せめて君に愉しみがあらんことを
荒い世界で君だけはせめて
空調まで整備されていそうな租界はどこか箱庭じみているとライは思う。何も持たなかったライを受け入れてくれたのは少々風変わりな人たちだ。軍属でありながら団体の中でも扱いづらいと避けられがちな部署でもある。そこの主たるロイドは伯爵位を持ちながら無邪気に兵器開発に興じ、周りの評判などどこ吹く風だ。常識や建前と言った制御を放棄した彼の成績は驚くほど派手である。弊害としては周りがそれに追いつけていないと言う点か。学校でも同じ学級に属するスザクが唯一の操縦者であると言う戦闘機は並の人間に扱える代物ではないらしい。ロイドもスザクも天然で、常識という日常生活に必要なタガが外された彼等の発展は目覚ましい。
スザクもライも私服で二人で連れ立って租界を散歩する。ショッピングモールや公園など設備に不具合は生じていない。
「でもよかったよ、君に身分証が出来て。何かあったら引き離す口実にされてしまうかもしれないって、実はびくびくしてたから」
目元をすっぽりと覆うようなサングラスをひょいと額にあげてスザクがおどけたように肩をすくめた。
「その分これからこき使う気なんだろう。どっこいどっこいだな」
二人でくすくす笑いながら渡されたメモをみる。一貫性がないのは買い物としてはおかしくないが、それを使って作る料理がなんであるか想像のつく二人には不可解な羅列でしかない。
「林檎ジャムと粒餡。アボカドと柚子…胡椒」
スザクが読み上げる。その横でライは明後日の方向を見ていた。
「まぁマシかな。餡はパンにも使われていることを考えれば…林檎ジャムもまだ。ブルーベリーには飽きたみたいだね」
「それが全部”おにぎり”に入るんだろう? 僕の知識不足かもしれないが、おにぎりって言うのはそんなに中身が無国籍な料理なのか」
スザクがふっと眼を伏せた。目元が若干蒼白い。
「いや、そんなことはない…んだけど…普通は、梅とか鮭とか塩気のあるものを入れるんだよ。セシルさんがどこでこんなアイディア出すのかは僕にも判らない…あの人はおにぎりをちょっと…アレンジしすぎる面があるから…」
白米の味と林檎ジャムとを同時に想像したライが頤に手を当ててうぅんと唸る。
「食べたことがないから判らないな、ちょっと興味ある」
途端にスザクが大慌てでぶんぶんと首を振る。ライだけが意味が判らない。スザクの方が二人の上司に対しても先達であるから意見は聞くべきかと、ライは続きを促すように黙った。
「きょ、興味本位でセシルさんのおにぎりはリスクが高すぎるから心して食べたほうが好いと思うよ…」
ぷっとライが吹き出す。そのまま、あはははははと呵々大笑した。スザクの真に迫った顔が本気で心配そうだ。
「本当だってば! ツナマヨを真似してみたのってあの人鮪の漬けにマヨネーズかけたんだって」
「それは案外いけるんじゃないか」
「…僕は遠慮するよ…」
ライはふうわりと笑った。スザクはメモを睨んだまま、次の差し入れの日付を計算しているらしい。差しいれと腹具合との調整は大変そうだ。
「そのうち林檎とマーマーレードをブレンドしたの、とか言ってきたりして。足してマヨネーズとか」
「…………ライ、僕は一度君の手料理を食べておくべきかもしれないな」
「言ってくれればいつでも作るよ」
にっこりと悪意なく笑うとスザクが何とも言えない顔をする。それがひどく楽しくてライはクックッと肩を震わせて笑った。しまいにはあははは、と声を上げて笑いだす。人の多い雑踏では多少の大声など騒がしさに消えうせる。
「スザクだけだな」
スザクは頓狂に短い声を上げてからライを見据えた。驚きに目を丸くしているものの、真意を見極める意欲はらんらんと煌めいている。
「スザクだけだって言うんだ。僕の過去を気にしないのは。皆が僕に記憶は戻ったかいって訊く。煩わしくはないし、気遣いからだって判っているんだけど、過去のない人間ってのはそんなに珍しいのかなって思ってしまう。ロイドさんやセシルさんが僕のIDをつくってくれたのも今この瞬間から過去が生まれるって…ははは、何言ってるんだろうな。なんだか見世物じゃないけど、希少種のように扱われるのが億劫で倦んでしまう時があるんだ。でもスザクは言わない。スザクが僕の過去を気にしない鈍感野郎じゃないのは判ってる。それでも自制して訊かずにいてくれることが嬉しいんだ。学園でも、軍属でも」
ライの脚が止まる。ちょうど大手量販店の目の前だ。
「ほら、行こうか。セシルさんのおにぎり楽しみだね」
ふっ切ったように笑って指出すライは悪戯っぽく笑って舗へ入ろうとする。スザクに背を向けないとなぜだか泣いてしまいそうだった。
スザクに向かって口にした言葉はそのままライの心情で、己が向かい合いたくないことだった。スザクは人の良さがにじみ出ていて、信頼してしまう。この人なら大丈夫かもしれないと思ってしまう。僕は警戒してもし足りない立ち位置にいると言うのにだ。スザクは後ろから黙ってついてくる。気詰まりな話題を持ち出したことを後悔したが後の祭りだ。ライはキャリーにかごを乗せると何も言わないスザクを従えて店内を巡回した。まだこの租界に慣れていない。店のどこに何があるかを把握しきってはいないのだ。戦闘に必要な港湾部や役所といった大まかな地図は頭に入っているものの、こうした生活雑貨の店など細かくなるとまるで判らない。
「食べたいものがあったら買ってきていいわよって、予算はセシルさんが多めに渡してくれたけど、どうする、スザク」
「…あぁ、うん、そうだな…」
スザクの気持ちが泳いでいる。スザクは物怖じしない性質なのにどこか二の足を踏んでいる。その原因はおそらくライの打ち明け話で、だからこそライも深追いはしないし出来ない。
「佃煮ってなんだい、おにぎりに入れたら美味しいかな」
「セシルさんもそうだけど料理はおにぎりだけじゃないんだから…佃煮は物によっては美味しいよ。椀に盛られた食卓に並ぶ品だから」
しばらく二人の大雑把なやり取りに終始する。あれはなに、おにぎりに合うかい。ちょっとむりがあるよ。いやあ美味しいかも。僕は食べようとは思わないけどね。じゃあれはなに?
