重なり合う葉の隙間から、太陽の日差しが地面に落ちている。
私は強い日光の坩堝を避けるようにして、日陰から日陰へ、出来るだけ涼しいルートで目的地へと向かっていた。
腐葉土の堆積した栄養溢れる土壌、そこここに見え隠れする森の住人達。
ああなるほど、世界とは人や魔族神族だけのものではない。
この地を最初に訪れてから、そんな当たり前の事実がすとんと腹に収まるようになった。何事も経験とは大事なものである。
今の時期、足元を彩る葉の色彩も青々としていて、踏みしめると適度な弾力でもって反発してくるのが心地良い。私はしばしその感触を楽しみながら、ゆっくりと歩を進めていく。
…………ここだ。
私の目指していた地点。
この、決して大きくは無い森の中で一際悠然と聳え立つ、一本の大樹。
私はここに住むものに用事があった。嘗ての私では果たせなかった大願を果たすため…
この私に辛酸を舐めさせ、屈辱の海に沈めたあの…
黒い兜の王を今度こそ倒すために!!
…自己紹介が遅れたが、私の名は逆天号。
魔神アシュタロス様に創造され、世界の在り方を変えるお手伝いをさせて頂いた、至高の兵鬼だ。
だが、今の私は一匹の昆虫に過ぎない。
何故こうなったのか、順を追って話すとしようか。
夏の再会。
ただの一兵鬼に過ぎない私に、どうしてこのような自我が宿っているのか。
それは私にも分からない。けれど、私同様に創られた存在であるドグラ様やあの賑やかな三姉妹を見れば、アシュ様がご自身の創造される存在に対し、ある種の特別な美意識、生み出す事についての独自の理念をお持ちなのが理解出来る。
私は当時、アシュ様の霊力をエネルギー源として、地球上の霊的拠点を破壊して回っていた。いわばアシュ様に最も近い存在であり、最も親密に繋がりを持った存在でもある。
そんな私だからこそ、『魔神アシュタロスの苦悩』についても良く知っている。
被創造物の悲哀…魂に刻まれた永遠の呪縛…道化であり続ける苦痛…
誰よりも、誰よりもアシュ様は世界を案じ、変えたいと願った。善悪等という主観の一切を排し、ただ一途に純粋に…この腐った世界をどうにかしたいと考えた。
…変えられぬのなら、自己の死すら厭わぬほどに。
私達アシュ様の創造物群が、道具として使い捨てるには過ぎたる意志・感情を持っているのには…そんなアシュ様の『創造』に対するお考えがあってのことだろう。
む、閑話休題。
私がこの森に初めて足を踏み入れたのは、そんなアシュ様の大クーデターの真っ最中である。
順調に霊的拠点百八つの破壊に成功し、意気揚々と進む私達は、たった一人の人間の考え出した策略の前に手痛い反撃を喰らい、撤退を余儀なくされた。
私自身もその人間…美神美智恵の投影した時間軸のズレた己の攻撃によって甚大な損害を被り、療養が必要だった。
ドグラ様が一時退避場所に選んだのは、風光明媚な避暑地の一画で、気持ちの良い森の中に佇む別荘だ。私も戦艦サイズから手のひらサイズへと身を隠し、魔力消費を抑えると共に治療に専念することになった。
「ほらよ! ゆっくり休んでケガを治しな、逆天号!」
ひょいっと私の体を掴み、手近な木の幹へ移してくれたのはベスパ様だ。
どうやら完全に修復されるまで、二三日は掛かるらしい。自己修復プログラムの試算でもそのくらいだ。
まあ、のんびりと休ませてもらおう。
私の主砲、その名も断末魔砲は多大なエネルギーを消耗する。アシュ様から魔力供給を受けているだけあって、その威力も半端では無い。
世界中の霊的拠点は強固な結界によって守られており、我々のようなゲリラ戦、短期決着が必要な戦いを続ける場合にはうってつけの武装だと自負している。一撃必殺。
