冬。
寒さが訪れた季節。
春には近い。
体のしんまで冷え縮こまりそうな冬の夜、暖かい温泉に入れたらな、と誰もが思う。
そして、ここはその温泉。
山奥に湧き出ているそれは、もうもうと湯気を発し、幸せ空間を作り出している。
「ふぃ〜、極楽、極楽……」
この若者らしからぬ声をあげている若者も、昼間の激務から開放され、その疲れた体をこのお湯で癒していた。
チャポチャポと水が跳ねる音は、それだけで疲労している心がなごんでいくような気がする。
「ああ〜……もう死んでもいいわ」
首の根元に右手をあて、一回転させる。
コキリコキリと首の関節が鳴り、その度に顔が幸せそうに緩む。
男が入ってきた入り口とは、また別の入り口にひとつの人影が現れた。
ピチャピチャと水溜りをあるいたときの音がする。
辺りで、樹木が風に吹かれてざわざわと騒ぎ出す。
「おっ、おキヌちゃんか」
男が言った。
入って来たのは顔見知り……というか家族のような関係の女性。
勿論、家族のような関係であっても男女の区分が去れた温泉に入ってくるはずはない。
ここは混浴なのだ。
「いい湯だよ。 空も綺麗だし」
ザザッと男から少し離れた場所で誰かが湯に浸かる音がする。
敢えて言うまでもないが。
それにましても、彼が言った通り空は綺麗だった。
もうもうと上がる湯気が消える空は、まるで昼の空に穴ぼこだらけの黒いベールをかけたような明るさ。
星の色さえもはっきりと認識できる。
今の都会人には、こういう機会でなければ滅多に見られない夜の空。
二人とも、空を仰ぎ見る。
少し経ち、まるでそうするのが当然かのように男は不意に立ちあがった。
そして、女のすぐ隣りに来て、再び冷えた上半身を暖め始めた。
「なんだか、ここでこうしているとおキヌちゃんと始めて会ったことを思い出すよ」
しみじみと感慨深く目を閉じる男。
心の中では昔の情景でも映っているのだろうか。
「君に……会えてよかった」
目を閉じたまま、かすかに口を動かして言う。
その言葉に感謝や喜びなど様々な感情がプレゼント用の帯で包装されてるのを、彼女は心の中で思い描いた。
「……じゃ、俺はもうでることにするよ。 ゆっくり温まったし、明日の朝も早い。 おキヌちゃんはゆっくり温まりな」
決して、温泉に使っているせいとは言えないほど、真っ赤に顔を染め上げ、それを持っていた手ぬぐいで必死に隠そうとしている女を置いて、この暖かい空間から出ていこうとする男。
ただ最後に、木々がザワザワ、湯がチャプチャプその他にも色んな音がまじりあっていながら、静かだと印象を受けるその人工の湯溜まりに、もう脱衣所の入り口に半分足をかけている男のとりとめもない独り言が聞こえてきた。
今日も、静かに夜が更けていく。
終わり
後書き
どうもzokutoです。
冬にさしかかる今日ですが、殺伐とした空気が至るところにはこびっておりますね。
それで、なんかユルユルとしたいなぁ、という気持ちで書きました。
極短いものですが、まぁ本来『小ネタ』板っちゅうことで、小ネタっぽく仕上げてみました。
活劇物のやギャグ物の連載が多い現段階の小ネタ板に、こういうものを投稿したのはちょっと時代遅れのような気がしないでもないですがね。 ^^;;
まぁ、これを読んでなごんでくれたらいいなぁと。
……ああ、それはともかく温泉行きたいなぁ。
PS、投稿後、ちと誤字修正しました。