出会えたから別れる 別れるから出会える
09:紫苑の砕失と灰蒼の胎内
ゆらゆらと鏡面のように水輪が揺らす。藤堂は両手を浸けたまま茫洋とそれを眺めた。しばらく体が重い。いつからそうだと訊かれれば判らないとしか言いようもなく、自分がそう思っているだけなのかもしれないと思うから言ってはいない。ルルーシュやスザクや朝比奈や、この場所に来てから自分は優しい人にばかり会う。なにか事を起こしてこの状態を毀したくない思いが強く働いた。我慢を我慢とも気付かず堪えてきた期間は短くない。何かあれば黙ってしまう性質であればなお言わない。それでも体の本能として疲労がたまれば動きも鈍る。下腹部が特に重だるく動くのが億劫だ。
水盤に両手を浸したまま動かない藤堂にスザクや朝比奈が気がかりそうな目を向けた。
「藤堂さん大丈夫?」
ばちっと弾かれたように藤堂が両手を引っ込めて跳ね起きる。灰蒼の双眸が瞬いて潤みが明かりを反射する。地神の名にふさわしく洞窟のような位置にあるのに灯りは確保されている。理由も仕組みも藤堂には判らない。
「あ…――」
二対の気がかりそうな目の奥から紫苑はじっと窺うように見ている。黒絹の滑らかな髪をしたルルーシュがふふっと笑う。スザクは気にしたように目を向けたが朝比奈は藤堂の方を見たままだ。藤堂は手持無沙汰にひたりと水盤に両手を浸す。中に転がる砕石をころころと撫でた。水は緩やかに藤堂の手を包み浸透してくる。
「鏡志朗、ひとつお前に確かめておこうか」
さらさらと長い裾を揺らしてルルーシュが歩み寄る。ルルーシュは何故だか近頃豪奢な衣装ばかり纏った。市井に紛れることさえできそうな服装を好んでいたとは思えない。紋様が複雑に絡み合い、いくつもの目が並んでいるようだ。ゼロの仮面も近頃見ない。必要な用事はすべてスザクや朝比奈を経由した。相変わらず藤堂は頭数に入っていないようで、それが少し哀しいような辛いようなもどかしさが腹へたまる。
「お前は復讐したいか?」
「ふくしゅう?」
朝比奈の肩が跳ねる。スザクは黙したまま動かない。藤堂だけがほぇんと首を傾げた。致命的な隔離下にいた藤堂にはもちろん学習機会などなく必要最低限の知識さえ危うい。ルルーシュの元へ来てだいぶ改善されたがまだほころびは繕いきれていない。
「判り易く言うとな…お前は、あの牢獄の中でお前を殴ったりした奴をまだ殴り返したいかと訊いている」
藤堂の灰蒼が潤んだように泳いだ。朝比奈だけが辛そうに顔を背けて俯く。朝比奈は藤堂を捕らえていた村の住人であった。侮蔑と嫌悪さえ感じていた事実は朝比奈の中で、額から頬へ奔る傷痕のように引き攣れては痛んだ。藤堂は口元を引き結んで押し黙る。不服であるとか不快であるとかではなく、藤堂が思慮にふけるさいの癖だ。どうも思考に意識が集中するあまり表情が抜けて怒っているように見えるだけなのだ。元来精悍で整ったなりの藤堂であるから目につく。
「……思わない、と思う」
「ほう、理由を聞いてやる。何故だ。お前はかなりひどい目に遭っていたじゃないか」
ルルーシュは裾をさばいて朝比奈とスザクの脇をすり抜けると、藤堂が手を浸す水盤の縁へ座った。ぱしゃりと水輪が広がった。
「忌むべき神には忌むべき贄だ。お前の純潔は問題にされなかったろう。むしろ俺に捧げられる理由として、共同体の鬱憤晴らしとして、暴行を受けただろう」
藤堂は難しい顔でルルーシュの言葉を反芻する。常であれば判り易く話してくれるルルーシュにしては珍しくそういった配慮が薄い。紫苑の眼差しは刺すように強い。だが藤堂はそれを痛いとは思わない。皮膚がむずがゆいようなピリピリ走る刺激を感じるだけだ。それが不快であるとかいった判断は経験値に比例する。藤堂の他者の機微に対する経験値は著しく低い。藤堂の牢を訪うものは感情の発露と爆発と衝突と発散しかしなかった。
