長くなりましたので、分けておきました。
後半、無駄に長い……
―――翌朝、刑部絃子宅。
播磨拳児は、もうとうに起きていた。起きてから20分、部屋から一歩も出なかった。
端的に言うと…昨日あんな事があって、同居人である絃子と顔を合わせ辛いのである。
昨日の夜は、夕食を外でとって、帰ったらすぐに就寝したため、幸いにも顔を見ずに済んだが…
正直、朝ともなると厳しいだろう。毎朝、朝食は播磨が用意しているのだし…今日だけ、なんて都合は利かない。
何事も無かったかのように振舞えれば、それが一番手っ取り早くて堅実なのだが…
「くあぁ……!どうすりゃいいんだ!?どんな顔してりゃいい!?
クソ、イトコの野郎、これが目的であんなコトしやがったのか!?
ああ、もうクソ……クソ!畜生、あの野郎…!!」
…そんな器用な真似が出来ないのが播磨拳児だった。
どったんばったん床の上を転がり回り、頭を抱えて苦悩する。
なまじ、あんな生殺しだったのがいけない。行く所までイっていれば、あるいはケジメが着いたのだが…
「……だあぁ!なにウジウジ悩んでやがるんだ俺はッ!!
もうどうにでもなりやがれ!なるようになるっ!ならなかったらここを出てきゃいい話だ!!」
パン!と力を込めて頬を張る。
寝巻きから制服に着替え、いつものサングラスを掛ける。気合が入った。
「…ぅおっしゃぁッ!!」
無駄にやる気を出し、播磨は思い切って部屋を出た!
左右を確認。目標はいない。
ちょっと安心し、今度は居間へと向かい……そこで、物音を聞いた。
(やっぱ起きてやがったか…。
しっかし、こんな朝っぱらから何してやがんだ?銃の手入れか?)
絃子が播磨より早く起きる事は普段からあるが、大抵、居間で新聞を読んでいるかテレビを見ているかだ。
今のような、カチャカチャと細々した物音を立てるような事はなかったのだが…
まさか朝も早くからモデルガンの手入れをしている訳はないし、一体何をしているのか。
播磨は一瞬立ち止まった後、思い切って居間に足を踏み入れた!
「…………っ!?」
居間に一歩踏み入れた瞬間、播磨はハッと息を呑んだ。
確かに、絃子はいた。しかし……何故か、その見慣れた黒髪が、キッチンでゆらゆら揺れていたのである。
しかも、ふりふりのエプロンを着ている。その上、機嫌良さ気に鼻唄まで歌っている。
何か物凄くアットホームな雰囲気が漂っているが…播磨としては、違和感を感じる所ではない。
…と、今の今までふりふりエプロンに気を取られて気付かなかったが、よく見るとスカートを履いていた。
その格好と幸せ気分な空気からいって、どこから見ても新婚ほやほやの新妻にしか見えなかった。
「…ん?」
そこで気配に気付いたのか、絃子がふと振り返った。
そして…
「おはよう拳児。今日もいい朝だねっ」
微笑んだ。にっこりと微笑んだ。煌く笑顔だった。女神の微笑みだった。
普段のク−ルビューティなイメ−ジなど、イスカンダルの彼方まで吹き飛ばしてしまうほどの暖かな笑みだった。
さり気なく呼び方が呼び捨てになっているのもいただけない。それではまるで、新婚夫婦の朝そのものではないか。
真っ白な塩の柱になる播磨に苦笑し、絃子は料理を中断して播磨に近寄った。
「ほらほら、寝惚けていないで、そこに座ってなさい。
料理は今に出来るからね。拳児の好きな半熟目玉焼きだぞっ?」
つん、とおでこをつっつき、椅子に座らせる。
がたたっ!と半ば倒れ込むように腰を下ろす播磨。まだ脳ミソはフリーズしたままだ。
ふふ、と絃子は優しく微笑み、播磨の頬、しそうに撫で、またキッチンへと戻る。
残された播磨は、呆然とその後姿を見送った。
「な……にが…?え?これ、な………はぁ!?」
大混乱。まだ夢の中にいるのだろうか?
撫ぜられた頬を触ると、まだ絃子の暖かさが残っているような気がした…
いやいや何ポエムってんだよ俺ッ!とぶんぶん首を横に振り、播磨はようやく再起動に成功した。
多少思考がクリーンになった所で、改めて変貌を遂げた絃子を観察する。
相変わらず機嫌は良さそうだ。高めのトーンで鼻唄を歌っている。
恐らく味噌汁でも作っているのだろう、鍋をカチャカチャ掻き回している。
かと思えば、髪が邪魔だったのか、さっさと後ろで簡単に結わえた。俗に言うポニーテールだ。真白いうなじが眩しい。
そして、やはり一番目を引くのがスカート。いや、スカート自体はどこにでもあるロングスカートだが。
(絃子の生脚なんて、久し振りに見たぜ……白くて綺麗な肌をしてやがる…。
って、やべぇ!いつの間にかこの雰囲気に流されてるぞ俺ッ!!正気を保てッ!!)
