「猫ノ妹(1〜7再録)(GS)」桜華 (2004.09.23 01:35)
その日は、よく、晴れていた。
季節は秋から冬へ移行する頃。大学生となった横島忠夫は、講義を受けて自宅に戻る道すがらであった。。
横島は高校卒業を機に、美神除霊事務所の正式な所員となった。上がった給料で住居をグレードアップ。美神の億ションとまではいかないが、今ではそれなりの場所に居を構えている。
歩きながら、帰ってどうしようかと考える。
今日は仕事は入っていない。講義もない。ついでに言えばいつもつるむ仲間は全員何かしらの予定が入っていて、すべて断られ済みである。
ありていに言えば、横島は今、暇だった。
暇だったので、たまには別な道から帰ってみようと、いつもより一つ前の道を曲がった。
それは正しく偶然だったろう。あるいは偶然の名を借りた必然であったのかもしれない。
「――え?」
曲がった直後。角に立っている電柱から、そんな声が響いた。
その声を聞いた横島は、半ば反射的に、視線を右へと向けた。
目が、合った。
道路の隅っこでこちらを見上げていた人物と、目が合ったのだ。
年のころは14,5だろうか。よれたジーンズとぼろぼろのジャンパー。泥のこびりついた顔が痛々しい。自分の背丈ほどもある荷物を背負い、その人物はこちらを見上げている。
少年? それとも少女? まだ子供の範囲に位置するその背格好からは、いまいち判別しきれない。
しかし、どこか覚えがある。以前、どこかでこの子供、あるいは非常に似た人物と出会ったことがあるような……
視線を交錯させた数秒間、横島はそんなことを考え、思い出そうと記憶を辿った。
思い出そうと記憶を辿っているうちに――その子は、大粒の涙を流し始めた。
え? え? なんだ、なんだ? どうして泣くんだ? オレ、何かやったか?
驚きに混乱する横島。
そんな横島に、その子は言う。かすれた声で。しゃくりあげながらも。確かに、喜びを含んで。
「にい……ちゃん……」
その言葉で、横島は目の前の子供の素性に気がついた。
自分を兄と慕う人物は――美神ひのめを覗けば、ただ一人。
「――ケイ、か……?」
問うような確認に。
子供――ケイは、首肯の代わりに、横島の胸へと抱きつくのだった。
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
昼下がりの小さな公園。
人気のないその場所で、横島はケイと二人、ベンチに座っていた。
横島の手にはHOTコーヒー。ケイの手にはHOTのミルクティー。
ケイは飲み物に口をつけない。すでにコーヒーを飲み終えた横島は、手持ち無沙汰に空を見上げた。
COLDにすればよかった。そしたら猫舌のコイツでも飲めたのに。
そんな的外れなことを考えつつ、先ほどから続く沈黙を解消しようと、横島は口を開いた。
「いや、それにしても久しぶりだな。あの山以来だから――3年ぶりか」
ケイは反応しない。相変わらず、ミルクティーを手に俯いている。
「ケイもずいぶんと大きくなったよな。最初、わかんなかったぜ」
ケイは反応しない。俯いたまま、一言も発さない。
「ところで、どうしてこんなところにいるんだ? あの山はまだ、開発されてないままだと思ってたけど」
「――――兄ちゃん、探してたんだ」
ようやく。いくつもの話題が空振りに終わり、ようやく、ケイが口を利いてくれた。
横島は、千載一遇のチャンスとばかりに飛びついた。
「俺に?」
「――渡したいものが、あるから」
「へぇ。なに?」
言われ、ケイは自分のポケットをまさぐる。
差し出された手に置かれていたのは、二つの小さな鈴がついた、耳飾りだった。
「これは……?」
「母ちゃんの、イヤリング」
「美衣さんの?」
驚きに目を見開き、小さな手の内にある小さな耳飾りを、横島は凝視する。
「受け取って」
「いや、でも。これ、美衣さんのなんだろ?」
「受け取って。母ちゃんも、きっと喜ぶ」
「喜ぶって……母ちゃんがいいって言ったのか?」
「ううん。でも、いいんだ」
「いいわけないだろう。母親の物を取るような子に、俺はケイになって欲しくないぞ」
「いいんだ」
「だから、いいわけ――」
「いいんだ。だって、もう聞けないもの。聞きたくても、聞けないもの。
母ちゃん、もう、いないから。
――――死んじゃったから」
その言葉に――横島ははっきりと驚愕した。
「………死んだ? 美衣さんが?」
こくりと、ケイは頷く。
「――2年前に、オイラたちが住んでた森に、悪霊や悪い妖怪がたくさん出てきて。母ちゃんは、必死でオイラを守ってくれて。そのとき受けた傷が元で、先月……」
2年前――それはすなわち、あの大戦だ。
「そう……か――――」
横島が彼女を失った事件。元を同じくして、ケイも母親を失っていた。
「だから、これ。母ちゃんの形見。兄ちゃんに受け取って欲しい。
別に付けなくていいから。持ってくれてるだけでいい。受け取ってくれるだけでいい。
兄ちゃんに持っていてもらいたいんだ。オイラの大好きな兄ちゃんに。母ちゃんが大好きだった、兄ちゃんに」
「………そっか」
横島は、小さな掌から、小さな耳飾りを受け取った。
「もう片方はオイラが持ってるから、これでおそろいだね」
「そうだな」
横島は自分の掌に移った鈴を見つめる。その影に、美衣の姿を思い浮かべながら。
自分が助けた化け猫。ケイの母。彼女のために、初めて美神に本気で逆らった。逆らって闘って逃げ切って。そうして、親子は再びの平穏を手に入れた。
『なんとお礼を言っていいか』
