既にログに流れてしまっている「彼女の名は」の続きです。
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それでは、どうぞ。
「これが調査の結果だ。他の奴らの目を盗んで調べたんだぞ。感謝するように」
「わかってるよ」
差し出された書類を受け取った女性は、その鋭い目を紙面に落とした。一通り目を通した後、深い溜息をつく。
「……やっぱり、そうか」
「うむ。予想通り今が最適な時期だ。これを好機と見るか、それとも……」
「もちろん、好機さ。立場上人間界に降りるなんざ、そうそうできる事じゃない。これを逃す手はないよ」
「そうか。しかし……本当の良いのか? お前は……」
「いいんだよ。あれは、あたしにしかできないことさ」
「別にお前でなくとも、可能なはずだぞ」
「可能性は落ちる。私なら確実だ」
「そうではなく……」
女性は、そっと元上司の口を押さえた。
「それ以上、言うんじゃないよ。言いたいことはわかっているさ。でもこれはあたしがやる。それがあたしの贖罪なんだ。それに、あの子にこれ以上辛い思いをさせるつもりはないんだよ」
「………」
「あたしがやる。辛くても、死ぬほど嫌でも、あたしがやるんだ。あたしが適任だから、あたしがやるのさ」
「そういえば、今日か」
「はっ。本日であります」
上官の呟きに、スーツ姿のワルキューレは敬礼で応えた。魔界の辺境に位置する軍基地でのことだ。
デタントで軍部も縮小されているが、だからといって軍人がいなくなるわけではない。神族との争いや人間界への手出しが抑制されているとはいえ、デタント反対の過激派や魔族内の犯罪者は依然としていなくなることはない。だから正規軍は上層者の意向によって、デタントを守る為の任務に就いている。ここもそんな基地の一つだった。
辺境に位置するとはいえ、この基地の重要性は低くなかった。この近辺に人間界に通じるゲートが存在することがその理由だ。多数の存在を通すことの出来るような大規模なものではないが、それでも一度に二三人の魔族を通すことは可能な扉だ。故に軍が駐屯して防備している。
ワルキューレはこの基地の所属ではないが、今日は件の人間界へのゲートを使用する為にここを訪れていた。
この基地を預かる大佐は、机に座ったまま直立不動で敬礼するワルキューレを見た。指先では羽ペンをぷらぷらと泳がせている。
「ゲートの使用許可は事前におりている。いつでも使用可能だ。また滞在期間は人間界の時間で三日間だ。厳守するように」
「はっ」
「うむ。……ところで」
大佐はペンの先をワルキューレの後方へ向けた。その毒々しい色の羽ペンは、羽先をむけた一瞬、強大な魔力を放つ。そのペンに使われた羽がどんな鳥の羽なのかわからないが、尋常の鳥ではないようだった。
羽から発せられた禍々しい魔力は、通常ならば何らかの反応を示してしまうところだ。現に向けられた本人ではないワルキューレでさえ、一瞬だけ身体を硬くした。
しかし当の向けられた本人は、驚くべき事に微動だにしなかった。
「ふむ、齢二千五百年のコカトリスの魔力に無反応か。肝が据わっているのか、余程の大物か。それとも……」
面白そうに大佐は微笑むと、羽ペンを帽子にさした。
「さすがはあの魔神の娘よ。大したものだな」
「恐れ入ります」
ワルキューレの斜め後ろに立つ女魔族が、敬礼をしたまま応えた。髪を腰近くまで伸ばし、メリハリのきいた身体にジーンズとセーターを身につけた美女だ。
かつて主に従い、三界を敵に回した過去を持つ蜂の化身。
……ベスパである。
「この基地にそんな格好できやがったのはお前が初めてだ。人間界の服か。結構似合ってるじゃないか」
「も、申し訳ございません。私がもっとしっかり言っておけば……」
「かまわんよ、大尉。これから休暇だと言うし、問題はないさ。……さて、挨拶はもう良いからそろそろ行きな」
「はっ。では失礼致します」
もう一度敬礼をしてから二人は踵を返した。そして司令室を出る為に扉を潜ろうとした時、大佐から声がかかる。
「おい、ベスパ」
「? はい」
呼び止められたベスパは、怪訝そうに大佐を振り返った。
「なんでしょうか」
「お前は真面目だな……」
突然の言葉に、ベスパは戸惑いの表情を浮かべた。
「……申し訳ございません。何をおっしゃりたいのかわかりかねますが」
「今回のことはお前の救いになるだろう、ってことさ」
ベスパが僅かに体を硬くするのを大佐は見逃さなかった。
大佐はにやりと笑って続ける。
「しかしな、何事も思い通りには進まないものさ。お前の場合も、現実は予想の斜め上を行くだろう。……俺の魔眼の見立てだ。覚えておくがいいさ」
言い終わると、大佐は追い払うように手を振った。
ベスパが大佐に向かって敬礼する。意味深な言葉を理解したのかしていないのか、その表情からはわからない。
「……失礼致します。バロール閣下」
そしてベスパは踵を返して今度こそ司令室を出た。
その日、美神所霊事務所では妙な空気が流れていた。事務所唯一の男はぼけっとしているし、人狼の少女はそわそわしている。人狼の相棒たる妖狐の娘は出かける準備の確認を何度もしているし、巫女姿の少女はちらりちらりと誰かの顔色を窺っている。
努めて冷静を装いながら机に向かっていた令子は、その様子をつぶさに観察していたが、誰もその視線に気づく様子はない。事務所の所長としては少々溜息が漏れるが、現状に納得もしていた。令子本人も完全に平静とはいえない状態なのだ。
本日はパピリオが妙神山から遊びに来る日だ。事務所に流れる空気は、全てそれが理由だと令子は考えている。