播磨がガッツンガッツン机に頭を打ち据えている間に、料理の方は完成したようだった。
ハム、ポテトサラダ、半熟目玉焼き、白米、海苔、味噌汁…と、次々と食卓に並べられていく。
毎朝播磨が用意していたトーストやシリアルとはエライ違いだ。
エプロンを脱いだ絃子が食卓に着く。
「それじゃあ拳児、いただきますとしようか。同時に言うんだぞ?」
「お、おぅ…」
上目遣いでそう言われれば、そりゃもう素直に頷くしかない。
播磨と絃子はほぼ同時に胸の前で手を合わせた。
「「いただきます」」
食前の儀式が終わると、播磨は早速食事に手を付けた。
予想外すぎる事態に戸惑わされっぱなしだったが、それでもやはり腹は減っていた。
一方、絃子はといえば、どうも播磨が先に食べるのを待っているようだった。
食事に毒を盛っているという訳ではなく、亭主関白的な発想のようだ。絃子は意外と古風な女性だった。
「ん………こ、こりゃあ……う、うまいじゃねぇか…!」
一通り全ての料理を口に入れ、播磨は唸らされた。
美味だった。ただ美味いだけでなく、暖かさ……料理を食べる相手への愛情さえ感じ取れた。
予想外の味に、播磨はごくごく普通のリアクションを取るしか出来ない。
ふと絃子を見ると、嬉しそうに微笑んでいる。たおやかな笑みだった。
「そうか。それは……良かったよ。練習した甲斐があったと言うものだ。
君にそう言ってもらえると……嬉しいよ。心の底から嬉しい…」
「う゛……」
何の含みもない、ただ純粋な嬉しさから生じた笑み。
慣れない。何度見せられようとも、非常に慣れない。
優しげ&嬉しげな視線に見つめられ、播磨は何とも居心地が悪くなり、誤魔化すように料理をがっつき始めた。
「はぐっ!はぐはぐはぐ……っ!!」
「……ふふ」
そんな播磨を愛しそうに見詰めながら、絃子も箸を進める。
この光景は、食事が終わるまで続いた。
「…ごっそさん」
「お粗末さまでした」
食事も終わり、一段落。
播磨は膨れた腹を擦りながら、それとなく絃子を見やった。
…相変わらず、幸せそうだ。ふと目が合うと、にっこり微笑んだ。
「……ッ!」
「ふふ…。
…さて、それじゃあ私は後片付けでもしよう。拳児はゆっくり休んでいたまえ」
赤くなってそっぽを向く播磨をおかしげに笑い、絃子は席を立った。
てきぱきと後片付けを始める絃子を見て、播磨はふと思った。
(食事の用意までさせたのに、片づけまでやらせちまうのは悪ぃな…。
なに考えてやがんのかは解らんが、まあ美味い飯を食わせてもらった事は確かだ。
せめて、後片付けぐらいはやってやろうじゃねぇか)
なんて、およそ不良らしくない殊勝な考え。
播磨は思い立ち、絃子の背中に声を掛けた。
「…なあイトコ。片付けは俺がやっから、お前は部屋で今日の準備でもしてろよ」
「おや? それは拳児、ひょっとして私を思いやってくれるのかい?」
「ばっ! そ、そんなんじゃ…!!」
「ふむ、それは嬉しい申し出だが、さて……」
慌てる播磨を放置し、考えに入る絃子。
暫くすると、何か思いついたのか悪戯っぽく笑った。今日初めて見せた、いつもの絃子らしい笑みだった。
「いや、私としても、君一人に仕事を押し付けるのは悪いよ。
そこでだ、ここはひとつ……二人で皿洗いでもしようじゃないか。
その方が効率的だし、二人でやると、皿洗いもきっと楽しいだろう」
「な!? おま、なに考えてッ…」
「……嫌、なのか?」
「ぐッ……」
潤みがちの上目遣い。絃子らしくない必殺技だったが、その分ギャップがありダメージも大きい。
圧倒的に経験値の低い播磨は、当然この攻撃に耐えられる訳はなかった。
無言で食卓の皿を集め、さっさとキッチンへ持って行く。
それを満足そうに長め、エプロンを着て絃子も播磨の隣に立った。
「…………………」
「…………………」
しばらく、カチャカチャと皿を洗う音だけが響く。
二人並んで皿洗いをする様は、もう新婚さんそのものだった。
…穏やかに時が流れる。
「…………こうしていると」
「…あ?」
ふと、絃子が口を開いた。
「まるで………いや、なんでもない」
「………なんだよ」
微笑し、絃子は軽く首を振った。
「言わない。
…口にすると、霧散してしまうかもしれないからね」
「んだよ、そりゃ…」
絃子らしくない物言いに、播磨は少し苦笑した。
それは彼が今日初めて見せる穏やかな笑みで、絃子はこの笑みがとても好きだった。
しょうがねぇヤツだな、とでも言いたげな、優しく暖かい苦笑。
私は幸せだな、とほんのり思い、絃子は次の皿へと手を伸ばし……
「「あ……」」
偶然、そこへ伸ばしていた播磨の手と重なった。
「……………」
「……………」
一瞬目を合わせ、すぐに逸らす。
播磨も絃子も取り乱すような事はせず、ただ頬を桃色に染めるだけ。
それからすぐ、二人とも無言で皿洗いを再開する。
その際、絃子は半歩だけ播磨との距離を縮めたが……気付いたのかそうでないのか、播磨が身を離す事はなかった。
(……やべぇな、この雰囲気…)
後片付けも終わり、後は二人とも学校へ向かうだけ。
あのほんわかしたムードの中で、何故か播磨はバイクの後ろに絃子を乗っけて行く事になったのだった。
(俺って奴ぁ、どうしてこんな……くそ。
イトコの野郎、一体どこまで本気なんだ……?)