「殴られている時お前は、殴り返してやりたいとは、思わなかったか?」
がた、と朝比奈が駆けだすように去っていく。その背中を見ながら藤堂はそれでも声をかけるべきか迷った。朝比奈の背中は藤堂の声さえ拒否するように頑なに閉じたままだ。
「ほら気が逸れている。応えろよ、大事なことなんだ。言いたくはないが、この問答の結果いかんではお前を」
ぎらりと、紫苑が揺らいだ。密な睫毛の中に埋め込まれた紫水晶は酒の中へ落ちた石のようにギラギラと照った。
「殺さなくてはならなくなる」
藤堂は動揺さえしない。肩をすくめるように首を傾げている。
「私の理由はここに来ることで、だからその後の私がどうなろうとそれはどうでもいいことなのだと、思う」
藤堂に悲愴さはないし感じてさえいない。ただそれが自分の知っていることと判ることなんだ、と藤堂は穏やかに声を出す。藤堂は生まれた時から何かのために生かされているものであり、そのことは衝撃を与えたかったらしい襲撃者や凌辱者によって何度も繰り返し語られた。何かのために生かされているもの。その何かがなんであるかを知ったのは案外最近で、それはルルーシュだった。だからルルーシュが自分を殺すと言えば藤堂に異論はない。反論する考え自体が藤堂の中にない。ただ、そうなのだと、現状を受け入れる。
殴られること自体に異変を感じたのも朝比奈と知り合って以降だ。痛みは感じる。嫌だとも思う。だが、お前にはそれしかないんだと言われてきたから。生まれた時からそばにあるその痛みはもう当たり前になっていて殴られたり叩かれたり蹴られたりするのはもう当たり前になっていた。感覚器官は正常に働く、概念が働かない。藤堂は自分が痛いことをされるのは当たり前だと思っている。自分よりずっと華奢で年少の形をとるルルーシュの美麗な顔を、藤堂は覗きこむように見た。
「悔しくは、なかったか」
こくんと頷けばルルーシュは眉間に手を当てて深いため息をついた。藤堂が動揺する。何かルルーシュの気に障るようなことでも言ったか、したか、とおろおろした。
「る、るーしゅ?」
「まったく徹底した教育だ、恐れ入る。小集落であったからこその綿密さか。まぁいい…そのおかげで俺はお前を喰い殺す必要はないんだからな」
白く細い指が藤堂の纏う服の裾を取る。
「たわいもないことだが一つ聞こうか。朝比奈がどうして帰ってしまったか、お前は判るか?」
「わからない」
ふるふると首を振る。ルルーシュが切ないように目を眇めたが、そうか、とだけ返事をした。
「朝比奈は、村の話が、きらいなのでは」
ルルーシュの細い肩が揺れて笑う。裾を取って誓うように唇を寄せる。
「出来の良いお頭だ。いい勘をしている。だが理由までは判らんか」
うむ、と頷けばルルーシュの眼はますます泣き出す前のように潤んで揺れる。藤堂は村の話をするとき朝比奈がいづらそうにしていたり理由をつけてはその場を離れたりすることには気づいているが、何が朝比奈をそうさせるかは判っていない。
ルルーシュが水盤に手を浸した。こぽこぽと指先から気泡が生まれてはじける。ルルーシュは熱心にそれを眺めて居た後に手を抜いて、水を払う。きらきらと煌めく雫があたりへ散った。藤堂がしきりに目を眇めて瞬く。
「朝比奈は、好きか?」
振り向きざまの問いに藤堂がぐぅと黙る。間をおいてから、好きだと思うと答えた。ルルーシュは慈愛に満ちた目を向けて美しく微笑んだ。
「だったら覚悟しておけ。俺はお前に酷を強いるぞ」
お前みたいなのにうらまれるのも本望だがな、とうそぶいて去っていく。その後ろ姿をスザクが凝視している。スザクの眼は、藤堂の両手だけになった水盤を睨みつけるように見据えた。
