その日、一筋の光が、夜空を彩った。
流れ星。
ある者は気付かず無関心に歩き、ある者は空を仰ぐ。ある者はそれを吉兆とし、またある者は、願いを三度呟いた。
横島忠夫という男がいる。
仕事帰り、横島忠夫は道すがらでそれを見た。
空を仰ぎ、流れ星を見止め、綺麗だなと感じた。
日常の中の、なんでもないワンシーン。
その小道具は、夜空を駆け抜けた一条の流れ星。
その流れ星から。
物語は、始まっていく。
蛇ノ妹
1.
目覚めると、星空だった。
竹のようにずんぐりと伸びた廃ビルに区切られた四角い夜空を眺めながら、横島忠夫は呆然としていた。
野宿をしたことが、ないわけではない。彼の雇用主の性格を考えれば、寝袋一つで夜露と共になど、むしろ当たり前だ。
が、昨夜は泊りがけの仕事はなく、自分の部屋で寝たのだ。目覚めて最初に見るのは、自分の部屋の天井か――あるいは、お越しに来てくれた義妹の笑顔か。
そのどちらかになる、はず。
だというのに、この星空。
まず最初に、夢だろうかと考える。目覚めたら夢の中。夢の中で寝るなんて、なんだかものすごくもったいないというか、非生産的というか。
だったら夢は生産的なのかと問われれば困るが、損した気になるのは間違いないだろう。
まぁ、夢なら夢で、それを楽しめばいいだけのこと。
そう結論付けた横島は、自分の居場所を知ろうと、右を向いた。
ぐるりと、視界は回転する。――『左』に。
(……………………………は?)
再び、横島は呆然。お箸を持つほうが右で、茶碗を持つほうが左だったよな、などと、幼少の自分の教育を振り返る。
もしかして自分は、父に嘘を教えられていたのでは? 世間の右を左に、左を右に勘違いしていたのでは? あの親父なら十分にありすぎる。
考えていると、再び視界が回転。右を移した後、星空へ戻った。
月のない夜、星の銀は強く、美しい。手を伸ばしたら掴めそうな気さえする。
思うと同時、視界に手が現れた。小さな、きれいな手だ。指は短く、全体のバランスが横に少しつぶれた感じ。典型的な子供の手。
それが、視界の下から伸びている。その光景は、それが自分の腕だと何よりも雄弁に語っていた。
手は、空に向いて握ったり開いたり。数回繰り返した後、手首を180度回転。こちらに向けた掌には、しかしもちろん、星が掴めているはずもない。
自分の手を見て、視界が少し傾いた。小首をかしげたような、そんな動き。
違和感。一度生まれたそれは、蛇のように絡み付いて離れない。
視界が前方に回転。描く弧は大きい。首だけではない、上半身の動きだ。ぐるりと見まわす光景は、先ほどよりもわずかばかり高かった。起きあがったのだと理解する。
違和感はつのる。
横島は疑い始めた。何を疑えばよいのか、それから疑い始めた。懐疑説を唱えたデカルトの心境はこんな感じだったのか? どうでもいい思いが頭をよぎりながら、疑い出した。
まず、この肉体は誰か? 自分はだれか?
果たして本当に、自分は横島忠夫なのか?
先ほどの小さな手。それが自分の――この視界の持ち主の手だということはわかる。先ほどのは、まず間違いなく、『自分の腕をかざした』光景だ。
そして間違いなく、子供の手だ。
ということは、自分は子供なのであり―――
(――全身を見れば確実なんだが)
そう思う。
同時、視界が回転した。俯角に60度。下を向く。
移った絵には、子供のごとき小さな脚に、一筋の線がくっきり入った股間。くびれのない腰。余計な脂肪のないお腹。ちょっと見えにくいが、わずかにも膨らんでいない胸。
全身を見た結果、視界の持ち主はまず確実に、
(子供だ。しかも女の子。っていうか、全裸だ)
予想外の展開に、タダオくんのお脳は情報処理が追いつかないでいた。
つまりは、どういうことだろう? そもそも、一体何を疑っていたんだっけ? 問題は何?
