どこまでも醜悪で、真摯で、そして
音を立てて崩れたものが、固いとは限らない
教えられたとおりの道筋で瀧は最寄り駅へ着いた。空手で来ることと車ではなく公衆の交通機関を使うように念を押されたのでそうした。簡易的に書きとめられた地図には分岐点などでの留意点も並べられていて、駅から推し量るに、確かに車で来られては具合が不味かろうと納得した。駅から目立って遠くはないが瀧の使う車種を停めるには狭いかもしれない。あまり困ることもないほどその書付は至れり尽くせりだ。迷えばどうしたらいいか示唆するし、間違えやすいところは矢印や下線で注意喚起している。初めてではないような足取りで瀧は歩いていく。この街にも何度か足を運んでいるかもしれないと、一方でそう思う。瀧は所属する団体での役割として、その活動範囲は広い。後始末によく使われたりするので使い勝手が良いと様々な支部から呼ばれる。訪う街並みを覚えるのは止めた。同じ街へ瀧が行くということは即ち、そこでの難事が繰り返されていることに他ならないから倦んだ。はじめましても、また会ったなも、瀧は意識の深みへ沈めずに流してしまう。瀧の仕事は二度目を嫌われることも多い。
くすんだようなわだかまりを残したようにそこに看板がある。神狩屋という屋号は主の呼び名としても定着している。主の本名と似た綴りであるから、主も初見の相手に提供する案として屋号を上げる。鹿狩雅孝という。見てくれに必要以上に構わないことと幼いような老練のような雰囲気があいまって年齢不詳のなりをしている。もっとも、瀧の所属する団体では非日常との区別として衣服をキィにするものも多く、着衣を判断材料にするのはあてにならない。独り住まいではないという話だったことと、仮にも客商売としてこの人気のなさは違和感を思える。それでも瀧は表情一つ動かさずに扉を開けた。体をかがめる。長身であるから頭をぶつけたこともありそうする癖がついている。
ほこりやちりと言った経歴をかぶったままの品々を横目に瀧は奥へ進んでいく。これも売り物かと思うほど古びた清算機の前で佇んだ。店主なり店員なりがいるだろうと構えていたが清算機の前にさえ誰もいない。さてどうすると瀧はその間で固まってしまう。愛想が消えうせた瀧と外界を繋ぐ助手はいない。瀧がこの体も品揃えに融け込むかと思った頃合いに神狩屋本人が顔を出した。角のない眼鏡をかけて色の薄い双眸が瞬いた後ににっこりと笑んだ。抜けたような褪せたような栗色の髪の整えは必要最低限だ。
「修司、来てくれたなら声をかけてくれればいいのに。喋らないにもほどがある」
存在を認めた発言であるから上がっていいのかと問いながら上り口はどこだと瀧の目が訊いた。神狩屋が場所を示し、瀧はそこから上がりこむ。きしきしと板張りが鳴って足裏で板がたわむ。外観も古いが中身も古いのか。
「こっちだよ」
内緒話でもするかのように密やかに呼ばれて瀧が知らずに息を詰めた。同居人への挨拶や許可は取らなくていいのかと思いながら先を歩く神狩屋は気づかぬふりで問いを無視している。事前に得ている情報として、彼の同居人も団体の所属であるから通常のくくりにはおさまらない。たしか、記憶の持続が出来ぬものと外界からの働きかけを受けつけぬものであると聞いている。ここの管理者には自然と神狩屋がなるしかなく、また神狩屋の自由になる場所でもある。とんだ藪へ足を突っ込んだかもしれないと気づいたが少し遅かったようだ。神狩屋が薄い笑みを張りつけた笑顔で、扉を開いて待っている。部屋へはいれという意思表示にこれからが見えるようだ。
神狩屋と瀧が体をつなげるようになってから自宅に呼ばれたのは初めてだ。大抵はその辺の路地裏や安宿へ人目を盗んでなだれ込む。それぞれに生活圏のない場所へ行って欲望を解放する。保つべき体面や外聞があることも知っているし、同じ団体へ所属するものとしての事情も知りあっている。神狩屋は特に強く求めた。共に男性であるという欲望が発露や発散のしやすい性別であったことも影響した。手っ取り早い手当てとして互いに体を重ねた。神狩屋は頻繁に連絡をよこす。時折、愚にもつかぬやり取りに終始することもあるが仕事の応援依頼である場合も含まれるから無視が出来ない。
「修司、怖いかい」
なだめるように問いながら、神狩屋は瀧の恐怖を慮ってやる気はさらさらない。瀧が怖いと言ったところで次に控えている事態は一向に変化しないだろう。だから瀧は何も言わない。口を開いても事態が改善しないなら、とやり取りを助手へ丸投げしている感は否めない。結果として瀧は意志疎通の方法を著しく損なっている。
「修司が怖いと言ったら驚くな。どんなことが怖いのだろうね」
後始末として呼ばれる瀧は<葬儀屋>の呼称を持っている。目を背けたくなるようなものに目を背けたくなるような行為をするので好まれた経験はあまりない。神狩屋はそういったことを承知したうえで言っているのだ。性質が悪い。
机と備え付けの椅子にはさっさと神狩屋が腰をおろしてしまい、指示されたのは寝床だ。深意を勘繰って見るがどうしようもないので瀧は寝台を軋ませるように座った。さてどうすると瀧が構えても神狩屋は飲み物の差し入れだとかそういった場つなぎさえしない。男二人が同じ空間で会話もなく座っているというのもぞっとしないなと思う。
