きみが、あまりに
笑顔の中身
静かな空間ではあった。自分と助手が出す音さえなければ。噎せ返るような血臭とどんどんという不穏な断裂音。時折潰したような破裂音や骨を噛む音がする。グロテスクなそれらはそれでも瀧が生きていくうえで必要な行動だった。時折ほとばしるように溢れる体液に頬や襟を汚しながら瀧は淡々と作業を済ませる。助手も同様だ。ある意味そのためだけに居るようなものであるから皮肉である。それでも瀧が助手を見る目には憐れみや同情や侮蔑の意はなく、ただ純粋に行為の完遂の手助けとして助手を見ている。茫洋としていたらしく手元が狂ってがちりと刃先が滑った。ずるりと引き抜く刃のめり込んでいたのは己の片手だ。痛みすら遅い。じわじわと沁み出した血液がしだいに流れを帯びた出血になり、ぷくりと円を描くように膨らんだ。吸うなり震わせるなりすればすぐに容が崩れて流れの一筋に紛れた。肉体的な病気の感染よりこの場合は精神的な侵蝕の度合いの方に重きが置かれた。瀧をこの裏団体に居座らせ続けているのは瀧の心的外傷による能力の度合いが大きい。この能力が戦士達の後始末に向いているという理由だけである。付き合わされる助手もさんざんだろう。瀧は溢れる血を見ながらそこまで考えてからすぐに放棄した。馬鹿馬鹿しい。心的外傷を考えると言うことは即ち能力の暴走の危険を孕んだ。今はそんな暇はない。
そろそろ作業も終わろうかという頃、不意に瀧の携帯が音を立てた。作業が終わり次第連絡を入れる手はずであったから電源を入れた刹那だった。少し驚いて手が止まる。着信音はある程度鳴ってから止まる。通話ではなくメールだ。件名が不穏だ。仕事依頼。仕事の依頼は瀧にとってはあまり喜ばしくないしそもそもこんな単純に瀧の元へ届いたりはしないはずだ。助手が自分が見るかと仕草で問うて来て初めて瀧はぼうっとしていたことに気付いた。仕草で下がらせると自分で見る。時折世間には真っ当であるとされない相手から連絡が来る身であるから慎重になる必要があった。案の定である。場所の指定が書かれているだけだ。一人で来る旨が念押しされているあたりおそらく、と思う。瀧の仕事は不定期であるから時間の指定はなかった。瀧は自宅まで所有する車を運転して仕事の始末と助手を寝床へ追いやってから改めて返信した。了解したこととまだ必要かという確認である。返事は速かった。すぐさま今からでも出向いてほしい旨知らせてくる。瀧は嘆息してから助手の部屋へ行ってしばらく家を空けるとだけ言い置いて家を出た。連絡手段だけは保持しておく。助手一人では補えない仕事が来る可能性もあったからだ。そもそもこうしてつながっていること自体がそもそも真っ当ではない。ただでさえ偏屈ものとして世間と折り合う瀧にとって真っ当なことなど少ない。助手がいなければ簡単にあたりからはぐれてしまう。
指定場所はわりあい近く、そのことが瀧に断る口実を与えない。すぐにつく。しかも相手がいない。呼び出しておいてこれかと憤る前に自分がずいぶんメールを無視していたことも考えると仕方ないと思う。連絡がなければ帰るだけだ。振り向こうとして背中に感じる感触は瀧が常用する鉈より鋭利で小型なものだ。服を突き切るぎりぎりの塩梅は相手が案外手慣れていることの表れだ。振り向けば刺さるだけだし逃げようとしても追ってくるだろう。つまるところどうしようもない。すぐに凍るような殺気は消えて刃先が退く。ふふ、と吐息のような微笑は彼の性質を案外よく示していると思う。
「修司は脅しがいがないね。少しくらい怖がってくれたり慌ててくれたりすれば僕だって刺せるのにね」
言っている内容がまともでない。瀧がゆっくりと振り向くと声の主を見た。鹿狩雅孝。角のない丸眼鏡の優男。この団体に所属するに至った経緯はまた聞きでしか知らないしそもそも瀧は外界に興味がない。
「相手の出方によって左右されるくらいのことは決意とさえ言えないぞ」
