ひとでなし


   人で在ること、ヒトで居ること

 ざわざわと小波のような波頭を聞いたように思ってライは目を向けた。そこには海はおろか海水さえない。路地裏に身を隠す寝床は腐敗した運河を中心に広がりを見せている。時折思わぬ闖入者があって頂点にたち統べるゼロがもう少し鍵の管理をしっかりやれと叱りつけたばかりだ。ライは自身の与えられている端末へ着信した文言を思い出していた。いつも通りただの定型文を送りつけるだけのそれは何故だかひどくライを拘束する。差出人がたどれないようになっているそれをライはすぐさま記憶すると端末から消去の手続きを取った。時間が特に指定されていないのはこちらである程度周りをやり過ごせという無言の言いつけだ。同じ時間に呼び出されて中座するのを繰り返せば関連性に気付く輩がいるかもしれないからだ。
 ここまで慎重になれれば大したものだと思う。差出人は探さずとも判る。ゼロであるルルーシュだ。二人が肉体関係を持つにあたってゼロから提示された譲歩が正体の暴露だった。もっとも仮面をつけたまま交渉に及ぶ気が先方にはなかった。だからこそと言えばそうなのだがそう言う冷徹になりきれないあたりはひどく愛いと思う。だからこそライもある程度ルルーシュにはさらしている。記憶が断片的であることやどうも不穏な経験がありそうなことなど。ギアスという特殊能力については触れなかった。そのあたりに転がっているようなものではないし下手に話して混乱を呼んでもなという気遣いのようなただの逃避だ。呼び出しの発信手続きを踏む。ゼロであるルルーシュは通りすがりが迷いこまないようにある程度奥まった位置へ自室を取っている。迷いこんだら抜け出しにくく、そのうえで通りすがりのもっとも少なそうな位置だ。逃走の利便を測るより侵入を失くす予防に重きを置いた位置だ。
 返事がない。首を傾げているとぬっと伸びた白い手が素早くパスを打ちこんだ。そのまま突き飛ばされるように開いたドアの中へ押し込まれる。振り向く前にうなじがちりっと灼けた。殺気だ。今すぐにでもこの薄い背を破って心臓を掴み取ろうとするような無骨で荒々しい気配。そうと思う前に体が反応した。背中に銃口が当たる前に翻るように振り向きざまに伸ばされていた白い手を払う。その流れのままで肘を関節にそって折る。こきん、と関節が軋む音を立てるほど早いそれに相手が息を呑む。そのまま少し高い位置へ向かって腕をしならせると軽快な音を立てて手応えがあった。襲撃者の頬を打ったらしい。回転の勢いを殺さず腹部を殴る。骨の守りがないぐにゃりとした内臓の感触は何度味わってもいいものではない。そこでふわふわ舞っていたライの髪が落ち付いたように下りる。初めてライは襲撃者を見た。それは最終確認のためだったがそれが功を奏した。
「…――ル、ル」
「ばか、はいれよ」
怯んで動けないライを引きずるように自室へ連れ込み、扉を施錠してからルルーシュはその場に膝をついて激しく咳き込んだ。
「…気持ち悪い」
「そりゃあそうだよ。鳩尾を狙って殴ってる」
ライは屑籠を取りに行くとルルーシュに押しつけ、ハンカチを洗面で濡らした。仮面を取る危険性が高い水回りをルルーシュは特設している。水道だけではなくシャワーまで完備だ。この部屋から出ずに暮らすことはおそらく可能だろう。
 ルルーシュの細身を殴打したのかと思うとやり切れなさが募る。ライはこのルルーシュがけして嫌いではない。ライも細身だと言われるがそれよりさらに絞った細い体だ。余分なものはないし運動するに至っても支障があるのではないかというその細さは痩身というより貧弱の色合いが強い。同じく目方のない卜部という大人を知っているがそちらの方がまだ力強さが見えるくらいだ。
「殺気なんかさせるから。結構本気で殴ってるよ。気分が悪いなら吐いた方が好い」
腹部というのは案外見過ごされがちである。それでいて骨の守りもないから損害がひどい。ライの知っている体術はスポーツというより戦闘的な意味合いが強いから人体の弱点ばかりつく。相手側にある程度の備えがある前提であるから破壊力も抜群だ。学園で二三言葉を交わしたスザクは昔体術をかじったことがあるけど君のはすごく訓練されているねと妙に感心していた。
 白い頬が赤黒く腫れていく。そう言えば顔面も殴っている。顔面は無防備な割に血管は通っているし神経もあるので相手を怯ませる一撃を放つには狙う価値のある場所だ。濡らしたハンカチをひたりと腫れていく頬に張り付けるようにして添える。
「ごめん」
「謝ると言うことは正気に返ったようだな」
ルルーシュの紫苑の双眸が意味ありげにライを見上げる。きょろりとしたその動きはどこか猫の様である。ルルーシュは浅い息を繰り返していたがふゥッと力を抜いてその場に座り込んだ。
「寝台まで連れてけ」
嘆息してからライはルルーシュの腋下へ腕を通すと、息遣いでリズムを取って立ち上がる。掛け声の役割を果たすそれはどこから覚えたのかライは、知っていた。ライはそのまま寝台までルルーシュを運ぶ。寝台の上にルルーシュを横たえると改めて屑籠を傍へ置いた。
 「まったく。腹が痛いと言うか気持ちが悪い。胃袋が痙攣しているようだ」
話すのもつらそうなのにルルーシュはべらべらと好く喋った。普通腹を殴打されたら一瞬息が詰まって話せなくなる。胃袋の痙攣と口を開ける行為が嘔吐を連想させるし、胃も不穏な痙攣を起こしているはずだ。言葉少なになってもいい筈なのにルルーシュはどこまでも饒舌だ。
「気分が悪いのに饒舌だね。少し静かにしていた方が好い。今、水を」
断ちあがろうとしたライの服の裾が引かれた。ルルーシュだ。俯せたまま細い肩が上下に揺れて喘いでいる。
「わか…ッ、おねが、いっしょに、いて」
「判った。無理、しないで」
守りと寄る辺を失くしたルルーシュはこんなにも。ライは薄く笑ったままルルーシュの薄い背を撫でた。背骨の位置が指でたどれそうだ。コツコツしたそれを叩くようになぞりながらさする。びりり、と視界の端が灼けた。こんなふうに誰かが泣いているのを慰めたことがある。

