解き放たれても、きっと


   君の元へ行く

 ヒトの代わりに木が茂る。用のあるものしか来ないような鄙に瀧は居を構えた。陶芸が街中でやるには不向きなことや瀧自身が干渉を好まないことも拍車をかけた。人の知り合いが増えるより先に花や獣の顔を覚え、馴染みの店が出来る前に沢を見つける。師匠が終わり際にとった弟子の歳若さと没交渉ぶりは兄弟子たちの頭を悩ませた。梢がなるのを眺めながら瀧は携帯を取り出した。こんな場所でも電話が通じる。密に張り詰める現代機器は徐々に桃源郷を削りだしていく。それが瀧と神狩屋をつなぐすべだ。
 神狩屋は屋号だ。鹿狩雅孝という。ボサボサの淡い茶髪は男だから短くしているのだ。神狩屋が女だったら髪は長いような気がする。角のない眼鏡を掛けて穏やかに笑みを浮べている彼の年齢は一見しただけでは判らない。知りあうともっと判らない。博識だが興味の方向に偏りがあるのか、得意な分野があるようだ。頭がいいから人がいいとは限らない。初対面で瀧に言い放ったのは僕っていい人に見えるかい、だ。見えると言ったらけたたましく嗤われて散々穏やかに罵られた。言葉は丁寧だし紋切り口調でもない。ことさら早口でもない。怒鳴りつける真似もしないが瀧に浴びせられた言葉は明確に罵詈雑言だった。
 その神狩屋の方から好意を告げて来たから驚いた。うん、修司とセックスしたいと思うんだよ。飾りがないどころの話ではなかった。遠慮も衣もない。言い換えも暗喩もない。それ以上でもそれ以下でもない。取り急ぎ手当が要るのだろうと思ったから瀧は承知した。抱かれた。自分が組み敷かれる側であったこととそれが可能だという事実にたじろいだ。満足した神狩屋は瀧と寝食を共にした期間、頻繁に交渉を求めてきた。許可した事実が瀧を不利にする。やっぱり駄目だといった所で押し流されてほら出来るじゃないかと言われて終わる。その都度納得してしまったのが良くなかったのか、瀧の中で神狩屋の存在は別置されたように確立してしまった。だからこうして時折連絡をとりあってしまう。
 必要があったらと番号を教えられた。神狩屋は骨董を商うから瀧のように没交渉という訳にはいかない。客が押し寄せるような店ではないが商うのだから電話に出られない時くらいあるだろうと瀧は気軽に電話をする。出なかったからといって失望や怒りはわかない。瀧自身が時折取った電話で何故でないと怒鳴られる方だ。集中すると周りが見えなくなるし携帯を頻繁に確かめるような習慣がない。ダメ元で電話する。忙しいならそれでいいし、タイミングがあえば幸運だというだけだ。
「はい」
すぐさまとられる通話に瀧の言葉が詰まる。電話しておいて沈黙するのは失礼だと思うが反射なので制御できない。くす、と電話口の向こう側で笑う気配がした。修司だろう。僕には判るよ。今の電話って優秀だねぇかけてきた相手の番号が表示されるんだよ。感心して損した。
 用でも出来たかい。穏やかな神狩屋の声や言葉は甘く蠱惑的に瀧を誘う。誰にも言わないからいってご覧。そう言われるだけで秘密を話してしまいそうになる。…今日からしばらく、一人だ。数瞬考えるような間をおいてから神狩屋は向こう側で笑った。わかった、行くよ。通話がそれで終わる。何時に出るとか何時に着くとかそういうことを神狩屋は一切話さない。他のものが相手だと万事抜かりなく進める神狩屋は瀧を相手にだけ無理を通す。譲歩も謝罪もない。確信犯であると思う。なのに瀧は神狩屋を嫌いになれない。わがままや無理を押し通す姿はまるで自分、で。俺を赦してくれた周囲のように俺はきっと雅孝を赦す。雅孝も俺を赦す。それだけの、ことなのだと。一方的な思い込みで構わない。そうであったほうがいいのかもしれない。