別に令子はパピリオが嫌いというわけではない。横島にとっては妹のようなものだし、久しぶりだから歓迎したいとも思う。わざわざデジャブーランドのフリーパスを人数分用意もしているし、宿泊用のホテルだって予約済みだ。全ては楽しい思い出を作って貰おうという考えからである。
しかし、やはり複雑な面があることも否めない。
パピリオはアシュタロスの娘の一人だ。当然彼女の存在は事件を彷彿とさせてしまう。ルシオラを失った時の横島の姿を、どうしても思い出してしまうのだ。それは横島本人その件をどれだけ自分の中で消化しているかわからないこともあって、令子とおキヌの心を乱していた。
さらに問題は、事件後に居候を始めた獣娘達だ。
当然彼女達はパピリオのことを知らない。アシュタロスの事件を知らない。ルシオラも知らないし、横島の傷も知らない。
さすがにこの状態でパピリオに会わせるのは、まずいのではないだろうか。……そう感じた令子が迷った挙げ句、美智恵も交えてアシュタロスの事件のことを話したのが昨日のことだった。もちろんその話の中には横島とルシオラのことも含まれている。
令子達は彼女達を家族のように思っている。それが横島とルシオラのことを話した理由の一つだったが、他にもパピリオに不用意な質問をしないようにとの配慮もあった。藪をつつかないように釘を刺したと言っても良い。
しかしそれは横島に了解をとっての行動ではなかった。一応二人にはこの件について知らない振りをするように言ってあるが、二人とも純粋なだけに裏表があまりない。特にシロなどはかなり危うい。
先ほどから二人の様子を見ている令子は、正直少々胃が痛かったりする。
今日から三日間を無事に過ごせるよう柄にもなく神頼みなどしていると、人工幽霊壱号が声を掛けてきた。
『オーナー。あの、お客様が……』
来たか。
令子は天井に向かって言った。
「オッケー。通して」
この事務所には常時結界が張られている。人ならざる者に反応し拒絶する結界だ。小竜姫やパピリオにしてみれば薄紙のようなものだろうが、わざわざこじ開ける必要はない。
人工幽霊壱号が一瞬だけ事務所の結界を解く。その気配を感じながら、令子は立ち上がた。
「さあ、みんな。お待ちかねのお客が来るわよ。出かける準備はいい?」
横島が顔を上げた。
「パピリオが来たんですか?」
「そうよ」
横島に頷いた令子に、人工幽霊壱号が困ったように言った。
『あの、オーナー。その事なのですが……』
「え?」
『お客様と言っても、パピリオ様というわけでは……。私も少々混乱してしまい、正確な情報をお伝えしておりませんでした』
意外な言葉に令子が眉をひそめた時、扉が開いた。
そこから入ってきた二人の女性を見た令子は唖然とした。
『この、お二方です』
「ワルキューレ。それにベスパじゃないか!」
頬を痙攣させる令子の代わりに横島が叫んだ。
「あれ? 小竜姫様にパピブッ!」
知らないはずの名前を呟きそうになったシロに、タマモの一撃。
何するでござるか! とさらに叫ぼうとする相棒の口を押さえつつ、目線だけで伝える。
……釘を刺されていることを忘れたのか馬鹿犬、と。
シロからの反論が来る前に、タマモは言った。
「横島、その人達は誰? 今日のお客さん? それにしては随分と驚いてるみたいだけど」
「あ、ああ。友人だよ。魔族だけどな」
人化しているようだが、それぐらいは見ればわかる。横島の友好関係の幅広さを再確認したが、聞きたいことはそうじゃない。
単なる友人が、何の意図もなくこのタイミングで訪れるだろうか? それにベスパと言えば、確か横島の恋人を――。
思わず疑わしげな視線を向けるタマモに気づいているのかいないのか、ワルキューレは面白そうにシロタマを見た。
「ふむ、人狼に……妖狐か。しばらく見ない内に、また妙な奴が増えたな」
「はっはっは。何せ美神除霊事務所だしな。で、今日はどうしたんだよ?」
「パピリオが来るんだろう、今日」
答えたのはベスパだ。
一瞬だけ横島を見た後、視線をそらしながらベスパは続ける。
「良い機会だからさ。休暇を取ってきたんだよ。……姉が妹に会いたがるってのは、不思議な話じゃないだろう?」
「で、私は引率だ。三日ほど世話になる」
「そうか。じゃあ、パピリオも喜ぶだろうな」
横島はベスパに対して微笑んで見せると、思い出したようにシロとタマモを見た。
「紹介するよ。ワルキューレとベスパだ。こっち、人狼がシロ。妖狐の方がタマモ」
「よろしく」
「よ、よろしくでござる」
「ああ。少しの間だろうが、よろしく頼む。……おや」
ワルキューレは驚いたような表情を浮かべると、何かに気づいたようにタマモをまじまじと見つめた。
「おまえ、単なる妖狐ではないな。もしや白面か?」
「その転生体よ。前世の記憶はないわ」
「ほう。しかし珍しいな。人間達の中では除霊対象になっているかと思っていた」
「実際そうだったわよ。横島達に助けられなかったら、今頃は生きちゃいないわね」
「へえ……」
黙って二人の会話を聞いていたベスパが、眩しいものでも見るかのように横島を見る。
「相変わらずなんだね、ポチ」
「その呼ばれかたも懐かしいな。で、何が相変わらず?」
「……わからなけりゃ、いいよ」
首をひねった横島から視線をはずして、ベスパはそっと目を伏せた。
あんたの本質を見極める目が相変わらずだなどと、ベスパは口にしない。無論、彼を選んだ姉が慧眼だったなどとも言わない。ただ胸に生じた温かな気持ちを、そっと抱きしめるだけだ。
「あの、せっかくだから取りあえずお茶でも淹れましょうか。まだパピリオちゃんも来ないようですし」
おキヌの提案にワルキューレが頷いた。
「おお、すまんな。頼む」
「じゃあ応接間に移動かな」
