痛みしか知らない、だから
 恐怖で人は簡単に


   夏雨

 ひたりと足裏が貼りつくように板張りがしっとりと馴染んだ。磨かれた縁側は夜半の月明かりでつやつやと照った。踏みならせばきしきしと鳴るが抜けるようなことはない。外出から戻った藤堂は何故だかいつも消耗している。出かけるのは夕方から夜半が多く、息をひそめるようにひっそりと出かけていく。空手で行くことは藤堂の外出目的を不穏に暗示した。藤堂は出かけるたびに冷蔵庫と浴場の使用許可を出していく。先に休んでいても構わないという。それでいて帰宅した時の藤堂は手当てが必要な状態であることも多いから卜部は必然的に藤堂の帰りを茫洋と待つようになった。理由は訊いていない。噂なら知っている。
 軍属に限らずその世界が社会的に高位であるほど男社会になるのはどこも似たり寄ったりだ。権力者に膝を屈するのは必ずしも女性であるとは限らない。脚を開かれることも同様だ。卜部自身が階級差で手酷い扱いを受けた経験がある。ましてや精悍ななりに整い高潔に禁欲的な藤堂など格好の標的であろう。穢したい乱したいという欲は性別さえ超える。よく泣く奴を泣かせても面白くないが、泣かない奴を涙ぐませるのは愉しい。卜部は肩の力を抜いて縁側へ腰を下ろした。沓脱ぎへ投げると足裏からごつごつした岩肌が判る。夜の冷気と昼の熱気に、沓脱ぎは人肌にぬるんで不快だ。土を掘って涼を求めるほど積極的でもないから、温いなァと思いながらそのままだ。
 ゆらり、と闇が揺らいだ。藤堂だ。鳶色の短髪は闇に融けて踝まである長い髪にも見える。本来の短さが判る瞬間ととてつもない長さに錯覚する瞬間とが交互に同居した。その双眸だけが清冽に煌めいている。水輪でも立ちそうな揺らぎと感触を想像させない輝きが凄味を増している。双眸が動いて卜部を認識する。初めのころは取り繕っていたが慣れてきた今時分では藤堂も卜部も剥き出しの感情をさらした。一見した限りでは藤堂に変化はない。だが繰り返し見てきた卜部は藤堂の相手の攻撃が衣服で隠れる部位を集中的に狙うのを知っている。脱がせてみれば変色した痣や血に潤んだ裂傷があるのも珍しくない。しかも藤堂はそれらを抱えて帰ってくるのに態度を変えない。玄関をくぐって扉を閉めて外界と遮断された刹那に倒れたこともある。そして休んで回復した藤堂が卜部にすることもいつも同じだ。慄然とした恐怖のようないびつな高揚が卜部の内を奔る。卜部は立ち上がると玄関へ回った。内側から施錠を解く。はかったように藤堂が扉を開いて玄関口で靴を脱ぐ。少し屈んだ背中を眺めながら卜部は観察する。腕の動きで左右の差はない。脚も。腹かな。裸足で降りていた卜部は軽く足裏をはたいてから藤堂の後をついていく。廊下を軋ませて藤堂が水場を確かめる。卜部は食事を抜いている。使った気配のない台所で藤堂の声が静かに問うた。
「食べていない、のか」
「えぇまぁ。食う気がねェンで。あんたこそ食ってねェだろ、なんか食う」
 藤堂の指先がぴくぴくと震える。
「この間もそうだったが…きちんと食事は摂りなさいと」
「忘れた。一日二日食わなくっても死にゃあしねェよ」
「そういう問題ではない。お前の体が」
卜部の口の端が吊りあがる。藤堂との問答は事前に踏まえる手順や予兆を含んだ。藤堂は発散の欲望と同時に清廉な矜持が暴挙を許さない。藤堂はいつも卜部を殴りつけて抱く。不可避の暴力にさらされた藤堂は同じことをさらって何とか情緒を保っている。殴られた負荷を殴ることで帳尻合わせをする。卜部もただ茫洋と殴られるだけではなく抵抗もするから時折双方がひどい有様になる。それでもこの関係は何故だか絶えない。藤堂の暴走を促すことは卜部の歪んだ愉しみでもある。何があっても動じず暴力を受けてなお凛とした藤堂の決壊は薄暗い優越を伴った。おれが、こわしている。
 「ちいせェこたァ気にすんなよ。さっさと脱いで俺を脱がせりゃあいいンだよ。あんたが誰に脚ィ開いてンのかァしらねぇがひどい目にあってるらしいな」
ざわりと風もないのに藤堂の纏う空気が変わる。閨を揶揄の種にされるのは藤堂が最も嫌う。露骨な言葉も嫌った。藤堂の殺気は抜き身の日本刀のように鋭く、同時に涼しげだ。近づけば切られると判っているのにその刀身は魅力的だ。ぴりぴりと皮膚を奔る疼痛に卜部の笑みが深まった。
「怒ってンの。だったら殴りつけて抑えこめよ。口を塞がねェなら垂れ流しだ。あんたがどう感じるかなんてどうでもいいし興味もねェよ」
怒った時の藤堂は段違いに恐ろしい。手を上げるか否かではなく、気配や雰囲気といった根底をざわつかせるものが鳴動するから、抑制も効きにくく恐怖にさらされることになる。殴られたことがないほど卜部は温室育ちではない。理不尽な暴力に屈した時期もある。だがそれらすべてを凌駕するように藤堂の憤りは怖い。
「殴られて帰ってきて殴ってるンだからあんたも相手と同類なんだよ。お綺麗な顔して寝床で豹変するなんてとんだ狸だな」
はンと鼻を鳴らして口の端を歪める。刹那、藤堂の体が沈んだ。
 脚だと気づいた時には藤堂の踵が卜部の膕を直撃して砕けている。均衡を崩した卜部の肩を掴んで藤堂は床へ叩きつける。背中を痛打して息が止まる卜部の動きが躊躇し、その隙に藤堂は卜部の襟を開いた。釦がはじけ飛んで遠くでかんかんと乾いた音がした。卜部は薄暗い天井を見据えた。旧い造りであるから卜部の住まいにはないような建具や造りがそこかしこにある。長年の蒸気や湯気に晒された梁は黒く艶めいて滴でも落としそうに重く潤む。卜部の安い挑発に乗るのはその手順と助けを藤堂が欲しているからだ。ずたずたにされた自分の位置を、なんとか確かめようとあがいている。優しく曖昧な抱擁ではなく憎しみ合うようなキスの方が藤堂には即効性があった。他者からの評価は己の位置の自覚に重要な役割を果たす。
 ぐぅと喉仏を圧された。飴玉を呑みこんでしまった時のように圧迫と閉塞に喘ぐ。卜部の爪が藤堂の頬を抉る。びぢ、と耳障りな音を指させて紅い線が藤堂の頬へ奔る。卜部は笑んだ。苦しい。頭部が膨張したように血流が滞る。目の裏が紅く点滅してすぐにでも視界が反転して白目を剥きそうだ。喘いで開いた唇を藤堂が躊躇なく吸った。喉の拘束が弛む。同時に大量の唾液を流しこまれて卜部が激しく噎せた。ひゅうひゅうとした喘鳴を繰り返して卜部の胸部が膨張と収縮を繰り返す。粘ついた唾液が透明な糸を引いて薄暗がりで煌めいた。藤堂の腰が擦りつけられる。怒張したそれに卜部は婀娜っぽく笑んだ。金属音をさせて藤堂が卜部のベルトを解く。外気にさらされた下肢を藤堂は何度も突き上げる。体勢も何度か変わった。ぐるぐると回転するように転換する視界に、卜部は乗り物酔いのような、動揺と恐怖と高揚と負担に喘いだ。脚の間が燃えるように熱い。抜き身に触れてくる藤堂の指先に卜部の意識はとろけた。


