進んだら、きっと
進行停止
その部屋は常に静かだ。時折、部屋の主が起動させた小型機器の微音がする。それは羽虫の羽を合わせる音に似ていた。わずかな振動を連れて響く音。音を聞くだけでその微細な振動が感じ取れる。カタカタとキィボードを打つ音がする。話があると呼ばれて用事は済んだ。それでもライはその部屋に居座った。気まぐれな魔女はライが部屋にいてもいいかと訊ねた時点でごゆっくり、と意味深な言葉を残して部屋を出た。ライは卓上の仮面を取った。つるりとして艶さえ帯びるその仮面は花の蕾にも似て頂点に行く過程において細っていく形状をしている。チューリップに似てるんだ、とライは茫洋と思った。細っていく過程は途中で止まり花弁のように方向は維持したまま鋭角的なラインを保持している。ポーンと投げれば軽く跳ねあがりライの手元へすっぽりと落ちてくる。
「毀すなよ」
「ゼロが君だったなんてな」
呼び出しの用事はそれだった。双方の秘匿情報の開示。ライはギアスが使えること。ゼロはルルーシュであり、ルルーシュもまたギアスが使えること。そしてそれをお膳立てたのがC.C.だ。意図は判らない。だが貴重な情報ではある。ライは何度かポンポンと仮面をもてあそんでいたが飽いたように卓上へ戻した。
「上手いこと作ったもんだ。ほかのみんなには…言ってない、って顔しているな」
「早々漏洩できる情報ではないしな」
キィを叩くルルーシュの指先は止まらない。
「扇さんや藤堂さんが、後始末してるの知ってる?」
「後始末?」
怪訝そうにルルーシュが指を止めてライに向き直った。椅子がきィいと音を立てる。
「遺品整理だよ。手紙なんかも添えているらしい。誤魔化すのが大変なんだとさ、この団体自体が…いまだにテロリスト扱いだからな」
「そうか」
ルルーシュの表情が硬くなる。ライは何でもない風を装って卓上に指を滑らせた。つつつぅと摩擦音をさせて指が滑る。摩擦熱で熱い。
「注意はしないでやってほしい。ガス抜きは必要なはずだ、そうだろう」
なーんて、偉そうだなぁ。ライはクックッと笑うと長椅子に寝そべった。いつもならばそこにはC.C.が鎮座している。それを示すように宅配ピザの黄色いマスコットの抱きぐるみがある。ライはそれを枕に天井を睨んだ。
「お前がそう言うなら信じよう。まったく、あの二人、能力は正反対だが方向性は似ているのだな…」
扇は黒の騎士団の原型をまとめ上げた人物だがどちらかと言うと人柄で団体をまとめるタイプだ。辣腕敏腕、とは言っては悪いが縁遠い。団体がまとまっていたのはこの扇の人柄や人望の篤さだろう。逆に藤堂は明確な戦闘における実戦での実力で部下を従えている。作戦立案、判断、実行。『厳島の奇跡』とされる事象は記憶のちりをかぶるには新しすぎる戦闘の勝利だった。
二人の共通するのは優しいところ。記憶を断片的にしか所持しないライにも彼等は協力や助力は惜しまないと微笑んでくれる。二人とも年長者であるからライのことは可愛がってくれる。特に扇は教職に就いていた過去もあるせいか面倒をよく見てくれる。藤堂は戦闘における疑問点や改善点など、ライの理論についてこれる数少ない人材だ。戦闘機の製作者は国籍不明な美人技師のラクシャータだが、使用者によって機体に差が出るらしく微調整は欠かせない。その時の感覚として感じることを言葉に表す助けになるのが藤堂だった。何となく変、では通じない。どう変なのか、反応が遅いとか過敏すぎるとか藤堂の助言で曖昧なライの全ては形をとっていく。
「妬ましいな」
「はぁ?」
「扇と藤堂がだよ」
「二人ともいい人じゃないか。扇さんなんか、食べ物のアレルギーは深刻なこともあるからってわざわざ訊いてくれるんだ。こんなところにいるべき人じゃないのかもしれないな」
「二人共のその面倒見の良さが曲者だ。だからこそオレは一歩リードするためにお前の前で仮面を取った…」