はあぁぁぁ……と、深い深い溜息。
今朝の絃子の行動は不可解極まりなかったが、しかし決して不快ではなかった。
これでもいいか…?とか思ってしまった自分がとことん憎い。
…と、播磨が自戒している内に、絃子はもう用意が出来ていたようだった。
「それじゃあ行こうか、拳児」
「おう……ってお前、スカート…」
用意を済ませて来た絃子は、スカートからいつものズボンに履き替えていた。
…しかし、今朝方の甘ったるい空気はそのまま纏ったままだった。
「ああ、あれなら履き替えたよ。
久し振りだった分、少し残念だが……君以外の男に見せるのも嫌なのでね」
「お、おぅ……?」
返答に窮し、アシカの鳴き真似のような声を出してしまう。
絃子は愉快そうに笑った。
「今夜家に帰って来たら、また履き替えよう。それまでの辛抱さ。
…さて、そろそろ時間だ。行こう」
「あ、ああ」
と玄関のドアを開けようとする播磨を、絃子は引き止めた。
「待ちたまえ拳児。忘れ物だ」
「あ? なんだ……ょ……」
播磨が振り返ると……絃子は、顔を上げ、そっと目を瞑った。
その体勢は、どう見ても……
「行ってらっしゃいと、行ってきますのキスだ。さぁ…」
「『さぁ…』ぢゃねぇッ!! と、とっとと行くぞッ!!」
ドバンッ!!とドアを開け、播磨は勢い良く飛び出した。顔は勿論真っ赤だった。
そのまま競歩めいた早歩きで歩く播磨の後を追う絃子の頬は、やっぱり緩んでいた。
バイクを出して来た播磨。絃子はマンションの前で待っていた。
絃子にヘルメットを差し出す。
「おら、乗れよ」
「では、失礼するよ」
ヘルメットを軽く被り、絃子は播磨の後ろに腰を下ろした。
しっかり掴まってろよ、とお決まりのセリフを言われるまでもなく、しっかりと腰に手を回し抱きつく。
―――むにゅぅ!播磨の背に、Dカップの肉まん二つが押し付けられる!
「くぉ…ッ!?」
「ん? どうしたね拳児?」
猛き漢の滾り現象を起こす播磨に、絃子は更に自らの胸部を押し付けて追い討ちを掛ける!
…勿論、全て解った上での犯行だった。
―――くにゅっ!むにゅにゅ!むりょむりょむりょ!
「はぅううぉぉあ……!!」
やーらかい悪魔が播磨の背を襲う度に、精神防壁がガリガリと削られていく。
サングラスの下で目をぐるぐる回転させながら、播磨は踊り狂う様にもがいた。
己の胴体に回された絃子の手を振り解こうと、必死にもがく。死にもの狂いだ。
しかし、不用意に暴れる分、絃子との密着度は更にエスカレート。
「むきぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃっっっっ!!!」
「あっ…」
何とか絃子の抱擁から逃れると、そのままの勢いでバイクを降りる。
肩で息をしながら、播磨はきっ!と絃子を睨みつけた。
「てっ、てめぇはぜってー後ろにゃ乗せねぇ!
嫌とかそーゆー問題じゃねぇ! 事故る! ぜってー事故る!!」
「むー……」
顔を真っ赤にしながら抗弁する播磨に、絃子は難しい顔をして腕を組んだ。
暫くして、仕方ないか、と肩を落とす。
「分かったよ。事故を起こされては堪らないし……今日の所は我慢しよう。
まあ、考えれば、なにも君に抱きつける機会は二人乗りの時にだけ、という訳でもないのだし…
……しかし、分かっているのだろうね? 私以外の女を、決して乗せるんじゃないぞ?」
「乗せるかっ!! ったく……! 俺ぁもう行くぞ!」
人差し指を立てて注意する絃子の方を見ようともせずに、播磨はまたバイクに跨った。
そのまま、さよならの挨拶もせずに発車する。
「ふむ……結局、決定的な効果は得られない、か。
それでは、今夜は『プランB』で行こうか……」
妖艶に微笑み、絃子はその場を立ち去った。
―――始業前。矢神高校、正門。
そこら辺にバイクを停めて来た播磨は、足取りも重く正門辺りを歩いていた。
今朝からの絃子の変貌を少しでも思い返せば、それだけで頭痛がしてくる。
はぁぁぁぁ…と重い溜息をつき、播磨は天を仰いだ。
(どう考えても、ありゃあ俺をからかってたんだよな…。
それなのに俺ってヤツぁ、みっともなく舞い上がっちまって…情けねぇ!
ああくそ、絃子のヤツ、あれで俺の弱みを握ったつもりか?
一体、弱みを握って、俺に何をさせるつもりなんだ…!?)
