死ぬより愉しく、愛するより辛い
暗がりに隠れて
着いた場所は都会でも鄙でもない場所だ。梢の鳴る音や傷んだ舗装道路に落ちる緑陰の闇は深い。皮膚へじわりと染みてくる陰気な温度ももう瀧には馴染みだ。能力の発露も経緯も原因も興味はない。それなりの事件を経て気がついたら能力があり、団体がそれを必要としていた。だから瀧は役目としてこの行為に耽っている。完全に改変された肉体や元が想像できない形のものも全部瀧は一緒くたにして鉈を振るう。胸を悪くするどころの規模ではないその行為が唯一瀧をこの世界に繋ぎ止めるものだ。そのために瀧は呼ばれ請われて行う。
車で乗り付けた其処には眼鏡をかけた人の好さそうな男が立っている。最低限の身繕いのなりは彼の年齢さえ埋めてしまう。眼鏡の硝子は綺麗だ。瀧は促すように助手の背を押す。コミュニケーションの一切を放棄してから長い瀧は駆け引きや会話を避ける。相手が神狩屋であれば尚更だった。神狩屋は相手をけむにまいたり結論を出さずに長々語ったりするので見極める力も終わらせる能力も持ち合わせない瀧が相手をすると延々続く。助手も心得ていて神狩屋の方へ向かっていく。あたりを見回してからポツポツと赤い華が咲くのを見つけた。その跡をたどっていく。偉丈夫である瀧にむやみに喧嘩を売る奴は少ないし買った所で負けることも少ない。暴力的とさえ言える効果のもとで瀧は常々破壊を繰り返している。すぐに大本へたどり着いた。壁と言わず地面と言わず一面にぶちまけられた紅色は量の割に薄い臭いだ。臓腑の腐敗や損壊はそれなりの臭がすることが多いのだがと不審がる瀧の視界に男物の靴先が入ってくる。
瀧と同じように黒い上下に白いシャツ。締められたタイは簡易な冠婚葬祭用の黒いものだ。確りした体つきや服装は瀧との類似点も多い。入谷克利。違うのは顔立ちや髪の長さくらいだ。入谷のほうが少し人当たりの優しい顔をしている。髪も肩をかすめる程度に長いのを流している。鼈甲色の髪や目は光に透けて琥珀や金色に透明度を増す。顔立ちは綺麗な方だと思うのだが険しい表情しか見たことがない。団体に所属して仕事もするのだが、能力の発現条件の関係でたいてい単独行動をしている。効果としては残酷なくらい強力で負荷も大きい。だからこその制限なのかもしれない。入谷は見下げる眼差しを投げたきり何も言わない。瀧はそのまま血痕を調べる。通常のくくりに収まらないものと普通ではない戦闘の後であるから、標的が死んでいないことも五体満足でないこともままある。人としてのなりを保っているもののほうが珍しいくらいだ。いつもの様に鉈を片手にうろつこうとする瀧の脚を入谷が蹴った。痛いというより障害という意味での非難を込めた目線に入谷は傲岸に肩をすくめた。
「無駄だからよせ」
「無駄?」
仕事が生じるから呼ばれるという立場の瀧がいぶかる。瀧に任せられるのは処理であって予防ではない。ことが生じた後始末の役割だ。
本尊がいないんだよ。総出で探してる。屈んだ瀧は足元の血だまりを探る。紅く剥離したそれはパリパリ割れている。時間が経っているのは間違いなさそうだ。見たところ本体もいないようでもある。影がさして血だまりが黒く濁る。気づいて目を上げると入谷はすぐそばに佇んで瀧を見下ろしていた。だが特に言葉をかけるでもなくどうでもいいと言いたげに見据える。入谷の眼差しから感じ取れるのは鬱陶しさと面倒くささくらいだ。好意的や積極性の働きかけは見られない。むしろ嫌悪や憎悪のたぐいだ。立ち上がる機を逸して屈んだままでいる。入谷は瀧の上へかさにかかるように立っているから余計に立ち上がり辛い。お前のうなじって意外と白いな。馬鹿馬鹿しくなったので押しのけて立ち上がる。助手と相談するべきかと踵を返した手首を囚われた。不意に強く引かれて体が傾ぐ。バランスを取ろうと弛んだ体幹を突き飛ばされて壁際に追い詰められた。入谷のほうが瀧より細身で小柄なのに威圧感がある。入谷の琥珀色の双眸はわずかに見上げているから瀧のほうが丈があるのだろう。壁へついた入谷の手が白い。腕が瀧の視線を遮って孤立させる。瀧の体が自然と退こうとして壁の方へ反る。紅い剥離片がぽろぽろと襟から入り込んで痛い。固い欠片が背中をひっかく。