あのときの彼女の顔を、横島は忘れない。あれほどに感謝されたのは、初めてのことだったから。
嬉しかったんだ、本当に。
掌をきつく、しかし鈴を壊さないように握り、横島は、今は亡き化け猫を悼んだ。
「よいしょっと」
ベンチの隣。
ケイは立ちあがり、大きく伸びをした。
「なんだかすっきりしたな。――うん。兄ちゃんにイヤリング渡せて、すっきりしたよ」
ケイは前方のブランコに乗り、立ち漕ぎを始めた。勢いよく、ケイの体が弧を描く。
「母ちゃんが死んですぐに山を降りたんだけど、なかなか兄ちゃん見つからなかったんだ。オイラ、母ちゃんほど鼻が効かないから、うまく探し出せなくてさ」
明るく、笑顔で。ケイは言う。
だが、横島は知っている。横島にはわかる。
元気にブランコを漕ぎ、明るく笑う目の前の子供。それは、仮面を被った道化の姿だと。
「それに、人間の住むところってすっごく人が多いしさ。空気もこもってて。結局、見つけるのに1ヶ月もかかっちゃった」
横島は知っている。横島は気づいている。
なぜなら彼もまた、その道化の一人だから。
「でも、兄ちゃんも変わったよね。前と匂いが違うもの。オイラも最初、兄ちゃんかどうかわからなかったよ」
お互い様だね、と笑うその子の笑顔を、横島は見ていられない。
「とう!」と掛け声を発し、ケイはブランコから飛び降りる。そのまま体を抱え込み3回転し、見事に着地。「10.0!」などと、満足げに叫んだ。
それは、あまりにも痛々しい光景――
「兄ちゃん、見た見た? 今の、すごかったでしょー。ウルトラCだよ」
「ケイ」
「もう一回やってあげるね。今度はE難度技に挑戦して――」
「ケイ!」
耐えきれず、横島は叫んだ。
「どうしたの、兄ちゃん?」
不思議そうに、ケイは尋ねる。
そうなんだ、と、横島は思う。
心配をかけたくないから。だから、いつもどおりに振舞う。元気なように振舞う。大丈夫なように振舞う。
平気でないくせに。傷ついてるくせに。泣き叫んでるくせに。
それらすべてを封じ込め、普段の自分を演じる。
無理して嘘をつき、無理を嘘で隠し、覆い、複雑に絡み合わせ、塗り固めていく。
やがて創られた虚像は、誰にも虚ろとわからない。自分ですらも。それが嘘なのか本当なのか、わからなくなっていく。
ちょうど、こんなふうに。まるで、自分のように。
「無理、するな」
だけどまだ、ケイは引き返せるところにいる。演じなくていい場所にいる。ケイの虚像を虚ろと見破る人がいる。自分がいる。
「無理、するなよ」
「無理なんかしてないよ。言ったでしょ、すっきりしたって――」
それをわからせるために、横島はケイを腕(かいな)に抱き寄せる。
「ケイ――――泣きたいときは、泣いてもいいんだ。つらいときは、悲しいときは、泣いてもいいんだ。
泣いて、泣きまくって泣きじゃくって。そうして、泣きはらせばいい。
無理をする必要はないんだ。どこにもないんだ。しなくてもいいんだ。しちゃいけないんだ。
そんなことしたら、泣けなくなる。泣きたいのに、泣けなくなるから。
ピエロを演じちゃダメだ。道化になっちゃダメだ。一度でも仮面を被れば、それは決して外れない。そしたら、この先、二度と泣けなくなる。どんな悲しいことがあっても、いつも笑っていくことになるから。
だから、ケイ。――――無理は、するな。頼むから、無理はするな。
泣きたいときは――泣いていいんだ」
そして、横島は待った。ケイの虚像が壊れる瞬間を。
強く抱き寄せ、その頭を抱えながら。
やがてケイは、横島の想いに応えた。
「………う……うぇ…………」
幼い仔猫は、横島の背に手を回し、静かに泣き始めた。
「……母………ちゃ、ん――――」
仔猫の頭を抱き、撫でながら、横島は空を見上げた。
雲一つない快晴。冬も近いのに、陽光は穏やかで、風は暖かい。
ああ、なんていやな天気。
空はこんなにも明るくて。世界はこんなにも前向きに生きている。
まるで、今、胸の中で泣きじゃくる仔猫などいないかのように。
確かに、この腕の中にいるというのに。
陽光に照らされた、穏やかで明るい空間に、仔猫の嗚咽が響く。
横島はなにも言わない。
泣けばいい。泣き尽くせばいい。すべてはそれから。先に進むのはそれからでいい。
泣いて、泣いて。泣き喚いて。泣きじゃくって。
そうして泣き尽くせば、きっと、仔猫の心にも晴れ間が見えるだろうから。
だから、今は――
「泣きたいだけ、泣きな。俺がついてるから、さ」
仔猫の涙は、果てることなく続いていた。
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
心に傷を持った二人がいた。
血と涙を流しながら笑う道化と、半身を失いさ迷い笑う仔猫。
あまりにも似すぎた二人は、あまりにも似すぎて惹かれ合う。
笑いながら二人は泣いた。泣きながら二人は笑った。
道化は仔猫を救いたく、仔猫は往くべき道がなかった。
だから。
「俺ん家、来ないか?」
道化が仔猫に告げた言葉は、そうなって然るべきものであった。
かちゃりとノブが回っただけで、、高校時代の住居と違い、扉は軋むことなく自身を開いた。
「たっだぁいま、っと」
応えるもののない挨拶と共に、横島が扉をくぐる。
後ろに続くのは、小さな仔猫。
「ほら、ケイ。なにしてる? さっさと入れよ」
「う、うん」
おずおずと、ケイは玄関に入る。
横島が靴を脱ぎ、段差を上がる。
ケイは直立不動で、玄関に立ち尽くしたままだ。
そんな戸惑った、あるいは怯えた風なケイの姿に、横島は溜息する。
