優しさなんかじゃ満足できない
刺激的な痛みを頂戴
夏が近い。卜部は垂れてくる汗を手の甲で拭いながら茫洋と暗い空を見上げた。港湾部に位置するここは水気が大量にあるうえに夏の近い暑さでじんわり蒸した。観光用に整備された場所ではないから排水溝からは汚水が絶え間なく注ぎ込まれ、誰かの放った残飯や腐蝕した缶がそのあたりへぷかぷか浮いている。観光地は人ごみが多くて助かるが、その分秘密の保持に手間がかかるため、卜部達は落ちあうときは人気のない路地裏をよく使う。路地裏は迷いこめば暗渠のように犠牲者を呑みこんでしまう。道を知らぬものに対する慈悲はない。縁に座っているのも飽きて水辺から一段高くなっている塀の上を歩く。卜部は長身で四肢も長いから、歩くリズムや間がどうしても周りとそろわぬ。だからいつしか足音を立てないように歩くようになって、その上こうして塀の上など好むものだから猫だ猫だと揶揄される。幅のない壁の上でくるんと体の向きを変える。均衡も狂わないしまして落ちもしない。酔っ払った勢いで野良猫と競争して塀から運河へ落ちた。幸い溺死もしなかったし、たきつけた仲間たちが手伝って引きあげてくれたが藤堂だけは烈火のごとく大激怒して卜部は平手打ちを喰らった。
「うらべ」
とろりとした声に卜部の口元が弛む。振り向けば紅に彩られた藤堂が立っていた。可能であれば持ち歩く愛刀を抜刀している。これだけの返り血は銃器では難しかろう。近接戦闘でもあったか。びりっと感じるものがあって藤堂が駆ける。同時に卜部の右手も動いた。紅い刃の一閃と相手の頭部が紅い華の散るように飛散するのが同時だった。藤堂は『奇跡の藤堂』として名が売れているから功名心や野心に溢れた輩がその首を手土産にブリタニアに取り入ろうとするのも珍しくない。卜部はひょいひょいと歩いて近づくと頭部の半分を失くした死体の懐を探った。小型拳銃はすでに隠しへしまわれている。
「卜部、感心しないな」
「どうせ誰かが持っていきますよ。へぇ、こりゃあ」
卜部がヒュウと口笛を吹いた。小さなアンプルだ。硝子容器に密閉された中には乳桃色に色づいた液体が少量封じられている。
「見たことねェな、新ものか。リフレインかも」
藤堂は卜部の手からそれを奪うと暗い海の方へ投げ捨てた。卜部は肩をすくめただけて何も言わない。しわくちゃの紙幣を取り出して数えながら懐へおさめる。
「それにしてもあんたァすげぇ恰好してんなァ」
藤堂の黒い外套の中はさらにひどい。シャツと言わずズボンと言わず返り血で鉄錆の臭いがする。卜部はあたりを探すように歩く回ってから藤堂を手招いた。藤堂は小首を傾げながらそこへ行くとそこで止まれと身ぶりで言われる。不思議に思っているそばから卜部が小型拳銃を取り出して壁を這う水道管に向かって発砲した。このあたりの治安は悪いから発砲音程度では住民さえも驚かない。発砲の衝撃で穴が開いた水道管から透明な水があふれた。ちょうど藤堂の頭上からザァザァと降り注ぐ。
「ま、簡易シャワーってことで。お湯でなくてすんませんねェ」
藤堂は髪の間にまで沁みた深紅が耳裏や頤を伝うのを見た。ざばばばばばと大量の注ぐ水流に卜部は気がすんだら出てくださいね、などと気楽に言い放つ。
藤堂がすっと外れる。濡れた前髪をかきあげてふぅと息を吐く。黒い外套を脱ぐと紅が薄くなったシャツがペッたりと藤堂の体に張り付いている。シャツが白いから藤堂の古傷さえも透けて見える。銃創。切り傷。それらは藤堂が背負ってきた重みだ。水流を浴びて藤堂からの血臭は薄れた。
「鏡志朗、こっち」
卜部は藤堂のことを平素は軍属階級で呼ぶ。だがどこに誰の耳があるか知れないここでは名前を呼ぶのも苦労がいある。藤堂も黙ってついてくる。外套は脱いで腕に掛けられていた。ぽたぽたと透明な雫が絶え間なく垂れる。藤堂は卜部の後を苦労して追った。何せ卜部は塀の上や人さまの庭先や勝手口を平然と通って行くのだ。足音がしない卜部のその行動はますます猫だなと藤堂は思った。扉がきしりと空いて藤堂はそこへ入るよう言われる。卜部も後から滑り込み念入りに施錠している。