ダイジョウブダカラ
モウナカナイデ
ボクガナントカシテアゲル――

ばちんと電源が落ちるように視界が反転してライがはっと気付いた。目の前では相変わらずルルーシュが苦しげに喘いでいる。一瞬だけ意識が飛んでいた。
「意識が、とんでた」
ルルーシュが口元を裂くようにしてニィいと笑う。ライは表情を変えずに言葉を綴った。
「よく判るね」
「…オレも少し…気配を操れるくらいの修羅場はくぐっている…お前の原因は判らないが、お前がどうであったかくらいは、判る、つもりだ」
ライが息を呑む。まずい。まずいまずいまずい。コノオトコハ、キケンダ。

コロセ

コロセ

コロセ?

「ライ」
ルルーシュの美しい顔が目の前にあった。そのまま唇を奪われる。少し胃液を孕んだ朱唇が甘酸っぱく沁みとおる。
「可愛いな、お前は。だからお前が泣きそうになっているのはオレも心が痛い。泣くなよ。オレまで哀しい」
ライの指先が己の頬を触る。涙の一筋さえも流れていないのに泣きそうだったと言うのか。泣きそうであったとか泣くのを堪えていた自覚はない。筋肉の奇妙なひきつりや呼吸の乱れもなかった。それなのにルルーシュはライが泣きそうだったと言う。
 「僕が、泣く?」
「なんだよ、自覚がないのか…十分、涙目だったぞ。もう次に瞬きしたら涙が溢れそうな感じだ。……話すのが辛いんだから説明で手間を取らせるなよ」
「ごめん。でも、僕の方には涙なんか――」
涙を探そうとした指先が眼球にまで触れた。目がびりびりする。刺激で潤んだ双眸がしきりに瞬いた。戸惑うようなライをルルーシュはどこか優しいような憐れむようなそれでいて何か別のものを見ているかのような色をまとった。
「……お前のように、泣くのを認めたがらない奴を一人、知ってる。泣きそうな顔してる癖に泣きやしない。辛いことを全部、背負う。オレの状況ではそいつにまで手を伸ばしてやれなかった。そのことを今も、悔いているのかもしれない――…お前は、そいつに似ているよ」
ライは茫然とルルーシュを見た。寝台の上でひっくり返っているルルーシュの長い前髪が退けられて白く陶器のような額があらわになっている。短く整えられているもののうなじを隠す程度の長さを品よく保っているのがルルーシュの階級のようだ。長く密な睫毛。濡れた紫苑の双眸。かたちの好い柳眉と通った鼻梁。紅い唇が少し薄い。それでも十分なほどの艶めいた紅さを保つそれは艶めいた。ゼロの仰々しい衣裳ではなく替えの利く安い私服だ。ゼロの服を着ていた場合に万一素顔がさらされた時の保険だろう。ゼロの服を着ていては通るまい言い訳も、私服の場合はまかり通る。
 そのルルーシュの目がきょろりと、ライを凝視する。それが痛いようで。辛いようで。憐れまれているようで。ライはひどく居心地悪く衿や袖を直した。寝台の上で気づけばルルーシュが呻いている。腹を殴ったのがまだ尾を引いているようだ。
「…そんなに強く殴ったかい」
「お前はもう少し手加減を知れ。はっきり言って尾を引いているどころの話じゃないぞ。まだ胸がもやもやする」
水をよこせ水。ルルーシュに乱暴に言われてライは備えつけの水差しからグラスへ水を注いだ。氷が入っていたらしくカランカランと硝子と触れる音がする。グラスに満ちている透明なとろりとした液体を眺めるうちにライの感覚が麻痺していく。流動体でありながらどこか針で刺すように固い氷水は明らかに固体だ。その差異と誤差がライの感覚を惑わせていく。グラスを受けったルルーシュが体を起こすと音を立てて嚥下していく。寝台に居ながらのその動作はどこか慣れていて、彼が日常的に給仕させる身分であったと暗示する。ルルーシュという名前を貴族界で探す気がライにはない。市井に紛れているということは探し出されては具合が不味かろうと思うからだ。妹であると言うナナリーも同様だ。彼らの行方を貴族界に求めるあてもつてもない。探すだけ無駄だと判じている。それに。