「ほら、ケイ。入ったらドアを閉める」
「う、うん」
「んで、靴を脱いであがる」
「う、うん」
「上がったら帽子を取って。上着も脱ぐ」
「う、うん」
いそいそと、言われたとおりにノースリーブのジャンパーを脱ぐケイ。
「よし!」
乱れ汚れたケイの髪に手を置き、横島は笑う。
「おかえり、ケイ」
――その言葉が仔猫の身に浸透するには、しばしの時間がかかった。
おかえり。この一月、言われたことのない言葉。
おかえり。この一月、言ったことのない言葉。
おかえり。それ以前には、当たり前のように交わしていた挨拶。
視界がにじみながらも、仔猫の唇は弧を描く。
「――――ただいま!」
口にした一月ぶりの言葉は、今まで飽きるほど言ったというのに、溶けるほどに甘美で、暖かだった。
「とりあえず、すぐに風呂沸かすから、入りな。服は洗濯機に放りこんで。他に汚れ物あったらそれも。洗濯機、わかるか?」
部屋を見まわしながら、ケイはこくりと頷いた。
入った場所はリビングだった。やわらかな感触の壁紙に、隅にある24インチのテレビ。窓は大きく採光に富み、傍らにある観葉植物は思う存分光合成できて満足そうだ。台所と一体になっているアットホームな構造で洋風を思わせる。なのに中央にはコタツがあって、そのなんともなミスマッチに、ついつい笑いがこぼれた。
どれも森の中では見たことのないもの。でも、母親から聞いていたものばかり。
思えば母は、寝たきりになってからはしきりに人里の話をしていた。どういうところなのか、どういったものがあるのか。ケイが興味を持つように。その中に入っても、ケイが困らぬように。
あのときから、母は自分の死を予感していたのかもしれない。
横島に促され、洗面所に入る。服を脱いで、入れるは洗濯機。大きな箱のようなもの。すぐにわかった。
服を放りこんで、ケイは中を見つめた。
一人で動くって言ってたけど、どうやって動いてるんだろうか。洗濯板もないのに、どうやってきれいにするんだろう?
話には聞いていたが、実際に見るのは初めてなケイ。興味が尽きない。
飽きることなく、洗濯機の中を凝視していると――
「ケイ、さすがにサイズの合う奴はなくてな。とりあえず、俺のシャツから大き目のやつを持ってきたから、これを着……て………………」
横島が入ってきて、ケイを見て固まった。
「兄ちゃん?」
そんな横島の様子を訝るケイ。
彼の視線は、自分に向いている。自分を激しく見つめている。凝視している。自分の顔――というより、むしろ身体を。
なにかついているのだろうか。気になって、ケイも自分の身体を見下ろして――同じく、固まった。
着ていた服をすべて脱ぎ、洗濯機に放りこんだケイ。当然、今は全裸だ。
「あ……あ………」
首から顔、顔から頭、そして耳の先と、ゆでだこのように真っ赤になるケイ。
そして、
「みぎゃあぁぁぁぁぁぁあぁぁぁぁああぁあぁぁぁぁぁぁあぁあぁぁああ!!!!!」
「うおわああああああああああああああああぁああぁぁあぁぁああああぁ!?!?!?」
洗面所に置かれていた歯ブラシとか歯磨き粉とか、髭剃りムースとか。
まぁ、とにかくいろんなものが乱舞したのだった。
悲鳴をあげて洗面所を飛び出た横島は、なぜか勢い余ってベランダに出ていた。
急激な運動をしたせいか、顔が赤く、息も荒い。
「ま、まさか……」
肩を揺らしながら、横島は呟く。
「ケイが、女の子、だった、なん、て………」
ケイはなにか付いているかが気になったようだが、横島にとっては、『ついていないこと』のほうが重要だったようだ。
「はぁ、はぁ、はぁ――――は!」
呼吸を整えながら、はたと、横島は気づいた。
「ちがう! ちがうぞ! 俺はロリコンなんかじゃないいいいいいー――――――!!!」
昼下がりの高級住宅に、漢の魂の叫びが響き渡った。
身体を清めて湯船に浸かり、ケイは足を抱え込んだ。
「………見られちゃった」
ぼん、と顔が赤くなる。茹蛸も真っ青な赤さだ。
横島が入ってきたとき、自分は一糸まとわぬ姿だった。横島は入り口で固まり、自分は気づかずまったくの無防備。隠しもしなかった。
横島は、まじまじと見つめていた。
「―――――ふにやぁぁぁぁぁ」
穴があったら入りたい。穴はなかったので、ケイは変わりに水の中へと顔を突っ込んだ。
ぶくぶくと、吐息が泡となり、目の前へ来て破裂する。
ぶくぶく。ぶくぶく。ぶくぶくぶく。
息を吸い、また沈み、ぶくぶく。
ぶくぶく。ぶくぶく。ぶくぶくぶく。
また吸い、また沈み、ぶくぶく。
ぶくぶく。ぶくぶく。ぶくぶくぶく。
「……………ふにぃぃぃぃぃぃ」
ケイの茹蛸は、もうしばらく続きそうだった。
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
ようやく己の煩悩を落ち着かせて、横島がベランダから屋内に戻ると、
「うわ〜。兄ちゃんの服っておっきいね」
ケイが、シャツ一枚でバスルームから出てきていた。
ケイを男の子だと思っていた横島は、シャツしか渡さなかったわけで。
ケイとしては、憧れの兄ちゃんのシャツを着れたことに嬉しくて、恥ずかしさとかにはまだ気が回らない様子。
横島の視線が、ケイの下半身へと進んでいく。脚は太ももまで見え、シャツで隠されてはいるが、逆に見えそうで見えないところがなんとも艶かしい。滴る水滴も、紅潮した肌もアクセントを加えて、そこには子供とは思えないほどの色気が――――
(ちがう! 俺はロリコンじゃない、ロリコンじゃない、ロリコンじゃない、ロリコンじゃない!)