どちらかと言うと、それは絃子ではなく、クラスメイトの高野晶の手法だが…
あの刑部絃子が何の目的もなく、あんな真似をするとはとても思えない。
播磨としては、今朝のシーンを隠し撮りでもしておいて、『塚本君に見せるぞ』と後で脅迫されるのではと危惧しているのだ。
何か企んでいる、という点では確かに正解なのかもしれないが…やはり、正解にはとても辿り着けそうにないのだった。
(何か買え、ってのなら、逆に好都合なんだがな…)
播磨としても、気軽に身を置かせて貰っている絃子には感謝している。
矢神高校に入れたのも絃子のお陰だと思っている。
しかし……やはり、自ら感謝の意を素直に面と向かって伝えるのは、あまりにも恥ずかしい。
そんな訳で、何か物品でも要求されれば、それに応える事でそれとなく感謝を表す事も出来る。
…と、当の絃子が聞けば素で喜びそうなことを考えている播磨であった。
「はぁぁぁ………って、げ。ありゃあ…」
もう一度溜息をつき、前を向いたら……見知った顔を見かけた。見かけてしまった。
朝日に反射し、燦然と輝く金色のツインテール。お嬢こと沢近愛理だ。
普段から避けたい人物なのに、昨日挙動不審だったため、今日はいつもに増して会いたくなかったのに…
しかし、見かけてしまった以上、軽く挨拶だけでもしておかなければ後で厄介な事になる。
更に重い気分になって、播磨は渋々愛理の背中に声を掛けた。
「…よう」
「あら…」
播磨の声に反応し、愛理がキラッキラ髪を躍らせながら振り返った。
そこで、極上のお嬢様スマイル発動!モデルの仕事の際にも見せなかった、取って置きの笑みだ。
…播磨は、何故か既視感を感じた。それも、すごくいやーな感じの。
「おはようございます、拳児君」
「おう………ぅうおっ!?」
ナチュラルに通り過ぎようとした播磨だったが、志村ばりの二度見をして振り返る。
おはよう『ございます』に、『拳児君』と来たもんだ。
振り返ったまま硬直して凝視してくる播磨に、愛理はぽっと頬を染めて、恥ずかしげに顔を手で覆った。
「そ、そんなに見つめないで……は、恥ずかしいです……」
「………(愕然)」
播磨は目を疑った。
目の前にいる、沢近愛理のカタチをした生物、これは一体なんだと言うのだろう?
擬態か、変なキノコでも食ったのか、はたまたケムール星人の陰謀か…
朝の事もあり、ひょっとして自分は異世界に紛れ込んでしまったのではないかと思う。
播磨はどうにか気を取り直して、未だに顔を覆ったままの愛理に再度声を掛けてみた。
「お、お前、お嬢……だよな…?
傲慢で意味不明でバイオレンスなお嬢だよな?怪物と言われた女、お嬢だよな?」
「………」
ぴく、と微かに震えて反応する。
一瞬、それまで身に纏っていた深窓のお嬢様オーラが凍てついたが…
すぐに持ち直し、愛理はちいさくこくんと頷いた。
「確かに私は私だけれど……傲慢だなんて、ひ、ひどいわ……っ」
「のわっ!?」
わぁぁぁっ!と(超わざとらしく)泣き出す愛理。
何せ女の涙に慣れていない播磨は、それだけで更に動揺してしまう。
「ぅ……ぐす……」
「わ、悪ぃお嬢。泣かすつもりはなかったっつーか…
あ、謝るからとりあえず泣き止んでくれ。俺、泣いてるお前を見てると…」
「……(きたっ!)」
小さくガッツポーズを取り、次に来る一言に備える。
播磨は、実にあっさり言い切った。
「泣いてるお前を見てると……気持ち悪ぃし」
「だあぁっ!」
ずしゃぁっ!と盛大にコケる。
若手顔負けのリアクションだった。
「お、おい、平気かお嬢?」
「え、ええ……ありがと」
播磨に手を貸してもらって、立ち上がる。
さりげなく重ねられた手に、思わず紅潮してしまう愛理であったが…
(…ッ! ダメよ愛理! ここは耐えなければ…!
そう、こんなところで挫けてる場合じゃないのよ!
絶対負けないんだから! 今日こそ、決めてみせるわ……!!)
気合一閃、笑顔をニコリ。
怯んだ播磨の両手を取って、愛理は潤んだ目を合わせた。
「ありがとう、拳児君。本当に、助かりました……」
「な、ンなに感謝されるような事でも……」
そっぽを向いて、愛理の手を振り払う。
一瞬だけ、播磨を見る愛理の視線に険が混じったような気がしたが…無論、播磨は気付かない。
居心地悪いが、さりとて去る事も出来ず、播磨は所在無さげに立っていた。
(ッたく、マジでどうなってやがんだよ今日は…!?
絃子もおかしいし、お嬢もこんなだし……ま、まさか天満ちゃんまで変わっちまってるなんて事はねぇよな!?)
急に不安になってくる。
まさかとは思うが、愛しの天満ちゃんが、もしもスケバン(絶滅危惧種)やなんかになっていようものなら…!
背筋が凍る。
(イトコやお嬢がどう変わろうと知ったこっちゃねぇが、天満ちゃんだけはそのままでいてくれ!
…いや、例えどんなに変わろうとも、天満ちゃんは天満ちゃんだよな……。
ああ、俺の天満ちゃんへの想いは、天満ちゃんがどう変わろうとも揺るぎはしねぇ!