少し寂しい話ではあるが、拠点の全破壊に成功した今、私の存在意義の大半は果たされたと言っても過言ではない。活動拠点としての役目はあれど、南極に戻ればアシュ様の本拠地があるし、私はただの移動手段としては、少々燃費が悪い。
一兵鬼の私がこんな事を考えるのはおこがましいのだが、今後の身の振り方というのも考えておく必要があるのかも知れない。無論、アシュ様のご意向一つではあるが。
日差しが強い。
四季の鮮明なこの国でも、とりわけ夏というのは輪郭がはっきりしていて分かり易い。だって暑いしな。
移された木を登り、適当な枝の葉陰で体を休めていると、自分が戦争を仕掛けているテロリストの仲間であることを忘れそうになる。
そう思うようになった理由の一つに、つい先日仲間? になった人間のことがある。
ポチ、とパピリオ様に命名されたかの人間は、先の海上戦の折に絶体絶命のピンチだった私達を咄嗟の機転で助け、あまつさえルシオラ様とベスパ様二人の命をも救い出した。
名前は確か…横島忠夫。アシュ様のデータベースによれば、美神令子と同じく前世からの因縁がある人間らしい。三姉妹には知らされていないようだが。
ついでに言えば、メドーサやデミアンといった先遣の魔族達が倒された時も、彼の存在が大きかったという。私的には、人間の中で最危険視すべき人物だと思う。
しかし、彼は人間でありながら私の中での生活に凄まじい勢いで順応していた。生活力が本能の域にまで達しているような印象だ。あのがむしゃらな生命力は賞賛に値する。ゴキブリみたい(褒め言葉)だ。
パピリオ様も、ポチをペット以上のものに見ている感がするし。ルシオラ様はそれ以上の…
ともかく、あの男が来てから艦内のアットホームっぷりが跳ね上がったのは事実だ。
不思議な存在である。
………それにしても、暇だな。
治療目的であるから、派手に動くことも出来ず。羽が無事ならこそっとその辺を遊覧飛行することも可能だが、いかんせん片羽ではな。
ん……この匂いは。
私は葉陰からのそのそと歩み出ると、風に乗って混じってきたあるものの匂いに、センサーのピントを合わせた。おおうこれはまた上質な…
私は元々、海外で採取された昆虫を縁り代に創造された。フルサイズ状態ならアシュ様の魔力でエネルギーは賄えるのだが、このサイズでは逆に、受ける魔力量を制限しなければ後付けされた機能が焼き付いてしまう。いわんや損傷中は特に。
意外とデリケートなのだよ、私は。
だから、このサイズでいる間は他のエネルギー源も確保しなくてはならない。そうしたことも見込んで、ドグラ様はこの地を選んだのだろう。
ではいざいかん、豊穣なる甘味の園へ!
センサーが示すままに、私はとある大樹の幹をえっさほっさと登っていた。
目的はそう、樹液である。
私の元となった虫は、名前をヘラクレスオオカブトと言ってその筋では有名な昆虫だ。私自身、勇壮な外観を気に入っている。
ぐわっと聳える逞しい角に、強固な鎧を連想させる外殻。まさしく妖塞の名に相応しい迫力である。
樹液は単純な栄養素ではない。上質な樹液には、地脈から樹木へと流れ込む霊的エネルギーが内包されているので、傷を癒すにはうってつけでもあるのだ。人工の昆虫ゼリーではこうはいかない。
木を登っていると、どんどんその芳しい香りが近づいてくる。
うわあ……これは一級どころか特級のかほり!
余程恵まれた条件下で育った樹木らしい。
言うなれば、ビンテージもののワインのような。老舗の大吟醸のような。一晩寝かせたカレーのような期待感!
アシュ様の魔力だって、そりゃもう高純度のエネルギーだが、正直味気ない。別にアシュ様は悪くないし文句も無いが、な。でも、人生には潤いが必要なのも確かだろう?
