オレが何かを失くしても
03:暗緑色との再会
さらさらとペンが滑る。細い棒のようなものを瓶につけるなり墨のような黒線を手際よく書いていく。初めてみるそれを藤堂は不思議そうに眺めていた。ルルーシュがたまらずにクックッと笑いだす。突き付けられた先端は金属製で丸く曲線を描くように加工されていながらそれ自体は平べったい。ぱちぱちと目を瞬く藤堂にルルーシュは面白そうに言った。
「お前は覚えも早いし反応が面白いからいいんだが、少しものを知るべきだな。これはな、付けペンというんだよ。このインク瓶に先端を突っ込んでインクを適量吸いつかせておいてものを書く道具だ。お前のところは何を使っていた。筆か?」
指先で筆をかたちどってみせればしばらく考え込んだ後に藤堂が多分と頷いた。
「私の前で何かしてくれるということはあまりなくて、私はあまりものを知らないんだ」
「無知からの脱却の第一歩は自分が無知であると認めるところからだ。その点、お前はまっすぐ育ってくれている」
しゃあっと滑るようにペンを走らせてから手元の書類を撫でればそれらは発光して方々へ散っていった。藤堂は面白そうにそれを見ている。
「本当にお前は面白く愛らしいな…」
ルルーシュの白い指先がたおやかに藤堂の頤を捕らえた。近づく唇の熟れたような紅さに灼けるようだと藤堂は思った。だが唇は寸前で止まった。こんこん、と冷たいノック音に二人ともが同時に顔を向けた。微苦笑を浮かべたスザクがそこに立ってしれっと告げた。
「侵入者を捕まえたよ」
スザクはさりげなく藤堂をルルーシュから引き剥がすと後ろから抱きついた。スザクの拍動が知れる。年若い少年にありがちの強く早い拍動。ルルーシュは面白そうに笑んだ。
「珍しいお客人じゃないか。どこのものだ」
「さぁ、正確には。ただ、藤堂さんのことを知っているようだよ。しきりに鏡志朗さんはどこだって言っていたからね。応接の間に転がしてあるけど」
ルルーシュは不快げに眉をひそめた。ルルーシュは計算高い半面、自分の思う通りに運ばないことを何より嫌った。
「どんなやつだ。同じ村の出身か」
「たぶんね。暗緑色の髪と瞳。片目には額から頬へ走る傷があるけど目を塞いではいない。丸眼鏡をかけて、君が嫌いそうなタイプさ。しきりに鏡志朗さんはって騒いでる」
「朝比奈…!」
藤堂はスザクの拘束を振り払うと部屋を駆け出て行った。スザクは少しびっくりしたようにそれを見送ったがルルーシュは不機嫌そうだ。
「それで?」
「ゼロ様の出番じゃないかと思ったんだよ。まさかこのまま帰すわけにもいかないだろう」
「やれやれだ。食ってやりたい気分だな」
「藤堂さんに恨まれるよ。あの様子じゃ知り合いみたいだし」
ルルーシュは机の上を簡単に片付けると仮面を取り出して嵌めた。何の凹凸もない平面が丸く頭部を覆う。襟の高いマントをはおり、スザクを後ろに従えてルルーシュも藤堂の通ったのと同じ通路を通った。
「どうするんだい、彼らが知り合いなら面倒になりそうだけど」
「さて、どうしてくれようか。俺の藤堂を鏡志朗呼ばわりとはご挨拶だな」
「朝比奈!」
衣服の裾を乱して駆けこんでくる藤堂を朝比奈は茫然と見ていたが拘束を解こうと身動きした。
「鏡志朗さん、よかった生きて…!」
藤堂が朝比奈の拘束を解いてやる。縄が床へ落ちる前に朝比奈は藤堂へ抱きついた。
「鏡志朗さん! よかった、オレ、オレ…! あなたがもういなくなっていたらどうしようかってずっと、ずっと…!」
藤堂のすべてを確かめるように朝比奈の手が体の上を滑る。布を巻いているだけのような衣服の上も、そこから覗く刺青の上も、その顔立ちや骨格や体つきを確かめるように朝比奈は撫でた。頬に走る幾何学模様をたどりながら朝比奈が泣いた。
「あなたが生きていてよかった…! オレはオレを、一生赦せなくなるかと、思って…」
「私がここへ来たのはお前の所為じゃない。お前は普通に暮らしていれば」
「鏡志朗さんをこの死神のもとへやったのは全員の責任です、オレだって入ってる…それがずっと、赦せなかった…!」
「あさひな」