横島忠夫は男だからしてしかも今年で21になる大人こんな小さな女の子であるはずないそうか夢か夢なら何でもありだ俺が女の子になってようと一向に可能そういえば夢って願望をあらわすって言うしつまりそれって俺にそういう願望がすなわちロリコンだから違うそんなわけない俺は違うロリコンじゃない落ち着け静まれ冷静に考えろ果たして俺はロリコンか否かだから問題はそこじゃなくって〜〜〜〜〜〜〜〜〜!!!
タダオくんの思考ルーチンが無限ループに陥っている間も、視界は動いていた。
画面の中、脚が折り曲げられる。地面に足底をつき、軸は中央、両腕でバランスを取りながら、足の関節をゆっくりと伸ばしていく。
半分ほど立ち上がった時点で、バランスを崩して後ろにこけた。
「あ」
そんな小さな声が聞こえたかと思うと、後頭部に衝撃が走り。
横島忠夫は、あっさり意識を手放した。
・
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・
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「という夢を見たんですよ」
昼下がりの美神除霊事務所。紅茶を啜りながら、横島は事務所の面々に今朝見た夢を話した。
もちろん、少女のヌードとか、そんな場面は割愛してある。煩悩の塊といわれる彼とて、守備範囲は同年以上と認識しているからこそ、ロリコンなどという不名誉な称号は避けたいところであった。
「はぁ。自分が他人になっていた、ですか。不思議な夢ですねぇ」
左二つ隣。キヌが相槌を打った。
「変身願望でもあるの、横島?」
右隣、問うてくるのはタマモだ。
「おお、変身! カッコイイでござるな! こう、ブレスレットを掲げて、ええと、なんでござったか……そうそう、『オカルトチェンジ!』」
左隣、シロは、嬉々としてポーズを取る。
「興味深いわね。荘子の『胡蝶の夢』って知ってる? 蝶が私の夢なのか、私が蝶の夢なのか、ってやつ。横島くんが、実は女の子でした、なんてね」
「に〜に、おなのこ〜?」
右二つ隣で古事を持ち出すのは美神美智恵。きょとんとした顔の美神ひのめは、横島の膝上だ。今年3歳となる娘は、そこが最高にお気に入りだった。
「……それ、本当に夢かしら?」
そして対面。皆と違い、一人真剣に考える美神令子の姿。
「どういうことっスか?」
横島は問い返す。蝶の如く、今のほうが夢だと彼女は言いたいのだろうか。
「以前、アンタと私で同じ夢見たの覚えてる?
それと似たようなことが起こったんじゃないかしら、って推測も成り立つわけよ」
200年後の世界で、自分が自縛霊――正確には横島そのものの霊ではなかったが――になっていた夢を思い出す。
同じ時、美神も同様の夢を見ていたと知り、一体どういうことかと考えたものだ。
「つまり、誰かの夢とシンクロしたってことっスか?」
「違うと思うわ。説明できなくて悪いけど、多分、違う。私の霊感になんか引っかかるのよねぇ。リアルな夢とも、ちょっと毛色が違うみたいだし」
「じゃ、なんなんスか?」
問い詰める横島に、美神は渋い顔。彼女自身、自分の推測に自信を持てていないようだ。
「令子、いいから言って御覧なさい。自分の霊感を信じて。ね?」
「私が思うに、それは、多分――」
母に促され、美神は口を開き、
「誰かの意識とシンクロしたんじゃないかな」
ざわめいた。
「意識、ですか?」
「それってどういうこと?」
「ってことは、夢じゃないんですか?」
「ま、待ってよ、ちゃんと話すから!」
質問攻めにされる美神。場を沈めさせ、こほんと咳払いをして、説明を始める。
「横島くんが、夢という無意識の中で、誰か別な人の意識とリンクしちゃったんじゃないかしら。
つまり、横島君の観た夢は、その娘にとっての現実。姿が見えないのは、視界をトレースしてるんだからしょうがないわね」
「そんなことがあるんですか?」
「ないとはいいきれないわ。この世界、たいていのことは、まぁ、何でもありだし」
「確かに」
パイパーの件を思い出し、横島は頷いた。子供時代の美神があんなにカワイイという怪奇現象までありなのだ。この程度のこと、あって当然かもしれない。
「……なんか、今、不当な侮辱を受けた気がするんだけど?」
「や、やだなぁ、気のせいっスよ」
勘が鋭い。さすがに一流のGSだなと思いつつ、横島は話を戻そうと努める。
「で、そうであったと仮定して、どうすればいいんスか?」
「どうしようもないわ」
無碍もない、美神の一言。
「探し当てでもするつもり? 顔も名前もわからない人間を? 日本にいる保証すらないのに?