ワルキューレと横島が移動を始め、その後ろをベスパが黙ってついていく。
「まあ、せっかくだし?」
「聞きたいことを聞いても良いのでござろうか……」
さらにタマモと、再びうかつなことを口にするシロが続いた。
黙ったまま硬直していた令子が大きな溜息をついたのは、最後の一人がいなくなってからだった。
「ますます、胃が痛くなりそうね。というか、もうすでに痛いかも……」
『お察しします……』
大変な三日間になりそうだと乾いた笑いを浮かべた令子に、人工幽霊壱号の沈痛そうな声がかかった。
……もっとも、その予想が斜め上を行くことになろうとは、さすがの令子にも読めなかった。
数十分後、お茶を飲む令子達の元に、彼女は小竜姫と一緒に現れた。
「久しぶりです! 会いたかったですよ!」
美しく成長した蝶が、令子達を見て満面の笑みを浮かべてみせた。
その姿を見た令子は、取りあえず口に含んでいたお茶を盛大に吹き出した。
パピリオと再会してからしばらくの後、一同は揃ってデジャブーランドに移動していた。
このデジャブーランド、国内最大級のレジャーランドとして名高い。
曰く、訪れた者を夢の世界にへと誘い楽しませてくれる。
曰く、記憶ではなく、心に残る思い出が出来る。
曰く、全てを忘れさせてくれて、大人も子供に返ることが出来る……等々。
大人にも子供にも絶大な人気を誇るのは、こういった経営者側の戦略だ。
「確かに楽しそうな所だね」
園内を歩きながら、ベスパは一人感心してみせる。
人間とは基本的に矮小で脆弱な存在だと思っているが、この積み重ねの力は侮れない。多くの人間、多くの時間を掛けて人間は時に凄いことを成し遂げる。
このレジャーランドもその一つだろう。労力を考えると実にくだらないことをしているような気もするが、それはそれ。
「凄いですー! あ、横島、あれ乗りたいですっ!」
可愛い妹が喜んでいるので、ベスパとしてはなんの問題もなかった。
先頭を歩くパピリオは、横島の腕にしがみつくようにして歩いていた。その後ろ姿に優しげな視線を向けたベスパは、久しぶりに妹に再会した時のことを思い出す。
美神所霊事務所で再会したその時、パピリオの姿を見たベスパは驚きに目を見張った。ベスパほどとは言わないが、立派に女性と言っていい程に成長していたからだ。
しかし考えてみると、何も不思議はないようにも思えた。三姉妹などと言われているが、実際は三つ子に近いのだ。実年齢など一日すら離れていない。
アシュタロスが何を考えてパピリオを幼い容姿で誕生させたのか、今となってはわからない。しかし今のパピリオの姿こそが、本来あるべき姿であるような気がする。
ベスパが感慨深くパピリオを見ていると、シロとタマモが不意に近づいてきた。ベスパを挟むようにして二人は歩く。
「……なんだい?」
わざわざ近づいてきた二人に、ベスパは少しだけ目を見張った。
通常魔族には警戒心が働くものだ。神の対極に位置している魔である以上、どうあっても周囲を不穏な気配が漂ってしまう。人狼や妖狐といった第六感が鋭い種族ならば、敏感にそれを感じ取り、近づいてはならないと本能が警鐘を鳴らすはずだ。
それにもかかわらず、彼女達は自ら近づいてきた。それにベスパは驚いたのだ。
「色々と聞きたいことがあるのよね」
右手側を歩くタマモが、まっすぐ前を見たまま口を開く。
その言葉を聞いたベスパは、タマモの実年齢が思ったよりも幼いのではないかと推測した。外見や雰囲気こそ大人びているが、本能の警鐘よりも好奇心が勝るのはまだ子供である証拠だ。
タマモに面白そうな視線を向けたベスパは、しかし反対側を歩くシロの一言に凍り付いた。
「アシュタロス事件……と言ったでござるか」
「っ!? あんた達……」
「美神から一部始終聞いた。……ちょっと、あまり大きな反応しないで。横島は私たちが知ってるなんて知らないんだから」
相変わらず視線を向けず、小さな声で呟くようにタマモは話す。シロも同様だ。
「聞きたいことは一つだけでござる。……先生に、危害を加える気があるか否か」
その言葉に、ベスパは納得した。
あの時のことを知っているのなら、ベスパがアシュタロスを慕っていたことも、そのアシュタロスを横島が殺したことも知っているのだろう。そして少女達は、自分が慕っていたアシュタロスを殺されて、復讐を考えてはいないのか……そう問うているのだ。
正直、この質問が来ることは予想していた。横島の安全を図るならばされて当然の質問だし、人間界へ降りる許可を申請した時にワルキューレにも同じことを聞かれていた。その時の答えが彼女の中に存在する。それを口にすればいい。
ベスパは目を閉じると、その言葉をゆっくりと口にした。
「アシュ様はさ、あれで良かったんだと思ってる。アシュ様にとってあの結果こそが最良だったんだ。だから、あれで良かったと思ってる。横島には感謝こそすれ、恨む気持ちなんてないさ」
今でもアシュタロスのことを考えることがある。あれでよかったのか。こうすれば良かったのではないか。そんなことを今でも考える。
しかし結論はいつも一緒なのだ。あれ以外にはなかった。あれが良かったのだと……。
努めてベスパを見ないようにしていた二人は、そろって振り向いた。その目には明らかな疑念の色が浮かんでいる。
「信じられないかい? それじゃあ駄目押しだ」
苦笑しつつ、ベスパは前方を歩く横島とパピリオに視線を向ける。横島にじゃれるようにして歩くパピリオは、とても嬉しそうに、楽しそうに笑っている。
「横島に何かしたら、もう一人の姉妹とも絶縁になっちゃうよ。それはごめんさ。……これも強力な理由にならないかい?」
ベスパの視線を追うようにして、二人はパピリオを見た。全身で横島に甘えるその姿は、そのまま横島への好意と信頼を示している。