藤堂は寝台の上で身じろいだ。さらりと背中を撫でるものがあり、それが自分の髪であると気づくまでにかなりかかった。切った方がいいかなと朝比奈が言っていてから数日も経っていないのに藤堂の髪は蔓草のようにうねうねと伸びた。かなり短くしても効果の持続は薄そうで、すぐさま肩まで覆いそうな勢いだ。食事をあまりとらない藤堂だがどこにこんなエネルギーがと思うほど旺盛に髪は伸びた。長い髪は厄介で思わぬ位置に入りこみ、姿勢の変化で挟まれたり引っ張られたりして痛い目を見る。いちいち存在を確かめるのも億劫だが気を抜けば頭ごと持って行かれそうな痛手を被る。寝ている間に手首や踝まで絡め取られそうだ。
たじろいでいる藤堂に気付いたのかとなりに寝そべるルルーシュがふふっと笑った。
「予定通りだな。俺のを力を宿したお前の体が膨大なエネルギーをなんとか発散処理してるのさ。落ち付けば髪の伸びも落ちつく。食事を取らなくても大丈夫になったのと同じようなことだと思えよ」
「…そうか」
鬱陶しそうに払いながら藤堂はじっと落ちてくる鳶色の髪を見る。
「……髪が長い、のは久しぶりだ…」
「鏡志朗、神は何故いると思う」
きょと、と藤堂が目を向ける。灰蒼の双眸を眇めて考え込んでいるが答えが出ないのか唸りだしそうだ。肘を立てて俯せた体勢のまま、うーうーと首を傾げている。ルルーシュはぼふっと枕に頭を投げ出す。
「求められているからだ。民衆が求める神像。不条理で納得できなくて解決も出来ない事柄の矛先に俺たちはされる。絶対的に手の届かない場所が理由であれば、人々は仕方ないと、少なくとも納得はできる。俺達は確かに刀や剣で刺されても首を落とされても死にはしない。だが、殺す方法はなくはない」
悪戯っぽくルルーシュの紫苑が煌めいた。じっと続きを待つ藤堂にちゅっと唇を寄せてから睦言のように囁いた。
「俺達、神のことを全ての人が忘れてしまえばいいのさ」
「尊敬に限らず畏怖でも恐怖でもいい。それは俺達を認めているからこその感情だからな。だが世界中の全ての人が俺達のことを忘れてしまったなら、存在できない。いいか、鏡志朗。知覚されない存在など存在していないに等しいんだよ」
藤堂が首を傾げる。言い回しが難しい。なんとか咀嚼しようと必死だ。
「いると言うことを知られていない存在は、本当にいると言えるのか、だよ。神と言うのは概念に近いからな。いないと思われるのではなく、全く存在を思惑外に置かれてしまえば俺達は存在のしようがない。そんな哲学的なことがあったろう、なんとかの猫とかいう」
「う、う……そ、そうなのか、私は何も知らないから」
「知らないとは強いな。全ての影響力を無に帰す」
ぱき、と硬質で乾いた音がした。二人ともが不意に響いたその音に身動きを止めた。その音は明らかにこの部屋の何物からも発することはない乾いた音だった。
ルルーシュの口が笑んだ。紅い唇が笑みをかたちどる。
「じかんだな」
ぱきき、と白い指先は骨のように乾燥した。ひびが入る。滑らかに触れていた指先とは思えないほど硬質に砕けていく。ぴし、ぴしと微音を立ててルルーシュの体は末端から砂へなっていく。砕かれた破片は寝台の敷布へ落ちる前に微粒子のようにさらに細かく砕けた。
「鏡志朗、失くすことを覚えるんだ。そうしないと、次にはもっと、辛い思いをするぞ」
ルルーシュの頬から潤みが消えて白く硬化する。刹那に稲妻のように割れ目が奔る。ルルーシュの砕けた手を添えられて下腹部を押した。手と呼ぶには欠落が激しすぎる。すでに手首のあたりまで砂と化して消えている。
まだ残っている方の手でルルーシュがぐり、と眼球を取り出す。見ているだけで痛そうであるがルルーシュは特に躊躇もない。藤堂にも推し量る概念が損なわれているからそれを見ているだけだ。ルルーシュが取りだした眼球を藤堂の下腹部へ押しつける。ごぽ、と気泡を孕むような音をさせてルルーシュの手ごと融けたように藤堂の腹へ消える。ルルーシュは藤堂の中へ手首まで浸けるように差し入れてから引き抜いた。指先にあった眼球はすでに欠片もない。