ルルーシュがそっと椅子から立ち上がる。ゼロの衣装は細身の体によく似合う。艶やかな濡れ羽色の髪をルルーシュはうなじが隠れる程度に伸ばし、前髪も長い。勉強中に邪魔じゃあないかと聞いたら桜色の爪先が器用に分けて視界を開く。なるほどと納得したものだ。
「ルルーシュ、また髪が伸びたんじゃないか」
「ルル、だ」
長椅子の脚元へ佇むルルーシュは白い頬を真っ赤にして繰り返した。
「オレのことは、ルルと、呼べ! ルルーシュと呼ばれては誰だか判ってしまう」
その論理はおかしい。C.C.でさえ、ルルーシュのことはルルーシュと呼んでいるのだ、しかも公然と。ライは自分だけが何故警戒されているのか思考を巡らせようとする。
「お前にルルと、呼んでほしい」
いつの間にか細いルルーシュの体が長椅子へ寝そべったライの上に覆いかぶさっている。脚の間に体を割りこませて耳の横へ手を突く。この腕が曲げられたら晴れてキスの成立だ。
「大丈夫だ。お前の断片はきっとオレが、見つけてやるから」
だから
「…オレと仲好くなっては、くれないか?」
手始めとして愛称で呼んでほしい。ライの名前は省略も装飾もしようがないからそのままライと呼ぶけれど、ルルーシュという名は愛称のルルと呼んでほしい。ルルーシュの紫苑色が潤んだようにきらきらした。細い指先がライの亜麻色の髪を梳く。
ライの短髪は適当に自分で切りそろえてしまう所為か、てんでの方向を向いている。亜麻色の髪は光の加減で銀髪にも煌めいた。同様にライの瞳は臙脂から暗紫へと微妙に変化する。黒曜石に近いそれは蒼色さえも含んでいて激しい発光の際には真っ青な色さえ見せた。ライの髪も瞳も光加減で移ろった。ライの性質も同様で、ライに執着は見られない。
「目の色が違う。黒に見えていたのに今は蒼いぞ」
「僕には変化が判らないな。視界に変化はない。血筋なのかな。…出自が判るヒントになればいいけど」
「色の変わる瞳を持つ一族など聞いたこともないな。お前の場合、瞳だけではなく髪も変わる。光の乱反射を忠実に照りかえすから変わるんだ。これだけ珍しさが揃えば断片的な記録くらいは残っていそうだがな」
古典でも当たってみるか。ルルーシュがクックッと喉を震わせて笑った。尊大で自身に満ち溢れたルルーシュからはうかがい知れない卑屈な笑みだ。
「オレは今まで出来ないことなんてなかったのにな。特にこの学園に来てからは。それなのにオレはお前の素姓一つ明かせずにいる」
「僕本人にも判らない。そう気に病むことじゃないだろう」
「付き合って欲しい」
押し倒された状態での告白だ。ライは光加減で色合いの変わる瞳を瞬かせた。
「お前が欲しい。お前が好きだ。団体の戦力としてだけではなく、ただのルルーシュとしてのオレがお前を欲している。都合がよければなおよい、都合が悪くともオレがオレの力で丸めこんで見せる、取りこんで見せる。オレはお前を傍において、お前にそばに、いてほしい」
「それはゼロとしてか」
「ルルーシュとしてだ。ゼロとしてお前は喉から手が出るほど欲しいさ。だが手に入っている。そうしたら今度はルルーシュと付き合ってくれるお前が欲しくなった」
「その力を使えばいい。僕に命令すればいい」
ルルーシュはふっと眼を眇めた。泣きだす前の様な憤りの様などうしようもない孤独感の様な、そんな寂寥が見えてライは言葉を失くした。
「それはお前の意志じゃない。オレはお前の意志でオレを選んでほしいんだ」
他者を自由にできる。だからこその強大なジレンマ。アンビバレンス。それはほんとうに、わたしをそうおもってくれているのですか? この疑問は尽きない。ギアスを帯びたものは必ず思う。
「ルルーシュ、君は僕が、僕に好意的になれと命じたとは思わないのか?」