シロタマの顔から緊張が消えた。
「……そうね」
「わかったでござるよ」
二人は納得したように頷いてみせた。
が、次の瞬間その顔に憮然とした表情を浮かべる。
「まあそれはともかくとして。パピリオ殿、ちょっとくっつき過ぎではござらんか。いくら妹とはいえ……」
「考えてみるとあくまで義妹であって、妹じゃないのよね」
「血の繋がりなど無いでござるな……」
「………」
シロとタマモは視線を交わすと、二人は足を速めた。無論、横島とパピリオの邪魔をする為だ。
その襟首に後ろから手がかかる。
「何するでござるか」
「放してくれない?」
二人はそろって振り向くと、自分たちを捕まえているベスパを睨む。
「妹の邪魔をされるとわかってて放すわけないだろ? 久しぶりなんだから思う存分あまえさせてやってくれないか」
実に一年ぶりの再会なのだ。パピリオが横島になついていることはベスパもよく知っている。
シロとタマモはなおも憮然とした表情を浮かべていたが、結局久しぶりという言葉に渋々ながら頷いた。不機嫌そうに横島達から距離を置く。
その様子を見ながらベスパは苦笑した。横島が妙に人を惹きつけるのは相変わらずらしい。
二人に視線を戻すと、横島とパピリオはやはりじゃれながら歩いていた。甘えるパピリオはとても楽しそうに笑っている。邪魔されて欲しくない光景。邪魔したくはない光景。
しかし。
「そうもいかないね……」
小さく小さく呟いて、表情を曇らせる。
もしかしたらパピリオは、一日横島にくっついている可能性がある。もしそうなったなら、ベスパ自身が二人の邪魔をする必要があった。どうしても横島と二人で、やらなければならないことがあったからだ。そしてそれは、パピリオが知ったら自分を軽蔑するようなこと……。
「それでも、やるって決めたんだ。それが、私の……」
連れだって戻ってきたシロとタマモに、令子は小声で言った。
「挨拶は済んだの?」
「一応ね」
「取りあえずは心配いらないようでござる」
横島達に歩み寄ろうとした時の表情とはうってかわった顔で、二人は答えた。
「例の件について、話してあるのか?」
「仲間……いえ、家族のようなものですから」
ワルキューレにおキヌが頷く。
小竜姫は目を細めると、先を歩くパピリオを見た。慈愛に溢れた、と表現できる程の優しい目だ。
「よかったですね、パピリオ」
大好きな兄と、大好きな姉なのだ。二人がいがみ合うなど見たくはないだろう。ベスパさえ横島をどうこうしようと考えなければ、二人が争うことはない。
恋人を殺されたという事実こそあれ、横島からベスパに突っかかる可能性は皆無だ。そう小竜姫は確信していた。
パピリオを悲しませるようなことを、横島が自分からするはずはないのだから。
「なあワルキューレ。人間ってのはこういうのに乗って面白いのか?」
「知らんが……少なくとも自力で高速飛行できる我々には、なんて事のない代物だと言うことはわかる」
「それはパピリオも同じはずですが……」
ベスパとワルキューレ、小竜姫は揃って頭上を見上げていた。そこにはくねくねと伸びるレールと、その上を高速で走り抜けるコースターがある。
遊園地ではおなじみのジェットコースターだ。先ほど乗りたいとパピリオが言っていたのはこれだった。
「まあ何が楽しいかはわからないけど、パピリオが乗るなら私も乗るさ」
「そうですね」
「何事も経験だな」
頷き合うベスパ達が眺めるジェットコースターは、尋常な大きさではなかった。通常のものと比べると五倍はレールが長く、使用している空間もやはり通常の五倍ほどはある。当然とばかりに、縦横無尽に走るコースターのスピードも尋常ではない。
もちろんそんなことを彼女達が知るよしもない。
そして当然、
「世界最速だそうでござるよ!」
「人間って、本当にこういうくだらないものを作らせたら天才的ね!」
後ろに並ぶ獣娘達の楽しげな声も聞いていなかった。
「私はめんどいからパス。しんどそうだし。コーヒーでも飲んでるわ」
「私も……こういうの苦手なので」
ジェットコースターの列に並ぶ前に令子とおキヌは離脱した。手を振りながら、二人は近くのカフェテラスに向かって歩いていく。ジェットコースターの出口に近く、待機するにも見物するにも最適な場所だ。
二人の後ろ姿を横目で見ていたベスパは、ふとパピリオが自分を見ている事に気がついた。
振り向いたベスパに、パピリオはにっこりと笑ってみせる。
「ベスパちゃんも、こういうのって初めてですよね?」
「あ、ああ」
口調に多少の違和感を覚えるが、基本はやはり昔のままだ。自然とベスパの顔に微笑みが浮かぶ。
「楽しみですね!」
「そうだね」
実際にこのジェットコースターがどんなものであろうと、この言葉で十分楽しめる。そうベスパは思った。
やがて列はベスパ達の順番になった。面白そうにきょろきょろと見回しながら、シートに腰を下ろす。隣はワルキューレだ。後ろにはシロとタマモとが座り、そのさらに後ろには小竜姫が一人で座っている。
そしてジェットコースターが動き始めた。
「へえ。じゃあデジャブーホテルに部屋を取ってあるんですか?」
「ええ。どうせ一日じゃ回りきれないでしょうしね。明日も回るんなら、その方が効率的ってものよ。思い出にもなるだろうし。ま、小竜姫様には小判貰ってるしね。それにお金ってのは使う為にあるわけだし。……ワルキューレ達の分を急遽取らなきゃいけなくなって焦ったけど」
アイスコーヒーをストローですすると、令子はタオルで首のあたりを仰いだ。今日は暑い。
「だから着替えをもってくるようにって言ってたんですねぇ。言ってくれればいいのに」