藤堂がその頬を寄せれば朝比奈も応えるように頬を合わせた。猫が体をこすりつけ合うようにじかに触れてその在りようを確かめあう。
「鏡志朗さん」
「そこまでにしてもらおう」
バサッと翻るマントに丸くのっぺりした仮面。驚いて声も出ない藤堂をスザクがさりげなく朝比奈から引き離した。変声機を通したかのような機械音声も藤堂は久しく見聞きしていなかった。ルルーシュの一面を忘れかけていた自分の愚かしさに腹が立つ。
「お前が、ゼロ様。死神が」
「なかなか威勢がいいな。ご挨拶じゃないか。貴様とて知っているだろうが藤堂鏡志朗はすでに私に捧げられた贄だ。私の、モノだ」
「トウドウ?」
「朝比奈、私は彼に名字というものをもらったんだ、それで私は藤堂鏡志朗になった」
「韻を踏んだみたいな美しさは鏡志朗さんにぴったりだけどね、それっくらいで自分のものだなんて主張してほしくないね。鏡志朗さんの何を知っているっていうんだ」
「すべてだ。彼がどこへ吸いつけば艶っぽく喘ぐか、ここで列挙してやってもいいぞ」
大げさな身振りではなされる内容に藤堂が顔を赤らめた。その様子から朝比奈はそれが事実であることを知った。元々彼は隠しごとがうまい性質ではない。何かあった時はすぐに判った。
「鏡志朗さんを、抱いたのか!」
「捧げられた贄を抱こうが喰おうが私の勝手だ。貴様に認めてもらったり許しを請うことなどない」
ばさりと大仰にマントを翻す。
「スザク、殺せ」
「スザク…?」
朝比奈がじり…と間合いを取る。顔に走る傷が示すように朝比奈とて一人前の武人だ。易々と殺されてやる気などないし、ましてや目の前に求めた人物がいればこそ死んでやる気もなかった。
くるくると毛先の元気よく跳ねた赤褐色の短髪がそよりと風に揺れた。碧色の瞳を朝比奈がじっと見ている。朝比奈は一見すれば黒色に見えるがよく目を凝らせば緑の艶を認められる暗緑色をしている。髪と同じ色の瞳は大きく嵌めこまれた宝玉を思わせた。スザクの手が剣の柄に触れ、構えを取る。空手でそれに立ち向かう覚悟を朝比奈が決めた刹那、二人の間に人影が飛び込んだ。
「やめろ!」
「藤堂さん?!」
「鏡志朗、さん…」
スザクが驚いて構えを解き、朝比奈も呆気にとられた。スザクと朝比奈の共通の進路をふさぐあたり、隠れた才が窺えるというものだ。藤堂はゼロとなった彼をまっすぐに見つめて言った。
「無理を承知で頼む。朝比奈を、生かしておいて欲しい」
「鏡志朗さん、オレは!」
「鏡志朗さんて呼ぶな! 馴れ馴れしい」
吐き捨てるようなスザクの様子に朝比奈は歯噛みしたが、進路に藤堂がいて反撃することもできない。
ゼロがゆっくりと振り向く。マントの裾すら動かさないほどゆったりとしたそれは藤堂をいたぶるように見下ろした。
「では藤堂。お前はこの私に体を捧げたな? その願いは聞き届けてもいい、代わりに何を支払う」
「支払う…」
「藤堂、望みには対価というものが必要なのだ! 何かを望むなら何かを捨てる覚悟で臨まなければならない! お前の体はすでに私の手中にある、ならば空手のお前は私にその朝比奈とやらの命の代わりに何を差し出す?」
「私の、差し出せる、モノは…」
藤堂が逡巡した。スザクは黙って藤堂と朝比奈を見比べる。藤堂は意を決したかのように目蓋を閉じて息を吸ってから凛と背筋をただした。静謐なそれはただ美しく。開く灰蒼の瞳は何と蠱惑的に美しい。
「…ゼロ、様。私の差し出すものは…、私は、君を」
藤堂が言葉を紡いだ刹那、動いた影が藤堂にぶつかった。頤を捕らえて口付ける。重なった唇の驚くような冷たさと濡れた感触に藤堂は相手が涙しているのだと初めて知った。
「言わないで。お願いだから、鏡志朗さん…言わないで。それを言われたら、オレは生きていけないよ――」
「朝比奈?」
「お願いだよ、鏡志朗さん、後生だから。お願い、言わないで。何も言わなかったことにしてよ。そんな言葉聞きたくないんだよ、それだったらオレが死んだ方がましってもんだよ…だから、お願い」
うつむいて涙をこぼす朝比奈に藤堂は当惑げに口をつぐんだ。眼鏡が落ちてカシャーンと無機的な音をさせた。
「だっておれはあなたをあいしているのに」
