小鳥たちの鳴き声と、窓から降り注ぐ陽光。
聴覚と視覚、二つの刺激に、少女は目を覚ました。
瞼を開く。陽光が目に痛い。右手でひさしを作り、身を起こす。
ぱさりと、身にかけていた布が落ちた。現れる身体には、見慣れぬ衣服が被せられていた。
「……ねま、き……」
そういう代物だったと、昨夜のことを思い出す。
アノ人と出会った昨日。暖かい腕に引かれて辿りついたそこは、廃ビルよりも、はるかに暖かい場所だった。
家という、その場所。晩御飯の風景。団欒。
それはとてもとても暖かく。それはとてもとても心地よく。
そのあまりの心地よさに、暖かさに、いつのまにか眠ってしまっていた。
あたりを見まわす。ここはどこだろう。猫のぬいぐるみや置物が一杯だ。枕元にも、窓辺にも。机の上にまで。
目をとめる。机上に、一つの写真立てがあった。アノ人が写っている。とても優しい笑顔だ。一緒にいる人の、なんと幸せそうなことか。
写真を眺めていると、外からいい匂いが漂ってきた。
匂いにつられ、部屋を出る。
廊下を渡り、写真を持ったまま、扉を開ける。
「フン♪ フン、フン、フン、フン、フン、フン♪ フン、フン、フン、フン、フン、フフ〜ン♪」
鼻歌を歌いながら、女性が台所に立っていた。
少女は、持ってきた写真立てに視線を落とし、再び女性を見た。
料理しているため、後姿しか見えないが、間違いなく同じ人物だ。
名前は、確か――ケイ、と言ったか。
ぼう、と後姿を眺めていると、気配に気付いたのか、彼女が振り返った。
少女に気付き、にこりと笑う。
「あれ? おはよう、雨音(あまね)ちゃん。早いねぇ。あ、ひょっとして、起こしちゃった?」
おはよう、雨音ちゃん。
いまだ眠気覚めやらぬ少女の頭に、その言葉が響いた。
おはよう、雨音ちゃん。
眠気が吹き飛ぶ。昨夜の記憶が、鮮明によみがえる。
おはよう。
おはよう、雨音ちゃん。
雨音ちゃん。
『名前がない? それじゃどう呼べってのよ。不便だわ』
『そうだね。不便云々より、名前がないのは、悲しいよ』
『なら、先生が名付け親になるでござるよ。それがいいでござる!』
『そうね。つれてきたのは横島なんだし』
『兄ちゃん、この子に、名前つけてあげてよ』
そうして授けられた名前。
雨の中の出会いだった。アノ人は、だから、それにちなんだ名前をつけた。
今度は遅れない。心に雨降るそのときは、必ず、傘をかけてあげる。蛇の目で迎えるよ。
そう囁いて、微笑まれて。
授けられた名前。雨音。
横島 雨音。
「……おは、よう」
小さな声で、雨音は初めての挨拶をした。
蛇の妹 その6
「ふああ〜、おふぁよ〜」
大あくびとともに入ってきたのは、ナインテールの少女。
タマモという名前だった、と、雨音は昨夜を思い出した。
「あら、雨音、おはよう。早いじゃない」
「……おはよう」
「タマモ姉ちゃん、シロ姉ちゃんは?」
「横島起こしに行ってるー」
「せんせぇぇぇぇぇ! 朝でござるよ! 起きるでござるぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅ!!!」
「やかましぃぃぃぃぃ! 朝っぱらから叫ぶな! 顔舐めるなぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!」
遠い部屋の叫び声がこだました。
「相変わらずだね、シロ姉ちゃん」
「バカ犬だから」
「……」
シロという名の女性を、雨音は思い出す。