「思わない。可能性は限りなく低いな。なにより利益がない。黒の騎士団のゼロは絶対だが扇や藤堂の承認なしの参加は認められない。オレだけにギアスをかけるのは無駄骨だ」
「ルルは、優しいんだな」
ライの白い手がルルーシュの白い頬を撫でる。華奢な二人の体が絡みあう。ルルーシュの手がライの団服の留め具を外していく。ライもあえて止めない。ルルーシュは止められることを期待してわざとのろのろとした動作になる。
「止めろ。最後までオレはするつもりだぞ」
「ルルならいい」
ライは宅配ピザのマスコットの抱きぐるみを向かいの長椅子へ放った。
「汚して文句を言われたくないだろ?」
長椅子の緩衝材は薄い。それでもライは脚を割られたままでも抵抗さえしない。
「…こんなに」
ルルーシュはライの胸へ顔を伏せた。
「こんなに神秘的で美しい人間がいるなんて思わなかった。初めて会ったときに冷淡だったのはのめり込むという自戒があったからだ。今となってはまったくの無駄骨だがな。仲良くなりたいと思った。好きになった。抱きたいと、思った」
「記憶が断片的にしかなくて胡乱な僕を?」
「お前の記憶はオレが探し出してやる。辛い記憶だったら痛みを分かち合おう、哀しい記憶だったら共に泣こう、嬉しい記憶だったらともに笑おう、オレはそう決めてきたつもりだ」
「無理を言うもんじゃない」
ルルーシュにはゼロという顔がある。団体を率いる以上、個体に固執するのは避けるべきだった。ライの思惑に、それさえ知っていると言わんばかりにルルーシュは微笑んだ。紅い唇が弓なりに反りかえり、蠱惑的だ。
「だからな。ゼロではなく。ルルーシュがお前とともに探し、分かち合い、泣き、笑いたいと、言っているんだよ」
「それは、無理だよ」
ライの声は不思議と震えなかった。ライはどこかで知っている。自分に相応しいものは抱きしめてくれる腕や迎え入れてくれる仲間だとかそんな優しいものではないのだ。剣と流血と柘榴のように開いた肉片と白い骨と獣の様な狂気こそが己に相応しい。そんな世界で生きて来たと感覚が囁く。嘘は優しい。だから今のこの優しい世界は嘘なんだよ、と。
ライが持つ特殊能力はけして平和的に使用されるとは限らないものだ。だからこそライは、己の行きつくべき場所は戦場であると知っている。ナイトメアフレームを駈った時の昂揚。破壊の歓喜と戦闘結果。何も言わずに姿をくらますべきだったのかもしれないと思う。それでも剣より強く、手脚のように動く戦闘機はひどく魅力的であった。
「無理ではない。オレがいる。オレがいる時点で条件はクリアされた」
ぽかんとするライの唇にルルーシュは吸いついた。ライの手が彷徨った後、ルルーシュのスカーフを掴む。タイピンで留められたそれがはらりと解けた。細い首があらわになる。ルルーシュの手はすでにライの団服の襟をくつろげている。制服のように首回りを覆う襟を煩わしそうにのけている。鎖骨が覗くそこへルルーシュは吸いつく。
「オレには絶対に失くしたくないものがある。その中に…――お前も入っている、つもりだ」
「おれにはおまえがひつようだ」
ライは目蓋を閉じた。皮膚におおわれた眼球が過剰に潤む。瞬きでもしようものなら落涙する。呑みこむような心積もりでライは息を整えた。それらえも見透かしたようにルルーシュはライの目蓋を舌先でこじ開ける。ぼろぼろと溢れた涙が耳のくぼみへ伝って溜まった。
「お前の存在理由をオレが作る。だから――」
ルルーシュの必死な訴えにライは笑った。嬉しかった。必要だと言われることが嬉しかった。同時に割れるような頭痛もする。あなたが欲しいと言われた。喪われた断片かもしれない。だからライはこの痛みと愛を受け取ろうと思う。
「ありがとう」
そして、ごめんな
こんな時でさえ失くした記憶の断片に囚われる僕なんかでごめん
でも、ルルは好きだよ
口付けは融けるように火照って熱かった。
《了》