「ここ、は」
「俺の隠れ処みたいなもんですよ。あ、千葉とか朝比奈にも内緒で。仙波さんももちろん駄目。あのオヤジ経由で朝比奈に情報流れるンすよ」
「よく見つけたな、このような、場所…」
「あぁ、俺、このあたり出身の浮浪児なンすよ。どこの誰だか判らねぇ親仁に引き取られて卜部。名前なんかねぇもんだから仰々しく巧雪。何度か逃げましたけどそのたびに連れ戻されるんで諦めましたよ」
藤堂は目をぱちくりさせた。意外だ。藤堂の表情がそう言っている。卜部は清潔なタオルを藤堂に放った。
「今着替えだしますよ。和装じゃねェですけどね」
藤堂が私的な時間の際には和装が多いことを揶揄しての台詞だ。藤堂がむっと唇を引き結ぶ。卜部が察してけらけら笑った。
「丈は俺の方があるから大丈夫でしょう。あンたぁ腰も細いし、あんたこそ肉つけろ」
「丸一日食べずにいることが多いお前に言われたくはない台詞だが」
今度は卜部の方がきょとんとした。
「え、気づかれてます?」
「酒盛りで集まってもお前は肴に手をつけんしな。酒ばかり飲むのは体に毒だ」
藤堂はどこへ腰を落ち着けるべきか部屋を見回した。部屋は狭く、寝台が一つでいっぱいだ。応接もないし机と椅子の設えさえない。卜部が寝台を示すが藤堂がためらう。
「濡れる」
「構いやしませんよ」
卜部はびしょ濡れの外套を取ると部屋の天井を縦横無尽に張り詰められた紐に引っ掛けた。
卜部の動きは速かった。すっかり気を抜いていた藤堂が対応は遅かった。藤堂は寝台の上に押し倒されていた。滴が飛び散って男二人分の重みに寝台が軋む。濡れた髪を梳くようにして卜部は藤堂の頭を撫でた。
「案外長いな」
指先がぶつりぶつりと釦を外していく。あらわになる藤堂の皮膚は先程浴びた水でしっとりと掌へ吸いついた。銃創の抉れが切り傷の肉の盛り上がりが、ほんのり色づいて藤堂の体温の上昇を知らせる。藤堂は有色人種であるから顔色を変化させるのが難しい。藤堂は止めようともしない。卜部はシャツの襟を掴んで開いた。滴の透明な軌道がどこか淫靡に藤堂の体は火照った。
「俺はあんたが羨ましいのかもしれない。憎いかもしれない。好きかもしれない。あんたは俺を俺でいさせてくれない」
藤堂の側に油断があったのも事実だ。卜部は一見して力押しの性質ではないのだ。体も細いし、加えて長身であることから藤堂は卜部と暴力を結び付けられなかった。だが卜部は自分が痩躯であることをちゃんと承知していて、そのうえでそれを補うすべを心得ていた。藤堂の関節やくぼみはことごとく卜部の攻撃を受けて壊滅状態だ。鎖骨の間をぐりぐりと押されていた。その指が離れると途端に酸素が流れ込んで藤堂は激しく噎せた。その際に背を丸めることさえ赦されず、藤堂は仰け反って唾液を吐き散らした。
藤堂の口の端から垂れた唾液が頤を汚す。ひゅうひゅうと笛のように鳴る喉の喘鳴に喘ぎながら藤堂は卜部の暴挙を止められない。
「やっぱ、あんたァ優しすぎるぜ。こういうときはな、相手を殴りつけて逆に犯すのが流儀って奴なんだよ」
「その、流儀に私は承服しかねる。私が犯されるのは構わん。だが、相手まで犯そう、などとは、おもわな…」
「だから優しいって言ってンだ」
卜部は藤堂の下肢の衣服さえも剥いだ。あらわになる裸身は彫刻のように美しい。薄く張った水の膜の煌めきが藤堂の裸身をますます美しく演出した。
「こうせつ」
目を覚ました藤堂に卜部がぽいと飲料のボトルを放った。水だ。卜部は黙って与えられた水を呑む藤堂を見ていた。抱いている間の藤堂はどうも平素と異なる。閨での態度が平素と同じなのも気持ち悪いがここまで破綻しているのも珍しい。藤堂は卜部の無茶とも言える要求にさえ応えようとする。まるでそうしなければ捨てられてしまうとでも言いたげに必死だ。藤堂ほどの戦闘力を手放す組織などないだろう。それなのに。藤堂の、藤堂に対する自己評価は驚くほど低い。藤堂自身が藤堂鏡志朗に価値を認めていないのだ。
「今ァ服干してますから。生乾きでしょうけどちったァ待ってくださいね」