背中の中ほどまでに伸びた白髪を三つ編みにした、赤い一房が印象的な人。活発で騒がしい人。ちょうど今のように。
「もうすぐご飯できるから、二人とも、顔洗ってきなよ」
「おい〜っす。ほら、雨音、行くよ」
「……うん」
差し出された手を握る。
アノ人と同じ。暖かかった。
*
顔を洗って洗面所を出ると、入れ違いに横島が入ってきた。
「おう。おはよう、雨音。タマモ」
「おはよ、横島」
「……おはよう」
「おはよーでござる、タマモ、雨音!」
「おはよ、シロ。あんた、朝から叫ぶのやめてよね。耳が痛くなるわ」
「……おはよう」
「低血圧のお主と違って、拙者は朝に強いんでござるよ。
雨音、昨夜はよく眠れたでござるか?」
シロの質問に、雨音は少し考えて、こくりと頷いた。
「……うん。よく、ねむれた」
「それはよかったでござる」
上から覗きこむシロの顔が、にこりと笑った。
つられ、雨音は微笑した。それは笑顔といえるものではない、唇の端がわずかに吊り上った程度のものだったが。
「ほら、顔洗ったなら食卓行くぞ。洗面所に四人は狭いんだから。ケイの手伝いもしないとな」
「はい、はい。今行くとこよ」
「シロも、顔洗ったらすぐ来いよ」
「行くでござるから、朝餉は少し待っててくだされ」
「早めにな。じゃ、行こうか、雨音」
「……うん」
確かに、彼女は笑っていた。
*
「三人とも、今日は学校休みだよな?」
「そだよ。創立記念日」
「私は、仕事もないわね。」
「拙者は、たしか昼の除霊に入ってたはずでござる」
「………」
五人、テーブルを囲んでの朝食。
「で、それがどうかしたの?」
「いや、今日は俺、一日中仕事だから、雨音を誰か見といてくれるかな、と」
「じゃぁ、拙者が世話を――」
「却下。あんたに任すと散歩に引きずって行ってぼろぼろにするのがオチよ。大体、昼はどうすんのよ。現場に連れてく気?
そういうことなら、私が―――」
「タマモ姉ちゃん、たしか今日は補習がなかったっけ?」
「……いやなこと思い出させるわね、ケイ」
「………」
和気あいあいとした、食卓で。
「んじゃ、ケイ、頼めるかな?」
「うん、いいよ。今日は服買いに行こうと思ってただけだから。雨音ちゃんも連れて、行ってくるよ」
「そういや、雨音は服を持っておらぬものな」
「今着てるのも、ケイの服だしな」
「あ、いいな、いいな〜。私も行きた〜い」
「タマモは補習」
「うぐぅ」
「あはは。というわけで、雨音ちゃん、それでいいかな―――雨音ちゃん?」
「………」
雨音は、お箸と格闘していた。
「………」
箸をグーで握る。ご飯に刺す。当然、米粒がすくえるはずもなく、白飯に穴をあけるだけ。
「………」
箸を持つ。刺す。穴があく。
「………」
箸を持つ。刺す。穴があく。
「………うう」
「雨音、泣くな。初めてなんだから、うまく使えなくて当然だ」
「そうそう。練習すればいいんだから」
「そうでござるよ。最初からうまくできるやつなどおらぬでござる」
「待ってて、スプーン持ってくるから」
「ええとな、箸の持ち方ってのは……」
「食べれりゃいいのよ、食べれりゃ」
「タマモ。礼儀を軽んじた発言は慎むでござる」
「雨音ちゃん、はい、スプーン。お箸は少しずつ練習していこ」
「……ぶう」
雨音の午前は、箸を持つ練習に費やされるのだった。
*
午後。デパートの服飾売り場。レディースにて。
「雨音ちゃん、雨音ちゃん。これどう? 雨音ちゃんの紫の髪によく似合うと思うんだけど。着てみて着てみて!
