夏の日差しが見る影も無くなって数日。残暑の温もりを一掃するような冷たい風に叩かれて、横島忠夫はジーンズのポケットに両手を突っ込んだ。
上着の裾がはためくほどの強い突風に、肩を震わせて呟き声を上げる。
「くはー…そろそろコタツ出さねえとあかんなあ…」
学校もバイトも無い休日。部屋にいてもやる事がなく、とはいえバイト先に顔を出すと懐っこい犬娘がじゃれてきて、今の横島には鬱陶しい。
スキンシップが嫌いなわけでも、その犬娘…シロが嫌いなわけでもない。
ただ。
「すっかり秋か…」
憂鬱に空を見上げる横島の目には、色鮮やかな紅葉が映っている。
………まるで、夕焼けのように、鮮やかな紅葉が。
あかね色の抱擁
街中をぶらぶら歩いていると、周辺の街路樹とは一線を画す大きさのカエデの樹が目に付いた。さほど幅の無い歩行者専用道路の中央に、傘を広げたような姿で紅葉が燃え上がっている。
横島はその根元にベンチが置いてあるのを見て、目的地の定まっていない足をそちらへ向けた。休憩するには、絶好のポイントだ。
シートの上に散っていた紅葉を適当に払い、横島は腰掛けた。首をかくんと後ろへ倒せば、本当に燃えているような圧倒的な迫力で枝々の赤色が迫ってくる。
ようく見れば、赤にも色々ある。徐々に色づいてくるものなのだから、ムラがあるのは当たり前だ。黄色に近いもの、茶色に近いもの、時期的にはまだ紅葉は始まったばかりだというのに、この樹の色彩は極めて豊かだった。
横島は目を細めて、ぼんやりと風に揺れる紅葉に見入る。
その茜色を、複雑な思いで見ている。
紅葉は紅葉だ。でも、横島にとって自然の齎す茜色は全て…どうしたって繋がってしまう。
「………昼と夜の一瞬の隙間、ね」
重なってしまった何かを思い出し、横島は首を元に戻した。そうして前を見てみると、一件の古ぼけた文房具屋が建っているのに気付く。
サラリーマンの一人が通りかかり、そのまま通り過ぎる。
主婦らしい中年の女性が、せかせかと横切る。
自転車に乗った学生服の集団が、笑いながら走り去っていく。
誰も、その文房具屋に目を向けようとはしない。
不自然なほど自然に…佇んでいる。
横島は腰を上げると、また両手をポケットに突っ込んで歩き出した。誰にも見えていないような、その文房具屋に。
「いらっしゃい」
ガラス戸を開けて中に入ると、奥のレジカウンターの中に座っていた初老の男性が、横島を見て微笑んだ。絵の具で汚れたエプロンをしていて、風貌はまんま絵描きのようだ。
横島は広くない店内で会釈だけすると、視線を並んでいる商品に一巡りさせる。あっという間に全ての商品を確認出来るくらいに、こじんまりとした店だ。
「何か、お探しでしたか?」
「え、あ、いや……」
所在なさげな横島に、店主らしい男性がゆったりとしたテンポで声をかけてきた。そわそわと落ち着きのない横島に対し、店主は丁寧に続けてくる。
「貴方は、そこのカエデの下に座っていましたね? とても疲れたお顔をして」
「見てたんすか」
「ええ。ここから見える景色といえば、それしかありませんから」
横島が店内から外を見てみればなるほど、窓に映るのは、一枚の絵のように枝を広げるカエデの樹と、ぽつんと一つだけ設置された木製のベンチだけだ。
視界の狭まる奥のカウンターからでは、尚更狭い範囲しか映らないだろうに。
店主は微笑を絶やさぬまま、カウンターの下から数枚の画用紙を取り出して横島へ差し出した。困惑する横島に、店主はただ、待ち続ける。
「……絵っすか」
「ご覧のとおり、暇な店ですからね…絵を描きながらでもないと、退屈で」
古びた棚の間を通る。何年も前の人気キャラクターが描かれた絵の具のセットや、色褪せてしまっている落書き帳。プラスチックのケースに、濃度ごとに区別されて整頓されている鉛筆達。
すっかり棚の常連と化しているそれらを横目に奥へと赴き、店主の差し出す画用紙を受け取った。