待っててくれ天満ちゃん!この熱き不変の想いを、今、君に届けるぜ……!!)
愛しの彼女を思い浮かべる。取り敢えず愛理は放置プレイ。
人、それを現実逃避と言う。
「……ちょっと! ちょっと拳児君! 聞いてるの!?」
「おっ!? あ、おぅ。いやー、やっぱ解説はセルジオだよなー!」
「全然聞いてないじゃないっ!!」
「う゛…」
思いッきり目を吊り上げて播磨を睨みつける愛理。被った猫が今にも脱げそうだ。
話を聞いていなかった事は流石に悪いと思ったのか、播磨は改めて話を聞いた。
「だから私たち、もう少しお互いを理解した方が良いと思うのよ……ですよ。
ですから、えーと……お、お互い名前で呼び合えば、もう少し身近な関係になれると思うの」
「名前……?」
いまいちピンと来ない風に首をかしげる播磨。
愛理は、焦ったようにまくしたてた。猫は完全に脱げていた。
「だ、だから私も名前で呼んでるじゃないっ!
こっちだって恥ずかしいの我慢してあげてるんだから、あんたが平気でいるのはおかしいのっ!
わかったら、ほらっ! い、いま呼んでみてよっ!」
「…………いや、でもなぁ」
「……な、何よ……私の名前を呼ぶのが、そんなに嫌なわけ……!?」
怒っているのか泣きそうなのか、最早愛理はぐちゃぐちゃになって来た。
顔を引きつらせる愛理に何か感じるものがあったのか、播磨は観念して口を開いた。
「つーか、お前の名前、なんてったっけ?」
「…………………」
―――刻が、凍った。
「………だっしゃぁぁぁぁぁぁぁぁぁッッッッ!!!」
ごめきっ!!
「ごっはッ!?」
鮮やかなシャイニング・ウィザード!
マットに伏す播磨。スリーカウントも待たずに、愛理は肩を怒らせてその場を立ち去った。
―――放課後。矢神高校、下足室。
まだ痛む首を擦りながら、播磨は足取りも重く歩いていた。
あの後、目を覚ましたら保健室で、またお姉さんと一悶着あったりもしたのだが…
まあ、変わっていたのがあの二人だけでよかった。愛しの天満ちゃんは、いつもの彼女だった。
その事に心の底から安堵はするが……しかし、それで問題が解決された訳では断じて無い。
朝以来、愛理は大人しくなったり激昂したり、お前分裂症かよという感じだったし、
絃子の方も、授業中、何やら意味ありげな視線を送ってくるし…
播磨としては、非常に気疲れする一日だった。
(ま、昼休みだけは休めたけどな…)
あの休息がなければ、本格的に胃をやられてしまっていたかも知れない。
…しかし、播磨は知らない。
昼休み、絃子と愛理が屋上前の踊り場にて、両者手作り弁当を掲げてぶつかり合っていた事を。
二人が牽制し合って膠着状態に陥った結果、播磨は平和な昼休みを送る事が出来たのだ。
…ちなみに、こっそり八雲も弁当を作ってきていたのだったが……
踊り場にて、ジャッキー顔負けの格闘戦を見せられ、諦めてしまっていた。
とりあえず、これで一日の日程も終わり、息苦しかった学校とも一時の別れとなった訳だが…
播磨は溜息をついた。学校が終わろうとも、家に帰れば絃子がいるのだ。
いや、決して絃子の態度が疎ましい訳ではない。むしろ、普段と比べれば大変に快適な生活を送れるだろう。
しかし……あんな状況に放り込まれると、いくら天満一本を心に誓っていても、いつかはトチ狂ってしまう。
しかも、今から夜が始まるのだ。これはいけない…
「……はぁぁぁぁぁ」
靴を履き替えたところで、播磨は座り込んでしまった。
いくら家に帰るのが嫌だとしても、まさか学校に泊り込むわけにもいくまい。
しかし、播磨には、気軽にホテルを利用できる金も無ければ、家も泊まらせてくれる友達もいない。
…いや、たった一人だけ、いた。
「…お姉さんのトコに泊まらせてもらうか…?」
口に出してみて、いやいや、と首を横に振る。
今まで散々迷惑を掛けて来たのだ、今更、新たに面倒事を頼むのは憚れる。
播磨としては、こんな自分に親切にしてくれた恩人なのだ。
まだ借りを返せてもいないのに、また薬価になる訳にはいかない。
…その本人、姉ヶ崎妙にとっては、むしろカマーン!てなもんであるが、勿論播磨はそれを知らない。
「…しゃあねぇ。久々に野宿でもするか」
高校に入学する前、家に帰らず喧嘩に明け暮れていた頃、何度か野宿は経験した。
蛇やなんかが出ないポイントは知っているし、雨風を防げるポイントも知っている。
播磨の容姿であれば、まさかホームレス狩りに遭うなんて事はありえない。
いつまで続くか分からないが、当分の間はこれで行こうかなと播磨は決意した。
「そうと決まれば、早速準備を……おっ?」
今後の予定を簡単に立て、立ち上がった所で、少し先に誰か立っているのに気付く。
夕陽の逆光に照らされたその人物は、播磨の見知った顔……愛しい人の妹、塚本八雲だった。
八雲は『一緒に帰りませんか』とさっきから言い出そうとして言い出せずに、今に至るのだった。
ようやく播磨に気付いてもらえて、小走りに播磨のもとへ駆け寄る。
「誰かと思えば、妹さんじゃねぇか。今から帰りか?」
「はい。播磨さんは…?」
「お、俺か? 俺は………あー……」
言い淀む。
ここで適当な嘘を言って誤魔化すのは簡単だが…
播磨は、どうも八雲に嘘をつく気にはなれなかった。
八雲が天満の妹だというだけでなく、彼女自身の性格とかも結構好きなのである。
今時珍しいぐらいに純粋な娘だし、自分の漫画にも文句も言わずに付き合ってくれる。