「移行は完了した」
ざぁあ、と撫でるようにルルーシュの姿が失われた。筆で刷いたようにルルーシュの髪も顔も肩も首も全てが砂と化して流れた。纏っていた衣服だけが残り、そのくぼみや隙間で白い砂がさらさらと流れている。
「――る、るーしゅ…ッ!」
思わず伸ばした藤堂の手が虚空を掻いた。布地でしかない衣服がまとわりつき、砂漠の砂のようにさらさらと白砂が流れ落ちる。藤堂がもがくように衣服を揺らせばそれに呼応するように砂がこぼれおちた。敷布へ広がり、さらには寝台の外にまで飛び散る。
「ルルーシュルルーシュルルーシュルルーシュッ!」
藤堂の思考は完全に恐慌をきたした。長い髪をなびかせて藤堂が寝台へ突っ伏した。その頬でさえ砂がざらつく。
「るるー、しゅ…!」
引き攣るような声に足音が高く響く。ばたばたばた、と粗暴にけれどそれゆえに火急であるとあらわすように。
「二人とも、どうか――」
スザクの声だ。藤堂が振り返る。腰を隠すだけの薄着を補うように長い鳶色の髪は首や肩や背中を覆った。
「スザク、くん。ルルーシュ、が」
藤堂の手が掴むのは白砂ばかりだ。さらさらと持ち上げても零れ落ちてしまう。藤堂がルルーシュの纏っていた衣服を揺らすたびに名残のように飛び散る。白砂に塗れて長い髪を垂らす藤堂の姿はさしずめ眠り姫だ。唐突な目覚めに戸惑っているかのように藤堂の言動が胡乱で不確かだ。
「るるーしゅが、すなになってしまった」
「伝言があります。『しばらくのお別れ。困ったらシュナイゼルに聞け』以上です」
スザクの声が沈痛だ。だが藤堂はその機微さえ言葉に示せない。目の前で砂塵と化したルルーシュをどうするべきか藤堂はいまだに判らない。ぎゅうと握りしめれば手の内で固まるが、拳を解けばすぐさまさらりと流れてしまう。
「…依り代の限界だったんでしょうね。ルルーシュの言葉を借りるなら、次の依り代を生むのは、あなただ」
スザクの碧色が沈痛に潤んだ。幼いようなそれはどこか年齢を感じさせない深みがある。
「ルルーシュが限界まで姿を見せていたなんてオレの知る限りでは初めてです。それほど、あなたが」
「好きだったのかな」
瞬間、藤堂の体内から狂おしい衝動が奔った。鳥肌が経つように皮膚がざわめき、内臓が振動する。うなじの産毛さえ逆立つように表皮をくまなく撫でまわすそれが恐怖なのか快感なのかさえ判らない。引き攣れた喉が渇く。喘ぎ声さえ出ずに藤堂の手は虚空を掻いて倒れ込んだ。頬にじりりと砂粒が痛い。潤んで柔らかな眼球にさえ食い込むその鮮烈な痛みがルルーシュの喪失を実感させる。
「…――…ぁ、あ…」
砂を握る。目に入った砂は溢れる涙が押し流す。頬さえ伝うそれを藤堂は理由も判らない。
ルルーシュは覚悟しろと言った。
藤堂は溢れてくる涙の流れを放り出して力を抜いた。萎れる四肢に髪が旺盛に絡みつく。髪は蔓草のように先端を様々に伸ばし、触れたものへ絡みつく。髪はすでに藤堂の背を覆い、腰にまで及んでいる。
白い敷布の上で白砂に塗れて伏せっている藤堂に鳶色の髪は絡みついて、水輪のようにじわじわとその範囲を広げている。うねうねと伸びる髪は人体と言うより植物のようだ。藤堂は体内から走る熱い拍動に身を任せた。
お前なら私怨に私を使わないだろうから私は安らかだよ
ルルーシュの静かな声がした。
砂粒に頬を寄せて藤堂は落涙した。
「とうど…――?! きょう、しろう…ッ!」
スザクの慌てた声と動揺と。藤堂は身を任せたまま涙で砂粒を押し流す目蓋を閉じた。びりびりといたみ、閉じた目蓋の上を撫でればいびつに飛び出る砂粒さえ判りそうだと思う。その痛みさえもが。
藤堂の手は知らず下腹部を撫でて覆った。
選ばれてしまったものの、選ばれた運命
その悲劇と始まりとを
《第一部 了》