頭を必死に振り、邪な考えを追い出そうとする横島。
その様を怪訝に思い、ケイが近付いてくる。
「兄ちゃん、どうかした?」
「い、いや! なんでもないんだ! そ、そうだ。俺も風呂に入ってくるから!」
横島は逃げ出した。
一人ぽつねんと置かれたケイは、横島の奇異な行動に小首をかしげる。彼女としては、母親の姿が姿だったので、これくらいの丈でもあまり恥ずかしさは感じないようだ。
「変な兄ちゃん」
呟き、ケイはソファに座った。丈のせいで正面から見ればかなりやばくはあるが、幸い、今はそこにはケイ一人しかいない。
ほう、と、ケイは溜息をつく。
「久しぶりだな、こんなにのんびりするの」
母が床に伏してからは、家事の一切を自分がせねばならなかった。加えて、母の世話。それをいやと思ったことは一度たりとてないが、以前のように遊べなくなったことに寂しさを感じたことはある。
ケイは立ちあがり、部屋の隅に置かれた自分の荷物まで行き、なにかを取り出した。
ソファに戻り、手に持ったそれを眺める。あちこちが傷つき汚れた、古い古い竹とんぼ。
「……へへ」
組みたてて、勢いよくまわす。竹とんぼは勢いよく飛び上がり、あわや蛍光灯に触れる高さまで登った。
落ちてくるそれに手を伸ばすケイ。見事にキャッチする。
「っと」
が、バランスを崩してしまい、ソファに倒れこんだ。
「――――へへ。へへへへ」
なんだか心地よくて、なんだか嬉しくて、なんだか楽しくて、だから、ケイは笑った。
「へへへへへへ。んふふふふふふふ」
笑いながら、いつのまにか、ケイは深い眠りへと落ちていた。
冷水を浴びて己の煩悩を静めた横島はバスルームから出て――――盛大に鼻血を噴き出しそうになった。出なかったのは、先ほどの冷水ゆえだろう。
その視線はソファ。そこにはケイが眠っている。無論、シャツ一枚でだ。しかも、猫ゆえか身体を丸めて。そのため、ただでさえ丈が短いというのに、完全にアウトっぽいぎりぎりのラインまでイっちゃっている。
(小ぶりなお尻が可愛い――ってちがうちがうちがううううううううう!!!)
己の在り方にしがみつく横島。彼にとって、なんだかこの線は譲れないらしい。
(と、とりあえず、なんか掛けるものを――)
極力ソファを見ないようにして、部屋を横切る。
ケイの傍を通りすぎるときだった。
「……かあ………ちゃん」
寝言。湿った声の。涙混じりの。悲しい寝言。
「…………」
横島は溜息をつき、自分の頭を小突いた。
(何を考えているんだ、俺は。本当に、何を)
頭を振り、横島は部屋を出る。少しし戻ってきた横島の手には、薄手の毛布があった。
ケイへ掛けるべく歩み寄る。その足取りはしっかりしていて、その目は先ほどとは異なり、きちんとケイを捉えている。
ソファに歩みより、手の中の毛布を広げ、優しく下ろす。
「風邪引くぞ、ケ――」
毛布が跳ねあがった。
なにが起こったのか。事態を理解しないうちに、横島の目の前を銀閃が疾る。一瞬を置いて、手の甲に鋭い痛み。
ソファを蹴って空中を跳んで、ソイツは横島と距離を取る。
着地して後方へと跳ね、さらに距離を。
そして四肢を曲げ、爪を鋭く伸ばし、いつ、どの方向にも移動、攻撃できる戦闘体勢を取りながら、ソイツ――――ケイは、激しく唸った。
「フー―――――――――――――!!」
瞳にあるのは、警戒、拒絶、殺気。そして恐怖。
「……ケイ?」
その様が信じられずに、横島はただ、ケイの名だけを呟いた。
そのまま、硬直した時間が流れる。
横島は傷のことも忘れて、ただ、ケイを見つめている。
こちらに攻撃の意志を向けるケイ。その唸りは激しい。
横島は傷のことも忘れて、ただ、ケイを見つめている。
すぐには攻撃してこないとふんだのだろう。威嚇体制から、ケイはこちらの出方を伺いはじめた。
横島は傷のことも忘れて、ただ、ケイを見つめている。
落ち着きを取り戻し、ケイの瞳に、理性の光が宿る。
横島は傷のことも忘れて、ただ、ケイを見つめている。
逆立っていた耳は垂れ、その瞳は殺気から驚愕へ。
ケイは震えながら、横島を見つめていた。
横島の手。甲から滴り落ちる傷。
なにがあった? あれはなんだ?
どうなった? 誰がやった? なぜ、彼は自分を見つめている?
赤い。
紅い。
緋い。
アカイ傷。
血。ち。チ。
滴っている。どこから?
彼の傷口から。
そして――自分の爪から!!
