日々、頑張っているんです
あなたのことが
「あ、藤堂さん、お早うございまーす」
部屋を出たところで朝比奈とすれ違う。寝起きのぼんやりした頭で相槌を打つ。朝比奈は足音軽くかけていく。藤堂はその背中をぼんやり見送りながら朝比奈が触れてこなかったことに気付いた。
朝比奈ははたから見ると暑苦しいほどに藤堂を慕っている。それは言葉尻だけではなくその行動にも現れた。挨拶がわりに藤堂に飛びついては同じ四聖剣の紅一点である千葉に引き剥がされるというのが朝の恒例となっていた。藤堂のほうも朝比奈の言動が限度を超えない限りは口を出さない。千葉がやきもきするほど朝比奈の好きにさせていた。
時には藤堂自らが朝比奈を引き剥がすほどのそれが今朝に限ってない。何か急ぎの用事でもあるのだろうと藤堂は自身を納得させて食堂へ顔を出す。黒の騎士団や藤堂を慕い集まった四聖剣たちがそれぞれに挨拶する。藤堂はそれぞれに返事をしながら朝比奈の姿のないことがわずかに引っかかった。それは忘れてしまった出来事が喉元まで出かかっているもどかしさにも似たような感覚だった。いつもいるものがいない。それはこんなにも大きな喪失なのだと藤堂は目が覚めるような気さえした。
それからも不自然なほどにそれが続いた。朝比奈とよくすれ違う。ただすれ違うだけあって同じ空間に留まることがぐんと減った。藤堂が顔を出せば朝比奈が引っ込む。他の皆は気にしていないが藤堂は元より周りによく目がいく性質だ。面倒見のいい藤堂の性質が朝比奈の不自然さを際立って感じさせた。
「朝比奈」
「はい?」
話しかければ返事をする。暗緑色の髪は短く切られて白いうなじをあらわにしている。丸い眼鏡の奥でパッチリ開いた瞳が髪と同じ色に煌めいている。片目の上を走る傷痕は痕こそ残っているが目蓋は開いている。朝比奈も周りもその自然さに時折傷を忘れるほどだ。藤堂の身長に追いついていない朝比奈は藤堂と向き合うと少し上目遣いになる。
「お前に一つ訊きたいんだが」
「はい、なんですか? 藤堂さんの質問だったらなんだってオッケーですよ」
藤堂は少し逡巡したあと思い切って口を開いた。
「私のことを避けていないか?」
朝比奈は空疎なほど明るく笑った。紅い唇が弓なりに反る。
「避けてませんよーやだなぁもう、オレが藤堂さんを避けるなんて」
朝比奈の目が不意に煌めいた。肉食獣のように飢えたそれに藤堂の背筋が震えたような気がした。だがそれを感じたのは刹那ですぐにいつものおどけた瞳が藤堂を見ていた。
「それが藤堂さんを避けるのはきっと、よっぽどのことがあったときくらいですよ」
じゃ、と立ち去る細い背中を藤堂は引き止められなかった。
それからも朝比奈の態度は変わらない。挨拶や言葉こそ交わすものの以前のように飛びついてきたり抱きしめてきたりしてこなくなった。千葉は胸をなでおろしているが藤堂としてはなんだが気持ちが悪い。何か不愉快にさせることでもしたのだろうか、朝比奈の逆鱗に触れるようなことでもあっただろうかと自身を省みる。思い当たる節こそないがそういうときほど注意が必要なのはこれまでの経験で知っている。
「…嫌われたか」
一度嵌まった思考はそれまでの堂々巡りで溜まった分を吐き出すかのように一気に落ち込んでいく。
朝比奈はあれで気を使うタイプだし頭だっていい。歳若だがその歳で藤堂の部下である四聖剣に入るほどなのだから馬鹿ではないし戦闘の技術だってある。その胸中を押し隠すすべだって持っているだろう。ひょっとしたら自分はとんでもない無理を強いていたのかもしれないと藤堂の体から血の気が引いた。自身の意思に反する者に仕えることがどれだけ辛いかは藤堂自身が身に染みている。嫌っている人間からの命令はどれだけ不快だっただろう。どれだけ重荷だっただろう。藤堂の眉根が知らずに寄った。