衝動でさえない。瀧の言葉に神狩屋は、相変わらず頑固だなぁとほんわり微笑んだ。何処までも人の好さそうな男だが眼光はけして鈍ってはいない。もてあそぶナイフをパチリと折りたたんで隠しへしまう。神狩屋の体質上、刃物は必要があれば持ち歩くと言う。彼も心的外傷によって団体へ所属する身の上であり、彼の能力の発露には彼がある程度体を傷つける必要があった。聞いた話では腕を一本放り出したとか出さないとか。それでいながら彼は隻腕などではなく立派に五体満足である。
「神狩屋」
「なんだい、<葬儀屋>」
神狩屋とは彼の持つ骨董店の屋号だ。そもそも商売っ気すら危ういがどうにかこうにか持っているらしくなんとかつぶれずにいるようだ。ある程度の範囲内の能力者が集う場になっているらしい。年少者も多い所為か老成したような性質の神狩屋は上手い具合にやれているようでもある。そして<葬儀屋>とは瀧の通り名であり仇名であり仕事内容を明確にする。目を背けたくなるような死体に目を背けたくなるようなことをする所為であり、それがおおむね任務の後始末的な意味合いを帯びることから、いつしかそう呼ばれ始めた。否定も消去も求めない。その通りであると思うからである。その所為か定着してしまい、今さら変更を求めるのも億劫でそのままだ。どうせ前線で戦う戦士達とは何度も何度も頻繁なやり取りはないし、同じ場所でも面子が変わっていることも多い。神狩屋のように瀧に執着するものこそ珍しい。
ぱん、と乾いた音がして瀧は殴られたことを知る。元々痛打には強い体躯だし感覚もそれほど鋭敏ではない。ただなんとなく頭部が揺れたな、と思った。神狩屋は少ない初動で最大限の力を発揮したらしい。口の端が切れてピリッと沁みた。瀧は血のにじんだ唇をぺろりと舐める。頬裏を切るほど強くはない。そもそも神狩屋自身が被害を重要視していない。驚いた、と問うてくるあたり単に瀧の不意を狙ったにすぎない。瀧は返事をせずに紅い唾を吐いた。地面に紅い雫が沁みていく。
「ちょっと修司は薄情なところがあるからこれはお仕置き。懲りた?」
「さぁな」
どうでもいい。そもそも瀧のような偉大夫を相手に据える神狩屋こそ懲りろ、と思う。神狩屋がむっとしたように口元を引き結ぶが瀧もふんと不遜にそっぽを向いた。無理やり体を開かれて以来、瀧は神狩屋に遠慮はしない。瀧が自分の思惑を発露する対象は主に神狩屋だ。それを親しみとしてとらえた神狩屋は結果、瀧のことを下の名である修司と呼ぶ。初めの頃こそ馴れ馴れしいと思っていたが慣れとは恐ろしいもので今では何とも思わぬ。
「神狩屋」
「雅孝」
「………まさたか」
にっこりと笑顔で訂正されて瀧は倦んだ。面倒なことになったと言うのが感想だ。辺りはそろそろ夜に沈みそうである。つまるところ、ここは密談をするには人通りが少なすぎるし誰もかれもが自分にしか興味がない。
そのことに気付いて瀧は怯んだ。神狩屋がそこまで計算していたかどうかはどうでもいい。今、そういう状況にいると言うことの方が重要なのだ。打開策を手探りする瀧を嘲笑うかのように神狩屋は嵩にかかってくる。
「修司、怖い?」
ばん、と顔の横を神狩屋の手がついて視界を遮る。背丈は瀧の方があるのに何故だがのしかかられている様な重圧を感じる。見上げてくる神狩屋の鎖骨の細さが判る。年長者でありながらどこかしら幼いような不具合を起こすのは神狩屋が童顔なだけではないだろう。神狩屋がいくつだか正確には知らない。なんとなく気付いたら仲間に加わっていた次第である。そもそも倦厭される能力ゆえに顔みしりを作らない主義の瀧においては、侵蝕に近い形で神狩屋の方が押し入ってきたのだ。
「なにが」
「怖いって顔だよ」