「兄ちゃん!」
叫び、ケイは横島へと駆け寄った。
「兄ちゃん、ごめん! ごめんなさい、兄ちゃん! 大丈夫、兄ちゃん!? 大丈夫? ごめんね、大丈夫? 兄ちゃん、ごめんなさい。大丈夫? ごめん、ごめんね、ごめんなさい。兄ちゃん、兄ちゃん、兄ちゃん――――」
「いや。大丈夫だよ、ケイ。大丈夫だから」
半狂乱で泣き喚くケイに、横島は傷の痛みも忘れて言った。
その声に多少は落ち着きを取り戻したのか、涙を拭き、ケイが言う。
「傷。見せて」
「大丈夫だって。そんなに深いもんじゃない。血も見た目よかは出てないし、大したことじゃ――」
「見せて!」
強い口調で言い、ケイは横島の右手を払う。
左手には、ざっくりと、彼女の爪痕が刻まれていた。
「……酷い」
大したことないわけない。傷は腱を切り裂き、確実に骨にまで達している。動脈・静脈が何本か切れたようで、どす黒い血がだくだくと流れ出ている。
自分が、やった。
その事実に、彼女は絶望を感じる。
「ケイ! 何を!?」
横島が声をあげる。
ケイが跪き、自分の傷口に舌を這わせはじめたのだ。
「おい、ケイ、やめ……う――く……」
ねっとりと、ケイは横島の傷を舐める。己の唾液を舌に絡め、ゆっくりと舐めあげる。
「う……あ……」
猫特有のざらついた舌の感触に、痛み以外の何かを感じる横島。
ケイは横島の手を舐める。ぴちゃり、ぴちゃりと舐めあげる。止めど無い涙を流しながら、ケイは懸命に横島を舐める。
ぴちゃり、ぴちゃり。
涙と唾液と血が混ざり合い、ケイの口が深紅に染まる。
「ケイ……やめ、ろ……」
横島が止めるが、ケイは聞かない。
泣きながら、ケイは舐める。口付けし、舌を這わせ、ぴちゃりぴちゃりと音をたてて奉仕する。
ぴちゃり、ぴちゃり。
そのときがどれほど続いたのか。十秒か、一分か。十分程度だったのか、あるいは1時間も経ったのか。
やがて、横島の傷口から舌を離し、ケイは顔を上げた。
涙と唾液と血にまみれた、笑顔。
「ヒーリング。ボクのは弱いけど、ちょっとはマシになったと思う」
そして、立ちあがる。
「ごめんね、兄ちゃん。すぐ、出て行くから」
「出て行くって、なんで?」
横島の問いに、ケイは答える。
「兄ちゃんを傷つけたから」
「別に気にしちゃいない」
「ボクが気にする」
「気にするな」
「気にするよ。それに、また傷つけちゃう」
「傷つけられると決まったわけじゃない。それに――」
ぽん、と、横島は、俯くケイの頭に左手を置いた。
「ケイ。お前は、この家に入ってきたときになんて言った?」
「………『ただいま』」
「そう。つまり、ここはお前の家だ。なら、どうして出て行くよ?」
「兄ちゃん、傷つける」
「ばっか。おめぇ、んなこと気にするなって言ったろ? 自慢じゃないが、俺がガキの頃はしょっちゅう親父に殴られてたぜ。今だって、美神さんに容赦なく殴られてんだから。こんなの、屁でもない」
「…………」
「家出は、許さないぞ」
「……どうして」
「ん?」
「どうして、そんなに優しくするの? おいら、兄ちゃんを傷つけたんだよ?」
「家族を気遣うのに理由が必要か?」
「かぞ、く?」
「ああ」
頷いて、横島は微笑む。
「俺がお前の兄ちゃんなら、お前は俺の大事な妹だ」
「……ひどいや」
身体を震わせ、ケイは呟く。
「そんなこと、言われたら……ヒック……出て行けなく……なっちゃう…………」
「出て行かなくていいんだ。ここにいろ。――ここにいろよ」
優しく抱きしめた横島の胸のなかで、ケイはこくりと頷いた。
この日。道化に一人の妹が出来た。
この日。仔猫に一人の兄が出来た。
道化と仔猫の兄妹は、これから幸せな日常を過ごしていく。
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
横島家夕食。
通常、そのこはコンビニ弁当やらインスタントがぽつんと一つ、割り箸と共に置かれているだけだ。よくて持ちかえりの牛丼やレトルト食品。この家の住人である横島忠夫の食生活に、自炊の二文字は入っていなかった。
しかし、今宵の食卓はどうだろうか。並ぶは大小様々な陶器の皿。そして割り箸でなく塗り箸。レトルトなどでは決してない、暖かな湯気を上げる白飯、肉じゃがと、山菜のおひたし。
そしてなにより違うのが、それぞれが二人分並べられている、ということ。
向かい合って並ぶ食事。片方は横島忠夫のもの。もう片方は――今日、横島の妹となった、化け猫族のケイ。
兄妹は、向かい合って席につき、両手を合わせる。
「「いただきます」」
食前の挨拶が響く。
横島が箸を取り、肉じゃがを一つまみ、口に運んだ。それを緊張の面持ちで眺めるケイ。
「――ん。うまいなぁ」
「ほんと!?」
ぱぁ、とケイの表情が輝いた。
「うん、うまいよ。いい具合に味が染みてておいしい。レトルトの肉じゃがじゃ、こんな味出ないからなぁ」
答える横島に、ケイがさらに破顔する。
「あのね、あのね! これはね、母ちゃんが得意にしてた料理なんだよ! ジャガイモの皮を取る前に少し蒸かして、それから乱切りにして。ダシは基本的にお醤油なんだけど、隠し味に――――」
堰をきったようにレシピをしゃべり出すケイ。その顔はとても嬉しそうだ。
「へぇ、そうなんだ」
それを可愛く思いながら、横島は相槌を打ち、箸を進める。
「それでしばらく煮るんだけど、いつもは囲炉裏でしょ? ガスコンロ、だっけ? あれでやったのは初めてだったから、ちょっとビックリした。火力強いんだね。もう少しで煮崩れするところだったもの」