描かれていたのは、窓の外の風景だ。
「四季折々、そこのカエデは色々な表情、様々な情景を私に見せてくれます。ベンチに座る人々もまた然り」
「わははは…俺じゃ絵になんないすよねー」
画用紙を捲る度に、季節や時間、ゆったりと流れる店内の空気まで感じ取れるようなタッチの繊細な絵が、横島の前に現れては消えていく。
芸術なんてものとは無縁の生活をしている横島だったが、水彩や色鉛筆、水墨調と様々な画風を楽しんでいる店主の絵には好感が持てた。
憂う心に、じんわりと染み入る優しい空気。
「絵画は心を映す鏡、などとよく言われます。お考えになっていることを絵にしてみては如何ですか? 少しは心が解れると思いますよ」
「商売上手っすね……うはは」
画用紙を店主に返し、横島は商品へ目をやる。さっき通った棚の中ほどに、スケッチブックが並んでいる。見た目こそ古いが、表面には埃一つ被っていない。店主がきちんと掃除を行っているのだろう。
横島が最後にスケッチブックに絵を描いたのは、恐らく中学生時代だ。
二年の夏ごろに開催された写生大会で、特に興味もなんにもない歴史的建造物の絵を適当に描いた記憶がある。
そういえば、クラスから市の発表会に出展した奴がいたな、と懐かしい記憶が甦り思わず口許が緩んだ。
…随分昔のような気がする。
横島は手に取ったスケッチブックを裏返した。が、値札が貼っていない。棚にもソレらしい表記は無いどころか、全ての商品に数字は見当たらなかった。
「あの、これ幾らですかね?」
「ああ、それは…幾らでしたかね。何分、最後に商品が売れたのは一年以上前ですから」
「………よく潰れねえなあ」
「全くですなあ」
思わず口から零れた一言にも、店主はにこやかな態度で応じてみせた。彼の口調に揶揄する様子は無い。
横島は失言に乾いた笑い声を上げると、尻ポケットから小さな財布を取り出して中身を確かめた。小銭が詰まっている。
「これ一冊下さい」
「おや、買われるのですか!」
「いやいやいや。そんな驚かれても…」
目を丸くする店主に、横島は財布の中から百円玉を数枚取り出してカウンターに置く。スケッチブックの相場を知らない横島であったが、そんなにお高くもないだろう、と踏んで。
「久々のお客さんですから、勉強しましょう。三百円で結構です」
「へー…安いもんだ。じゃあこれで」
型の古いレジスタががしゃんとレシートを打ち出す。薄く黄ばみがかった紙切れに、本当に客が来ないんだなと一年ぶりのお客は思う。
大きな紙袋に入れてくれようとするのを断って、横島はスケッチブックを小脇に抱えた。
さて、何を描こうか。
店主に軽く会釈をして、真っ白なキャンパスに描く材料を思案していると。
「ああ、お客さん」
「何すか?」
「スケッチブックだけでは、絵は描けませんよ?」
店主はにこやかにそう言い、画材コーナーの色鉛筆を指差してますますにこやかに微笑んだ。
横島は苦笑を浮かべるしかない。
「…ほんと、商売上手っすね」
目的の無い散策は続く。
三日分くらいの食費と引き換えにしたスケッチブックと十二色入りの色鉛筆を手に、横島は街から少し郊外へと足を伸ばした。
自称都会っこの横島にとって、山や川は仕事で訪れる以外には興味を惹かない場所であり、ましてやスケッチブック片手に散策するなんて、異常行動とクラスメイトに戦慄されても不思議ではない。
「東京も少し離れるとこんなもんか…」
電車を二本ほど乗り継いで、適当に山の稜線が近い駅で降りてみた。街で見る紅葉よりも少しだけ色合いが強い。あのカエデの樹を大きく、山一杯に広げたような風景がそこには広がっていた。
田園が無人駅の裏からずっと広がっており、実りの秋をこれでもかと言わんばかりに、黄金色に謳い上げている。
横島は駅のホームに設置してあった自販機でホットコ-ヒーを買うと、一口啜る。喉許から胃にかけて熱い塊が降りていくのが分かるくらい、外は冷えた。日はまだ横島の憂う時間帯には程遠いというのに。