ふふふふふふふふ…………
と、私が期待に胸を膨らませていると、突然。
どげしっ!
っおお!? 何だ!?
まだ傷の癒えていない私の横っ腹を、何者かがどついてきた。思わず脚を滑らせそうになって、私はたたらを踏んで木肌にしがみ付く。
危ないではないか!
「………」
角を怒らせて憎き邪魔者の方へ向き直ると、そこには一頭の攻撃的なフォルムの虫がこちらを威嚇していた。
…データ照合。
あれは、クワガタムシだ。しかもオオクワガタ。こちらに匹敵するほどのサイズ…! こいつもこの先にある特上樹液を!?
「………」
無言で威圧してくるこのプレッシャー…間違いない。こいつは、敵だ。私の本能がそう囁いている。
ふ…しかし、相手が悪かったなオオクワよ。
傷を負っているとはいえ、私は魔神アシュタロスが生み出したる移動妖塞! たかが森のダイヤモンド程度の存在に負けるわけが…!
がしっ
あ、挟まれた。ちょ、待て! 話はまだ…!
ぽいっ
あーーーーーーーーーっ?!
………無残にも地面へ落下した私だったが、柔らかな腐葉土に受け止められ、九死に一生を得られた。危うく病院で滑って骨折するような本末転倒状態に陥るところだった。くわばらくわばら。
しかし、驚いた。奴の…オオクワの顎は予想を遥かに越えた力で私を引き剥がし、何ら躊躇い無く眼下に投げ捨てた。そこには一片の慈悲も無く、行動は迅速、機械的な精密さで私を圧倒した。
これではどちらが戦闘兵鬼か分からない。
だが、これでデータは取れた。パワー・スピード・クイックネス・タフネス……私の損傷度を加味しても、真正面からぶつかれば負ける要素はどこにもない!
貴様にここの樹液は渡さん。逆天号の誇りにかけてな。
わきわきわきっと少々急ぎ足で私は再び大樹を登り、先ほどオオクワと遭遇した地点から数メートル上の場所で、奴を捕捉した。
…意趣返しをお見舞いしてくれる。
私は樹の裏手へ回り込むと、奴に気付かれないように速度を上げ、そのままどてっ腹へ突貫した。
どげしっ!
「………!?」
くっくっく。
驚いてる驚いてる。
これで先ほどの借りは返させて貰ったぞ。後は実力の差を見せつけ、悠々と樹液へ向かうのみ。特上の樹液よ、待ってい…
がしっ
っとおおおおお!? 危な!! 間一髪で避けたが貴様また人の話の途中で割り込みおって!!
最初の邂逅で学んでいなければ、今の一撃でやられていただろう。なんという切り返しの速さよ。
私は素早く角を相手の右顎へ叩きつけると、その反動で左顎にも打撃を加える。オオクワは不利を悟るとすぐに引いた。だが一定の距離からは離れず、じりじりと間合いを見定めるようにして私の周囲を周り始める。
ふ…知っているか、オオクワよ。戦いの場において、格下は格上の周囲を回るものだという。然るに今! お前は察したのだよ! 私が、自分よりも強い個体だと!
「………!」
出典は忘れたけどな!
私はオオクワが怯んだ一瞬の隙を突いて、自慢の頭角を奴の腹の下へ潜り込ませ…一息に跳ね上げた。
力勝負になれば、私は昆虫界無敵である。元ヘラクレス舐めるな。
ひっくり返って落ちていくオオクワを一瞥もせず、私は樹液へのビクトリーロードを登り始める。
待ってろよ特上。その甘露、私が頂くからな。
おおお………!
センサーの反応を見るまでもなく、そこには黄金色の至福が広がっていた。実際には茶色いねばっとした液体なのだが、そこはそれ、雰囲気というものである。
私が辿り着いたその場所は、夏だというのにひんやりと涼しく、木漏れ日の当たり具合が絶妙に荘厳な空気を醸し出す、まさしくこの世の天国だった。
正に楽園…! ここならば、予想よりずっと早く傷を癒せる。アシュ様をお待たせする事無く、次の任に当たることが…
…だが、妙だな?