藤堂の裸身は毛布一枚に包まれている。卜部は同じ寝台に腰かけながら藤堂を窺う。
「なぁ、あんたァ」
藤堂の灰蒼の双眸がきょろりと卜部をみる。眇めたような目であるから眼球の全てが灰蒼に染まってしまったかのように見える。玉眼のように煌めくそれに卜部が気圧される。藤堂はふぅわりと笑う。平素から背筋も表情も引き締めておくのが信条とは思えない弛みだ。
「私の様な穢れた体を抱いて何が、楽しい?」
藤堂は膝を立ててそこへ頤を乗せた。拗ねた子供のような仕草だが腰のあたりにわだかまる毛布が淫靡だ。卜部とは違って作りあげられたために細い体。引き絞れるだけ引絞って筋力をつけた。卜部の痩躯とは違う。
「穢れてるってどういうことッすか。別にどォでもいいけどォ」
「この体を抱いた男がすでに何人もいると言ったらお前はどうする?」
「どうもしませんがね。あんたこそ、俺がどこの誰に抱かれてンのか知ってンの」
「知らんな」
「俺も知りません。路地裏で暮らすってなァそういうことなんですよ」
千葉も朝比奈もまして仙波などはまったく知り得ないだろう悪環境。だが卜部はこの環境に居心地の悪さを感じたことはない。気付いた時にはそうだった。だからそれが悪いとも何とも思わなかった。
「それならば、ご養父母は大変だったろう」
「行儀のいい部屋に閉じ込められるのが嫌で何度も飛び出したンでね。苦労はかけたたァ思いますが悪かったたァ思ってない。今はこんな活動してるしなァ」
卜部は瓶詰の水を取り出す。壜の流れに沿うようにナイフを走らせて栓を空ける。切り飛ばされた栓がころころと転がった。壜は鋭角的な切り口での呑み口をつくり、卜部は唇を切らずに口の上から注ぐようにして水を呑む。眺めていた藤堂に卜部はくすりと笑んだ。
「呑みます?」
突きつけられる切っ先は鋭い。藤堂の唇がぷつりと紅い珠を生む。
「巧雪、お前はいつもこんな生活を?」
「他にどんな暮らしおくれっていうンすか。ちゃんとした屋根がある場所で布団にくるまって寝るなんて、そんななァ恵まれた奴のいうことなんですよ。あんた、残飯あさったことあるか。料理屋の塵箱ひっくり返して廃棄された料理食って、腹壊したことくらい何度もある。屈辱とかそんな守るべき自尊心なんかねェ。食わなきゃ死ぬんだ。死ぬのが嫌だから、イレヴンて言われても我慢する。あんたァそう言うのたァ無縁ぽいな。そう言う、ツラしてる」
打ちのめされたような藤堂に卜部が笑う。
「気にしねェで下さいよ。こんな境遇、そこらの路地を当たれば普通に転がってるンだ」
藤堂が深く息を吸う。正座して膝を揃えて背筋を伸ばす。そうした姿勢を取ると藤堂がひどく大きく強く見える。そしてまるで救ってくれるかのような幻想を抱く。
「…卜部、お前はブリタニアをどう思っている」
藤堂の問いはいつだって的確に中心を突いてくる。卜部は、ハン、と口元だけで笑った。
「ぶっ潰したいから今、あんたと行動を共にしてるンだよ」
「平和が欲しいか」
「俺の平和は、型通りに嵌められて何でもやらされることなんですよ。だから俺は今のこの混沌とした状況を悪いたァ思ってない」
「お前を判りたいと思うのは、私には過ぎた望みなのだろうか」
藤堂は潤んだ灰蒼を卜部に向けた。
「俺は誰かに俺を判ってもらおうたァ思ってない。俺のことなんかしらねぇやつばっかりで十分だ」
藤堂の笑みが哀しげなような気がして卜部は怯んだ。
「お前は今のままでもいいと言っている」
「別に今の日本はよわかァねェでしょう。枢木ゲンブだって」
刹那、びくびくと藤堂の体が痙攣した。震えている。
「やは、り」
藤堂の意味を汲み取れない言葉への問いは赦されなかった。藤堂が答えない。
「どォでもいい」
卜部の言葉に藤堂がはっと顔を上げる。卜部は何でもない仕草で伸びをした。まるで猫だと藤堂は思う。猫は好きな時に好きなことをする。
「お前は猫みたいだな」
「どっちにつくか判らねぇ猫ですよ」
藤堂はくすくすと笑った。その様子はひどく愛らしくて。
毒を含んでる
《了》