 とろとろとした意識の覚醒は緩やかだ。頬を擦りつける板張りから香りがするような気がして卜部は艶めく板を見つめた。薄く消炭色の影が差している。窓硝子から射した月光が藤堂の姿を映している。正座して背筋を伸ばした藤堂は清廉で凄烈だ。その立ち居振る舞いだけで並み以上の戦闘力や堪えが判る。藤堂の衣服は乱れておらず、先刻の情交でさえ卜部の淫らがましい夢であったかのようだ。だが卜部の体には無理矢理に開けられた虚ろと熱源の名残が満ちている。体を揺らすたびに奥底から疼痛が奔った。無理に起きる必要はないと藤堂の双眸が卜部の動きをとどめさせた。灰蒼は冷静で潔癖で気遣いに満ちている。藤堂は情緒や精神の均衡を取り戻している。
 卜部の目が椅子や小卓の脚を無為に見つめる。長年の使用で板張りの艶が部分的に剥げているのが見えた。藤堂の家には卜部が知らないような摩耗やなれ合いがある。卜部の一人住まいは入れ替わりの頻度も高く、癖が残るほどものが持たない。長年使いこんだ形や摩耗は憧れのように卜部の周りには存在しない。
「私の好意に誠意はない」
藤堂の声が玲瓏と響いた。奥の間にしつらえてある仏壇の鈴のように奥深くへ響いた。耳や意識を裂くほど鮮烈で、それなのに領域を犯される不快はない。殷々とした響きはどこまでも友好的に卜部の体へ融けて行く。ざぁざぁとした落滴の音に卜部は外で雨が降っているのだと思い至った。窓硝子へ打ちつけるその雨滴が無性に恋しい。軋む体と藤堂の動揺を置いたまま卜部の体がふらふらと縁側へ通じる部屋へ向かう。藤堂は動揺したが止めない。卜部ののろい足取りを、追い抜くこともせかすこともなく後へ着いてくる。
「卜部、外は雨が降っている、濡れてしまう」
開かれたシャツと引っ掛けただけのズボンのまま、卜部は庭先へ躍り出た。飛沫を上げて打ちつける雨滴が強く卜部の肌を打った。髪がすぐに濡れて耳の裏やうなじを幾筋もの流れが落ちて行く。鼻先を何度も拭いながら卜部は睫毛や頬に触れる雨垂れは放置する。雨のたびに卜部は懐かしいような軋むような、芳香を感じる。それはどこかで感じた花や実のものかもしれないし、焚き染める樟脳のように奥底へ沁みたものだ。懐かしいようでいて新しい。鼻につくのに不快ではない。噎せるような水分に喉が詰まる。喘ぐように開く口元へ温い流れが流れ込む。この落滴でこの体が融けてしまえば、いいと。