 瀧は切れた電話を置くと台所や浴場を回った。数時間の滞在のためにしては往復に骨が折れる。日帰りさせるには気をもむし、風呂くらい入れてやりたいと思う。溶剤や石鹸を確かめて浴槽に水をはる。沸かすのは神狩屋の到着を待っても遅くないだろう。水量を調節してから台所へ立った。買いおいてある豆腐やきんぴらでいくつかの惣菜を作る。あまり凝ったものは作れないが身の回りのことはこなせる。あまり味や出来にこだわらない性質であるから案外酷いものかもしれないが、神狩屋は手料理を悦んだ。夫婦みたいだねぇと言われた時には返す言葉がなかった。瀧の箸は止まったが神狩屋は倦むことなく箸をすすめては料理を褒めていた。何度か食事をするうちに神狩屋の好みも覚えてきた。こういう惣菜が好きであるとか嫌いであるとか。残したり不味いと文句をつけたりしないが箸のすすみで判るものだ。瀧自身に好き嫌いはあまりない。偉丈夫である瀧と生白いような神狩屋の差異は案外そんな場所が原因なのかも知れなかった。
 雑事をこなすうちに時が経つ。だんだん瀧の方も慣れてくるからそろそろ着くだろうなどと思ううちに神狩屋が来る。後片付けをして惣菜に塵除けをかぶせて時計を見る頃合いに玄関口が騒がしくなる。足を向けると神狩屋が玄関で靴を脱いでいるところだった。雨が降りそうだったからね、少し急いでもらったんだよ。排気音が木霊す。瀧の足も車である。徒歩で来るには少し疲れる。神狩屋は紐をほどきながら相変わらずだねと笑った。
「辺鄙なところへ住むね」
言う神狩屋こそ商売の割に鄙びた場所へ居を構えている。繁華街に軒を連ねるでもなく、乗降の多い駅近くでもない。瀧は短く食事にするかどうかを訊いた。風呂は今からたてることになる。泊まるなら構わないか。神狩屋の荷物は日帰りにしては多めだ。泊まっちゃ駄目かい。返事をしないのは肯定でもある。神狩屋は口元だけで笑うと上がりこむ。初めての場所ではないし寝室まで案内したり寝床を用意したりしているから勝手知ったるというやつで迷いもない。瀧や同居人のプライベートな場所へは踏み込まない。神狩屋はいつも客間へ案内され客間で瀧を抱いた。神狩屋は瀧を完全に潰すような真似はしない。逃げ込める場所を作りながら瀧を甚振っては愛撫する。
 瀧は黙って台所へ引き返すと食事の用意をした。神狩屋もテーブルへつく。瀧の生活に神狩屋はあっさり合わせてくれる。いつもここで食事を摂るといえば其処へ行くし入浴の時間帯も調節する。黙って食膳を揃えるのを神狩屋は楽しそうに眺めている。種類はないが量はある。二人で箸を揃えて頂きますと食事を始める。神狩屋はこまめに惣菜の感想を言ってはゆっくりと食す。瀧は黙々と消費する。一方的にしゃべっているのだが神狩屋は倦まないし文句も言わない。醤油の匂いがするねぇ。焦がした。珍しいね。残しもしないのでありがたいと言えばありがたい。食事が済む頃合いに風呂が沸く。先に入れと無造作に瀧が言うと神狩屋はお先にと着替えを抱える。その間に食事の後片付けをする。洗い物で濡れた指先を振るうと水滴が散った。神狩屋の風呂は早い。流しへ向かう瀧の背中へ神狩屋の静かな声が掛かる。風呂、先にもらったよ。客間で待ってるから。瀧は体と髪を洗浄してから熱い湯殿へ浸かりながら物思いに耽る。逆上せると労力として大変なことになるのでその辺りは気をつける。瀧の体躯を神狩屋が持ち上げたりできるとは思わない。
 湯に色が付いている。以前に入浴剤があるのだが使っていいかと訊かれたので構わないと答えてから神狩屋は使うようになった。どういう具合が違うのかわからないが満足しているようなのでどうでもいい。ちゃぷ、と水輪を生むのを眺めた。こんな体を抱いて何が愉しいのだろう。風呂からあがると髪を乾かす間もなく抱かれた。神狩屋は瀧を褒めて愛撫し、瀧の体も応える。回数をこなしているから具合も判る。脚の間で揺れる神狩屋の淡い茶髪の煌めきに目を眇める。火に焼けていない生白い皮膚が蠢いた。屋内での調べ物や持ち込みが多いから神狩屋は脆弱に白っぽい。忌むようなものであっても竈や土に対する瀧のほうが腕力などはあると思う。それでも瀧は神狩屋に抱かれる時に言いようのない不安や支配を感じて抵抗を殺がれた。物理的にはできるのだろう。する気にならない。