「こういうのはぎりぎりで言って驚かせた方が面白いでしょ」
「んー、そういうもんですかー」
おキヌは小首をかしげて見せると、両手で挟むようにしてアイスカフェオレに口を付ける。
パラソルの下にいるとは言え、その額にはじっとりとした汗をかいていた。
「でも、パピリオちゃん達喜びますよ、きっと」
「だといいわね」
微笑むおキヌに令子は微笑み返し……その表情が少し曇った。
「パピリオ“ちゃん”……か。外見だけ見ればそんな風には考えられないわね。ルシオラと同い年なわけだし……」
横島にべったりくっついているパピリオを思うと、令子の内心は穏やかではなかった。そしてそれはおキヌも同じだったようで、二人はそろって陰気な表情を浮かべる。
この一年の間、横島と恋仲になることもなく、その距離を縮めることも二人は出来ていなかった。
いや、出来なかったのではなく、しようとしなかっただけなのかもしれない。そもそもの話、本当に横島と恋人になりたいのかも二人はわかっていない。
横島は大好きだ。表面には出さないが、今では令子も認めている。しかし横島を愛しているかと問われれば……答えはまだよくわからないのだ。
「子供なんですかねぇ、私たち」
おキヌの言葉に、令子は溜息をついた。強がりも今となっては出てこない。
「まだ、時間が欲しいわね。願わくば……」
「パピリオちゃん次第ですか。どうなんでしょう、あの子の精神年齢……」
おキヌが呟いた時、悲鳴が聞こえた。
それは楽しそうな悲鳴だった。そして幼子が発するような、無邪気な悲鳴でもあった。
振り向くと、件のコースターがちょうど爆走しているところだった。いくつもの悲鳴が混じる中、それでも聞き覚えのある声はわかるものだ。
二人は顔を見合わせる。
「あの声の通り、幼いと良いわね……」
「そうですね……」
頷くと、おキヌは再びジェットコースターに視線を戻した。
遠心力で人が死ぬんじゃないかと思うぐらいのスピードを出すコースターからは、パピリオ以外の悲鳴も聞こえている。その中には、本気で怖がっているような悲鳴も混じっていた。
その本気の悲鳴の声も聞き覚えのあるものだった。それも少し意外な声だ。
おキヌは、ぽつりと言った。
「美神さん。小竜姫様やワルキューレさん達って……」
「聞かなかったことにしましょう」
溜息混じりの令子の言葉に、おキヌは素直に頷くことにした。
日は落ちていた。時刻は夜の七時。
今日一日を遊び倒した一行が、令子に連れられてホテルへと向かっていた。
「楽しかったです! また明日が楽しみですよ!」
「あの美神さんをもちーふにしたあとらくしょん、なかなか面白いものでしたね」
「ああ、あれか。大分笑えたな。……特に横島の扱いとか」
「私はやっぱりジェットコースターだね。侮ってたよ。自分じゃどうにも出来ない状況で振り回されるのは、なかなかスリルだね。気に入った」
わいわいと楽しそうに会話を交わす神魔族達。
その前を歩くのはシロとタマモだ。
「なんていうか……結構親しみやすいわね、こいつら」
「いいことでござるよ」
頷き合うその声は小さなものだが、令子の耳にはしっかりと聞こえていた。
「不思議な集団になってますよね、私たち」
「お願いだから言わないで」
おキヌの言葉に令子はため息をつく。今日だけで何回目か、数えるのもアホらしい。
ホテルに到着すると、令子は一人でフロントに向かった。予約をしている旨を伝えてルームキーを受け取ると、おキヌ達の元へ戻る。
「さて、あんたたち。これから鍵配るからね。部屋は四人部屋が一つに、二人部屋を三つ。二つでいいかなーとも思ったけど、断腸の思いで三つ」
「断腸って、あんたな……」
美神の物言いに横島が苦笑する。
四人部屋は令子達。二人部屋には小竜姫達とワルキューレ達で二つ。ならば二人部屋三つ目はどう考えても横島のものだ。
とはいえ二人部屋を横島一人で使おうというのだから、令子の気持ちもわからんではない。もっともこのホテルには一人部屋が存在しないので、仕方がないのだが。
行楽地のホテルとは、大体そんなもんだ。
令子はキーを配ると、再び口を開いた。
「食事は七時半に大ホールでよ。ショーを見ながらってのが売りらしいわね。わざわざ早めに切り上げてきたんだから、遅れないように。じゃ、取りあえず解散」
令子に促され、一同がぞろぞろとそれぞれの部屋へ向かい歩き出す。その最後尾を惰性で着いて行こうとしたベスパは、後ろからの声に立ち止まった。
「ベスパ、何をしている?」
「え?」
振り返ると、ワルキューレがベスパを見ていた。
「私たちはそっちじゃない。こっちから別棟に行くらしい」
「そうなのか? なんだか、他と随分離れているじゃないか」
「急だったからだろう」
確かにベスパ達の来訪は急だった。固まって部屋が取れなかったとしても無理はない。しかしそういうことならば、普通男である横島が遠い部屋になる方が自然ではないだろうか。
ベスパの疑問にワルキューレは即答した。
「少しは警戒されていると言うことだ」
「……ああ、そうか」
念のため、自分と横島の部屋を離したのだとベスパは理解した。
横島と自分の部屋を離し、かつ横島を近くに置く部屋の配置。それが今回の部屋割りなのだ。
「そら、行くぞ」
「あ、ああ」
慌てて頷いて、ベスパは先を進むワルキューレに付いていく。
そっと肩越しに振り返ると、横島の後ろ姿が目に映った。
「二人部屋に一人か……」
小さな声で呟く。
「横島の部屋が孤立しているのが最良だったんだけど……まあそううまくはいかない、か」
大ホールでベスパ達は食事を堪能した。テーブルに並んだ食事は豪華でおいしかった。