「いや、ちょうどいいと思うよ。いい具合の柔らかさだ」
「そう? よかったぁ。まだまだ母ちゃんのにはかなわないだろうから、ちょっと不安だったんだ」
「そっか。ところで、ケイ」
「なに?」
すっと、横島は碗を差し出す。きょとんとしてケイはそれを見つめ、
「おかわり」
横島の言葉に、唇が弧を描き。目元が緩み。顔はほんのり赤くなって。
「――うん!」
大きく返事をし、碗を受け取った。
夕食後。
横島はコタツにもぐりこみ、リモコンでテレビのチャンネルを変えている。しばらくして、面白いものがなかったのか、ぷつりとスイッチを切った。
ごろりと、横島はあお向けになり、目を閉じる。
聞こえてくるのは、台所の音。水が流れる音。皿同士が当たるかちゃかちゃという音。
夕食の後片付け。手伝おうとしたのだが、無下に断られてしまった。そこから鼻歌が聞こえる。楽しそうだ。嬉しそうだ。横島はくすりと笑った。
一人の食事も、まぁそれなりに気楽でいい。事務所でみんなで食べるのも、にぎやかで楽しい。
だけど、こうして。家族で食べる食事というのは――なんというか、とても暖かい。一人暮らしする前は当たり前だったはずなのに、とても落ち着ける。そんな空気を気に入っている自分がいる。
考えてみれば。
この家で『いただきます』を言ったのは、初めてだった。
水の音が消えた。鼻歌が移動する。右に少し。あそこには食器入れがあったはずだ。左に少し。たしかタオルがあった気がする。さらに移動。冷蔵庫の開いた音。ついで、コップに入る流動音。飲み物。それも二人分。
「二人、か――」
嬉しくて、くすりと横島は笑った。
嬉しそうにメロディを奏でながら、鼻歌が近付いてきた。
夕食後。ケイは台所で皿洗いをしていた。
聞こえてくるのは居間の音。テレビとやらのチャンネルが頻繁に変わり、わけのわからない音声を発し、しばらくして消える。
夕食の後片付け。兄は手伝いを申し出たが、強硬に断った。これは自分の仕事だ。せめてこれくらいはしないと兄に申し訳が立たない。せめてこれくらいは兄にしてあげたい。
くすりと、兄が笑うのが聞こえた。自分も嬉しくなった。
一人の食事は味気ない。大勢の人と食べるのは楽しい。
でも――母や兄、家族と食べるのは――とても安らかで、あったかい。その優しい空気に、安心しきった自分は身を浸す。
考えてみれば。
『いただきます』なんて言ったのは、母が死んで以来だった。
洗い物を終える。水を切るために、皿をかごの中に置いておく。手拭きで水を拭い、冷蔵庫へ。今日の午後に買ってきた飲み物を取り出す。二つのコップに中身を注ぐ。自分と、兄のコップ。
「二人、か――」
兄が居間で呟き、くすりと笑った。
彼女もまた、鼻歌を歌いながら笑っていた。
そう――今はもう、独りではないのだ。兄と共にいる。二人なんだから。
盆を持ち、ケイは歌いながら居間へと歩きだした。
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
小鳥たちの囀りが美しく響く、心地よい朝。部屋のベッドでは、人間大の膨らみが、それをBGMに惰眠をむさぼっている。
膨らみの名は、横島忠夫。
彼の眠りは、目覚まし時計がけたたましい音を鳴らすまで続く。否、鳴らしてもすぐには目覚めない。たっぷり5分ほど小鳥の合唱をだいなしにさせた後に、ようやく起きるのだ。
そんな彼の朝だが、数日前から変化があった。
時計の鳴る10分前。
かちゃりとドアノブが回り、部屋の扉が開いた。
開いた隙間から覗く幼い顔は、彼の妹のもの。
ケイは部屋に入るとベッドまで小走りにやって来て、
「兄ちゃん、朝だよ」
と横島に呼び掛けた。
しかし、横島は起きない。目覚まし5分を要する眠りは伊達ではない。
「兄ちゃん、早く起きないと遅刻しちゃうよ。今日の講義は外せないんでしょ?」
身体を揺するが、彼が目覚める気配はない。
「兄ちゃん。兄ちゃんってば!」
さらに強く揺さぶるが、兄は相変わらずだ。
「もう!」
揺するのを止め、ケイはベッドから離れた。
起こすのを諦めたわけではない。最終手段に訴えるのだ。
部屋の隅まで下がった彼女は、一直線に駆け出し、跳躍。
「えぇい!!」
横島にフライングボディアタックをかました。
「ぐぇ!」
蛙が潰れたような声を出す横島。
さらにケイは耳元で
「起きろー―――――!!」
と怒鳴る。
「わかった……起きるよ、ケイ。起きるから……」
これでなお目覚めなければ耳元で時計のベルを延々と鳴らし続けるのだが、今朝はそこまで行かずにすんだ。
もぞもぞと動き出す横島を尻目に、ケイは窓へと駆け寄り、カーテンを開いた。
小鳥の歌声がいっそうに響き、陽光が力強く朝の到来を告げている。
「ほら。こんなに気持ちのいい朝なんだから、いつまでも寝てちゃもったいないよ」
振り返り、横島に笑いかける。が、当の彼はいまだ毛布にくるまり、いびきを掻いていた。……どうやら、二度寝としゃれ込んだようだ。
「もぉう! おーきーろー!」
布団を跳ね除けようとするケイ。しかし横島は、がっしりと掴んで離さない。
しばらくの根競べが続き――ケイが折れた。
「うー」
肩で息をしながら、兄の寝起きの悪さに溜息するケイ。このままでは遅刻してしまう。どうしたものか。
と、彼女の頭に妙案が浮かんだ。
古人曰く、『押してだめなら引いてみろ』。