「さて、なーに描くかねえ……」
見回しても田舎町の風情ばかりが目に入ってくる。駅前から真っ直ぐ伸びている通りが、この町のメインストリートだろうけれど…片側一車線の細い道路の脇に、小さなスーパーやタバコ屋があるばかりで活気は感じられない。
絵にしたところで、この寂寥感を表現するのは難しそうだ。横島の場合、それ以前に…技術的に無理だろうが。
仕方なく、空き缶を自販機横のゴミ箱に捨てて大通りを進む。進んだ先には紅葉の山が聳えていた。
「道端に咲く可憐な一輪の花……とか、よく描くよなー…お、これなんかどうよ」
細い大通りを進むと直ぐに国道との交差点に差し掛かり、その先は山へと続く細い道に変わっていた。
信号が変わるのをのんびり待って、横島は山への道を選んで進む。この選択にも、深い意味はない。山の紅に誘われたとでも言おうか。
道中で見つけた名前の分からない小さな黄色い花を、戯れにスケッチしてみる。
色鉛筆のケースを開いて、何色かを選ぶ作業は意外と楽しい。道端に座り込んでスケッチブックを開くと、まるでいっぱしの画家のようではないか。
昔TVで、日本各地を放浪しながら絵を描くおっさんの話があったよなー、と横島は鉛筆を走らせながら思い出す。
しゃっしゃっと耳に心地良い、鉛筆の音。
若干手は冷たいが、苛酷な環境には慣れっこの横島だ。このくらいは屁でもない。
「おし、完成! おー、それっぽいそれっぽい」
一人自己満足に浸りながら、描いた一輪の花を実物の横に並べてみる。
「………」
…深くは語るまい。
横島は無言でスケッチブックを閉じると、元通りに色鉛筆も入れ直して立ち上がった。尻に付いた土ぼこりを落として、むうと唸る。
「もっとこう、俺らしいモチーフはないもんかな」
周辺には農家らしい建物がぽつぽつと建っている他は、特に描きたいと思うような素材は見えない。
ひたすらに紅い山々は、描き出すには少々難易度が高すぎるし。
自分らしいモチーフ、と聞いて真っ先に考え付くラフというか裸婦というか綺麗なねーちゃんは、残念、至極残念ながら周囲には見当たらない。
「うはは……ま、こんな気分でナンパ出来たら凄えわな」
道の先に聳える山々の赤さは、嫌が応にも横島の心にさざ波を立てさせる。
連想は瞬く間に彼女へと辿り着き、結果として横島は紅葉に見張られているような感覚に陥る。
自分がこんなにも神経質だった事に、驚きを隠せない。これではまるで、トラウマではないか。
冗談ではない!
彼女とのことを、傷だなどと…間違っても言ってたまるか。
横島はポケットの中で拳を強く握ると、己にそう言い聞かせる。紅葉が視界に入る度に、ちらつく度に。
「…くそ。全然割り切れてねえ……だから嫌なんだよ、秋は」
苛立たしげに呟かれた本音は、毒づいたにしては弱弱しい。
どこへ行っても目に付く赤、緋、紅。
紅葉の時期は短い。それはまるで。
昼と夜の隙間に輝く夕焼けのように。
夏と冬の隙間に輝く紅。
そんな相似に気付いた横島はますます気分をダウナーにしていく。
脳裏を駆け巡る様々な記憶に一旦蓋をして、冷たい空気を大な深呼吸で取り込んで。
横島はまたぶらぶらと歩き出した。
紅い紅い、秋山の麓へと。
スケッチブックを開く気も失せた横島の耳に、子供達の歓声が届いてきた。
何とはなしに耳を澄ませてみれば、打球音が時々混じって聞こえている。近くに野球場代わりの原っぱでもあるのだろう。
「ガキの頃は良かったよなー……スカート捲りとかミニ四駆とか、なーんも考えんで遊んでられたし…」
まだ霊能のれの字も、幽霊の存在すら知らなかった頃の自分。
当時の忠夫少年が今の自分を見たら、どう思うだろう。栄光の手や文珠を見たら…ヒーローだと騒ぐだろうか。
周りの人間の出来ない事が出来る自分を、きらきらした目で見るのだろうか。
