冷たい日だから寄り添って


   雨の日は


 運動部にとって雨は程度の差こそあれ憂鬱なものだ。サッカーは基本的に屋外でのスポーツであるし、広く場所を使う。雨降りの時に使用できる体育館という運動場に狙いを定めるのはサッカー部だけではないし屋内スポーツの部に宛がわれている場である。雨が降ったからと言って場所を借りるのは簡単ではない。互いの領域を侵さずにできるのは筋トレくらいだ。ましてや学校側からの援助が見込めるほどの支持をサッカー部は得ていないし部活動に高い優先を割り振るほど自由な校風でもない。だから結果的に雨降りの時は出来ることも限られるし集まりも悪い。そして天城は個人的に時間を割けば出来ることをわざわざ集団でやろうとは思わない。
 体育館と同じように人が集まるのにその性質から図書室は静かだ。さざめくような話声はひそめられ互いに干渉しない距離を取る。時間が経てば面子も入れ替わるし雨の日の気怠さは意欲を萎えさせる。一人、一人と減っていく人数を数える。特に今日の雨は曲者のようで体育館のざわめきや気配をかき消し、怠さが増す。ざあざあとした雨垂れの音は耳の底を撫でて眠気を誘う。カリカリとペンを走らせるのが止まりがちになる。受験が視野に入る学年だがそれほどの差し迫った実感もない。ただサッカーに熱を入れるのと同等以上の成績を求められている。経緯があってこの学校に入ったが求められるものは変わらない。サッカーで身を立てると決めているがまだ環境が伴っていない。大企業の直系として保つべき体裁や成果がある。サッカーをやるというのは天城の意思だがその権利を得るために勉学の成績を維持するという条件が付く。かまけていると障りになると判断されれば取り上げられるだけだ。そして天城はそれを阻めるほどの力をまだ、得ていない。
 憂鬱のひどくなる雨についに居座るのは眠っているか自習に夢中かだけになる。天城はどちらともつかない怠さを覚えながら参考書や問題集のページを繰る。天城は時折暴力沙汰も起こしたが講義の進行を遮ったり滞らせたりする性質ではない。金持ちの坊ちゃんとして絡んでくる連中は叩きのめすしサッカーの試合でも堪えの利かない時もある。だがいわゆる不良だと呼ばれるような分類ではない。恵まれた体格と腕力を出し惜しまないだけだ。
 嘆息してペンを置く。それを見計らったように声がかけられる。天城。畏怖を呼ぶ体躯や言動の天城の名をこうも気負いなく呼ぶのは一人だけだ。きしりと椅子を軋ませて半身を開けば図書室の人気は思った以上に少なく、貸出カウンターの奥では司書が作業に没頭していた。
「雨宮か」
眼鏡の優男だ。サッカー部の監督でなおかつ教師でもあるのだから先生とでも敬称をつけるべきなのだろうがこの男を敬うというのはなんだか呑み込めなかった。ひょこひょこと引きずる両足は悪くして長いのだろう慣れと対処を見せる。
「ここじゃないかと思ったんだ」
挨拶がわりのそれに返事をしないのを了承と取ったか帳面をのぞき込む。滞りはなさそうだね。もっとも僕は門外漢かな。几帳面だがくせのない字がつづられている。家庭環境に見合うだけの、姿勢や所作、字を書くことや教養として知っているべきことなど基本的な技術は叩き込まれている。雨宮は帳面を一瞥してから、でもと付け足す。天城の放り出したペンを取りかりかりと書きつける。こういう方法もあるんじゃないかな。穏やかだが拒ませない強さを秘めていると思う。
 「何の用だ」
「天城がいなかったからね。何をしているのかなと思っただけだよ」
サッカー部は自主練習だよ。もっとも借りられた場所は広くはないから筋トレをしている子が多いけれどね。想像通りのそれにそうかとだけ相槌を打つ。沈黙の隙間を埋めるようにざあざあと雨垂れの音が響く。窓に面した机を占領していたから硝子を濡らす雨滴が見える。雨宮は眼鏡の奥の目を眇めた。痛いような切ないような表情に無視することもできない。
「雨だね」
「…だから、なんだ」
「古傷が疼くなと思って」
それが悪くした足のことだろうとは判る。だが平素は衣服で隠れている場所であればその傷の深度も影響も判らない。歩行が少し大変そうだということは怪我が後を引いてでもいるのだろうと、けれどしょせん想像の域を出ない。傷を見せられても判らないだろう。もしかすると古傷というのは心の方のことを言っているのかもしれなくて、天城は結局この男のことはよく知らない子供なのだと実感するだけだ。だからこの雨宮東吾という男を素直に先生だとか監督だとか呼べずにいる。ただ指導の端々にサッカー経験者らしい一面が覗くからある程度信用はしている。
「傷が痛むなら帰れ」
冷淡ともとれる天城の言葉に雨宮は怯みもしない。
「痛みはしないよ。もうそれほど鮮烈じゃないからね。それより気を使ってくれるなんて珍しいね」
背を向けるつもりで机に向かったが剥き出しのうなじにちりちりと視線を感じるような気がして集中できない。雨宮の指摘に気を付けて設問を解けば滞りはない。それが気に障る。まだ知らないことのある子供なのだと暗に言われたようで不服だった。
「今度模試があるけど受けてみるかい。天城は塾とかに通ってはいないみたいだから」
言いながら強硬に押し付けても来ない。返事の必要はないと判じてそっぽを向く。参考書のページをめくる手つきのひとつひとつを見つめられている気になって震えるかのようだった。
 肩に手が置かれる。単純に支えを必要としての接触だと思うのにどこか色香が漂う。顔が向く。思いのほか、近い。
「あま、み」
「静かに」
唇が重なる。雨宮は天城の肩に手を添えて体を傾がせている。眼鏡の冷たい金属さえもがぬくんでいるかのようだった。舌が入ってくるでもない触れあっているだけのキスだ。柔い肉の感触。見開いて見つめた雨宮の眇められた目の怜悧さにぞくぞくと背筋が慄えた。参考書や問題集や、覚えたはずのことはすべて飛んだ気がした。時間がひどく長く感じた。ちゅ、と濡れた舌先が離れ際に唇を撫でていく。何か言おうとして先んじられる。
「燎一」
ぞくり、と震えが奔る。どこか昏さを帯びたその双眸に惹きつけられる。手が、伸ばされる。びくりと体をすくめそうになるのを叱咤する。ぽん、と頭に手を置かれる。色素の薄い短髪を梳くように撫でられる。
「もう一度キスしていいかい」
「言うことか」
「していいんだ?」
穏やかな顔立ちが迫って天城は思わず目をつぶった。その目縁を指の腹が撫でる。泣かせちゃったかな?
「天城」
ざあっと雨垂れが不意に強く窓硝子へ打ち付けた。

