知らなかった、こんなこと
のめりこむ気まぐれ
字面を追う視界が見にくくなったことで時が経ったのに気づいた。普段は仕事を終えて自室へ引き取る頃にはすでに夜の中だ。今日はたまたま手こずらせるような用事もなく、主の奨めもあって早めに帰路についた。普段が忙しいだけに不意に訪れた間の扱いに困り、溜まりっぱなしだった蔵書に目を通すことにしたのだ。たまの読書はギルフォードを思いのほか虜にし、時が経つのも忘れていた。開け放しの鎧戸を閉めようと立ち上がったところで思いもしない声がかけられた。
「もう少し視野が広いかと思ったんだけれど」
ぎょっとして振り返ればシュナイゼルが扉に寄りかかって立っていた。公務をこなすときの正装ではないところを見れば私用なのだろうか。
「…な、にか…御用が」
シュナイゼルの妹君であるコーネリアはギルフォードの主だ。男勝りともいえる彼女への用事は時折ギルフォードを経由した。シュナイゼルはギルフォードの思考を読んだかのようにゆっくりと首を振った。
「いや、彼女への用事ではないよ。私はむしろ…」
ゆっくりと歩み寄ってくるのをギルフォードが半ば茫然と見つめていた。それなりの地位のある家柄の出自を持つギルフォードだがシュナイゼルはそれらの頂点に君臨する皇族の一員だ。皇位継承権も上位にあり、彼も重要な任務をこなす。
手袋をしていないのに白い指先。白皙の美貌は様々な意味で人々を惹きつける。練色に似た金髪。くすんでいるというよりぼかしたような色合いの髪はふわりと揺れた。緩く巻いた前髪を煩わしそうに払ってから、シュナイゼルはにっこりと微笑した。
「君に用事があるのだけれど。コーネリアと一緒ではないのかい? 珍しいこともあるものだね」
ギルフォードのコーネリアへの忠誠ぶりは周知のことだ。だが殊更に言われれば苛立ちもする。眉を寄せる程度に憤りを押し殺したギルフォードは無言で対応した。シュナイゼルはそれを見て軽く笑った。
「私も忠犬を持ってみたいものだな」
「お探しになればよろしいかと。それだけの人脈もおありでしょう」
微笑して嫌味を言うシュナイゼルに心遣いは不要と判断したギルフォードは必要最低限の礼儀で返答した。シュナイゼルはますます笑みを深め、しまいには肩を揺らして笑いだした。
「忠犬は可愛らしい方がいい。特に、主人がいないと泣いてしまうような、ね」
ギルフォードは腕を振り上げるのを必死に自制した。幼い頃から躾けられた上下関係はとっさの暴挙を抑制する。代わりにきつく握った拳が生々しい音をかすかにさせた。爪が皮膚を裂いて肉に食い込むのが判る。怒りに歪んだギルフォードの表情にシュナイゼルは満足げだ。
「君は本当に可愛らしいな。それでは改めてお伺いしようか、プライベートな時間を共有してはもらえないかい?」
「お休みになられる時間かと存じます」
そっけない返答にもシュナイゼルは退かない。たおやかな指先がギルフォードの頤を捕らえる。シュナイゼルの肌は白く、唇の紅さが目立つ。コーネリアのことを不意に思い出した。彼女もまた白皙の美貌の主だが唇は藤色に彩られている。彼女は親しみと無作法の境界を知っている人間だ。彩られた下の唇はどんな紅さなのだろうとギルフォードは昔思ったことがある。
「冷たいな…それとも、命令してほしいかい? 君は命令されるのを好みそうだ」
シュナイゼルの手を叩き落すとその指先が扉を指した。
「お休みなられた方がよろしいかと」
その手首を掴んだシュナイゼルがぐんと強く引いた。咄嗟にバランスを取ろうとする体が反転し、ベッドの上へ倒れこんだ。シュナイゼルは目をすがめて笑った。
「誘っているのかな、これは。やはりベッドの上の方が良いのだろうね…床は背中が痛くなるというし」
言動から普段の行いが知れようというものだ。ギルフォードは臆すことなくシュナイゼルを睥睨した。それを毛ほども感じていないかのようにシュナイゼルはギルフォードの髪を梳いた。結い紐を解けば白い敷布の上に艶やかな黒髪が波打った。癖もなくまっすぐ伸びた髪は彼の気性のようだ。
「黒髪は嫌いではないよ。美しい。ほら、その顔をよく見せてごらん」
眼鏡を取り去るとシュナイゼルは前触れなく唇を重ねた。瑞々しいその感触が隙を作らせた。指先が襟を緩めて素肌に触れ、その時になって初めてギルフォードが我に返った。細身と言われるギルフォードだが一端の軍人だ、力だってそれなりにある。シュナイゼルを押し返すと彼は不満そうに目を瞬かせた。
「何をなさるのですか!」
「私は駄目だということか? ならば、誰ならいいのだい? せっかくこうして時間を作っているのに」
唇を吸い服を脱がせていく手際の良さにギルフォードは心中で悪態をつきながら、必死に抵抗した。
「私の技術が心配なのかい? 大丈夫だよ、これでも経験は積んでいるのだからね」
「そういうことではなく…ッ! 話をお聞きください…!」
シュナイゼルは意外そうに目を瞬かせた。子供のようなそれは愛らしいのだが状況が状況なだけにそんなことは言っていられない。
「はなし? なんだい、言ってごらん。聞けることは聞くだけの度量はあると自負しているからね」
「お帰りください」
シュナイゼルは言葉を聞く前の状態に戻った。何の躊躇もなく唇をのせてくる。ギルフォードの鎖骨辺りへ紅い鬱血点が散った。チクチクとギルフォードの心臓が痛んだ。すべてを奉げるという誓いをしたその体の裏切りに目の奥がジワリと滲んだ。それをちろりと見てからシュナイゼルは嗤った。
「コーネリアに純潔でも奉げるつもりだったかな?」
「お言葉が過ぎます!」
嘲笑するようなそれにギルフォードがヒステリックに反応した。
しなった腕をシュナイゼルは温室育ちらしからぬ敏捷さで受け止めた。意外と力があるのだとギルフォードが気付いたのはシュナイゼルに押さえ込まれた後だった。ベッドのスプリングは彼らが身動きすると軋んだような音をさせた。
「これでも自分の身は守れるだけのすべと力はあるんだよ…見くびらないでほしいな」
悔しげに口元を歪めるギルフォードにシュナイゼルは心底嬉しそうに微笑した。穏やかなその美貌は見る者の視野を狭め判断を誤らせる。
「もう充分なんだよ。私はもう、従順さには飽き飽きした。イエスではなくノーと言うものを屈服させる愉しみを私は知りたいのだよ」
それは頂点に君臨するが故の不具合。
「媚びは買い飽きた。媚を売る連中にはもううんざりだよ…君のように私を殴ろうとする輩は珍しい」
シュナイゼルは穏やかに優しく笑んだ。それは暴力ではなく心情で支持を集める魅力の顔だ。その裏がどうなっているかなど誰も気づかない。歯止めをかけるものは存在せずただ歪なそれはとどまることを知らず。
「人払いはしてある…遠慮なく啼いてくれ。君の泣き声が聞きたいな」
躊躇しない指先はギルフォードの服を脱がせ、紅い唇は噛みつくようにキスをした。下肢に伸ばされる指先の感触に震えながらギルフォードは瞳を潤ませた。
《了》