ホールで行われたショーも楽しいものだった。デジャブーランドのマスコットが出てくるショーで、パピリオやシロ、タマモは大いに楽しんだ。
やがて満足な食事を終えると、その場で解散してそれぞれ部屋に戻る。
部屋の前まで帰ってきた時、ベスパはワルキューレに言った。
「ちょっと用を思い出した。悪いけど少しはずすよ」
「パピリオの所か?」
「いや」
「そうか。早く風呂に入っておかないと花火を見逃すぞ。パピリオと一緒に見るのだろう?」
ワルキューレに手を振りながら、ベスパはその場を後にする。
向かうのは横島の部屋だ。ルームナンバーは覚えていた。棟を結ぶ廊下を歩きエレベーターに乗る。
エレベーターが目的の階に止まると、ベスパはそっと廊下を窺った。この階には横島だけでなく、令子や小竜姫達の部屋もある。見つかりたくはない。
誰もいないことを確認してから、ベスパはエレベーターを降りた。ルームナンバーを見ながら廊下を歩き、そして横島の部屋を見つけると部屋の前で立ち止まる。そして大きく深呼吸をしてから、ノックをする為にベスパは腕を上げる。
その手はしかし、扉に触れる前に止まった。部屋の中から気配が感じられないことに、ベスパは気づいたからだ。
ここに横島はいない。
仕方なくベスパは目を閉じると、気配を探るべく感覚を広げた。あまり広げすぎると小竜姫辺りに気取られるかもしれない為、少し探して見つからなかったら、次のチャンスを待つつもりだった。
しかし目的の気配はすぐに見つかった。上方、この階の一つ上の階に彼女の探す気配はあった。簡単に見つかったことにほっとしたベスパだったが、すぐに戸惑いの表情をその顔に浮かべた。
「……一人じゃない?」
ぽつりと呟く。
横島の気配の隣にはとてもよく知る気配があった。それはベスパにとって最も大切であり、そして唯一の家族の気配だった。
少し考え込んだ後、ベスパは階段に移動する。気配を殺して階段を上ってみると、少し先にはラウンジがあった。壁に身を隠すように窺ったベスパは、備え付けのソファに予想通りの二人が腰掛けているのを確認した。
その光景を見たベスパは、即座に横島と二人きりになる事を諦めた。二人の邪魔をするにはまだ早い。今日を除いてもチャンスはまだ二日ある。その二日の間に、目的を達することが出来ればそれで良いのだ。
気配を殺したまま踵を返そうとしたベスパは、ふと唐突な違和感を覚えた。何かを勘違いしている。何かを見落としている。……そんな思いがベスパに走ったのだ。
ベスパは踵を返すと、壁際から再び二人を覗き見る。
そして彼女は、自分が感じた違和感が何か気づいた。二人の間に流れる空気がどこかおかしいのだ。ベスパが思っていたものよりもそれはずっと甘ったるくて、そして熟れた匂いがあった。
二人は肩を寄り添い合うように座っていた。それはデジャブーランドでパピリオが見せていたものとは違う距離感……違う雰囲気。
ベスパは見つからないように気をつけながら耳を澄ませた。
二人の会話が聞こえてくる。
「やっぱり、パピリオなんだなぁ。こうして見ていても夢みたいだ」
「夢じゃありませんよ。私はここにいるです」
「今朝、姿が見えない時には相当焦ったよ。事務所で再会した時には憤死しそうだったけどさ……」
「みんな、驚いてましたもんね」
パピリオが楽しそうに笑う。
「ベスパちゃんも凄く驚いてましたし」
「まあなぁ。……でも、昨日お前が名乗らなかった理由はわからないぞ。脅かすつもりで黙ってたのか? 言ってくれればよかったのに」
「驚かすって気持ちがなかったとは言わないです。でもそれより大きな理由があったんですよ。……先に名乗ったら、ああはならなかったでしょう?」
「え? ……あー、それは」
横島が困ったように頭を掻いた。パピリオと視線が交錯して、やがて横島は目をそらす。
「……そうかも、しれないなぁ」
「無理無いです。どうしても以前の私を重ねてしまうですから。でも、私はそれが嫌だったんですよ。私をちゃんと見て欲しかった。色眼鏡無しに、女としてみて欲しかった。……騙す形になってしまったのは、悪いと思ってます。でも後悔はしてません」
横島は首筋まで赤くなった。
「俺の、どこがいいんだ? そこんところが、よくわからないんだが……」
「強いて言うなら全部。人を好きになるのって、そんなもんだと思うです」
ますます照れて赤くなった横島を、パピリオは微笑みながら見ていた。
やがて口を開く。
「……実は、もう一つ理由がありました」
「え?」
「名乗らなかった理由です。昨日、私はどんなことになろうとも、横島に抱かれるつもりでした。もし名乗って断られたら悲惨でしたから、だから名乗らなかったんです」
「……なんだよ、それ」
パピリオは驚く横島の目をまっすぐに見つめた。
そして言う。
「ルシオラちゃんの為です。今が最もルシオラちゃんを転生させるのに適した時期であり、同じ霊気構造を持つわたしは、最もルシオラちゃんを転生させるのに適した母胎でした。だから私は何があっても……昨日、横島に抱かれるつもりでした」
横島の顔がこわばった。何か言おうと開いた口を、パピリオがそっと押さえる。
そして安心させるように微笑んだ。
「どんな形であれ、横島に抱かれるつもりだった私にとって、昨夜は夢のような時間でした。あの時の言葉を覚えてますか? 私を全部あげるって言いました。そして横島の全部をくださいって、いいました。……そして横島は、そんな私に応えてくれた。とても、嬉しかったです」
パピリオは横島の胸に頬を寄せると、甘えるように横島を見上げる。
「パピリオ……」
「女と見てくれてありがとう。私を好きになってくれてありがとう。私を求めてくれて、ありがとう。大好きです、横島……」