八雲といると、なんとなく落ち着いた気分になれる。真人間になった錯覚さえ覚える。
そんな八雲は、播磨が今まで生きて来た中で初めて出会うタイプの女性だった。
故に、嘘をつきたくなかった。嫌われるとか言う以前、無意識下での事だった。
…愛理や絃子には躊躇なく嘘をつけるのだが、どうせバレるので、始めから言わないようにしている。
「…なんつーか、色々あってよ。帰りたくねぇんだわ、これが」
「色々…」
八雲の脳裏に、マンションの一室、播磨の部屋…性格に言えば、その中に居た刑部絃子の姿が浮かぶ。
『色々』の内容は窺えなかったが、八雲の胸に複雑な思いが去来した。
「んでまぁ、これからテキトーに、な」
「…?」
お茶を濁したつもりが、八雲は目で先を促している。
まいったな…と播磨は頭を掻いた。これから野宿するんだ、などとはとても言えない。
野宿など、今まで八雲の人生には全く縁の無かった単語であろう。そこから彼女が連想する考えも解る。
野蛮とか不潔とか、そう思われるに決まっている。
八雲にそう思われるのは嫌だったし、何より八雲の口から天満に伝わり、彼女にそう思われるのは絶対に嫌だった。
かといって、嘘はつけないし…と、散々考えあぐねた結果、播磨は苦し紛れに口を開いた。
「だから、今夜は、その………や、野営?」
『野宿』より多少は聞こえがいいかも知れない…と踏んだのだが、大して意味は違わない。
しかし八雲は困ったように眉を寄せるだけで、別段不快気な顔はしなかった。
「あの……風邪、ひきます」
「え? ああ……ま、イケるだろ。馬鹿は風邪ひかねぇって言うし」
「でも………」
八雲としては、ただ純粋に心配だった。
この季節、夜はもう寒い。それなのに、外で寝るなんて…
播磨が辛そうに床に臥せっている場面を想像すると、八雲は哀しい気持ちになってしまうのだった。
「それに、俺なんかが風邪ひこうが死のうが、それで困るようなヤツなんていやしねぇよ。
イトコのヤツも看病なんざしねぇだろうし、寝てりゃ勝手に治る。
誰にも迷惑かけねぇし、それでいいだろ」
「……播磨さん……」
哀しい。八雲は胸が張り裂けそうな哀しみを感じた。
病気を患って寝込んでも、誰も傍に居てくれない。
そんな寂しい事を、さも当たり前の事のように言ってのける播磨の気持ちが解らなかった。
播磨がどの様な人生を送って来たのかは残念ながら知らないが、それでも播磨が強がっているだけだと思う。
この人は、とても悲しい人だ。きっと、自分が他の誰にも必要とされない人間なんだと思い込んでいる。
そんな事は無い、と八雲は叫びたかった。私は、こんなにも貴方を想っている。必要としている。
しかし悲しいかな、八雲の口はそんな上手くは動いてくれない。
それでも、八雲はどうしても気持ちを伝えたくて、貴方は独りじゃないんだと伝えたくて……そっと、播磨の手を取った。
「い、妹さん……?」
「……私は、嫌です」
「…?」
首をかしげる播磨の手を、ぎゅっと一段と強く握り、八雲は播磨と顔を合わせた。
サングラスに阻まれ、彼の目を見る事は叶わないが、それでも八雲は播磨と視線を合わせた。
それは、男性が苦手な八雲にとって、初めてと言っていい事だった。
「私は、播磨さんが風邪を引いてしまったら、嫌です。とても…心配です。
死んでしまったら………すごく、哀しいです………」
「………い、もうと、さ…」
真摯な瞳に見つめられ、播磨は言葉を失った。
軽く口にした事を、まさかここまで真剣に取り合ってくれるとは思ってもいなかった。
それに…冗談半分で言った事だが、あの言葉の中には、確かに播磨の本音が含まれていた。
社会のクズ。誰にも必要とされない人間。人に迷惑を掛ける事しか出来ない半端者。
そんな自分を、こんなにも案じてくれている人がいる……播磨は泣きそうになった。嬉しかった。
「…こんなこと言ってくれたのは、妹さんが初めてだぜ…」
あ り が と な
「!! い、いえ…」
視えた。感謝の言葉、播磨拳児の心の声。
これは、自分に好意を抱いてくれている者の心しか視えない。
その意味を頭の中で何度も噛み締め、八雲は微かに頬を紅潮させた。
胸中に、訳の解らないモノがごちゃ混ぜになっている。自分でも、自分の心が解らない。
播磨の心が視えた。今まで彼に興味を抱いていたのは、彼の心が視えなかったからだ。
しかし…心が視えた所で、播磨に対する興味は失せない。
他の男性に感じていた嫌悪感も、これっぽっちも感じなかった。
播磨の心が視えて、そこに失望は無い。寧ろ、例えようの無い充足感さえ感じる。
…ふと、まだ自分が播磨の手を握り締めたままだったのを自覚し、また頬を染めた。手は離さない。
「…妹さんにそこまで言われりゃ、仕方ねぇ。
気分は乗らねぇけど、帰ってみるか……」
「あ…」
それとなく手を離し、播磨は唇の端を持ち上げた。
播磨の掌が離れた事で、八雲は心に空洞が開いたのを感じた。
心の空洞は、そこが充たされるのを待っている。充たす事が出来る手段は、一つに限られている。
八雲はそっと目を瞑った。
(私は昨日、変わると決めた。
今日は凄く頑張ったけど、まだ駄目。まだ足りない…
私は変わる。一歩を踏み出して、今日、変わる。
姉さんみたいに…姉さんみたいに、頑張れる娘になる。
頑張って踏み出して……姉さんみたいに、なるんだ…!)