横島くん個人でやる分には構わないけど、それで仕事サボるんなら、給料下げるからね」
効いた。給料下がってはたまらない。横島には扶養家族がいるのだし。
「私もGメンの資料に類似例がないか調べておいてあげるわ。
でも、実質的な被害が皆無な状態だから、暇を見つけて、ってことになるわね」
美智恵がフォローしてくれるが、やはり現状では、事態は進展のしようもなかった。
「ま、また同じ夢を観るようなことがあったら、注意深く観察してみれば? ヒントくらいあるかもよ。
さて。今日の仕事なんだけど、ママがいるからわかると思うけど、Gメン絡みよ」
話はそこでおしまい。紅茶を啜りながら、横島は美智恵の依頼内容を聞いていた。
(また、観れば、か)
期待してる自分に気付き、横島は額をテーブルに打ち付けた。
「ど、どうしたの、横島くん!?」
皆が驚くが、彼の耳には届かない。
今、彼が考えることは一つだけ。
(俺は! 俺はロリコンじゃないぃぃぃいぃぃぃぃぃいぃいいぃぃ!!!)
彼にとって、どうやらそこは譲れぬ一線のようだった。
・
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一筋の細い月が照らす、小さな明るさ。
その中で、小さな少女はぱちりと眼を開いた。
廃ビルの一室。静寂なそこに、彼女はいた。
気だるそうに起きあがる彼女は、衣類と呼べるものを何一つつけていなかった。
呆、としていた少女は、しばらくして、くすりと笑った。
寝ている間に観た夢が楽しく、それを思い出して笑ったのだ。
夢の中、自分はこことは違うどこかに居て、自分とは違う誰かだった。
その誰かが、いろんな事をするのだ。
その誰かが、いろんな事をされるのだ。
周りにはたくさんの人が居た。
栗色の長い髪をした人に、そのママって人。自分の膝――現実と違い、夢のそれは大きかった――に座っていた子供も同じ色の髪だった。
黒い、きれいな髪をした優しそうな人。自分に向けて、困ったような笑顔を向けていた。
白いみつあみお下げが、背中の中ほどまでにのびた人。自分に甘えてくるその姿は、とても可愛らしかった。
金髪を後ろで九つに分けた、変な髪型の人。さりげなく、腕を組んできた。あたたかかった。
目を開き、少女は周りを見た。誰も居ない。さびしいと思う。夢から覚めて感じたその感情は、昨夜は欠片もなかった代物だ。
全裸の少女は、両脚に力をこめて立ち上がった。ふらふらと体が揺れる。軸が安定していない。
立てないわけではない。まだ不慣れなだけだ。立つという行為を、彼女は昨夜、初めて行ったのだから。
壁に手をつき、歩き出す。右へ。
おはしをもつほうこうだ、と彼女は思う。頭をよぎったその文章。おはしってなんだろう? 自分の思考が不思議だった。
たどたどしい歩みながら、少女はビルの外へ出た。
差し込むは月明かり。昨日と違って明るい。
どうしてと思うと、月というイメージが脳裏に浮かぶ。
つきってなに? 空。見上げる。あれ? ちがう、あれは星。
自分が疑問に思うと、自分の中から答えが返ってくる。
胸の奥が温かい。よくわからないが、とても安心できる。一人が寂しくない。多分それは、独りじゃないから。
誰も居ないのに一人じゃないなんて、おかしいと思う。だけど少女は、自然にそう感じられた。胸の奥に感じるそれが、誰かなのだと。
脚がつかれた。瓦礫の山に座り、彼女は再び、夜空を見上げる。
つきはどれ?