ライの疑問にスザクは真摯に答える。二人の少年の買い物は奇異に映るのか時折ちらちらと視線が向けられる。その視線の主が同年代の女生徒であることには双方共に気付いていなかった。
「そう言えばセシルさん、胡椒と山葵の組み合わせはどうかしらって言ってたな。和風でいいと思わない? って」
「それ、断ってくれた?」
あれもこれもかごいっぱいにキャリーを軋ませレジに並びながらの話にスザクはうぅっと唸って訊いた。
「食べたことがないから判りませんって言ったよ」
「それは作れって言ってるようなもんだな…」
ようやくレジの順番が回ってくる。機械的な動作で商品をスキャンし、値段がどんどん跳ねあがっていく。レジ係は買い物の内容とそれを購入する少年二人のちぐはぐさには干渉しない。機械的に一定の音程でいくらいくらになります、袋はご入用ですか? と訊ねる。マニュアルそのままだがスザクは袋の所望と支払いを済ませる。かごいっぱいの買い物をどうしたらいいか判らないライにスザクがキャリーを押して梱包台へ導く。
透明なビニール袋のロールが一定間隔で並ぶその机の上にスザクはドンとかごを置く。それからもらった袋を開けてライに詰め方を指示する。重いものや飲料は底の部分、卵などの壊れ物は上に積む、など。パンが潰れるのが気になるなら後から詰めればいいと指導する。ライはふんふんと相槌を打って迷いながら袋詰めしていく。買い物は紙袋二つにちょうど収まり、互いに一つずつ持った。
「僕も気になるよ」
唐突な言葉だったがその意味を取り違えるほどライも鈍くはない。
「でも僕の気になるはほかのみんなの気になるとは違うんだ。僕は多分、完璧に整った出来上がった君が欲しいんだと思う。我儘で利己的だって解ってる。それでも僕が必死になって君に訊かないのは、訊いてしまったら僕自身の歯止めが利かなくなる…君の傷を抉るようにして根掘り葉掘り聞くかもしれない。たぶん、そうする。だからせめて」
毛先がくるンと巻いた栗色の髪と煌めく碧色の双眸。その目が真剣だ。なんの曇りもなく澄んだそれに、ライは己はふさわしくないような気がした。戦闘の断片ばかり浮かび、なおかつ戦闘機を駈って見せるライはおそらくは戦闘の中に身を置いていただろう。そんな己がこんなふうに買い物したり友人と呼べる関係を築いてしまってよいのだろうか。些細なことでライは動揺する。
自分はこんなに優しい世界に身を置いていて、いいのだろうか?
「ライ、僕に言えることはできることはするべきだってことだけなんだ。君の記憶探しは大変だと思うし僕も協力は惜しまないつもりだ。でも、その記憶がたとえ逃げ出したいような目を背けたいようなものであってもそれは…それは君の一部なんだ。眼を逸らさないでほしいと、僕は、思うんだ」
スザクの目蓋が伏せられる。
「僕にも忘れたい過去はある。あれは間違いだった。僕は過ちを犯した、取り戻せるなら取り戻したいでも出来ない。だったら前に進むしかないんだ」
ちゅ、とライがスザクの額にキスをした。栗色の前髪が揺れてスザクは首まで真っ赤になった。
「え、な、なに?!」
「なんだかすごーく言い助言をもらったからそのお返し。僕のキスじゃ不満かな」
スザクは荷物を抱えたままライの手を取る。そのままぐいぐいと引っ張っていく。ライだけが意味も判らずついていく。人ごみをするするとかき分けて入りこんだのは袋小路だ。ライはその奥へ連れ込まれる。
「ここなら多少大声を出しても騒がれないよ」
二人ともが暗黙の了解のように荷物を置いた。ジャムの瓶など壊れ物もあるので慎重で、そちらに気を取られたライは不覚を取った。そのまま押し倒される。不服を申し立てる前に唇が食まれ舌が絡んでくる。唾液が流しこまれてライはそれを嚥下した。
「ライは優しいんだな。優しいことばっかり言う。僕にとってそれはすごく嬉しいけど…辛くも、あるよ。君の存在自体が」
口付けが続く。唇を食まれているように感じるほど深いそれはぬるりと入り込む舌の感触に薄れていく。スザクはけしてその先へは進まない。唇を食むように何度も何度も歯を立ててくる。甘噛のそれは出血するほどの痛手もなく痺れたようにびりりと刺激が奔るだけだ。ぬるつく舌の方が余程淫靡に絡みつく。
「僕は記憶を探したい君につけ込んでいるのかもしれない。ブリタニア軍に引きいれたのもその戦闘力を無視できないし、黒の騎士団に奪われてでもしたらことだと思ったからだよ。こんな利己的な僕でも赦してくれるかい」
「僕は赦すとは言えない。赦さないと言う権利はない。ただ、所属が決まったことは少し有り難かったよ。僕の足場が固められたような気がして。僕の地盤が出来たような、気がした」
泣きだしそうに顔を歪めたスザクがライを抱きしめた。
僕の世界はまた一つ、増えたのかもしれなかった
《了》