ケイは横島の布団にもぐりこむと――
「こちょこちょこちょこちょ!」
彼の腹を、くすぐり始めた。
「ぶは! やめ、ケイ、止めろ! くすぐったい!」
一気に意識を覚醒させる横島。しかし、ケイの魔手は止まらない。
「だ〜め。兄ちゃんがなかなか起きなかった罰です! そ〜れ、こちょこちょこちょこちょ!」
「ぶはははは! ごめ、わり、ごめんなさい、ケイさん! お兄さんが悪うございました反省してますだから止めて下さぁい!!」
「まだまだ〜!」
そんなくすぐり地獄を数分間受けて、横島はようやく開放された。
くすぐりつかれたケイが、横島の背中の上で荒く息をしている。
くすぐられて笑いつかれた横島が、ケイを背中に乗せたままで荒く呼吸している。
横島の背中にしがみついたままで、横島の頬に顔をつけながら、ケイは言う。
「おはよ、兄ちゃん」
「おはよ、ケイ」
互いに笑い合う。そんな、微笑ましい朝。
「――って、もうこんな時間!?」
しかし寝坊は寝坊なわけで。目に入った時計が指し示している時刻は、なかなかいい按配だった。
「兄ちゃん、急いで! 遅刻しちゃうよ!」
「わかってる、すぐ着替えるから……おい、ケイ。なんか、焦げ臭くないか?」
「え……? あー! お鍋の火、消し忘れてたぁ!!」
ダッシュで台所に駆け出していくケイ。
「やれやれ。今日の朝飯はトーストかな」
苦笑しながら、横島も急いで着替えだした。
そんなばたばたした朝。朝食は焦げつき、ゆっくりした時間もなく、急ごしらえのトーストを咥えながら靴を履く。
勢いよく扉を開け放ち、駆け出そうとして立ち止まる。
忘れていた。
振りかえり、玄関に佇むケイに笑いかける。
「いってきます!」
「いってらっしゃい!」
笑顔の返事を受け、横島は今度こそ、大学へと駆け出した。
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自宅への帰り道を、ケイは歩いていた。
商店街へ行った帰りだった。買ったのは夕飯の材料。まだ真昼ではあるが、今日はゆっくり時間をかけて、新しいメニューに挑戦するつもりだ。
ちゃんとおいしくできるかな? 兄ちゃん、食べてくれるかな? 喜んでくれるかな?
不安と期待がない混ぜになりながら、歩く。行き交う人々がくすくすと笑いながら自分を見る。
どうしたんだろうと思い、いつのまにか鼻歌を歌っていたことに気づいた。なんだか恥ずかしかった。
楽しいと、ついつい歌ってしまう。母に注意されたことはなかったが、人間の街では止めた方がいいのかもしれない。
ちょっと顔を伏せながら歩き、ケイは公園を通る。
ここは家に帰る近道だ。時間も短縮できるし、なにより木々があるというのがケイには嬉しい。
遊具で遊ぶ子供達の中、一直線に公園を横切る。遊ぶのもいいけど、料理もしたい。遊びも楽しいけど、料理がうまくいけば兄が喜んでくれるから。それは遊ぶのよりも楽しいし、嬉しいことだ。
公園を抜け、住宅街へと入り――
「ナァ」
その鳴き声に、ケイは足を止めた。
見下ろすと、仔猫が一匹、足元にやってきた。
仔猫はケイの脚に身体を摺り寄せて、もう一度「ナァ」と鳴いた。
「どうしたの、お前? 母ちゃんは?」
ケイが尋ねる。仔猫はまた、「ナァ」と鳴いた。
ケイは化け猫であるが、まだ幼い仔猫の発声は拙く、片言しか理解できなかった。
理解できた言葉は、『来て』。
「どうしたっていうの?」
小走りに駆け出す仔猫に、ケイはついていった。
公園に戻り、ジャングルジムの傍を抜け、小さな林に入る。
その先の、わずかに拓けた場所。そこに
母猫の死骸があった。
「………………………」
犬にでも襲われたのだろうか。なにかに切り裂かれた傷痕。血はすでに乾ききって、腐敗も始まっている。ずいぶん長い間放置されていたようだ。
「ナァ」
仔猫はずっとここにいたのだろう。母猫の死を理解できないまま。
おかしいな。母さんはどうして動かないんだろう。病気かな? 誰か呼んでこなくちゃ!
そうして、ケイがつれられてきた。
「ナァ」
仔猫が催促する。
ねぇ、お母さんどうしたの? どうして動かないの? 治るの?
「……ダメだよ。もう、死んでる」
「ナァ?」
「死んでるの。わかる?
もう、動かないの。もう、笑ってくれないの。寒いときに暖めてくれたり、悲しいときに慰めてくれたりしないの。いたずらしたときに怒ってくれたり、恐い夢見たときに抱きしめてくれたりとかもないの。
わかる? きみの母ちゃんはね、もう……どこにも、いないんだよ」
押し殺した声でケイは言う。こんなに小さい仔猫がわかるとは思っていない。彼女自身、最初は夢かと思っていたのだ。
母が死んだことなど。
明日起きたら、きっと目の前にいて、『おはよう、随分とうなされていたわね。何か恐い夢でもみたの?』と自分を抱きしめてくれると思っていたのだ。
そして次の朝目覚めて、やはり夢でないのだと思い知るのだ。何度も、何度も。
「ナァ」
やはり仔猫はわかっていない。母を理解していない。死という言葉すら理解していない。
ケイの元を離れ、ハエのたかる母の元へと寄る。
振りかえり、
「ナァ」
ケイを急かす。早くお母さんを治してよと。
「やめてよ……どうしてわかんないんだよ……」
「ナァ」
「やめてったら!」
叫び、ケイは仔猫の首を押さえつけた。
「わかってよ! わかりなさいよ!
きみの母ちゃんはもういないの! ここにあるのはただの死体! 死骸!! モノ!!!