見開かれていく灰蒼の瞳。スザクがじりっと戦闘の間合いをとった。死神と仇名するゼロは動かない。朝比奈はもうすべてを捨てる覚悟ですべてを口にした。これ以上ぼかすことも隠すことも誠意を欠くと信じた。
「鏡志朗さん、オレはあなたを愛してる。あなたを贄に差し出すと決まったときにもただ罪悪感だけだと思った。ずっと世話していたから。だけど、違ったんだ。オレはオレに嘘をついていた。オレは、あなたを差し出すということが、受け入れがたかっただけなんだ…! あなたをむざむざ、死神なんかにくれてやった自分が赦せなかったんだ!」
涙に濡れた瞳はただ真摯で、その様は無様で、しかしそれゆえに限りない親愛の情を呼んだ。
「あさひな」
朝比奈がくしゃりと顔を歪めて泣いた。感情のままに生きられる若さが藤堂は少し羨ましかった。自分だったらきっともっと打算的になるだろう。そんな思いすら胸に秘めて忘却の彼方へ押しやってしまうだろう。けれどこの朝比奈は、どれだけの勇気が要っただろうか、自分自身の秘めた醜い部分と向き合いこうして行動しているのだ。その健気さと一途さに藤堂はもう何を喪っても贖うことなどできないと知った。彼の気持ちに応えその罪を贖うには彼もろとも死ぬしかなかった。愛情の罪深さに藤堂は涙したかったが潤んだように揺らめく灰蒼の瞳は一滴もこぼしてはくれなかった。藤堂は自身の愚かさと同時に露呈した罪深さに跪いて詫びたかった。あぁ、愛情とはかくも他者をも巻き込むのに移ろいながら過ぎゆくのだ。その愚かさと愛しさと罪深さと。
「――…」
藤堂は口を開いた。わななく唇を朝比奈が絶望的な顔で見る。
「ゼロ、様。私は」
私が死んでも、君のためになるなら、私は
「はははははは!」
ゼロはそののっぺりとした仮面のまま、呵々大笑した。あまりの衝撃に藤堂はおろか朝比奈すら言葉がない。スザクも呆気にとられたようにそちらを見ている。ゼロはその痩躯をよじって大笑いしていた。マントの裾が妙に照って艶を帯びる。手袋をはめられた手が仮面に添えられ、ゼロは仮面を外してルルーシュとなった。
艶めいた濡れ羽色の黒髪をなびかせてルルーシュは大仰な身振りをした。スザクが慌てて彼を制止する。
「ルルーシュ! あいつを殺すのか?! そんな素顔を、見せて…!」
「素顔? 死神サマが、あんなガキ?!」
スザクが慌てて口をふさぐがもう遅い。元より朝比奈は愚鈍ではないし敏い性質だ。これまでの文脈からルルーシュがゼロであることは悟っているだろう。
「いいだろう、貴様の名を訊いておこうか、現の人よ」
「…朝比奈だ。朝比奈省悟だ」
ルルーシュは大仰にマントを翻して虚空へ手を差し伸べた。
「貴様を預言者として認めてやる! この地神であるルルーシュ・ヴィ・ブリタニアの預言者であることを認めよう! 貴様は此処の出入り口に庵を立てて住めばいい」
「ルルーシュ、それは。朝比奈を、助けてくれるというのか…」
「あぁ、そうだ藤堂鏡志朗。ただし今晩は献身的な態度で寝床へ臨んでもらうぞ、その程度で済むんだ、安いものだろう?」
ルルーシュの紫苑色の瞳がきらりと煌めく。藤堂はこくんと頷いた。
「鏡志朗さ」
「悪いがその呼び方はやめてもらおう。貴様の鏡志朗はすでに俺に捧げられて藤堂鏡志朗となった。鏡志朗と呼び捨てていいのは所有者たる俺のみだ。嫌なら力ずくでも従わせるが、どうする?」
ぶわっとルルーシュの纏う雰囲気の圧力が変わる。言ったことは実践するだろう恐ろしさ。彼が地神として恐れられるにはそれなりの理由があったのだと朝比奈は遅ればせながら悟った。
「…判ったよ、トウドウさん、ならいいだろう」
片目を紅く紋様を浮かび上がらせかけたルルーシュは朝比奈の返答に満足げに瞳を元へ戻した。
「トウドウってどんな字を書くのさ。下手な字を当ててたら承知しないぜ」
「植物の藤にお堂の堂さ。美しいだろう、鏡志朗によく似合う」
「はん、変な字を当ててたらそれを理由にオレがお前を殺してやろうかと思ったけど。救われたな。藤堂か、綺麗だ」
「この俺がそんな失態を犯す愚か者に見えるとは心外だな。鏡志朗という名も美しい、誰がつけたかは知らんがな」
「藤堂さんが自分で考えたのさ」
