凍てつくような寒さの夜だった。今にも世界を銀色に変える妖精を降らそうとするかのように、厚い雲がどんよりと空を覆っている。湿った冷たい風に少し身を震わせ、ソシエは花柄の刺繍がほどこされた藍色の縁無し帽子を深くかぶり直し、ファーをあしらった赤いコートの襟をかき合わせた。首をすくませ心持ち猫背気味になった彼女は、しかしすぐに思い直したようにぴんと背筋を伸ばし、顔をあげた。栗色の瞳が見つめる先は、正面の山の稜線にそった低い空。この曇天の下、そこだけ切り取られたかよのうに、雲の切れ間が存在していた。そのぽっかりとあいた空間に浮かんだ真円の月に、ソシエは両腕を伸ばし、手のひらを差し出した。満月を捕まえようとしているようにも、何かをささげようとしているようにも、どちらにも見えるその仕種は、見るものを厳粛な気分にさせるような、神々しい雰囲気を放っていた。そのままの姿勢でゆっくりと目を閉じ、ソシエは動きを止める。宗教画の一枚のような美しいその姿だが、よくよく考えてみるとおかしなものだった。ゴツゴツした岩と砂利に覆われた小さな丘の頂上近く。日没後に妙齢の女性が一人でいるには、あまりにも不似合いな場所と言えるだろう。身にまとっている上質な、それなり以上の階層に所属しているとひと目でわかる服も、場違いさを際立たせている。
ブロロロロロロロ……
車、どうやらトラックが近づいてくるのが聞こえてくる。しかしソシエは動かなかった。口元だけを除いて。
「……遅いわよ……」
自分にしか聞こえない、一言だけの囁きが漏れ出す。やがてエンジン音はとまり、
「お嬢さん!……ソシエお嬢さん!……」
大声と、砂利を踏んで登ってくる足音にとってかわった。この小さな丘のふもと近くにいる声の主の様子が、ソシエには手にとるようにわかった。自分を見つけて一直線に、視線を外さず真っ直ぐに……私だけを見つめてここまで登ってくる。
ソシエは目を開き手をおろすと、だんだん近づいてくる音のほうに向き直ろうとした。
「きゃっ」
高い踵のついたブーツが、砂利だらけの斜面ににとられそうになる。
「ソシエっ!?」
足音の主である、褐色の肌の青年があわてた声をあげる。まだ10歩ほど開いていた距離を飛ぶように詰めて、たたらを踏んでバランスを崩したソシエを抱きとめた。月明かりの中、一つの影をつくる二人を、風が撫でていく。あぶないところで転ばずにすんだソシエは、ゆっくりと顔をあげる。きれいなアクアマリンの瞳が、すぐそばで自分を見つめていた。
「だ、大丈夫ですか?」
「……ありがと、平気」
ずいぶん変わった、とソシエは思う。二人が出会ったころは、まだお互い少年と少女だった。青年は華奢で背も今より低く、こんなふうに支えてくれるほどたくましくはなかった。自分ももっとやせっぽちの、女性らしさのかけらもない子どもだった。
変わったのは見た目だけではない。あのころなら何も感じなかった。ただロランの手が触れただけで……息が感じられるほど近くにいるだけで……こんなに胸が高鳴ることはなかった。
「ロラン……」
「あ、はい」
肩と腕に触れていた手が離れる。それでもソシエの心臓は早鐘を打ちつづけていた。
まともに目を合わせていることができなくなったソシエは顔を伏せ、ロランに背にを向けた。一つ大きく息を吐いて、気持ちを落ち着かせてから顔をあげる。視界に飛び込んでくるのは、さっきまで一人で見ていた満月。
「きれいよね……」
半ば独り言のようなソシエの言葉に、ロランは半歩前に出て隣に並んだ。
「……ええ、ほんとうに……」
山際の、かなり低いところに浮かんでいるので、ずいぶん大きく見える。呼吸も忘れたかのように見入っていた二人だが、しばらくしてロランはそっとソシエの表情を覗き見た。ナチュラルメイク、印象的な赤い唇、派手になりすぎないピアス。リリがつけたという戦争中のあだ名、”特攻娘”からは想像できない淑女が、感に堪えないといった面持ちを浮べていた。声をかけるのがややためらわれているうちに、おだやかな声がロランの耳をうつ。
「ロランが……」
「……はい?」
「ロランが来てから、2年と、半年くらい」
その口が開かれるたびに吐き出される白い息すら、彼女の美をひきたてる小道具になっていた。ロランは黙って、紡ぎ出される言葉の続きを待った。
「ここに降りてきたのよね?」
月に向いたままだったソシエの視線が、地面の高さ……2、3歩も上れば届く丘の頂上……に下がった。
「そうですよ。ぼくとキースと、フランの3人で……」
つられたように目を移したロランは、少しの懐かしさを感じて歩を進めた。頂上部分はせまく、そこから先はすぐに下り坂になって、かなり広い窪地を作っていた。
「ここに埋まってたフラットで……」
「……知ってるわ」
ロランの隣に歩み寄ったソシエは、目の前の光景に万感胸に迫る想いだった。この2年半、いろいろな、という言葉ではすまないくらいの事件があった。どれもこれも今では遠い日の出来事のような気がする。お父様が亡くなったこと、ミリシャの兵士になったこと、宇宙に、月に行ったこと……
しかし、つい昨日のことのように思えることもある。 たとえば、夜中に屋敷を抜け出すロランの後をつけたとき。 今日と同じ、満月の夜だった。自分はまさにこの場所から、窪地に立つロランを覗き込んでいた。月に吠える彼を見ていた。
今でもはっきりと、鮮やかに甦らせることができる記憶。その中には必ず……
「そろそろお屋敷に戻りましょう」
「……まだいいじゃない」
「もうすぐ雪になりますよ」
言われて、ソシエは空を見上げた。
「あ……」
月が、雲のむこうに隠れようとしていた。いや、雲が、まるで月の輝きを許さないかように、わずかに残っていた夜空を塗りこめようとしていた。ソシエは言いようのない、感傷的な想いが胸に広がるのを感じた。