人生という複雑怪奇なシロモノを道にたとえるのは、洋の東西を問わないものらしい。
重荷を背負いて遠き道を行くが如し、と言ったのは徳川家康だった。
うまく言い当てたものだとは思うが、しかし心に余裕の無いときは気がめいってくる。
含蓄のある言葉も、時と場合によって使い分ける必要があるだろう。
今必要なのは、もっと別の、喜びにあふれたものではなかろうか?
曲がり角の向こうには
「うーん……」
気だるげなうめき声を一つあげ、美神はリビングのソファからゆっくり体を起こす。
残暑が残る八月の下旬、しかし室内は強すぎない程度の冷房で快適な環境を保っている。
三日かかると踏んだ仕事が二日目の午後には片付いたため、今日は完全にオフになっていた。
ふってわいた休みに、おキヌは大喜びで友だちと遊びに出かけた。
が、美神はそうはいかない。
GS以外にも、大切な仕事があるのだから。
”まだ平気ね”
壁の時計をちらっと見て、うーんとのびを一つする。
そうやって少し楽になった体を立ち上がらせ、すぐ隣のベビーベッドを覗き込む。
すやすやと眠る愛娘は、しばらくは起きないだろう。
おっぱいの時間もまだ先だし、おしめもさっき換えたばかりだ。
最初はパニック寸前だった母親業も、ある程度なれてくると要領がわかってくる。
つややかな黒髪の赤ん坊ににっこり微笑みかけると、美神は静かに部屋を出た。
10分もしないで戻ってきた美神は、右手に一冊の本を持ってきていた。
古いものの、丁寧に扱われたおかげで傷みの少ない文庫本は、美神にとっては思い入れの深い品だった。
小学生の頃から、何かあるとこれを読む。
たいていは、元気が欲しいとき。
それは今も昔も変わらない。
別に今に不満があるわけじゃない。
あるわけないじゃない。
かわいい娘の成長を見守って、仕事も順調。
おキヌちゃんや他のみんなもいろいろ助けてくれてるし。
これ以上を望んだら、バチが当るわ……
「横島クン……」
心の呟きとは逆に、口をついて出た呟きはやりきれないものだった。
自分が時空消滅液で過去へ送った少年。
馬鹿でスケベでどうしようもなかった丁稚。
そして……今すぐ目の前で眠る穂多流の父親。
かぶりをふって考えを振り払うと、美神はソファに腰掛け、手にした文庫本を開いた。
後悔してるわけじゃない。
それに不満がないってのも本当。
でも、時々、本当にときどき、あの馬鹿に文句を言いたくなるときがあるだけ。
それに、せめて私だけでもアイツのこと覚えててあげないと、かわいそうじゃない。
ただ、この気持ちはちょっと重たい。
うっかりすると、鬱に引きずり込まれそうになっちゃう。
だから、私は、読む。
過ぎ去った昨日ではなく、来るべき明日を見つめたいから。
ページを繰る手が止まる。
もう何回読んだだろう。
完全に暗記してしまっているところだが、それでもやっぱり、こうして本を開かずにはいられない。
……未来がまっすぐな一本道のように、目の前にどこまでものびているようだったわ。
どんなことが起こるか、先のほうまで見とおせるくらいだった。
でも、今その道には、曲がり角があるの。
曲がり角のむこうになにがあるか、今はわからないけど、
きっとすばらしいものが待っていると信じることにしたわ。
それに道が曲がっているというのも、またなかなかいいものよ……
「だからあんたたちも」
声に出して読んでいた美神が顔をあげる。
「大変だろうけど、前向きにいきなさい。確かに、夜華作家陣にとってはとてつもなく大きな曲がり角よ。でも、きっとその先には素晴らしいものが待っているわ。そう考えれば……」
「ほぎゃぁっ!!」
「あ、あら穂多流、よしよし……」
カメラ目線で主役を演じていた美神が、あわてて母親の顔に戻る。
その表情は、本当に、幸せいっぱいという言葉を絵で表しているかのようだった。
あとがき
HP開設おめでとうございます。
戯作者たるもの作品で語れ、ということで、この作品を御祝の言葉とさせてください。
夜華に掲載させていただいていた拙作「Another Epilogue of