遠い歓声を聞きながら、横島は思いを馳せる。紅葉の見せる幻想を、もっと古い記憶で塗り替えようとする。
「………記憶、かー…」
無意識に足は、歓声の方向へと歩んでいた。
山へ近づけばそれだけ緑も紅も濃くなる。町からそう離れていないにも関わらず、横島は鬱蒼とした林の中を歩いていた。
陽光が遮られる紅葉のトンネルが、季節を嫌という程に感じさせた。
いつの間にか、道は上り坂に変わっている。本格的に山道に来てしまったようだ。
無目的な散策とはいえ、登山をするつもりなんぞ全く無かった横島は、無駄に汗を掻くのも何だかなー、と思ったが…徐々にボリュームを大きくする歓声が牽引力になったようだ。
スケッチブックが多少邪魔臭いが、荷物を抱えて歩くのが仕事だった横島である。今更だ。
ややもせず、前方にぽっかりと光の射す空間が現れた。林がそこで終わり、傾きかけてきた太陽光が直接そこに降り注いでいる。逆光のため、先がどうなっているのかは分からない。
「トンネルを抜けると崖でしたー、なんてオチはねえだろな…」
自身のギャグ・お約束・トラブルメーキング体質を鑑みるに、可能性は五分五分と踏んだ。妥当な数字に切ない気持ちになったが。
ともあれ、出口は近い。
林から出てみれば、そこは何の変哲も無い公園だった。ぽっかりと開けた視界の先には町並みも見える。ブランコくらいしか遊具の無いシンプルな広場では、数人の子供が野球ごっこに興じていた。
先刻から聞こえていたのは、彼らの声だったようだ。
「わざわざ裏から回ってきちまったんか…表に階段あるし」
横島の降りた駅が、ここからは良く見える。見晴らしの良い高台にあり、町に面した側からは眼下に階段が伸びている。横島が辿ってきた道程は激しく遠回りだったらしい。
横島はため息をつくと、裏の林から現れた不審者にも全く気付かない子供らを尻目に、隅のベンチに座り込んだ。どっと疲れが襲ってきて、横島は首をかくんと後ろへ倒す。
相変わらずの紅葉が、目には飛び込んでくる。流石にもう慣れたが。
「今朝もこうやってカエデの葉っぱ、見てたっけ」
柄にも無い一日の始まりは、大きなカエデの樹と、小さな文房具屋。
結局、購入したスケッチブックに描いたのは小さな黄色い花の絵のみ。それも他人には見せられないお粗末な。
ベンチに投げ出したスケッチブックの表紙が捲れ、その絵が見えていた。
「……こんなもん、こうだな」
横島はにんまり笑うと、指先に小さな霊波刀を点して最初の一ページを綺麗に切り取り…せかせかと手際よく、山折り谷折りを繰り返してあるものを作り始めた。
一分と掛からずに折りあがったのは、一機の紙飛行機だ。
「そーれテイクオフっ」
丁度真正面、うっすらと紅く滲み出した太陽に向けて横島は紙飛行機を飛ばした。
公園の空に高く高く舞い上がり、上空でくるくると旋回する優雅な姿に、白球を追っていた少年達の目も空へと向いて動かない。一様にぽかんと口を開けているのが、微笑ましかった。
きっとその瞳は、ヒーローに憧れた昔の横島のように、きらきらと輝いているのだろう。
「…お前らも作ってみるか?」
公園の真ん中に落ちた飛行機を拾いに来た横島は、何か言いたそうな少年達の視線に、にかりとこちらも子供っぽい笑みを浮かべて問いかける。
誰も追わなくなった野球ボールが、こつんと少年達の投げ出したバットに当たって止まった。
スケッチブックは真っ白なままで正解だったのかもしれない。
横島が適当にアドバイスする傍ら、紙飛行機は次々に生産され色鉛筆で塗装が施され。
競うように、戯れるように。
茜色の空へと、飛び立っていく。
「ガキは飲み込みはえーなあ…」
横島の紙飛行機講座なんて、さわりの五分くらいしか彼らは聞かなかった。横島の切り取る画用紙を受け取ると、我先にと折り始める。失敗を恐れず、成功を信じて。
様々に名づけられた彼らの航空機一個小隊は、改造を重ねて高度と滑空時間をどんどん上げていき、横島の教えることはすぐに無くなった。