二人の顔がそっと近寄り、唇が優しく重なった。やがて唇を離した横島は、パピリオの小さな身体を抱きしめる。
そのまま愛しそうにパピリオを抱きしめていた横島は、ふと気づいたように声を上げた。
「え、あれ? ということは今、パピリオは……」
横島の言いたいことを瞬時に理解したパピリオは、にっこりと笑った。
「妊娠してますよ。間違いありません」
ベスパはホテルの屋上にいた。ラウンジから逃げるように来てから、しばしの時が経っている。魔族であるベスパは素通りしたが、屋上へ続く扉は施錠されている。誰かがひょっこりとやってくることはない。
一人になりたかった。誰にも邪魔をされない場所で、一人になりたかった。だからベスパはここへ来たのだ。
今彼女の頭の中には、横島と妹の会話が何度も何度も繰り返されている。それを否定するように頭を幾度か振りながら、ベスパは仰向けに横たわった。
空が見えた。雲一つ無い夜空には、満天の星々が美しく広がっている。その美しい星に魅入っていると、頭の中の声が薄らいでいく。ベスパは瞬きもせずに星を見続けた。
「ベスパちゃん……」
どれぐらいそうしていただろうか。ぼうっと星を見ていたベスパに、突然声が掛けられた。
跳ねるように起きあがり、ベスパは驚きながら振り向いた。
パピリオがいた。いつの間にかすぐそばに立っていた。
「パピリオ。あんた」
申し訳なさそうに微笑みながら、パピリオはベスパの隣に座った。そして先ほどのベスパと同じように空を見上げる。
「綺麗ですね」
「………」
確かに綺麗だ……そうベスパは思った。星ではない。空を見上げるパピリオが綺麗だった。美しいとさえいっていい。一年前には存在しなかった、十分に成熟した女の美しさだった。
「聞いてましたよね?」
空を見上げたまま、呟くようにパピリオが言った。
「ベスパちゃんにしては、迂闊なほど気配がだだ漏れでした。動揺しすぎでしたね」
「……そうだったかい」
溜息を一つ吐いて、ベスパも再び夜空を見上げる。
しばしの沈黙が二人を包んだ。
やがて意を決したベスパはぽつりと訊ねた。
「さっきの話、本当なのかい」
「ええ」
ごくあっさりと頷かれ、思わずベスパは深く深く息を吐く。
「そうかい……。後悔は、してないのかい?」
「後悔どころか、あの行動をして良かったと思ってますよ。あの行動を取ったからこそ、横島の心と触れ合い、そして寄り添うことが出来ました」
押し黙ったベスパに、パピリオは付け加えるようにして言う。
「それに結果論ですが……ベスパちゃんより先に行動できたことも僥倖というやつです」
息を飲んだベスパに、パピリオはにこりと微笑んだ。
「ベスパちゃんが何を考えているか、今日再会した瞬間にわかりましたよ。成長したからかもしれませんね……」
「パピリオ……」
「ベスパちゃんの思いは間違っていないと思うです。でもその考えはやっぱり間違っているです。……わたしは、そう思うです」
唇を噛みしめるベスパに、パピリオは言う。
「横島と、お話しすると良いですよ。ベスパちゃんはきっと、それを一番やりたくないんでしょう? でもだからこそ、それを一番やるべきなんです。思っていること、感じていることを言えばいいです。……今夜は、横島を譲りますよ。花火は諦めました」
「パピリオ……」
それでいいのかい? ベスパはそう言おうとして、言えなかった。
横島と二人で会ってくる。自分の思いをぶつけて、そして横島に求めるのだ。その求めに横島が応じれば……今度は二度とパピリオに顔向けできないようなことになりかねない。
しかしそれはパピリオにもわかっているのだ。そしてそれがベスパには必要だということもわかっているのだ。
だからあえて、パピリオは譲るという言葉すら口にした。
「……ごめんよ」
「ベスパちゃんの苦しさはわかるです。だから……」
ベスパに視線を向けることなく、パピリオは星を見ながら続けた。
「気が変わらないうちに行ってください。今夜わたしは、ここにずっといるです」
「ごめんよ……」
二度謝罪の言葉を口にしてベスパは立ち上がった。
そしてパピリオを幾度か振り返りながら、屋上を後にする。
横島の元に向かう為に。
パピリオと別れたベスパはまっすぐ横島の部屋に向かった。
部屋の前に付くと、ちょうど中から横島が出て来たところだった。
「あ、ベスパか。どうしたんだ?」
「ちょっと話があってね」
「え? 今か?」
視線をそらし気味のベスパに、横島は驚いたような表情を浮かべると、困ったように頭を掻いた。
「これからパピリオを探そうと思ってたんだよ。もうすぐ花火が始まるからさ。ベスパも一緒に見るんだろ?」
そういう約束もあった。しかしベスパは無言で近づくと、横島を身体で押すようにして部屋の中へ戻す。
「お、おいおい」
「話があるって言ったろ。花火は諦めてくれ」
薄暗い部屋の中、背後で扉が閉まる音がした。
そのままベッド脇まで歩を進める。
「乱暴だな……」
扉が閉まった部屋はとても静かだった。しんとした静寂の中、ぽつりと呟いた横島の声が僅かに耳に残る。
ベスパは顔を上げると、ここに来て初めてまっすぐに横島を見た。そしてベスパは顔を歪める。
横島の目にはベスパを気遣う光が浮かんでいた。ベスパの様子がおかしいことを感じ取ったのだろう。横島はベスパを心配そうな目で見ていたのだ。
「あんたは本当に甘い男だね」
どうして、自分なんかにそんな目を向けられるのか。自分の恋人を殺した相手を、どうして気遣うのか。どこまで甘く、優しい男なのか。
思わず溢れそうになった感情を誤魔化すように、ベスパは横島の胸に額を寄せた。
「お、おい」
身体を硬くした横島にベスパは言う。
「パピリオを抱いたんだってね」
「ぶっ!」