これほどの質と量を誇る楽園に…何故誰もいない?
私は辺りをレーダーで探るも、羽虫一匹周囲には見当たらない。嘘のような話である。命に満ちた夏の森の、ここだけが…不思議な沈黙に満ちている。
…まあ、いい。ならば独り占めするまでよ。
私は感動に震える脚で樹液へと近づくと、ぐびりと喉を鳴らして…
ぞくり。
―――――――――――――――――――っ!?
私は羽が片方しかないことも忘れて、その場から飛び退った。当然バランスを崩して落ちかけるが、なんとか脚の先を引っ掛けて踏み止まる。
何だ今の殺気は!?
魔界の正規軍にだって、ここまでの殺気を放てる奴は少ないぞ!?
私は体勢を立て直すと、慌てて周囲をレーダーで探る。結果は相変わらず、無反応。一体これはどんな冗談だ? もしや、ベルゼブルのように小型の敵が潜んでいたか…?
恐る恐る樹液へ近づいていき、その畔へと到達すると、また白刃のような殺意に晒される。堪らず後退。
く、まさかこんな夏休みの思い出作りに訪れるような森で、命のやり取りをさせられようとは…! ケガが治っても寿命が縮むのでは意味が無いっ。
こうなったら仕方ない。主砲は使えないが、逆天砲魔一発くらいなら今の状態でも発射出来る。威力を抑え、ドグラ様達に気取られぬようにすれば構うまい。
現状を打破するため、私は元ヘラクレスの尊厳を捨てる! 元々無いけど!
逆天砲魔、発射!
数回のトライで、一番濃密に殺気を放つ地点の割り出しは済んでいる。怖くて近づけないが、これなら!
どごーーんっ!
大樹が僅かに揺れ、爆竹程度の炎と音が辺りをきな臭く支配する。ふ、戦場の匂いだ…と、これは言い過ぎだな。
さあどうだ。殺気の主よ、姿を現せ!
「……………」
爆煙が晴れていき、舞い散る木の葉も数を減らして…その中に、黒い影は存在した。
データ、データ照合!
…って、照合するまでもない。こいつは…
私には及ばないが、立派な角。
私には及ばないが、艶やかな外殻。
私よりも一回り以上小柄だが…
そいつは私と同じ種族だった。純国産のカブトムシ。
この小さな昆虫が、殺気の主だと?
樹液の泉の対岸にぽつんと佇むそいつからは、今は何らプレッシャーも殺気も感じない。先ほどのオオクワの方が、余程強い。
ふわり、と重さを感じさせない身軽さでそいつはこちら岸へと飛んできた。近づいてきたところで、体格の小ささは隠せない。
弱者が姿を隠して敵を欺こうとするのは、戦略としても戦術としても一般的な方策だ。恐らくこのカブトは、殺気だけを一人前に磨き抜いて生きてきたのだろう。戦わずして勝つ…困難な道だ。ポチに似てるか?
しかし、こうして相対した以上…私に気後れする理由は無い。さっさと退場願って、至上の甘露に舌鼓を打つとしよう。
「………」
ずい、と私が一歩前に出てもカブトは怯まない。怯えもしない。なるほど、覚悟完了というところか。
ならば、私も全力で押し通るのみ。悪いが遊びで来ているのではないのでな。
…今考えれば、それは余りに迂闊な行動だった。
――――――!?
私の体は、カブトの懐に角を差し込んだ瞬間、反転していた。
そして、背中から幹に激突し…パニックを起こす暇も無いまま、落下していた。
カウンターを受けた、それも尋常ではない速度でもって。
私が冷静にその考えに至ったのは、再び腐葉土に助けられた地面の上でだった。私だって腐ってもアシュタロス一派の一員である。この程度の事で取り乱していては始まらない。アシュ様に笑われてしまう。
まあ、一晩は経ってるけどな!