空を見渡す。目に止まった、細い一筋。
あれがつき? あれが月。
返ってくるのは、肯定のイメージ。
ほそい。へんなの。太くなる。
どうして? ホントは丸い。見えないだけ。
ふしぎ。不思議だ。
湧き上がるのは、言葉にもならないイメージだ。それがとても心地よく、彼女は自然、笑顔を作っていた。
あれはなに? 星。
つかめなかった。遠いから。
どのくらい? とてもとても遠く。歩いてもたどり着けないくらい、遠くに。
あれはなに? 雲。
おつきさま、かくしちゃった。また出てくる。
おはしってなに? 箸? みぎにもつの。食事に使うんだ。
おちゃわんってなに? 食事に使う。お箸と、二つで1セット。
ここはどこ?
最後の思いに、イメージは沸かなかった。わからない、ということなのだろう。
それならそれでいい。そう思う。
なんで? 沸きあがってきたイメージは疑問。
その問いに、少女はうまく答えられない。
彼女はまだ、言葉というものを知らない。だから、どうやって答えたらいいのかわからない。
ただ、今感じているものが決して不快ではなく、むしろ心地よいから。
だから、それでいいと思ったのだ。その感覚に身を委ねていたいと。言葉にならずとも、少女はそう感じていた。
彼女に一般的な語彙があったならば、湧き上がるイメージに、きっとこう答えていたことだろう。
たのしいから。
笑顔で、少女は夜空を見上げる。
きれいだね。綺麗だね。
睡魔を感じ、寝床に戻るまで。
少女は、心の中のあたたかさと一緒に、ずっと夜空を見つめていた。
―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
2.
雨である。
空は暗雲が日の光をさえぎり、天より落ちた雫は、激しく地を打ち据える。、
ザァァァァァァ
音を文字にするのならそう表せるだろう、断続の連続音。
部屋の窓から、女性はそれを見つめていた。
雨は、嫌いではない。それは自然の恵みだ。雨が降らなければ、田畑は潤わない。火事は消えない。自分たちも枯渇してしまう。
時には土砂となり猛威を振るうが、雨は基本的に、天からの授かり物なのだ。
ただ、まぁ、こんな日は。
異常に蒸してしまう日だけは、彼女も辟易するのだが。
換気のために窓を開ける。雨どいと風向きで、雫は入ってこない。
さぁ、と入ってきた涼しい空気に、彼女は少し、心を和らげた。
そのまま、雨音に身を浸らせる。
するとそこに、バシャ、バシャ、と、別な音が混じった。
不協和音は足音だ。一人の青年が、傘も差さずに懸命に走る音。
「大変!」
それを部屋の窓から見つけた女性は、一言を残し、部屋をあとにした。
彼女が階下へ降りると同時、建物の扉が開く。
現れたのは、先ほど、道を駆けていた青年だった。
「横島さん!」
女性はタオルを手に、ずぶぬれの青年――横島に駆け寄った。
「ああ、おキヌちゃん。こんにちは」
「そんな場合じゃないでしょう。ずぶぬれじゃないですか!」
横島のその言葉に、女性――キヌは怒りと呆れを交えて言った。手は、彼の頭と顔をタオルで拭っている。
「いや、まいったよ。急に降ってくるんだもんな」
「午後から雨の予報でしたよ。天気予報くらい見てくださいよ」
「あ〜、そういや、テーブルの隅に折りたたみがあった気がする。寝坊して慌ててたからなぁ」
「もう」
会話の中、タオルは横島の手に。キヌは受け取った上着を持ち、二人して階段を上がりだす。
「うわ、すごく冷えてるじゃないですか。一体どれだけ外にいたんです?」
横島の腕に触れ、キヌは驚く。
「えっと、30分くらい、かな?」
その言葉に、さらに驚愕。
「なんだって雨宿りしなかったんですか!?」
「いや、な。雨ってのを、見せたくてなぁ」
「は?」
「なんでもない。わお、下着までぐっちょだ」
横島の言葉を理解できなかったキヌ。しかし気を取りなおし、横島に指示を出す。
「とにかく、シャワー浴びてください。そんなままじゃ風邪ひいちゃいますよ。その間、乾燥機かけときますから」
「ありがと、おキヌちゃん」
にこりと笑う横島に、キヌは赤面。
そこに、事務所の電話が鳴った。
「あ。すいません、横島さん。これ、乾燥機に放りこんでおいてください。