気がつけば、もう夕暮れ時である。
少年の一人が空を見てあっ、と叫んだ。すると一斉に彼らは帰り支度を始める。手にはバットやグローブ、そして紙飛行機を持って。横島に手を振り、縺れるように彼らは去っていった。
「おーおー…あいつら、遠慮なしに人のモン使いやがって。もう最後の一ページじゃねえか」
スケッチブックはもう一枚しか残っていない。色鉛筆は人気の色だった赤や黄の暖色系がかなり減っている。霊波刀で途中、削ってやったほどだ。
「………もうこんな時間か」
一人取り残された横島の目の前に広がるのは、いつか彼女と見たものに匹敵するくらいに美しい、夕焼けだった。
フラッシュバックする思い出の数は、それほど多くは無い。
けれども、どれも、どれ一つ忘れることは出来ない…珠玉の記憶。
横島は誰もいなくなった公園のど真ん中に胡坐をかくと、スケッチブックの最後の一枚に、鉛筆を当てた。
無言で描く。
手は、横島の思い通りの絵を描いてはくれない。横島が残したいと思う姿を、紡いではくれない。
「ちくしょう………」
夕焼けはどんどん、町の果てに沈んでいこうとする。
一瞬という時間は、容赦なく過ぎ去っていく。
「くそ、くそ、くそ………!」
赤鉛筆を握り締め、横島は歯軋りをした。
「……いっそ文珠で『写』すか…?」
薄暗くなってきた空を見上げて、横島が最終手段に出ようとした……………そのとき。
「だーめ」
「―――――――――――!」
「せっかくだから、最後まで描いて? 見たままを、感じたままを最後まで」
手の止まった横島の背後から、その声は聞こえてきた。
「……………でも、よ…俺、駄目なんだ。紅葉とか見るたびに思い出しちまう。いや、代用しちまうんだ…赤いってだけで…で、いつか、本当に見たものまで忘れそうで…あの、夕焼けを忘れちまいそうで」
「ばーか。いいのよ、それで。だって、あなたの見るものは、私も見てるのよ? 春の新緑も、夏の青空も、冬の白雪も…もちろん、秋の紅葉も」
「でも、俺は忘れたくねえ! あの日の夕焼けも、過ごした日々も! 大事なもんの上からどうでもいいもんを重ねて…消したくねえ……! だから、こうやって絵に残せばいいと思ったんだ…いつでも思い出せるように…」
恐怖があった。
気持ちが変化する恐怖。
想いが劣化する恐怖。
横島はまだ若く、濃密だったとはいえ、彼女と過ごした時間はあまりに短い。
どんなに口や態度で示せたとしても、積み重なる時間の重さに負けない保証なんて、どこにもない。
「だから……俺は……」
「もう、らしくないわね。夕焼けよりも綺麗なもの、世界中にはいっぱいあるでしょう? 私、一緒にいっぱい見たいよ。一緒に大好きになりたいよ」
横島は振り向かない。
その声が、彼を労わる柔らかな囁きが、どんなに心地よく耳に届いても。
振り向けば全て消えてしまうと、淡すぎる幻影は掻き消えてしまう、と知っているから。
横島は内心に渦巻く感情を、ただただ爆発させるだけだ。夕焼けの紅に向かって。
「一緒にって!? お前の声が聞けないんじゃ意味ねえよ!! 好きなモンとか、応えてくれねえと! 横に…いてくれねえと…」
「……………ほんと、しょうがないわね…」
何か、暖かなものが背中から首周りを覆った。
秋の空風が吹いてもびくともしない、確かな温もり。
優しいけれどしっかりと、彼女の腕は横島を背後から抱き締めていた。
…それが、紅葉と夕焼けの見せた幻であったとしても、確かに、いた。
「ほら、これでいい? これで信じられた? いっつも側にいるのよ、私は」
「あ、ああ………でもよ、でも……」
「男の子が泣き言言わないの! …それじゃ、絵はちゃんと最後まで描く事。いいわね? 私もそろそろ…」
夕焼け色に染まる画用紙に、薄っすらとほの青い影が落ちていた。女性の影、彼女の…影。
微かに青い燐光を纏う影は、横島の頬にキスを残すと、細い腕を解いてゆっくりと離れていく。