………。
とにかく、一夜明けた翌日の朝。私は奴の殺気がブラフではないときっちり受け止め、万全の体制でもってリベンジに挑んだ。
結果は、惨敗。
奴の速度は、カウンターというより居合いに近い。抜き身すら見せずに一瞬で全てを終わらせる。昆虫界の武士ということか、奴め。
私は何度もあらゆる角度から奴に接近を試み、その悉くを失敗に終わらせた。データは確実に蓄積しているし、コンピューターが弾き出した勝利の方程式を第十五弾まで試した。
それでも、奴に角を掠らせることすら出来ない。
あの、聖域の守護虫め…
一時は、昨日破ったオオクワと連携して挑んだりもしてみた。
あいつもあのカブトにリベンジを誓う戦士だったのだ(まあ本人が喋ったわけじゃないが)。
だが、居合いが二度翻っただけで、結果は同じ。オオクワが先に飛ぶか、私が先に飛ぶかの違いでしかなかった。
お前は渋川剛気か! 片目義眼か!
やけっぱちになって、搭載されていた逆天砲魔を連続でぶっ放したりもしたが、無意味だった。カブトは爆風に逆らわず、さりとて翻弄されもせず…風に舞う木の葉のように全てを受け流してみせた。アナタ本当に虫ですか?
…結局、出発の日まで私は奴に勝つことが叶わず、至上の甘露を口に含むことが出来なかった。他の樹液を飲んでいたので、傷自体は癒えたが。
帰りの艦内で、ポチが逃げ出した事、ベスパ・ルシオラ間で冷戦が勃発していた事等を初めて知ったが…正直どうでもよかった。姉妹喧嘩なんて、微笑ましいではないか。
私には目標が出来た。
必ず、この森に帰って奴を倒し、あの樹液を飲んでみせると。
創られし生命なれど、この心に誓って。
…その後の私達については、割愛させて頂く。あの方は本懐を果たし、最善とは言わずともそれなりに求めた結果が得られたのだから。
私は混乱の中で放置され、最終的には存在すら忘れられて事態から取り残された結果となった。アシュ様からの魔力供給が途絶えた時点で、私の兵鬼としての命も終わったといえる。
…あれから一年。
私は魔力の大半を失い、兵鬼としての形を留められなくなっていた。外観は魔物っぽさの消えた単なる外来種のカブトムシになっている。ヘラクレスオオカブト再び、である。
こうして自我だけは残っているが、それもいつまで保つのやら。
私という存在がはっきりしているうちに、奴との決着だけはつけねば。
あの日と同じ、夏の暑い盛りに…私はこの森へ戻ってきた。当時と変わらぬ、少しだけ懐かしさを覚えるこの森、そして目の前の大樹に。
魔力を失ったとはいえ、私は一カブトとして鍛錬を続けてきた。他の森で戦いを重ね、勝ってきた。時には人間が飼っていたのが逃げ出したのか、コーカサスやアクティオン、なんか途中でアゲハチョウが体力を回復する変なカブトムシにも勝利してきた。
万全、である。
私は闘争心を漲らせて登っていく。道中で出会う他の昆虫どもは、私のオーラに押されてか仕掛けてこない。戦う理由も無いが。
…お、ここはあのオオクワと戦ったところだ。奴に一度負けたお陰で、私は自分を戒めることが出来た。誇りを失わずに済んだ。奴はどうしているだろうな…
これも郷愁のようなものか。たった一年前だというのに、少しばかり老け込みすぎたようだ。
私は再びあの樹液へ向けて脚を進める。
……この先だ。この先に、奴がいる。
道を阻むように茂る厚ぼったい葉を潜り、私はとうとう決着の地へと…!
な、に…!?
確かに、ここはあの甘露の泉だった。
だが、どうしたことだ…いや…これが、正しい姿だったのか!?