は〜い、今行きます〜」
今日は雨なため、事務所は休業。所長の美神に至っては、出社すらしてきていない。そんな我が道を行く上司のヘルプに奔放するのは、必然、唯一常駐しているキヌであった。
「電話の応対か。俺にはできそうもないな〜」
呟きながら、横島は扉を開ける。
さて。
一体誰の責任かと問われれば、誰でもないというしかあるまい。
キヌは横島の身を案じて湯浴みを勧めてくれたのだ。電話というタイミングの悪さもあるが、彼女の気遣いに、感謝こそすれ、責めるのはお門違いといえるだろう。多少抜けていることは否定できないが。
横島は早く身体を温めたかった。予想外に冷えていたこともあるし、それで注意力が削がれてもいた。彼にとって、シャワーは最優先事項だったのだ。もっと気をつけるべきではあったし、ノックも必要だったろう。だが、彼のみが悪いわけでもない。
彼女はといえば、完全に被害者だ。鍵をかけておくべきだったかもしれないが、基本的に事務所は女所帯。そういう意識が形成されにくいのかもしれない。
誰の責任でもないだろう。
しかし、その場限りの単純な図式で見た場合。
見たのは横島で、見られたのはタマモ。
「…………き」
タマモの立場から見れば、自分が悪いはずもなく。また、キヌのことを知るはずもなく。
「きやぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!」
呆然と彼女を見る横島に狐火が飛んだのは、まぁ、至極当然といえば当然の出来事であった。
「いや、ほんま、えろうすんまへん」
全身第2度火傷という重傷を5分で完治させた化け物は、己を消し炭にした放火魔に平謝りをしていた。
「…………」
リビングのソファ。タマモは顔を真っ赤にしながら、そっぽを向いて黙っている。
「ほんと、わざとじゃないんだってば。いきなりの雨だったろ? ずぶ濡れになっちゃって、それでおキヌちゃんにシャワー勧められたから。てっきり、誰もいないとばかり―――」
必死に弁明するが、タマモはなんの反応も示さない。相変わらず、明後日に視線を向けたままだった。
なんとか機嫌を直してもらいたい横島は、最終兵器投下を決意した。
「お詫びに、タマモのいうことなんでも聞くから!」
またの名を、無条件降伏という。
反応はあった。ぴくりと耳が動き、その後、視線が横島を捉えた。
「……ホントに?」
「まじ、まじ! なんでも言って! できることならなんでもするぜ!」
タマモがしゃべってくれたことが嬉しく、勢い込んで断言する横島。
それを聞き、タマモが顔を紅くした。
おもむろに席を立ち、自分の部屋へと帰る。
戻ってきた彼女の手には、一枚の紙が握られていた。
おずおずと、横島にそれを見せる。
「あのね……これ、なんだけど―――」
「……え?」
仰天する横島。その要請は、自分の予想をぶっちぎりに超越していたのだ。
「いや、あの、それは……」
「なんでもしてくれるって言った」
「う! し、しかし、これはだな……」
「……裸見たくせに」
「はうあ!」
「……恥ずかしかったんだからね」
「あうう……」
無条件降伏した横島に抜け道があるはずもなく。
互いに真っ赤になりながらの言い合いは、あっさりとタマモが勝利した。
「じゃ、お願いね」
タマモが部屋に戻り、一人残された横島。
その手に握られた紙は、彼女の通う高校のプリント。
そこには大きく、『父兄参観日のお知らせ』と書かれていた。
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目が、覚めた。
ぱちりと開かれた瞳には、眠気の欠片も残ってはいない。
いまだ覚束ない両脚で、少女は立ちあがる。
既に夜。あたりは暗い。
少女は、己の身に視線を這わせた。
全裸。
「…………」
少女の頬が、紅く染まる。
裸。それは恥ずかしいこと。
初めての羞恥に、頬が染まる。
服。そんな単語が頭に浮かんだ。
その晩を、彼女は服を探すことに費やすのだった。
―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
3.