ツンと、空いた方の手が指先を瀧の口元へ押しつけた。噛み千切るつもりで食いつけばがんと頭部を殴打される。滲んだ神狩屋の血を嚥下すると煙のように傷が薄れていく。くぱ、と音を立てて開けた口から透明な唾液が糸を引いた。紅く燃える舌先が神狩屋の爪を名残惜しそうにたどる。その舌をつまんでこねるように神狩屋が手を動かす。すぐさま息をつまらせて喘ぐ瀧を見て冷笑を浮かべる。けほけほと噎せると神狩屋は愉しそうに眺めている。ぬるりと糸を引く指先を引いてぺろりと舌を這わせる。怯んだまま動けない瀧を置き去りにして唇を奪う。濡れた音をさせて唇を重ねては何度もそれを繰り返す。
「かわいいな。でもごめんね、止めてあげられないよ」
それが始まりだった。ばり、と引き裂く勢いでシャツの前を開かれる。釦が飛んだ。瀧は体から力を抜いた。
きしり、と骨が軋む音を聞いたような気がした。避妊具を使用したので何とか無事だ。そこのあたりはぬかりない。己の痕跡を出来る限り残さないのが二人の間の最低限の決まり事だ。だから瀧も神狩屋の背中に爪を立てる代わりに地面を抉る。幾本もの筋が至る所に残っている。それはつまり神狩屋の秘めた激しさでもある。瀧の体はそれを受け止める器にすぎない。は、は、と瀧の息が荒い。壁に背を預けてこれでは復活するまでに少し時間がいるだろう。助手に気付かれるわけにはいかない。団体に所属しているからといって社会的にどう見えるかまでは配慮してもらえない。そもそもこの団体自体が秘匿されるものであればなお、所属するものは社会的にどう見られるかまで気を使わなければならない。
引き締まった腹部に散る白い体液が二人の行為を裏付ける。は、ふ、と息を整える。神狩屋は元々身なりを崩したりしないから後始末も最低限だ。衣服に変な染みがないか確かめている。
「子供の視点って低いから案外知らないところを指摘されるんだよね」
「知ったことか」
悪態をつくのを神狩屋がにっこりと笑顔で押し流す。
「悪い子だなぁ」
口の中へ押し込んでいた指先がひるがえって喉を絞める。かはりと咳き込んだが前のめりにさえなれなくて腹部を痺れるような痛みが襲う。咳き込む時に背中を丸められない辛さは思った以上に体力を削る。
しばらく絞めていたが神狩屋は飽きたように手を放す。瀧は激しく咳き込んだ。体力も腕力も神狩屋のそれとは比べ物にならないと思うのに何故だか気勢を殺がれる。神狩屋に睨まれた刹那に瀧の体は凍ったように重だるくなり感覚が失せた。途端にどうやって息をしていたとかそういうことさえ胡乱になってしまう。過呼吸のように喉を鳴らして喘ぐ瀧を神狩屋はそのたびごとに憐れむような慈しむような絡みつく視線を投げてきた。
「まさ、たか」
「まだそう呼んでくれるなんて、修司も案外人が好いね」
にこりとした笑顔は仮面だ。気付いた刹那に瀧の体は冷えていく。心臓に手を当てていた神狩屋がふ、と微笑む。
「リズムが変わったよ、修司。こんなに簡単に裡を晒したら食われてしまうよ」
ぐ、と神狩屋の手の平が心臓を圧して来る。それに伴って瀧の鼓動が早まる。忙しない呼吸を繰り返しながら瀧は神狩屋を見ていた。
どこかで何か気付いてほしいようなそんな屈折が見て取れる。真っ正直に手助けされても手を取らぬ。さりげなく差し出されるそれを望んでいるかのようだ。それは思春期の子供にも似た。助けが欲しいが体面がある。明確にそれと判るよりさりげなさを装って顔を背けていてほしい、だが助けの手は欲しい。迷いさえはらむ独特のそれを神狩屋は繰り返している。ちゅ、と神狩屋の唇が寄せられる。
「好きだよ?」
「判らない」
払いのける瀧を神狩屋はものともしない。何度もついばむようなキスと囁く愛の言葉。すきだよ、あいしてる、しゅうじはかわいいね。神狩屋は何度も繰り返す。
「止めろ、判らないッ」
だん、と強い音がした。目の前には神狩屋の顔。薄く微笑むそれに何故だかぞっとした。
「すきだよ?」
あァ、狂っていく。
時計の針が音を立てて進みまた戻っていく。感覚がなくなる。
おれがなくなっていく。
くるっていく。
「しゅうじ?」
瀧の口元は知らずに弛んで吊りあがり、笑みを浮かべた。
神狩屋は一瞬目を見開いたがすぐに満足げに微笑んだ。
「それで、いいよ」
くるっていく。
《了》