母ちゃんはもういない! もう動かないし起きないし笑わない! 囲炉裏の傍で膝枕もしてくれないし子守唄も歌ってくれない! もうボクの名前も呼んでくれないし、ボクに触ってもくれないの!!
死んでるから! もう居ないから!」
気がつけば、泣いていた。叫びながら泣いていた。泣きながら叫んでいた。
仔猫はケイの涙を呆然と見つめている。母とケイを交互に見やり、
「ナァ」
とだけ鳴いた。いつのまにか弱っていた拘束から抜け出し、母の元へと歩み寄る。
母の腹。すでに冷たいそこに己が身を預け、瞳を閉じる。
「ナァ」
ケイは駆け出した。
これ以上あそこに居たくなかった。これ以上あんなもの見たくなかった。
これ以上、腐った母など見たくはなかった。
彼女はひたすらに駆けた。袋が激しく上下に揺れる。きっと中の卵は潰れてしまっただろう。そんなことにかまわず、彼女はただただ駆けた。
家に帰りつく。
荒々しくドアを閉め、扉に寄りかかり座りこんだ。
自分の膝に顔をうずめ、泣いた。
母の墓の前でしたときと、同じように。
声を押し殺して、嗚咽した。
「ただい……!?」
玄関のドアを開けた瞬間、横島忠夫は硬直した。
それもそうだろう。扉を開けたそこに、一人の人間がうずくまっていたのだから。まさかそんなところに人が居るとは、夢にも思うまい。
人は背後の気配に、伏せていた顔を上げる。
「……兄ちゃん」
「ケイ。どうしたんだ、こんなとこで?」
しゃがみ、ケイと視線を同じ高さにする横島。
彼の顔が、彼女のすぐ傍に来る。
『どうしたの、ケイ? 恐い夢でも見た?』
その距離は、母との距離。
ケイは、横島に抱きついた。
「お、おい。ケイ?」
驚く兄の首に手を回し、その肩に顔を埋める。
買い物袋が手をすり抜けて落ちた。かしゃりと音がする。ああ、卵が潰れてしまった。
「……兄ちゃん」
「なんだ?」
「兄ちゃん、ここにいるよね?」
母ちゃんのように、居なくなったりしないよね?
「あったりまえだろ。ここは俺達の家だぞ」
横島は片手で、ケイを抱き寄せる。
「なにがあっても、帰ってくるさ」
「……うん」
兄の鼓動が、妹に安らぎを与える。
「そうだね。ボクたちのウチだもんね」
ケイは思う。
明日、もう一度あそこに行こう。行って、お墓をつくろう。それがきっと、あの仔の為にもなるはずだ。
「兄ちゃん」
「ん?」
それからは、あの仔次第。でもきっと、新しい家を見つけるだろう。安らげる場所を。
家族を、手に入れるだろう。
「大好き」
今の、自分のように。
後日談
人通りの少ない閑静な住宅街を彼女――ケイは歩いていた。
商店街へ向かう途中だった。通い始めたばかりの六道女学院からは、商店街へは少し遠回りになる小道。着慣れない紺色の制服とハイソックスがどうにも変に感じて仕方ない。胸元を軽く引っ張ったりもしてみたが、違和感が拭えるわけでもない。
そのうちに慣れるだろう、と、いつもの結論に落ち着いた。
家々に挟まれた小さな道を、歩く。
いつも一緒に帰るパピリオは、今日は部活でいない。他の友達とも、道が違うため先ほど別れた。
胸元に手をやり、リボンを緩める。
服はいいのだが、どうにもこのリボンが馴染めない。首を締められてるような感じがして、なんだか息苦しいのだ。
規則だから仕方ない、と、再びいつもの結論。
少し緩めた胸元に入りこむ風を感じながら、ケイは歩く。商店街が近付いたら、また締めなおさなきゃ、などと思う。
閑静な住宅街の小道を、ケイは歩く。
と――
「ナァ」
小さな鳴き声が、耳に届いた。
聞き覚えがあった。人間にしてみれば違いはないだろうが、しかし化け猫のケイには、確かに聞き覚えのある声だった。
振り向く。一匹の猫が、塀の上に座っていた。
仔猫――ではあるまい。その目にはしっかりとした理性が灯っている。
しかし、大人でもない。瞳の中にいまだ残る幼さが、それを教えている。
人間で言えば、少年少女といったところか。
その猫に、ケイは見入る。
聞き覚えのあった声だった。が、確信を持てたわけではない。もう一度声を聞かせて欲しい。そう願いながら、ケイは猫を見つめた。
面影は、どことなくある。しかし、子供の成長というのは著しい。ましてやたった数分の出会いだったのだ。細かなところまで覚えてはいない。
そうして、ケイと猫は見つめあう。
やがて――
「ナアー。ご飯だよー」
ヒトの声が塀の向こうより響いた。猫は後ろを振り返り、またこっちを向いて、
「ナァ」
と鳴いて、塀の向こうへと消えた。
それだけで、十分だった。
「――――そっか」
呟き、ケイの顔が笑顔にほころぶ。
よかった。家族ができたんだ。
「――――そっか!」
笑いながら、ケイは再び歩き出した。
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
△記事頭 再開されて嬉しいです〜。ず〜っと待っておりました。
やっぱり妹シリーズは重い内容ですね。でも、必ず救いがあります。そこから立ち直るのがテーマですもんね。
だから新しい話になるまではそういうとこあまり感想にいれないことにします。多く語ることじゃないっすから。「茹蛸も真っ青な赤さだ」とか引っ張ってきて「赤いのに真っ青かい!」とかつっこませてもらいま♪
【九尾(2004.09.23 01:52)】
はじめまして 明烏と申します 読ませて頂きました。
知らない間に涙が出てました。
今はこんな感想しかかけませんが・・・
【明鴉(2004.09.23 18:25)】
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