人気のない闇の中、奇妙な音が響く。
刻は夜。場所は闇。ひび割れた壁に、所々穴の開いた床。廃屋か、そこは廃れて久しい屋内だった。
そんな中で、その音は、静かに響く。
カッ、カッ、と、固いもの同士が打ち合う音。そして、時折混じる、小さな言葉。
一人の少女が、床や壁に石で落書きをしている、その音だ。
それは、少女の一人遊び。光があれば、あちこちに刻まれた絵画が見えるだろう。壁にも、床にも。目覚めてから、胸の奥が暖かくなるまで。少女は一人、絵を描いて過ごしている。
絵は、典型的な子供の絵。点の目に、スイカを4分の1にカットしたような口。それがうまいかどうかはさておき、とても微笑ましいものだった。
にっこり顔の下に長い線――髪だ――を着けたし、完成。
少女は満足げに笑い、自分の絵を指差して、
「お・キ・ヌ・ちゃ・ん」
と呟いた。
隣に描くのは、同じく点の目とスイカの口。違うのはそこからで、おでこに潰れた『く』の字が被せられた。前髪だろうそれをこすり、色をつける。
「シ・ロ」
今度は、顔の上に潰れた『く』が九つ。
「タ・マ・モ」
その次の顔は、先の三つとは違った。点ではなく、外に吊り上った線の目と、『へ』の字口。見るからに怒ったふうなその顔に、最初と同じ長髪をつけ、
「み・か・み・さ・ん」
頷き、もう一度最初から。
おキヌちゃん。シロ。タマモ。みかみさん。
繰り返し、満足に笑う。
そうしてお絵描きを楽しんでいた少女は、ふと、空からの音に、顔を上げた。
窓――ガラスなどない。枠だけだ――から、外を見る。
同じような廃屋や廃ビル。建ち並ぶ外の景色に、2度目の――しかし、自分としては初めて見るものが加わっていた。
「―――あ・め」
思い出すのは、昼の音。昼の光景、昼の声。
「あ・め」
アノ人の声を思い出す。空の中から思い出す。
かかとを上げては下ろし、上げては下ろし。全身で、少女は動く。
「ふ・れ、ふ・れ」
それは、リズム。
「か・あ・さ・ん・が」
全身で律動し、調子と共に、少女は歌い出した。
「じゃ・の・め・で・お・む・か・え、う・れ・し・い・な」
小さく、高い。子供の歌声が響く。
「ぴ・ち、ぴ・ち、ちゃ・ぷ、ちゃ・ぷ、ら・ん、ら・ん、ら・ん」
耳に響く音が、柔らかく心地よい。
頬をなでる風が、冷たく気持ちいい。
この中を走り回れれば、どんなにいいだろうか。
でも、それをしたら風邪を引く。風邪はとてもつらい。そう、アノ人は言っていた。だから、しない。
でも、ただ見ているのもつまらないから。だからせめて、雨を歌おう。
「あ・め・あ・め、ふ・れ・ふ・れ、か・あ・さ・ん・が」
再びリズムを取り、彼女は口ずさむ。
「じゃ・の・め・で・お・む・か・え、う・れ・し・い・な」
もうすぐしたら、アノ人がやってくる。胸の奥が暖かくなる。
アノ人が、お迎え。
嬉しいな。楽しみだ。
とってもとっても、楽しみだ。
「ぴ・ち、ぴ・ち、ちゃ・ぷ、ちゃ・ぷ、ら・ん、ら・ん、ら・ん」
待ち望む時間。少女はとても楽しく、とても面白い。
雨を眺め。全身で動き。鈴を転がす声で。
「あ・め・あ・め、ふ・れ・ふ・れ、か・あ・さ・ん・が」
少女は、アノ人がくるのを待ち続ける。
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皆様今晩は。初めまして、お久しぶりです。桜華です。
蛇ノ妹、遅くなって申し訳ありません。なんだかんだいって、猫から一月以上経ってますよ……すぐに書けるって言ったくせに、自分!
とりあえず、1〜3までを収録しました。本当は全部入れようと思ったのですが、時間軸的に間に『お兄ちゃん』が入りますので、それを入れようかと。
というわけで、蛇ノ妹、今しばらくお付き合いください。
ではでは。