あ〜っと、それ着るなら、下はこっちかな。ソックスは……そうだなぁ、この色がいいかな。これも一緒に着てみて」
「………着た」
「うわぁ。うん、よく似合ってる。ぴったしだね。
ん〜。でも、なんかおとなし過ぎかな? もちょっとスポーティなやつも欲しいね」
「………」
「これはどうかな? ああ、こっちもいいなぁ。雨音ちゃん、これ着てみて」
「……わかった」
「ん〜。これもいいけど、こっちも捨てがたいよねぇ。あ、これ、シロ姉ちゃんに似合いそう」
「………着てきた」
「うん、いいね。似合うよ。これは買いだ……げ……」
「?」
「………ゼロが一つ多い」
「??」
「……ユニクロ行こうか、雨音ちゃん。今、必要なのは数だし」
「???」
そしてまた、別所にてファッションショーが開催される。
*
「じゃ〜ん。どう?」
横島宅。補習や仕事より帰宅したタマモ、シロを前に、またもやケイ主催による雨音ファッションショーが繰り広げられていた。しかも今回は、厳選による厳選を経て購入された品々による、ザ・ベストなショーである。
当然、観客の反応たるや上々だ。
「お〜。いいじゃない、雨音。かーいーわよ!」
「かわいらしいなスカートでござるな〜。拙者はこういうフリフリがついているのは好かんが、似合っているでござるよ」
草色のシャツにフリルのついた同色のスカートに身を包んだ雨音は、照れて、顔を紅くした。
次に着てきたのは、トレーナーにジーパン。部屋着用だ。その次は半袖シャツにホットパンツ。ひよこのアップリケを施した寝巻き。その他諸々。
全部好評、拍手喝采。
雨音は嬉しかった。誉められたこともそうだが、ショーの最中に言われたことが、彼女の気分を、彼女が理解できないままに高揚させていた。
「横島も絶対気に入るわ!」
そう宣言した、タマモの一言。彼に誉めてもらえると思うと、彼の大きな掌で撫でてもらえると思うと、雨音はもう、嬉しくて嬉しくてたまらなかった。
「ただいまぁ」
だから雨音は、玄関から横島の声が聞こえると、脇目も振らず駆けていった。
「ただいま、雨音。お、かわいいなぁ。ケイに選んでもらったのか? そっか、よかったなぁ」
頭に届く手は、大きく、そして温かかった。
恍惚に浸っていると、不意に視線が上がった。横島に抱っこされ、雨音は横島と同じ視界を得る。
そのまま、先ほど自分が出てきた居間へと。
「おかえり、横島。あ、雨音、いいわね。うらやましいな〜」
「おかえり、兄ちゃん。早かったね。今日はずっとお仕事って言ってなかった?」
「おかえりでござる、先生! で、どうでござったか?」
「いや、美神さんがやる気でなくてな。夜の仕事は延期だって帰された。で、首尾はというと―――」
横島は今日、美神たちに雨音のことを話すといっていた。ケイと同様、保護の許可をもらうと。
シロが尋ねたのは、その結果だった。
それに対して、横島はにやりと笑い、親指を立てた。
ワッ、と歓声が上がった。全員が立ち上がり、横島に――雨音に駆け寄る。
そのまま口々に、驚きで目を見開いている雨音へと賛辞を述べた。
「やったじゃん、雨音! おめでとう!」
「昨日の今日で、美神どのがよく許したでござるなぁ」
「まぁ、もらったのは美神さんの許可だけだけどな。Gメンのほうは問題ないとして、あと、神界にも話を通さなくちゃ」
「? どうして神界が出てくんのよ?」
「どうしてって、雨音が神族だからに決まってるだろ」
「「「はぁ!?」」」
三姉妹、驚愕。
「ちょっと、マジ?」
「全然そんな匂いしないでござるよ?」
「兄ちゃん、ボクらからかってない?」
まじまじと自分を見詰める三人に、雨音は少しおびえ気味だ。
「からかってないない。そこはそれ、ちょっと複雑な事情ってやつでな。確信はあるけど、確証があるわけじゃないから。
……あ〜、やっぱ小竜姫さまンとこ行くのがいいかな。しばらく行ってないし。ヒャクメに霊視してもらえばはっきりするから……そう不安な顔するな、雨音」
