今夜はえらく蒸し暑い。
もう幾度となく過ごし、繰り返してきた夏の夜だったが、それでも矢張り暑いものは暑い。それまで突っ伏していた机から立ち上がると、愛子は一人、夜の学校、その廊下を歩き出した。
目指すは屋上、そこならば教室より幾らかは過ごし易かろうと考えたのだ。
ぺた、ぺた、ぺた。
彼女の履く上履きの乾いた音だけが響く無人の廊下。
其処を独り、無言で歩く彼女の耳に、微かに届いた寂しいメロディー。
「・・・・・・ピアノ?」
立ち止まり、音源を見やる愛子。
無論、音楽室からである。
夜、無人である筈の音楽室から聞こえてくるピアノの音。
まさしく怪談其の物なのであるが、愛子は取り立てて気にする事は無い。
何故なら彼女自身が『妖怪』なのであるのだから。
カラリ。
躊躇無く音楽室の扉を開く愛子。
その目に映ったのは月光。そしてその光に照らされながら演奏を続ける知人の姿だった。
「まだ居たの? あなた」
「ご挨拶だね、愛子くん?」
呆れた様な彼女の言葉に、演奏も止めず此方を見ようとすらもせず。
美しい指を操りつづけるメゾピアノは苦く、笑った。
Nightingale
「・・・・・・それでね、横島君ったらおっかしーの、土下座しながら謝ってたんだけど、結局は美神さんや暮井先生にボコボコにされて・・・青春よね」
いつもの生活に起きた様々な事を、コロコロと笑いながら楽しそうに話す愛子。
暫く、彼女の笑顔を見詰めていたメゾピアノだったが、やがて感心した様にポツリと呟いた。
「変わったね・・・」
「・・・え?」
不意に彼が口にした言葉に愛子は目をパチクリと、首を傾けた。
「どういう意味かしら?」
「そのままさ。嘗ては『ああ』だった君が、本当の生徒になれただけで、ね」
「・・・そう、そうでしょうね」
妖怪である自分。
嘗ては様々な時代で生徒達を体内に取り込み、其処に広がる異空間で仮初めの学園生活を送っていた自分。唯それだけに夢中だった自分。
「受け入れられて、変われたって事かしらね」
月光に煌めく髪をかきあげ、愛子はふんわりと笑った。
「受け入れられたから、か。其れだけでも無いみたいだけどね」
「あなたってば、そのまわりくどい言い方如何にかならない?」
一転、ムスっとして頬を膨らませる少女にメゾピアノは変わらぬ笑みをうかべ、
先ほどから思っていた言葉を口にした。
「・・・・・・横島忠夫」
「・・・・・・っ!?」
ギョッと目を見開き、愛子は赤い顔を隠すようにそっぽを向き叫んだ。
「い、いきなり何よっ!?」
「いやなに、先程からの君の話は、すべて彼にまつわる物ばかりだったからね」
曰く、彼のおかげで机(本体)と離れて動けられるようになった。
曰く、彼と海へ遊びに行く約束をした。
曰く、彼と。
彼と。
彼と。
「それも青春、かい? 正直、僕は君が羨ましいよ」
「羨ましい・・・?」
フ、と笑い、メゾピアノは鍵盤に両手を置いた。
「僕はメゾピアノ。その名の通り、ただピアノを弾くだけの妖怪だ」
ポロロン、と爪弾きながら語る。
「そう、ただ弾くだけ。ただ其れだけでしかない存在だよ」
「・・・・・・」
「僕らはそう概念付けられて生まれた。いや、生み出された、かな?」
鍵盤を弾くその指は滑らかに、リズム良く、そして段々と速くなっていく。
「僕がピアノを弾かなくなる事は在り得ない。何故ならそれは自己の否定に繋がり、結果、メゾピアノで無くなった僕は消えてしまうのだから」
語り続ける彼の胸中に、小さく、意地の悪い物が沸き上がってくる。
それを認識し、メゾピアノは少しだけ唇を噛んだ。
「で、でも、例えそう定義付けられているとしても、私達は変われるわ。
生きていて、様々な事を経験しているんですもの、変われるはずだわっ!」
「本当に?」
何処か焦ったような愛子に、変わらず落ち着いた態度で返すメゾピアノ。
「そうよ。私の、今の私の毎日は、私自身の意思よっ!」
「・・・・・・本当に?」
トーーーンっと高い音を最後に、鍵盤上の舞踏は終わった。
「君は・・・何だい?」
ゆっくりと、その視線を盤上から少女へと移す。
「・・・・・・え?」
「学校妖怪の愛子? 机妖怪の愛子? それとも青春妖怪の愛子、かい?」
意地の悪い笑みを、そうと悟られないほど微かに口の端に乗せ、
