脱いだ藤堂は見事に卜部の貴重品の場所を探り当てて確かめなさいと目の前に突きだす。通帳や印鑑は見たところ無事だ。それが余計に気をくじく。物取りに狙われた不運ではなく明確な悪意の元の荒らしである。藤堂が敏いのではなく卜部の置き方がありふれているとすればなおだ。すぐ見当のつくところにある貴重品や現金は無事で、侵入者の目的は卜部の居住を荒らすことだけだ。
卜部がその場に座り込む。すでに膝は限界だ。息が荒い。くそ、と舌打ちする。無理やり体を拓かれる際に手間がかかって面倒だと何らかの薬物を使われた。それがなんであるかは知らないが一気に萎えた気力を食って体を支配しつつある。頭を抱える。ありとあらゆる敵意の標的にされている気がする。無遠慮に呼びつけられて無理やり体を拓かれた上で調子に乗るなどどやされる。卜部が自ら望んだかどうかは関係ないのだ。それだけにダメージがひどい。不可抗力を認識不足だと責められる。
「卜部?」
藤堂の声が遠い。このまま卜部を放って帰ってくれないかと思う。藤堂の相手をする余裕がない。もう何もかも放り出して衝動に身を任せたいくらいだ。叫ぶなり泣くなりするだろう。醜態だ。だがもうそれさえもどうでもいいような気がしてくる。頭がくらくらとする。体が熱い。何処に熱が溜まっているかを知って愕然とした。嘘だろ。
「卜部」
藤堂の手が触れる。ピリッと冷たい。ぴくんと身震いするのを隠しきれない。ンッ、と漏れた声に藤堂の指先が移ろった。ひたり、と手が触れてくる。今度は明確な目的を持っている。指先や手のひらが卜部の体を念入りに確かめるように撫でまわす。触るなとはねつけたいが卜部は息が上がって動けなかった。元々季節の変わり目には弱い性質であり薬物まで投与されてはなす術がない。しかも卜部の体が意識を無視して藤堂の与える刺激に傾倒しつつある。滅茶苦茶な部屋には似合いのざまだ。くそったれ、と罵りながら卜部は力を抜いた。途端に卜部の情報が藤堂に向けて押し寄せる。同時に卜部の体は藤堂のあらゆるものを得ようと貪り始める。
「巧雪」
呼び方が変わる。それはつまり了承したと言う証。藤堂は敏い性質であるから卜部の側の変化も感じているのだろう。その上でのこの態度だ。侵入を故意に見逃したのではないかという懸念は押し寄せる熱に消えた。藤堂の体が爆発的に火照る。体を拓かれる。目の裏が真っ赤に染まった。
はふ、と熱い息を吐いて目覚めた。畳の上に寝かされている。ザリ、という感触と植物の匂い。目を開けると藤堂がかいがいしく部屋を掃除しているのが見えた。本を棚へ戻し卓子を拭き踏みにじられた砂を掃きだす。甲斐甲斐しいそれは藤堂が家政婦としてもやっていけそうだという感想以外に抱いたものはなかった。遠くで洗濯機のまわる音がする。藤堂は卜部の目が覚めているのを確認すると勝手に部屋を片付けたことを詫びた。
「敷布やシャツは今洗濯している。ただ踏みつけられただけであれば洗えば落ちる。布団は何かぶちまけられてもいなかったからしまってあるが、日が昇ったら干しなさい」
卜部の体は上手い具合に熱が発散されて鬱屈した何かが消えている。はふ、と再度息をつく。くたりとしたそこには冷たい濡れたものがあてがわれている。手に取る。ハンカチだ。
「魘されていた」
その気遣いだけで藤堂が気づいていると卜部も悟れぬ阿保ではない。一気に力が抜ける。
「…――馬鹿じゃねェの」
藤堂は何も言わない。静まったと思ったわだかまりが爆発した。藤堂の堪えはただ一方的な男の情動にも似て。ひどく気に障った。自分だけだ。自分だけみてェな顔、しやがって。