尊敬する姉の笑顔を思い浮かべ、きりりと眼を見開く。
多少の怯えは混じっているが、それはいつもの物憂げな瞳、引っ込み思案の少女のそれではなかった。
頬を赤らめ、爆発しそうな心臓を押さえ、息も絶え絶えに、八雲は口を開いた…!
「あ、の……!」
「ん? どうかしたか?」
今までになかった強い語調で呼び止められ、播磨は振り返った。
「その、今日は、姉さんは、周防さんのお家に泊まる予定になっていて…!
両親も、いませんから……今夜は、家には私ひとりだけで…!
ご、ご迷惑でなければ、う……ち、に、泊まり……に………!」
「…………………」
ぽかん、と口を阿呆みたいに開けて固まった播磨。
八雲にとって、これは賭けと言っていいものだった。
今まで八雲が見て来た大多数の男性ならば、ここで邪な考えが山の如く噴き出すだろう。
播磨とて一人の男であるから、そうなる可能性は充分…というか、そうなるだろうと八雲は覚悟を決めている。
もしそうなったとしても、播磨を嫌いになる事はないだろうが…やはり、今まで通り接するのは難しくなる。
これは、八雲が本当に男に心を開く事が出来るかどうかの、その瀬戸際だった。
そして、播磨は暫し逡巡した後………あっさりと頷いた。
「おぅ。そんじゃ、厄介になるぜ」
「…!!」
次に来るかもしれない衝撃に備える。
そして、遂に、播磨の本音が……視えた!
妹さん、広い家に独りで不安なんだろな。
ここはひとつ、俺が責任持ってビシッ!と守らねば…!
「……!」
八雲は息を呑んだ。
今ここに、恐らく世界一硬派で誠実で鈍感で馬鹿な男が誕生した…!
「…しかしな妹さん。いくら独りっきりが怖ぇからって、気軽に頼んじゃいけねぇぜ。
世の中にゃあ、勘違い野郎がごまんといやがるから…今の言い方だと、誤解されちまう。
妹さんは知らなくてもいいことだが、自分から誘ってくる女もいるんだ。
これからは誤解されないよう、ちゃんと言葉は選べよ?」
「は、はぁ…」
播磨が誠実極まりない馬鹿で、八雲としては願ったり叶ったりなのだが…
なんというかこう、肩透かしを喰らった気分だった。
邪な欲望を吐露しないまでも、せめて赤くなってたじろいで欲しかったというか…
これではまるで、自分が女の子として意識されていないようで、ちょっと悲しい。
そんな八雲の複雑な乙女心に気付く訳もなく、播磨は八雲に背を向けた。
「んじゃ、バイク取ってくるわ。
妹さんは、正門のトコで待っててくれ。…乗ってくだろ?」
「あ、はい…」
バイクを取りに行く播磨の背を見送りながら、八雲は吐息を吐き出した。
何か色々なものをスルーされた気分だが…しかし、播磨が今夜家に泊まると言う事実は変わらない。
夜這いをかけるなんてことは想像だにしなかったが、それでも心は躍る。
家に連れ帰ってどうこう、既成事実がどうのこうの、なんて八雲は一欠けらも思っていなかった。
この辺が、無欲の勝利と言う奴だろうか。
「…♪」
嬉しいようなもどかしいようなくすぐったいような気持ちだ。
八雲は今晩の事を考え、幸せそうに微笑んだ。
―――翌日。昼休み、屋上。
「―――それで、拳児クン。昨日は何処に泊まったんだい?」
「なんでお前にいちいち言わな」
「ひょっとして、姉ヶ崎先生の処かい?
もしそうだとするならば、私はいち教師として、君を処罰しない訳にはいかなくなるな。
…さて、ガトリングは何処に仕舞っていたかな……?」
「て、てめイトコ、なにしやがるつも」
「…てゆーかあんた、刑部先生とどんな関係だってのよ?
何気なく呼び捨てにしちゃってるし、親しそうな雰囲気だし…
そもそも、なんで先生があんたが昨日泊まった場所を訊いてるのよ!?」
「だから、それはイトコが俺の」
「絃子が俺のモノ、ですってぇぇぇぇぇぇぇぇっっっ!?