入谷の口元が歪む。釣り上げられた口角で唇が薄く広がるのが見えた。<葬儀屋>。瀧の通名だ。本名より知れ渡っているのかもしれない。変異した人間の後始末を行うので誰共作しに呼び始め、瀧も訂正や撤回を求めなかった結果として定着した。其処に含まれるのは侮蔑と戒めと自分はこうはならないという差別化だ。お前に似合うぜ。<葬儀屋>。頤を捕らわれる。真っ直ぐ睨んでくる双眸に動物の本能として目線を外す。微動だにしない強さで掴まれて頤がきしみそうだ。助けを求めるつもりで耳を澄ませると助手と神狩屋の歓談する音がかすかに聞こえる。声を出して助けを求めることを考えたがこの状態を見られることに抵抗がある。倫理も論理も擦り切れたがまだ男として保ちたい外聞くらいはある。瀧の逡巡を見破った入谷はますます嵩にかかってくる。お前が助けて欲しいのか? 明確な揶揄に瀧の眉根が寄った。しかめる顔を見て入谷の口元は嗤いに弛む。
男に犯されそうな気分はどうだ。どうでもいい。切って捨てる瀧に入谷は鼻を鳴らした。不満というより楽しげだ。どうでもいいってことは経験があるんだな? 返事をしなかった。言われてみればそうだな。こういう時は気持ち悪がったり嫌がったりするんだよ。だからどうでもいいと言っている。どうでも良くなるくらい慣れてるのか? 瀧は頤を押さえる入谷の手に爪を立てた。手に持つ鉈をふるってこの入谷を切り刻んでやりたいくらいだ。たいていの相手をやり過ごす瀧にとって何故か入谷だけは別格だ。他のものは嫌っても憎んでも瀧と正面切って衝突しない。入谷は正面から瀧を蹴り飛ばして平気な顔をする変わり者だ。瀧が反発すればそれにも相手をするし、言い返されたからといって折れるような性質でもない。元来人嫌いの瀧にとって避けてくれない相手は面倒なだけだ。以前に耐えかねてそう言った。横っ面を張られた挙句に、そういうのが判るから余計に腹がたって殴りたくなるんだよと言われた。瀧も入谷を相手にしたときは明確に不本意をあらわにする。
入谷の顔ばかり見ていて前兆に気づけなかった。入谷の口元が弛んだ、刹那に下腹部に冷たい手が滑りこんで声を上げそうになった。引き攣って膨張する胸部や喉を全力で押し殺した。ひゅうと息を吸う音が漏れるのを入谷が満足気に眺めている。冷たい指や手はすぐに瀧の抜き身を掌握した。お前のその面大ッ嫌いだ。ぶち壊してやりたくなる。混乱する瀧の手から鉈が奪われた。顔のすぐそばへがァンとたたきつけられて刺さる。思わず見開く漆黒の双眸に入谷はニヤニヤ嘲笑った。
「おとなしくしてろ。顔に傷を残したくないだろ」
睨みつけることさえこたえない。精悍な瀧の顔立ちは時折何もしていなくとも避けられるくらいには威嚇的だ。瀧の威嚇さえも入谷には通じない。そんな顔で見るなよ。ぞくぞくする。短い黒髪を鷲掴まれて引っ張られる。頭皮や髪の毛が引き攣れて痛んだ。表情が歪むほどに入谷の笑みは深まっていく。平素の入谷は驚くほど笑わない。瀧が半ば性質として会話しないのと違って入谷は自分の意志で沈黙している。口も利くし嫌味も言う。
瀧の立てた爪痕から血が滲んでいる。入谷は痛がりもしないで瀧の目線を目で追ってから初めて気づいた。なんだこれ、誘ってんのか。入谷の口元だけが笑う。眇められた目は潤んだように揺らいでは瞬く。それでも涙の一滴、一筋さえも頬を濡らす気配はない。