「馬鹿じゃねェの。俺なんか放ってとっとと帰んな。善意のふりした欲望が丸見えなんだよ厚かましい」
悪しざまに卜部が罵る。言いがかりであることは卜部とて百も承知だ。怒りを買おうとして言い募る。自壊衝動がひどく卜部の体を灼いた。
「本当に善意だってんなら片づけだけしてとっとと帰んな。なんであんたァ俺を抱いた。結局テメェの手当てが欲しいだけの野郎なんだよあんたァ。それが善意だなっておかしくってしょうがねェよこの糞野郎」
見開かれた灰蒼の双眸が収縮する。素早く伸びた手が卜部の縹藍の髪を掴んだ。伏せった状態から引っ張り起こされた痛みに怯んだが卜部がふんと鼻で笑う。
「怒るってこたァ図星か? はン、あんたも底が浅ェな。性質なんてもんはな、悟らせないで墓場まで持ってく心算でいろよ。目に見える性質や気遣いなンか鬱陶しくてしょうがねェんだよ、有難迷惑だ」
藤堂の怒りはもっともだ。卜部はただ難癖をつけているだけなのだ。理不尽だ。卜部は速く藤堂を帰してしまいたかった。一人になりたかった。必要なのは部屋の掃除ではなくて傷を舐める時間だった。卜部の口が止まらない。鬱屈したすべてを吐き出すように卜部は藤堂を悪しざまに罵る。恩知らずだと見限られても良かった。
藤堂が卜部を見捨てたら
あの男も卜部を見捨てるんじゃないだろうか
侵入者が自主的に卜部の部屋を荒らしたかどうかは判らない。命令であったかもしれないし閨の相手をする卜部を疎んじてのことかもしれない。どちらでも関係ない。ようは卜部があの男と切れられればいいのだ。しかも卜部の側から切れたいと言うことさえできはしない。
捨てろ
あんたもあいつも
俺なんか
すてろ!
藤堂の手が弛む。どさ、と卜部が力が抜けたまま伏せった。引っ張られた部分が脈打つように痛む。藤堂が詫びるようにそっと濡れたハンカチをそこへ移動させた。その顔に卜部が息を呑む。泣きそうで。辛そうで。藤堂は卜部に明確に詫びていた。伏せられた睫毛が震える。案外長いそれに卜部は今頃気づいた。女のように密に多く飾り立てない分一筋が切れあがったように長い。眦とあっている。藤堂をひたすら痛めつけて嫌われてもいいと思ったときに気付くなんてと唾を吐きかけたくなる。手に入らないと思ったものはひどく美しい。
藤堂の目がひどく揺らぐ。それが潤んでいるからだと気づいた時にはもう遅い。
「すまない」
藤堂が懸命に落涙を堪えている。唇が戦慄く。卜部は敢えて止めなかった。理由が見つからない。卜部が藤堂に拘泥して良い理由が判らない。藤堂はもっとずっと上に行ける人間で、卜部なんかが引っかかってはいけないのだ。藤堂の手が触れる。冷たい。卜部は動けなかった。痛みと同時に疲れが眠気を呼んだ。限界を超えた体はあっさりと世間体や見栄を振り切る。とろとろと微睡む目蓋に藤堂の冷たい指先が触れた。
「すまない」
藤堂の声が玲瓏と震える。出来の良い鈴のように卜部の体の中で響く。卜部の口が戦慄く。藤堂はすでに背を向けている。
だめだ
駄目だ駄目だ駄目だ駄目だ
このまま行かせろ
卜部が必死の思いで胸の叫びを殺して引き裂く。藤堂のためだと言いながらそれが己のためであるのを知っている。汚ねェなァ俺の方。判ってる。それでいいんだ。
「失せろ」
藤堂は一言二言部屋を辞することと詫びを残して立ち去った。最後に一言、止めなくて悪かった、といった。些細なことだと知っている。だから卜部は返事をしなかった。藤堂は諦めたように微笑んでから扉を開けて出て行った。卜部の拳が卓子を殴る。そのまま払い退けてけたたましく破壊音がする。
「――――――ッ!!」
言葉になる叫びはなかった。慟哭だと思った。
部屋は綺麗に、掃除されていた。
《了》