「巧雪」

ぎゅう、と温かい腕が卜部の痩躯を抱擁した。腕を回されて肩や胸部が締め付けられる。うなじのあたりへ藤堂の熱い吐息がわだかまった。藤堂の体内から発せされる吐息の湿りは、体へ打ちつける雨垂れとは別のものだった。濡れた髪や襟足へ藤堂は躊躇もなく鼻先や唇を寄せてくる。
 庭先は木々が茂って目隠しの塀が不要なくらいだ。喬木が点在し、灌木が密に茂っている。低い位置の茂りは雨滴に重く枝葉をしならせて噎せるようだ。喬木は思い出したように枝を震わせて、滴をふるい落とす。土は重く湿って麝香のように香り、ゆっくりと水分を含んで重くなっていく。濡れた土は刳れば独特の香りがする。爪先が庭の土を抉る。皮膚を打つ雨垂れの痛みを感じながら、卜部は自分が生きている証は痛みでしかないと判っている。藤堂が暴力に自我を揺るがせ安定させる分、卜部は痛みでもってその存在を確かめている。殴られた感触で初めてそれを意識する。
 藤堂が暴力に屈して卜部を暴力で抑えつけるように、卜部は藤堂からの痛撃を生きている証にしている。藤堂がその方向へ行くように誘導し、挑発し、必要であれば泣きも入れるし暴力的にもなる。その根源はどこかしらで似ている。藤堂が体躯に直接的な痛撃を与えて支配し、卜部はその精神や情緒から影響する。共依存だ。お互いにすがり必要として同時に相手からの需要さえも満たす。
「こうせつ、つめたく、ないのか」
瞬くだけで雨垂れが目の中へ流れてくる。溢れる流動体が涙なのか雨なのかさえ卜部には判らない。
「べつに」
口を利くだけで水滴が入り込んでくる。喉へ奔るように強く打ちつけるかと思えば唇を湿す程度にまで弱まる。
 夏の近いこの時期の雨垂れは強く打ちつける。固いところへ降る雨垂れは跳ねかえりの飛沫さえ視認できる。強い雨は夏が近い証だ。夏に近づけば近づくほど、雨は強く短く降った。弱まる雨垂れの中で日が射すことも珍しくない天気を繰り返し、この土地は夏へなっていく。卜部は降りつける雨の中で空を見上げた。月が見える。雨垂れはもう弱くなって皮膚を撫でるように滑っていく。
「夏が近ェなぁ」
時折湿度さえ伴う夏は厄介だ。それでも、あのだるいようなうだる暑さを卜部はどこかで受け入れている。抱擁する藤堂の熱が卜部を犯す。卜部は藤堂の腕を解かなかった。


《了》

無理やり雨をからめた!(自覚があるようだ)
こんな題名になるなんて、あたしも思ってなかったよ!
誤字脱字とかありませんように!            2011年5月2日UP

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