「――は、なせ!」
払いのける勢いのままに翻った平手で打ち据えられた。なめてんのか? 入谷はハッキリとモノを言う。神狩屋のようにけむにまかないし他のもののように瀧の身なりに怯んで曖昧にしたりしない。首筋に噛み付かれた。がりっと音がしてついで灼けつく痛みが全身を疾走った。悲鳴も抗議もあらゆる音や声を息ごと殺す。押しのけようとする手や指を壁に押さえつけて爪を立てて堪える。びくびくと痙攣的に慄える指先を見て入谷は優しく笑んだ。いい子にしてれば好くしてやるよ。抜き身をなぶられた。
肩を揺らして荒い呼気に喘ぎながら瀧は助手と神狩屋の気配がないことに気づいた。話し声が聞こえていたのが今はうんでもすんでもない。耳を澄ませても聞こえるのは屋外独特の風の鳴る微音や枝葉の擦れる音ばかりだ。しきりに窺おうとする瀧に気づいた入谷が鼻で笑う。お前の助手なら神狩屋が連れて行った。どこへ。知らない。お前と寝るから連れ出せといってある。は? 高価かったぜ。瀧は軋む体をおして起き上がろうとする。瀧が必要になる仕事に猶予はない。時間がたつほど事は厄介になるような性質のものばかりなのだ。入谷は平然と嘯いた。急いで行っても仕方ないと思うぜ。読み取れなかった瀧が眉をひそめるのを入谷はそっぽを向いた。男が入って行きづらい場所とかあるだろう。あるのか? 知らない。ただ緊急性はないだろうって神狩屋の見立てだぜ。目眩がした。神狩屋はあえて瀧にその辺りの変更を伝えなかったことになる。入谷は弁明も言い訳もこじつけもしない。謝りなどなおしない。見越した入谷が言う。文句なら神狩屋に言ってくれ。俺はちゃんと対価は支払ってるぜ。
瀧は血塗れの壁に裸の背を預けたまま茫洋と思った。そういえば入谷とキスしてないな。体をつなげても不要な接触はしない男だ。首筋には何度も噛み付かれて歯型が体の所々へ残っているのに唇だけは吸われていない。キスしたかったわけじゃない。
「克利」
名前を呼ぶと入谷がビクンと震えた。天ヘ差し出すように上げた両手が入谷の髪や襟を掴む。そのままバランスを崩して膝をつく入谷の頬に手を添えて唇を重ねた。身じろぐだけで腰の奥から突き上げる痛みが走る。入谷はそういうところは顧みないし気にもしない。瀧も訴えない。
無言の口づけが終わって二人は濡れた息を吐いて離れた。瀧の手首の突起にすがるように立てられた爪が離れていく。入谷の首へ血が滲むほど立てた瀧の爪先も離れる。互いの痛みが消えてほうっと呆けた。お前、名前は。名前? 瀧としか聞いてない。意味があるのか? 笑う瀧に入谷がはっと息を呑む。瀧は濡れた唇で笑んだ。濡れた息が瀧の唇を湿す。
「なりに合わないことしてくれるなよ」
文句を言おうとする唇が吸われた。微温く蠢く舌が瀧の口腔を犯す。流し込まれる唾液を無抵抗に呑み込む。毒を含んでいても良かった。腹の奥で燃えるように広がる熱に瀧が酔った。同時に入谷は瀧の唾液を呑んでは深く唇を重ねてくる。噛み付くような貪り合う口づけが続く。途切れ途切れの呼気や息継ぎの微音が濡れた舌の水音にかき消される。
「かわいいだろ」
入谷は瀧の唇を噛みちぎる。肉の裂ける感触と痛みが走る。瀧の頤に赤い線が一筋流れ落ちる。ずるずると壁に背を預けたままくずおれる瀧の体を入谷は抱いた。
「血飛沫の寝床だ。ふさわしいよな」
壁の渇いた血飛沫に爪を立てて剥離させながら入谷が笑う。剥離した破片が瀧に降り注ぐ。ぱりぱりと固いそれはそれでも血液独特の香りを帯びた。
「かつ、とし」
「なんだ、修司」
入谷は瀧の名前を識っていた。瀧の口元が緩む。微笑んだ。二人はもう一度だけ、キスをした。
《了》