「珍しいね、修司が持てあますなんて。いつも平気な顔をして黙っているくせに」
くすくすとした押し殺した笑いに口元を弛めて神狩屋が笑った。眼鏡や纏う雰囲気とあいまって年寄りと話しているような気になる。保護者という上位から見下ろす、男。神狩屋の取る態度としてそれは共通した。へりくだらないが敬いもしない。子供を眺めるような態度に終始する。団体の構成員に若輩が多いのも影響しているのだろうか。大抵は神狩屋より年少であり、神狩屋の同居人と神狩屋のもとにいる構成員はそこに当てはまる。
「修司、表情が固いよ。君でも怖いことがあるのかな…ふふ、<葬儀屋>なのにね」
神狩屋がいつになく絡む。何か不服があったときはいつもそうだ。黙って受けるだけの瀧を呼びつけたりして好き放題に扱ってから解放する。この時の神狩屋は執拗で陰湿で逃れるのは難しい。だから瀧は黙っていつも通りに顔を見せるなり声を聞かせるなりしてやり過ごす。必要であれば脚も開く。自制を利かせている自負があるからある程度の無茶には試すように挑む。神狩屋も同じように手探りで限界値を探している。時折双方でひどい目に遭う。
「まさたか」
神狩屋の名を呼んだ刹那、ぐらりと神狩屋が傾いだような気がした。慌てて立ち上がろうと腰を浮かせて動きが止まる。神狩屋の口の端が吊りあがって、にぃと。笑んだ。人の好い神狩屋には似合わない癇性的なそれは堪えが利かなかった発露であるらしくすぐに引っ込んだ。
「修司から名前を呼んでもらえるなんて嬉しいけど、今日は修司を満足させられないな。あの子たちがいるからね」
あの子たちが明確に誰を指すかを思い出すことに瀧は無為に集中した。
神狩屋の狙いが少し見えた。瀧を困らせての鬱憤晴らしだ。瀧が窮して名を呼ぶことくらい見通せているはずだ。瀧はうかうかとそれに嵌まっただけの話である。馬鹿を見るのは瀧だけて実害はないからよしとする。
「本当に僕たちはどうしようもなくて、だから修司だけはせめてと思ったのにもう駄目だよ。修司の容はとても綺麗でだから大好きだよ。君の体は保ちたいね。でも」
虚空を滑るように撫でて神狩屋の手が閃いた。手の内は案外白い。ふっくらと白い手の平が見えて、瀧は自分のそれを長らく見ていないことに気付いた。瀧が手元を見下ろす行為の際には鉈を握っているから手の平は案外見えない。
「もう僕たちはいつ腐臭がしてもおかしくないくらい毀れて腐っていると思わないかい。僕たちの体はもう朽ちてゆくだけかもしれない。それでも僕は修司の容は綺麗だと思うし保ってほしいな」
世迷言だ。だがその意味する感覚をきっと瀧は知っている。
せめて君は綺麗でいてほしい、外見だけであったとしても
「あぁどうしようね、修司が抱きたいな。あの子たちはもう寝てしまったろうか、密やかに秘めればばれないかな?」
困ったように問うていながら確信犯だ。瀧を夕方に呼びつけた意味も判る。やり取りで消費される時間を見越している。だから瀧の方からは何も言わない。せめてもの仕返しだ。それでも合意を取り付けてしまう神狩屋の手管の前では無力なものだ。ぱちりとした瞳孔さえ見える双眸に覗きこまれて、駄目かい、と問われる。瀧は黙りこんで口の端を引き攣らせた。神狩屋の口元が笑いに弛んだ。
「修司? だめなら、よすよ」
周りに任せてしまう状態である瀧に決断を迫る。しかも性急に。下から覗きこむ神狩屋の体はすでに瀧の脚の間に陣取って膝を開いている。伸ばされた指先は無遠慮に臍や腹を撫でている。
神狩屋の体が触れる場所から融解するような錯覚を覚える。互いに闇や虚ろを抱えるものとして、同性として、体の調律があってしまう。そこに瀧や神狩屋の自尊心だとか見栄だとかは影響しない。むしろ余計に増長させるだけだ。駄目だと思うと余計に燃える。瀧の体はすでに熱を帯びている。大腿部を撫でる神狩屋の指先は融けるように熱い。判っているのに神狩屋はあえて露骨に触れてはこない。神狩屋は突発的に行為にふけったりはしない。十分に外堀を埋めてから耽溺する。瀧がこの家屋に足を踏み入れた時点で準備は整えられていたとみるべきだった。瀧の抵抗も見越されているだろう。するだけ無駄。神狩屋の憐れむような笑みはそれらの標だ。
瀧の体から力が抜ける。緊張の融けた体は簡単に融けあった。神狩屋の侵入を赦し、自己防護を弛める。神狩屋が確かめるように瀧を見上げた。
「かまわない」
瀧の体が押し倒されて寝台が軋んだ。瀧は何とか頭をぶつけない位置へ苦心して体をずらす。神狩屋は笑いながらそれを眺めて、瀧の脚を開いていく。戒めも警告もない。
爛熟しただけの関係だ。
瀧は茫洋と天井を眺めたまま腰を揺する神狩屋の肩口ばかりを眺めていた。ギシギシと鳴る寝台と、おそらくいるであろう同居人への言い訳とを虚ろに考えながら、どうなっても構わぬとさえ思っている。歪んだ団体への歪な所属が二人の立場をかろうじてつないだ。醜い歪みと怖れと、それゆえの特殊能力が、二人の位置を決定する。こんな私的な事象が関係の解消になどつながるわけもないと思うそれが、安堵なのか恐れなのかも判らない。体の奥底を揺すられながら瀧は茫洋と思いをはせた。
《了》