「     」

聞こえない声に問い返そうとしてそれを拒まれる。開こうとする口元はつんと指先ひとつで閉じさせられ、眼差しから逃れるように雨宮は天城の肩へ顔を伏せた。抱擁される。天城はされるままに身を任せた。
「雨の日は人恋しくなるね」
「俺はならない」
「まだ子供だからだよ」
明確な子ども扱いにカチンときたが反論はしない。まだ保護者の庇護が必要な立場であるのは判っている。
「天城」
雨宮の声は心地よい。奥底まで浸透する声だ。慄えを呼ぶそれに逆らう気さえも起きない。もう少しこうしていてもいいかな。何故。
「天城はゆくゆくは海外へ行くのだろう。だから、せめて今だけ」
「俺が海外で通用すると思うのか」
弱気になったわけではない、と思う。取捨選択の厳しい世界であるのは事実だ。技術や実力があっても指導者の思う方向と違えばあっさり切り捨てられることは身に染みている。雨宮はふふと笑った。
「思うよ。僕の手の中から出ていくだろうこともね。……燎一」

好きだよ。

返事はしない。返事をしたらすべてが決まってしまって取り返しがつかなくなりそうで、天城はそれが少し、怖かった。ぎゅうと抱きしめてくるぬくもりはひどく冷たいように温度が低くて身震いした。くすり、と雨宮の笑む気配がする。忘れないでいてくれると嬉しいな。何を? 雨宮は応えない。ただ、名を呼ぶ。
「燎一」
その韻を体に染みとおすように聞く。馴れ合いだ。真っ当な恋愛なんかじゃない。でも。それでもいいと思っている。雨宮東吾という名とその響きを天城は噛みしめた。

天城の体躯や雰囲気にも物怖じせずに話しかけてくる男だった。
サッカー部の監督で、教師で、けれど同時に男でもある男だった。
薄れても上書きされても、この男の存在はきっと残ると茫洋と思った。

たぶん好きなのかもしれなかった。



《了》

久々に笛! 再燃しました!!               2020/03/08UP

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