あ、あんた、私にこ、告白までしておいて、あまつさえ、ハダカではがいじめまでしておいて…ッ!!
ヒゲのクセに、調子乗ってんじゃないわよッ!」
「だ、誰もンなコト言ってね」
「…ちょっと待て。今のは聞き捨てならないな。
告白? 裸で羽交い絞め? それは一体、どういう事なのか……説明、してくれるね?」
「あ、ありゃあお嬢の」
「私の水着姿に興奮したから、ですってっ!?
そ、そりゃ、仕方のないことなのかもしれないけど…
それならそうと言ってくれれば……せ、せめて、もうちょっとムードってものを…」
「…拳児クン。君には失望したよ。
私が散々、風呂上りにバスタオル一枚で君の目の前を行き来していたというのに…!
…いや待てよ。そうか……要するに、私に手を出す勇気がなかったと、そういう事だな?
沢近君は学内でも有名なアバズレだから、その分襲い易かったと…」
「あ、あばずれなんかじゃないですっ!!
大体、そ、そういうことはまだ一度も……っ!
それを言うんなら、先生こそそうじゃないんですか!?
先生の年齢で、まさかまだって事はないでしょう!」
「残念ながら…私は未だ処女だよ。期待に添えなくて申し訳ないがね。
私は拳児クンがまだ小学生だった頃から目をつけて来たんだ。
いつか来たる日の為に、身体は綺麗なままにしておいた。
経験を積み、拳児クンを悦ばせられるようにしようかとも思ったのだが…
やはり、一番好きな人と結ばれたいものだからね」
「な……ッ! しょ、ショタコン……!」
「どうとでも言いたまえ。昔の事だ。
…しかし沢近君。今は、我々が言い争っている場合ではないと思うがね。
大事なのは、昨日拳児クンが何処に泊まったか、誰といたのかという事だ。違うかい?」
「仕掛けてきたのは、そっちからだと……まあいいわ。
確かに、貴女の性癖より、そっちの方が遥かに重要ね。
さぁ、吐きなさい、ヒゲ。昨夜は、どこにいたの……!?」
「…あの、播磨さんを虐めないでください」
「い、妹さん…!!」
「……なんで天満の妹が出てくるのよ。
やっぱりあんたたち、付き合って…」
「…拳児クン、君はあれか? 『塚本』君なら何でもいいのか?
さゆりスト、というのは聞いたことがあるが……ふむ。
さて、如何様にして苗字を変えるべきか…」
「お前ら、なに勝手に決め付けてん」
「…と、またはぐらかされる処だった。
正直に言いたまえ、拳児クン。君は昨夜、姉ヶ崎先生の処に居たのか?」
「ちげーよ。俺は」
「…播磨さんは、私の家に泊まりました」
「「な、なんだってーーーっ!!?」」
「い、妹さん……また、火事場にニトロぶち込むような真似を…(半泣き)」
「ちなみに昨夜、播磨さんを除いて、家には私独りきりでした」
「……拳児クン。少し話がある。こちらへ来たまえ」
「……ヌッコロス」
「ちょ、待、く、暗がりに引きずり込むなぁぁ…ッ!」
「(播磨の頭をしっかりと胸に抱きながら)……播磨さんを、虐めないでください」
「「……………………」」
「………(い、胃が痛てぇ…!!)」
―――数時間後。
「だから何度も言っているだろう。現在、彼に最も近しいのはこの私だ。何せ、同棲までしているのだからね」
「同居、の間違いでしょ?
大体、何年も一緒に暮らしてるのにまだ何の進展も無いなんて……ハッキリ言って、脈が無いと思いますよ?先生」
「こんななりはしているが、拳児クンは意外と古風な男でね。
言葉で確認し合った関係じゃないと、そういう行為には及ばないのだよ。
まあ…とは言っても、その段階に至るのにも、時間の問題と言った所だがね」
「い、いやに自信満々じゃないですか。
でも、刑部先生と播磨君って、教師と生徒でしょう? 難しいと思いますよ、実際。
それに……ご自分の年齢も考えた方がよろしいんでなくて?」
「……言ってくれるね。しかし、君の方こそが不利なのだよ。
君のように、男性に誘われれば、何処にでもホイホイ着いていくような女性はね…
男、特に恋愛慣れしていない拳児クンにとって、どう見ても好意的には映るまいよ」
「わ、私はっ!そんなつもりじゃないわよ!!
あれはただ、友達と遊びに行くような感覚で…!第一、手だって握らせた事もないわよ!」
「はっ、どうだかね……」
「……なんなのよ、あんた」
「あの……播磨さん、おにぎりを作ってきたんですけど……」
「お? おお、悪ぃな妹さん。そーいや、昼なんも食ってなかったわ。
んじゃ早速………うぉ、こりゃうめぇ! 流石だな、妹さん」
「あ、ありがとうございます…。
……そ、その……『妹さん』というのは……な、名前で………」
「あん? どしたんだ妹さん?」
「………名前で、呼んでください。
私は、八雲です。だから………八雲、と。名前を、呼んでください…」
「お、おぅ……わかったぜ、や…八雲」
「…………(花が咲いたようなような笑み)」
「ぅぉぁ………(ちょっと心が動いた)」
―――――無欲の勝利?