横島は抱き締め返したい、と叫ぶ心を必死に制御して言葉を搾り出す。
夕日はもう、沈みかけていた。
「行くな…頼むよ、な? もう少し暖めてくれよ……せめて、秋が終わるまでとか!」
「あはは…そんなに抱いてたら疲れちゃうわよ。大丈夫、どこにも行かない。貴方の中にずっといるから。ずっと」
「頼む…頼むよ!」
「じゃあ、またね。――――――――――――――ヨコシマ」
「ルシオ…!!」
ざああああああ………
横島が耐え切れず振り返った瞬間、公園を強い風が席巻した。
紅葉が巻き上げられ、横島の視界が赤一色に染まる。
その中に、歩き去っていく彼女の姿が垣間見えた気がして…
横島はもう、何も言えなくなっていた。
「………らしくない俺を、励ましにきたってのか? 変わんねえな、お前も…」
風が落ち着いてみれば、公園は静かなままだった。紅葉に夕日が照り返して、暮れなずむ公園はまるで、夕焼けの中に抱かれているようだ。
横島は落ちていたスケッチブックを手に取ると、再び鉛筆を走らせ始める。
「女の子のお願いは断れねえ……それが惚れた女なら尚更だ」
慣れない手つきは相変わらずでも、込められている思いは本物。小さな町に沈む夕日の情景は、横島の記憶に残るあの日の夕焼けを彷彿させるに違いない。
既に日は落ちて、公園に一本だけ建っていた照明灯の明かりが横島を照らし出している。
でも、全く気にせずに横島は目に焼き付けた夕焼けの姿を、真剣に熱心に描いていく。
心の中にある風景は、決して色褪せない。
「よっし! 完成っ!」
一時間ほども集中しただろうか。
完全に夜の帳が降り切った公園で一人、横島は喝采を上げた。流石に暗くなりすぎたため、周囲には文珠で作った光源…『蛍』が舞っている。
「ま、こんなもんだ。これから何枚でも描けばいいしな?」
ふわふわと舞う青白い光に言い聞かせるように、横島はその絵を見て頷く。
「んじゃまあ、帰るかー…っと」
スケッチブックを閉めようとすると、小学生の描いたような夕焼けの絵の上に、一枚の紅葉が舞い降りてきた。小ぶりの葉はまるで自分の存在を忘れるな、と言わんばかりに拙い絵の中で存在を主張する。
横島はそのままスケッチブックに紅葉を挟み、凝り固まった手足を伸ばして深呼吸した。腹が鳴るのを聞いて、今日一日食事を摂っていないことを思い出す。
「この時間なら…事務所寄ったらおキヌちゃんがなんか作ってくれるかもな」
美神は自宅に帰っているだろうか。横島が休みの時は大抵、仕事自体も休みである。単に荷物持ちがいないと面倒なのか、それとも別の理由があるのか…
「うー、さぶ…温かいスープでも飲みたいのう」
公園を出る間際、横島は夜の闇にぼんやりと浮かぶ紅葉の林を仰ぎ見、何にもしていないようで様々な事があった今日一日を振り返る。
そこにはいつも、紅葉の紅があった。
「…秋も悪くねえ、ってことだよな。ルシオラ…」
呟きは小さく、己の中に向けて。
横島はいつもの締まらない笑みを浮かべると、階段をだかだかと駆け下りるのだった。
…後日。
横島があの小さな文房具屋を訪ねてみると、入口のガラス戸にこんな張り紙がしてあった。
『しばらく、絵を描きに出掛けます 店主』
どうやら、カエデの樹だけでは飽き足らなくなったようである。
横島の自宅の片隅に置いてある、そのスケッチブック。
たった一枚の夕景の絵には、小さな紅葉が、今も貼り付けてある。
終わり
後書き
竜の庵です。
ぶらり横島途中下車の旅。
今作は横島一人称でもいいくらいでしたが、あえて三人称に。内面描写ばっかりになりそうだったので控えました。
実はもう一編書いていたのですがー…無理やり秋をこじつけたような内容になってしまったので没に。おかげで時間がかかってしまいました。機会があればそちらも出したいですねー。
ではこの辺で。最後までお読み頂き有難うございました!