探し出したところでそれが喜ばしいものであるかどうかは別物だ。

彼等はわざと市井に紛れているかもしれず、その場合にライの詮索は彼等にとって不利益でしかない。ライ自身、探りだされても困る身の上かもしれないしそうではないかもしれない。要するに判らない。その時点で彼等の不利益になることは避けるべきだった。生徒会として己を受け入れてくれた彼等に後ろ足で砂をかけるような真似はしたくなかった。
 「ルルー、シュ。僕は君に」
「ルルだ!」
叫んだ後にげほごほと咳き込んでいる。そんな無理を押しての重要事項なのかと思ったがただルルーシュを愛称で呼ぶかどうかということである。
「ルルーシュ?」
「だから、ルルだと、言ってる!」
ひゅうひゅうと喉を鳴らしながらルルーシュがじろりとにらみあげてくる。少なくとも愛称で呼ばれたがっているとは思えない態度ではある。ライは敢えてこれを呑むことに極めた。そもそもライはルルーシュに対して悪印象は持っていないから抵抗はない。
 「ルル、僕は君にとって害を与えるものでしかないのかもしれない」
ぱん、と頬を張られた。ルルーシュが泣きだしそうな顔でライを見ている。茫然とするライの指先が殴られた頬を撫でた。ほんのり色づく程度の軽い殴打だが精神的な痛手は物理的なそれを上回る。
「いいか、オレはオレの傍にいる奴は自分で選ぶ。不利益だとかそんな損得で片付くと思うなよ。なめるな!」
げっほげほげほ! とルルーシュが激しく咳き込んだ。腹部への打撃がまだ止まないようだ。殺すつもりでいたから手加減が一切ない。それをなんの戦闘訓練も受けていない細身の体が受け止めたのだ。その場で嘔吐しなかっただけでも褒めてやるべきだ。
「――いいか、オレはな! オレの傍にいる奴をお前だと損だとか、誰といると得だとかそんなことで選んだりはしない。オレはオレの認めた奴だけを置く心算がだそれは損得によらない。そんな簡単に片付くと思うな! お前なら…――お前は、オレを後悔させたり、しない。そう思って、いいな?」
ちゅ、と唇が重なった。甘酸っぱい胃酸に犯されながらライは、これでいいとどこかで思っていた。ルルーシュは気高くあらねばならない。つまり気を抜いたような手抜きは許されない。だからこれでいいのだと。付け入るすきなど与えるな――

ダッテボクハヒトデナシナンダカラ

僕なんかのために君が傷つくなんて赦せやしないんだ。僕なんか。ぼくなんか。ボクナンカ――
「…おい、馬鹿!」
「はい?!」
なんだか罵られたようである。それでいてルルーシュが照れ隠しのように頬を染めてそっぽを向いている。かみ合わない。あれ、と思う。僕は今、何を考えていたんだっけ?
「なんだか考えこんでいるようだが…お前がオレの判断を気に病むな。オレはオレの尻くらい自分で拭けるし、オレの決断の責任をお前に背負わせるつもりはない!」
至極真面目な顔をしている。な、なんだ! と過敏に反応するのは彼の本気の度合いゆえか。ライはふわりと、笑った。あァ、だから僕は君が。君が好きです。真っ赤な顔のままルルーシュは大きな紫雷の双眸を瞬かせた。
「わ…ッかれば、良いんだ、判れば! お前はどうしてか周りの出来事は全部の自分の所為だと。良いかそれは謙遜なんかじゃなくて図々しいっていうんだぞ!」
 不器用で。真面目で。何処までもまっすぐなヒト。誰よりも何よりも忠実であろうとしてどこかで。だから僕は君が。そうでなきゃ、こんな『ゼロ』は生まれなかった。
「…僕は馬鹿だね」
「そうだぞ。お前は馬鹿だ。だから自分は要らないとか生まれてこなきゃよかったとか言うんだ。お前が生まれてこない? それこそ馬鹿を言ってもらっては困る! オレが! オレがお前を必要としているんだ。『ゼロ』にも『オレ』にもお前は必要だ!」

ありがとう

ライは腹部の痛みに怯むルルーシュの背を撫でながら笑んだ。

嬉しかった。


《了》

誤字脱字がなければ!(ずどーん)
ライとルルはカワイイす!            2012年7月22日UP

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