メゾピアノは酷く優しげに少女を見詰める。
「何・・・って。何よ、いきなり」
「君は何故学校が、授業が、学生生活というものが好きなのか、
自分で考えた事はあるかい?」
「そんなの・・・無い。だ、だって私はそういう妖怪・・・・・・っ!?」
取り繕うように話す愛子だったが、その自分の言葉にハッとしたように
黙り込んだ。
「・・・学校、という場所には様々な思念が染み込む」
俯く少女に代わり、静かな声で話し始めるメゾピアノ。
「それは将来への憧れだったり、明日のテストの不安、毎日を楽しむ心、
・・・それに、忘れてはいけないのが、やはり異性への気持ち、『恋』だろうね」
ね? と少女に問い掛けるが、彼女は俯き答えない。
しかし気にした風も無く、話し続けるメゾピアノ。
「まさに『青春』、君は、それらに包まれて生まれてきた訳だ」
「ちがう・・・・・・」
ポツリと、顔を伏せたままの少女が発した否定の言葉。
それは何に対してなのか。メゾピアノは尋ねようとはせず、相変わらずの優しい声で話し続けた。
「何処かの誰かの想いなのかも知れない。そう感じた事は無いかい?」
初めて椅子から立ち上がったメゾピアノは、ゆっくりと愛子に近づき
その顔を覗き込むようにして囁いた。
「様々な時代、様々な場所で『在った』だろう、様々な学生達の想い」
覗き込んだ少女の顔は、何かに怯えたように凍りついていた。
「・・・すべてはそれらを受けての反射的行動なのかもしれないね」
「・・・ちがう」
硬く瞳を閉じ、頭を振って否定する愛子。
しかし意に介さない妖怪の告白は続く。
「君が勉強が好きなのも、その他色々な事が好きなのも、すべて『そう在るべき』とされた、君の存在的理由が産み出した、単なる・・・」
「ちがうっ!!」
メゾピアノの言葉を遮り、バッと振り上がった彼女の瞳には大粒の涙があった。
「ちがうっ! 私は、私はっ!!」
「・・・もしかしたら君の『彼』への想いすら」
バシンッ!!
それでも話し続けようとしたメゾピアノの頬が高く鳴った。
「ちがうって言ってるでしょっ!!」
そう叫び、愛子は踵を返して音楽室から走り去っていった。
「・・・やれやれ、苛めるつもりは無かったのだけれど」
独り残ったメゾピアノ。
彼は赤く腫れた頬を摩りながら、再びピアノへと向った。
椅子を引き、座る。
ゆっくりと両手を盤上へと導き、溜息をついた。
「・・・羨ましいって言っただろう」
そして優しく、そして悲しげな曲が響き始める。
「僕もピアノの弾き方を変えれば、君のようになれるのだろうか・・・」
その言葉を最後に、彼は再び『ただピアノを弾く』だけの存在へと還っていった。
彼が弾くその曲は、彼女に手向けた物なのだろうか。
夜を想う曲。
ノクターン。
バタンっ。
乱暴に扉を開け、愛子は当初の目的地だった屋上へと走り着いた。
ハァッ、ハァッ、ハァッ。
音楽室から此処まで全力で走ってきた為、彼女の吐く息は熱く、苦しかった。
「・・・・・ちがう、ん、だからぁ」
今だ止まらない涙を拭おうともせず、彼女は胸ポケットから学生証を取り出した。
それは彼女がただの妖怪ではなく、この学校の『生徒』であるという証。
「・・・・・・」
愛子は無言でその中から一枚のくたびれた写真を取り出した。
もう何度も何度も触り、撫でた所為で四方が破れかかったそれには。
「横島・・・くん」
微笑む自分と『彼』、そして級友達の姿が在った。
もしかしたら君の『彼』への想いすら
不意に思い出すあの言葉。
愛子はそれを必死で否定するかのように写真を硬く抱き、その場に蹲った。
ちがう、ちがう、と。
否定しても否定しても、あの言葉が耳から離れない。
愛子は夜空を仰ぎ見る。
涙で滲んだ月は、それでも蒼く、美しい。
「・・・・・・神様」
もし自分の存在が、誰かの想いを受けての、その残滓だとしても。
「かみさまぁ・・・」
例えそれが残酷なイミテーションだとしても。
どうか、どうか神様・・・・・。
この私の、『彼』へのこの想いだけは・・・・・・。
「この・・・、私、だけの・・・・・」
愛で、ありますように。
終
こんにちわ、久方振りの投稿のおびわんです。
ふと思いついたネタでひとつ。ごめんよ、愛子っち。
それでは、また。