自分の服を掴む雨音に苦笑し、横島はその頭を撫で、抱き上げた。
「怖いことなんかないぞ。お前の出生を知るかもしれない人に、会いに行くだけだ。大丈夫だよ」
「……いい」
横島と平行な視線。雨音は、太い首に細腕を回す。
「こわくても、いい。がまん、する」
「雨音?」
「……パパといっしょ、なら、いい」
「「「パパァ!?」」」
雨音の発言に、驚愕三姉妹再び。
しかし横島は、多少は驚いたようだがすぐに落ち着きを取り戻し、雨音を抱きしめ返した。
「そうだな。俺は、お前の―――パパだもんな」
横島忠夫は知っている。彼女がどういう存在か。自分がなぜ、彼女の夢と重なったのか。
横島はそれを、感覚で理解している。確証はないが、確信がある。
彼女と、魂が繋がっている。横島が得た結論は、それだった。
そのようなことが、果たしてあるのだろうか。
そんな問い、愚問だと横島は思う。
現にこうして、雨音はここにいるのだ。ないわけがない。
「ケイ、晩御飯は?」
「え? あ、ごめん。まだ、下拵えくらいしか……」
午前は掃除洗濯、午後は雨音の服を買い、晩はそのままファッションショーをしていた。
あまりに没頭していたので、晩御飯のことをすっかり忘れていたのだ。
下拵えも、実はまだだったりする。
「じゃ、今日は外に食いに行くか。雨音がうちにきたお祝いだ」
ケイはてっきり怒られるかと思ったのだが、横島は笑って外食を提案した。
内心で胸を撫で下ろしながら、横島に対しケイはすまなく思った。
「ハイハイハーイ! きつねうどんがいいでーす! 4丁目のあそこー!」
「はいはいは〜い! ステーキがいいでござ〜る! 駅前のじゅージュー!」
「えっと……ボクは魚料理が。裏道の和風亭に入った、秋刀魚の新メニュー」
「お前らなぁ」
十人十色の答えに、横島が苦笑する。
「ん〜、そうだな。寿司にでもするか?」
「「「わさびいやぁ!!」」」
異口同音に、三姉妹。
「はは。わかったわかった。んじゃ、魔鈴さんとこはどうだ?」
「ん。それでいいよ」
「あそこの肉料理はなかなかでござるからなぁ」
「え〜。油揚げ〜」
「そういや、油揚げ使った料理をタマモに試食して欲しいって言ってたぞ、魔鈴さん」
「行く!」
「おーし、全員一致で魔鈴さんとこ決定!
じゃ、みんな準備して。すぐに行こう!」
「は〜い」
「了解でござる〜」
「雨音ちゃんはそのままでいいよ。それ、よそ行き用だし。じゃ、ボクも着替えてくるね〜」
三々五々、三人は各々の部屋へ散っていった。
しばらくして、少しだけめかした三人が出てくる。
「よし、行こうか!」
「「「おお!」」」
横島の言葉に、歓声を上げる三人。
雨音は、なにがおこったのかよくわからず、きょとんとしていた。
ただ、みんなが喜んでいるのはわかったから。
みんなが自分を、受け入れてくれていることがわかったから。
「「「「行ってっきま〜す!」」」」
自分も嬉しくて、少しだけ、笑った。
「いって、きます……」
小さく小さく、呟いた。
こうして、路上の少女は雨音となった。
雨の音響くなかで出会った男性の元で。
名前を得て、家族を得て。
彼女の人生は、これより始まる。
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というわけで、チビメドの名前は雨音になりました。最初は普通にメデュとかにしようと思ったんですが、ひねりないかなと思って。だったらこれがひねってるのかと言われれば、首を傾げざるを得ませんが。
ついでに裏設定(書ききれなかった)。
雨音ちゃんは、男性恐怖症です。平気なのは横島だけです。あんな経験したら、無理ないと思います。
あと少しだけ続きます。連続投稿とかは誉められることではないでしょうが、今しばらくお付き合いくださいませ。