朝比奈ほどの実力があればどこにいっても上手くやっていけるだろう。わざわざ藤堂の元へ留まる理由がない。黒の騎士団の仲間入りしてしまった今となっては、簡潔に言ってしまえばテロリストのようなものだ。それが意に染まなかったのだろうか。朝比奈を引き止める権利は己にないのだと思い至って藤堂は深いため息を吐いた。
朝比奈が一瞬顔を歪めた。その歪みを消すかのように笑んで挨拶だけして立ち去ろうとする腕を引きとめた。平素にはない藤堂の行動に朝比奈が目を瞬いた。
「朝比奈」
いつになく真剣な響きのそれに朝比奈の指先が震えた。
「すまなかった」
「はッ?!」
目を伏せて話す藤堂の様子に朝比奈は目を瞬くので精一杯だ。
「お前が私を厭っているのにも気付かず…すまなかった。私はお前を引き止めたりはしない。だから、遠慮なく好きなところへ行ってくれて構わない――」
「ちょ、ちょっと待ってください!」
灰蒼の聡明な瞳を潤ませた上に、とんでもない方向へ展開していく言葉の内容に朝比奈が泡を食った。藤堂のほうは言葉を紡ぐので精一杯という感じだ。
「誰が誰を嫌っているって言うんですか!」
「お前が、私を嫌っているんじゃないのか」
「違いますから!」
潤んでいた目をぱちくりさせて藤堂が呟いた。
「違うのか」
「違います! なんでオレが藤堂さんを嫌うんですか!」
藤堂は自身の考えをもう一度反芻した。それでも結果は変わらない。朝比奈は間違いなく藤堂を避けていたし、人が人を避ける理由など嫌悪や憎悪以外に見当たらない。
「だったら、何故私を」
ジワリと滲んだ涙に藤堂はそこで言葉を切った。言葉にすればするだけ重みが増して涙が溢れそうだった。そんな醜態をさらすわけにはいかない。
朝比奈が一人であーとかうーとか唸った後に意を決したように藤堂を見上げた。
「すみません、避けてました! でも、オレが藤堂さんを避けてた理由は嫌いだとかそんなじゃないですから!」
藤堂が呆然と朝比奈を見つめる。朝比奈の白い頬が紅く染まった。
「実は、千葉さんにいつも引っ付いているのは迷惑だろうとか場所柄をわきまえろとかちょっときつく言われたんで…藤堂さんの迷惑になりたくなかったし」
手持ち無沙汰さに朝比奈は頬を掻いた。藤堂は切れ長の目を瞬かせて朝比奈を見た。
「別にお前が飛びついてくるのは迷惑ではないが」
「えぇえぇッ?! ウッソォ、ホントですか、それぇッ?!」
弾かれたように藤堂の胸倉を掴んでくる朝比奈に藤堂がこくんと頷いた。朝比奈とは付き合いが長いうえに、朝比奈の態度がそういうものだと認識している藤堂にとっては苦でも何でもない。
「なんだよ…オレ、バッカみたいじゃん…もーやだなぁー」
朝比奈がその場にしゃがみこんで膝を抱えた。そこへ藤堂もしゃがみこむ。
「朝比奈?」
「だって、オレ! すっごいすっごい、我慢してたんですよ! 藤堂さんに飛びつきたくなるの、すっごい我慢してたんですよ?! なのにそんな、嬉しいけど…もー…」
膝を抱えてうだうだしていたと思ったら朝比奈が顔を上げた。まだ歳若いだけにその顔立ちには幼さが窺える。
朝比奈の瞳が潤んだように輝いた。
「じゃあ、オレが藤堂さんに飛びついたりしても、怒らないでくださいよ?!」
「限度さえ超えなければ構わないが」
平然としてのたまう藤堂に朝比奈は飛びついた。しゃがみこんでいた藤堂は見る間にバランスを崩して床へ倒れこむ。
「あーぁ、すっごい我慢して頑張ってたんだけどな」
朝比奈が笑った。子供のようなそれに藤堂の雰囲気も緩む。
「やっぱり藤堂さんに抱きついているのが一番居心地いいです」
藤堂が何かを言う前に朝比奈は唇を重ねた。
《了》