思わず吹き出す横島。
「い、いや、その。違うんだ! 決して軽い気持ちなんかじゃ!」
慌てる横島にベスパは首を振った。
「遊びじゃないんならいいさ。ただそのことで、あたしがここへ来た最も大きな理由がなくなっちまってね」
「ここへきた理由って、パピリオに会う為だろ?」
「パピリオには会いたかった。でも一番の目的じゃない」
自分の胸の中でそう言うベスパを、横島は不思議そうに見た。
「じゃあ、なんだってんだ?」
「……あたしが人間界に来た一番の目的は、あんたに抱かれることだったんだよ。ルシオラを産む為にね」
「おま、そりゃ」
「時期が最良だった。ほぼ同じ霊気構造を持つあたしなら、転生が確実に成功することがわかっていたんだ。だからあたしは来たんだよ。でも、パピリオに先を越されちまった……」
ベスパの両腕が横島の背中に回った。力のままに抱きしめるその腕は、小刻みに震えていた。
ベスパは泣いていた。彼女の目から流れ出る熱い涙が、横島の胸元を濡らしている。
「……姉さんを転生させる。贖罪の為にそうするって、あたしは決めたんだ。死を望むアシュ様の為に、生を望む姉さんを殺してしまった。だからあたしは、せめて姉さんを――」
自分が奪ってしまったものを返すつもりだった。汚れ役でも良かった。そうでもしなければ、自分は許されない。決して許されない。
罪の意識がベスパの心を苛んでいた。姉と妹と同様に、彼女の心も純真で綺麗なのだ。それ故に、自分の行いに苦しんでいた。
しかし彼女が考えていた贖罪としての行動は、それを自ら望む妹によって既に成されてしまった。
「あたしの考えていた贖罪はできなくなった。なら!」
ベスパが顔を上げた。涙に濡れた目を横島に向ける。
「あたしをあんたの気の済むようにしてくれ。何でもするし、何をしてくれてもいい。慰み者でもいいんだ。それしかできないから、それでいいんだ」
「ベスパ……」
「横島! あたしに、あたしに罰を与えてくれ。あたしは……」
唇を震わせるベスパを、横島はじっと見た。その手がゆっくりとベスパの背に回る。
抱きしめられたベスパは一度だけ震えると、全てを受け熟れるように目を閉じた。閉じた目から涙が雫となって零れ出る。
その状態のまま、しばらくの時が経過した。経過しても、その状態のままだった。
「横島……?」
抱きしめられたまま何もされない。
ベスパがそっと目を開くと、横島の優しい瞳が目に映った。いつの間にか背に回った手は、幼子をあやすように優しく叩かれている。
「馬鹿だな、ベスパは。いや、真面目なだけかな?」
「横島……!」
「いいんだよ。あの事件はみんなが犠牲者だった。俺はそう思うことにしたんだよ」
ベスパの瞳からさらに涙が溢れた。
「贖罪なんて考えなくて良いんだよ。ベスパは俺にとって大切な妹……あ、これからは姉になるのかなあ」
肩を震わせて、ベスパは再び横島の胸に顔を埋めた。
横島忠夫という人間は、煩悩魔人で女好き、美人と見れば見境無しと噂をされている。しかしそれだけの人間ならば、ルシオラもパピリオも惹かれはしなかっただろう。
横島の腕の中、ベスパの身体が弛緩していく。心も身体も完全に無防備な状態になっていく。温かな体温と優しく語りかける横島の声が心地よく、その手と声からは嫌らしさなど感じず、ただただ安らぎを感じる。
横島の腕の中、まるで自分が幼子になったかのような錯覚すら覚えながら、ベスパは横島に抱きしめられ続けた。
気が付くと朝だった。カーテンから差し込む陽の光が部屋を照らしている。ベッドに仰向けに横になるベスパの目には、見慣れない天井が映っている。
どうやら、いつの間にか眠ってしまったらしい。
ベッドに横たわるベスパは視線を胸元に移した。先ほどからそこに妙な感触がある。
「……まあ、予想は付いてたけどさ」
ベスパの視線の先には、胸に埋もれるようにして横島が眠っていた。
なんとなく抱きしめてみると、反射的に横島が抱きしめ返してくる。思わず苦笑した。
「本当に眠っているのかい?」
耳元で囁くと、少しくすぐったそうに身をよじり、そして寝息だけが返ってきた。どうやら本当に眠っているらしい。
しばらく眠る横島を見ていたベスパは、やがて横島の耳に口を寄せた。
「ありがとう、兄さん……」
礼を言うベスパの目に、涙はなかった。
そのしばらく後、横島の部屋から一緒に出てきたところを令子達に目撃され、横島がぼこぼこにされた。
「どうも姿を見ないと思ってたら……伏兵だったわ」
「別に何もなかったよ?」
横島を足蹴にしながら小さく呟いた令子に、ベスパが肩をすくませてみせる。しかしその視線はパピリオに向いていた。どちらかというとパピリオに聞かせる言葉だったからだ。
ほっと安堵の息をつくパピリオに笑いかけてから、令子に視線を戻して言う。
「あたしら兄妹みたいなもんじゃないか。おっと、姉弟かな?」
「?」
その言葉の微妙なニュアンスの意味に令子は気づかない。ただ一人その真の意味を悟ったパピリオが僅かに頬を染めて微笑む。
ベスパはくすくすと笑った。楽しそうに、柔らかく笑った。
その顔に今まであった暗い影はなく、残り二日を大切な存在と過ごせる喜びが滲んでいた。
あとがき
大変お久しぶりでございます。テイルです。
私生活が忙しい上に書いても書いても納得いかんってな感じで、随分ご無沙汰になってしまいました。蛇姉さんも心の続きもどうにも書けないし。困ったもんです。
しかしまあ、これ以上空けたら私自身を忘れられかねんってな感じなので、取りあえず昔書いた代物を引っ張り出してみた次第です。
一応姉様も心も手を出してはいるので、見捨てないでくださると有り難いなあと思ったりして。ははは。
……えーと。では、また。