 「修司、虫の声がする」
寝そべって耳を澄ませていた神狩屋が不意に言った。ここへ来る度に帰郷したような気になるよ。神狩屋の出身も思い出も知らないから神狩屋がどこへ帰るのかどこへ帰るつもりなのかも判らない。毀れるほどの強い思い出がある地があるだろうに神狩屋と瀧は意識的にそれを避けた。知らなかったと厚顔に言える立場を離したくない。識ることは責任の共有だ。
「修司、ここはいいね」
修司。しゅうじ。神狩屋は瀧のことを下の名で呼ぶ。神狩屋が持ち直すまでの期間、寝食を共にした。毀れた顔も汚い部分もさらけ出した。隠したり取り繕ったりするだけの余力が双方ともになかった。結果としてかなりの深部で二人はつながった。良くも悪くも遠慮がない。負担に感じたことはない。瀧にとってこれほど長く付き合いを続けてくれる事自体が珍しかった。
 「雅孝」
痛いような切ないような苦しいような嬉しいような顔で、神狩屋は薄く笑った。それは困った顔にも似て。しゅうじ? 神狩屋は瀧の名を紡いだ。しゅうじ。修司には僕の声が聞こえるかい?
「こえ?」
鸚鵡返しの瀧に神狩屋は怒りもしない。辛抱強く頷いて、ウン、そうなんだよと続ける。
「僕の本当の声だよ。僕の声は複数あるようで、どうも僕にはそれが判らないけどあるというんだよ」
本音と建前というやつなのかな。首を傾げながら神狩屋はそう深刻に悩みもしない。あるって言うからには聞こえるんじゃないかと思ったんだ。修司には聞こえるかい?
「…聞こえない」
「そうかい」
神狩屋は笑った。失望や同情ではない。瀧の声を楽しんでいる。ごめんね、明日死ぬかもしれないのにね。神狩屋や瀧が所属するのはそういう団体だ。瀧は黙って肩をすくめる。寝そべると天井や仕切り戸が見える。傷んでいるはずなのに手入れがいいのかあまり気にならない。時折泊めるとその代金のように神狩屋は瀧が初めて見る技術で戸や障子や襖や仕切り戸を修繕した。扱う商品にはそのまま店頭に並べられないものも持ち込まれるようだ。慣れているから、と神狩屋は修繕をこなす。
 声がするよ。瀧は片腕を枕に横向きに寝そべった。脚の間で揺れていた神狩屋の感触も消えないうちに神狩屋は枕を抱いている。ごろごろとしては枕へ顔を埋める。ウン、やっぱり声はするねぇ。瀧には聞こえない。ごそごそと起きだそうとすると首根っこを掴まれて引きずり戻される。だめだよ、いてくれなくては。風呂にはいる。一緒に行こうかな。神狩屋の細い指先が瀧の骨格をなぞっては筋を鷲掴む。反射的に収縮を起こした瀧が跳ね上がるのを見て神狩屋はますます繰り返す。やめろ。素質はあるんだねぇ。なんの。神狩屋は薄く笑うだけだ。修司がいないと寒いじゃないか。体温は高くない。僕が、言ってるんだよ。
 瀧は黙って寝床へ戻った。神狩屋が子供のように抱きついてくる。頭を押しのけると苦笑しながら爪を立ててくる。痛いよ。文句を言うな。やさしくないなあ。瀧が神狩屋に感じる温情は行為で相殺、もしくはマイナスなくらいだ。瀧のほうがいたわってほしいくらいだ。同性同士の交渉は受け手側の負担が著しすぎる。腰が痛い。揺すってあげようか。神狩屋の性質が悪いだけだった。神狩屋が覗き込む。眼鏡を外しているから少し幼く見える。目蓋が不規則に瞬く。眉を寄せたり目を眇めたりするのは焦点が合わないからなのか。しばらく唸っていたがぬっと伸びた白い手が瀧を押し倒した。不安定な体勢だったのが不運だった。仰臥する瀧の上に神狩屋はのしかかってくる。
「見えないなぁ。どのくらい近づいたら見えるかな」
刻むような緩慢さで神狩屋は近づく。唇が重なりそうだ。思わず舐めそうになるのを何故かこらえた。瀧の仕草のいちいちに神狩屋は言葉を添えるから何かというと瀧は黙る。頤がいつの間にか固定されている。仰臥しているから後退もできない。吐息がくすぐる。発熱さえ伝わりそうで。瀧が息を呑むと神狩屋は不意に止まった。

「あ、見えた」

拍子抜けして無防備になった瀧の唇は神狩屋に散々食いつかれた。歯を立てられて血が滲む。痛みさえ遠かった。


《了》

また放置してた            

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