樹液の周りでは、様々な虫達が喉を潤し、腹を満たし、生を謳歌していた。
そこに、当時私が感じた殺意は愚か、一片の闘争の空気も残ってはいなかった。
きらきらと降り注ぐ陽光が、暖かな空気が…私の中から大切な何かを奪い取っていった。
あのカブトは…!?
私は藁にも縋る思いで、正しく楽園の光景から過去の面影を、静謐だった頃の泉を守る守護虫の姿を探し出そうとする。レーダーが使えないのが、今だけは口惜しかった。
が、あのオオクワが葉陰で、ひどく寛いだ様子で体を休めているのを見つけるに至り…私は、理解した。
もう、あの武士はいないのだと。
…心のどこかでは、分かっていた。一年という月日は…普通の昆虫にとっては生涯に等しい時間だと。
あのカブトが泉の守護虫でいられたのは精々一月程度なのだと。
でも、認めたくなかった。
アシュ様という創造主を失った自分が新たに見つけた、新たな目標。
それを失うのが怖かった。
でも、もう、終わった。全ては。
…森を出よう。
もう、『私』…逆天号の意志も不要だ。さっさと消えてくれ。
私は脚を引き摺るようにして楽園から踵を返した。あれほど魅力的に見えていた甘露の泉も、今はただの薄汚れた液体にしか見えない。到底…飲む気にはなれなかった。
ああ…これから、私はどうすれば…
「…パちゃん、こっちで…よ!」
どこか遠くに旅に出るか…
「ちょ……リオ! あんま…」
いっそのこと、川にでも身を投げて…
「ヘラクレスげっとでちゅよおーーーーっ!!!」
そうそう、ゲットされてボールに入れられて戦う道具に…って、へ?
あれ? 私、人間に捕まってる?
意気消沈していた私は、その人間の気配に気付くことが出来なかった。だが、まあそれもいいだろう…虫かごの中で一生を過ごすのも、また………
………あれ?
「うわー…やっぱり本物と図鑑では迫力が違いまちゅね…」
「全く…あのさ、ここに来たいって気持ちは分かるんだけどさ…どうして昆虫採集に走っちまうかね、あんたは。私の休暇も無限にあるんじゃないんだけど」
「いーじゃないでちゅか。ベスパちゃんだって、あの鬼大尉から離れられるならどこでも行くって…」
「うわあっ!? パピリオ! 地獄耳なんだぞあの鬼…じゃねえ、ワルキューレ大尉は!? 迂闊な事言うんじゃないよ!!」
………はは。
なんとも、はや。
こういう偶然か。そして、そういう結末だったのですか…アシュ様。
この、少しだけ背が伸びた妹と、険の取れた感のある姉…とっくに寿命が尽きているはずの彼女達が、笑いながら存在している世界…
被創造物の悲哀などどこにも感じさせない、どこにも存在しない世界。
アシュ様の見たかった世界の一端が、ここにあるのですね。
「……? ねえベスパちゃん。この子、どっかで見た覚えありまちぇんか?」
「あ? あいにく虫に知り合いはいないよ」
それでいい。
はは…生涯のライバルには会えなかったが、二度と会えないと思っていた人達には会えた。カブトよ、お前の導きか?
私は放り込まれた虫かごの中、中天に輝く太陽を見上げ…心の中で、笑う。
パピリオ様はきっと、私に新しい名前を付けて下さるだろう。逆天号でもヘラクレスでもない、新たな人生の門出に相応しい名前を。
その名でもって、私は生きよう。
アシュ様の代わりに、彼女らの行く末を見守ろう。
「決めた! お前の名前は―――――」
おわり
後書き
暑中お見舞い申し上げます、竜の庵です。
連続投稿になりますが、せっかくなので。
夏休みの一日で書き上げた短編でした。構想自体は少し前にあったので、厳密にはもう少しかかってますけれど。
レア一人称シリーズと四季シリーズの合体技で。そんなシリーズ展開してたのかという話ですね。
もしよろしければ、ご感想等頂ければ幸いです。
ではこの辺で。最後までお読み頂き、有難うございました!