ルルーシュの引っかけにも朝比奈は引っ掛からずにすり抜けた。藤堂をきちんと藤堂と呼んでルルーシュへのけじめをつける。そんな聡明さが微笑ましく愛おしかった。
「オレが言語辞典を持ち込んで、自分で鏡志朗と名を決めたのさ。藤堂さんは呑みこみも早いし頭のいい性質だから辞典の一冊くらい理解するなんて訳ないんだよ。お前も見くびってると足元すくわれるぜ」
「それは頼もしいことだ! スザク、庵を建てるのを手伝ってやれ。藤堂、お前は俺と来い。献身的の意味を実地で教えてやるよ」
トン、と藤堂のもとへ降り立ったルルーシュが藤堂の腕を引く。藤堂は引っ張られながら朝比奈を気にしている。
「ルルーシュ、朝比奈は」
「大丈夫さ、スザクだって馬鹿じゃない。殺しはしない。それより藤堂、俺に何を言おうとした?」
藤堂は応えあぐねた。ここで言ってしまっては朝比奈の努力が無に還ってしまう気がして口にするのを躊躇する。
「…ひ、秘密だ」
「はは、それはいい。お前も一つくらい秘密を持て。秘されている部分こそ暴くのが愉しいというものだ」
ルルーシュはくるんとマントを翻して朝比奈に笑んだ。
「何事にも好敵手は必要だ、そうだろう?」
「足元すくわれないようにしとけよ」
朝比奈はそう言い捨てるのが精一杯だった。ルルーシュは藤堂を引っ張って奥へ消える。藤堂も朝比奈の意志を尊重してか無理に逆らう気配もない。
「朝比奈、と言ったか」
「そうですけど?」
「俺は枢木スザク。君の庵を立てるのを手伝うよ」
そう言って朝比奈が差し出した手を無視してスザクは出入り口へ向かった。
「ふぅん、枢木、スザク? 枢木スザク…どこかで…」
朝比奈はぶつぶつ言いながらスザクに従った。暗緑色のその瞳が緑柱石のようなきらめきを宿していた。
「ルルーシュ、私は、あんな」
「ほぅ、お前はあの朝比奈とやらの覚悟を無駄にするのか?」
ぐぅ、と藤堂が黙る。藤堂は恐ろしく打たれ強いが反面で心を許したものにはもろかった。藤堂の信頼を得るのは難しいが得てしまえばあとはどうとでもなる。
「大丈夫だ、殺しはしない。俺は死を司る神だぞ? その俺が死なぬと言っているのだから信じろ。だいたい、これから近日中に死ぬ者のリストに朝比奈の名はなかったぞ」
「本当か?」
藤堂が確かめるように問うた。甘い菓子を飴をそのまま嚥下してしまえばいいのにそれを確かめる、それは聡明さゆえに。それが実に愛おしい。
「本当さ、うそをついてどうするんだよ。お前も俺を信じろ。俺はお前の主だぞ?」
性質の悪い笑みを浮かべる唇の紅さは灼けつくようだった。瑞々しく弾ける直前の果実の危うさ。ぴんと張り詰めながら瑞々しい潤いを保つそれは魅惑的だ。人にあり得ざる美しさ。
「鏡志朗、俺にもっと友好的に体を拓けよ。あの朝比奈とかいう輩には抱かれたのか? 藤堂…否、鏡志朗」
「…抱かれて、無い。朝比奈はそんな無理強いをする奴ではない」
「なるほど、安心した。俺はお前のすべてでありたいと願うのは罪深いかな?」
「…私はもう、君のものだ」
「体はな。お前の心はまだ、あの朝比奈とやらへ移ろうだろう。完全なる支配とは言えないな。ふふ、この俺が、人間一人手篭めにするのを戸惑うとはな…お前は実に興味深いよ。この俺を、地神を、あちらこちらへ振りまわすのだからな」
「私にそんな力は――ない。ただ、諾々と従うのみだ」
ルルーシュは紅い唇を歪めて哂った。
「お前は本当に頭がいいな。本当ならそんな深部には気付かず、ただ神のお気に入りであろうとするのが常だというのに。だからこそこんなに愛しいのかな」
バタンと扉が開いてその先にはたっぷりとした大きな寝台が設えられていた。
「さぁ藤堂鏡志朗。お前の贖いの時間だ」
藤堂は黙って身にまとう布を脱ぎ捨てて裸身になった。冴え冴えとした蒼い刺青だけが煌々と光を放っているかのようにルルーシュは目をすがめて藤堂を見つめた。美し人に触れられるものはなく。ただ孤独のみがある。
「お前は本当に美しいよ、鏡志朗」
ルルーシュは寝台へなだれ込みながら楽しげに子供のように無垢に言葉を発した。藤堂はそれに応えるように舌を這わせた。
《了》