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▽レス始

「心の……(GS)」

テイル (2007-01-23 12:58)

 自分は守銭奴ではない、と令子は思う。使うべきときには使うし、お金をためることに熱意を持っているわけでもない。面と向かってそう言われれば腹も立つし、否定だってする。
 しかしだからといって、お金に頓着ないといわれればそれも違う。自分はお金が大好きだ。それは間違いない。
 お金は自分にとって評価なのだ。多額の報酬はそのまま自分への評価と言えるし、他人への報酬はそのまま他人への評価だ。よく脱税するな云々と言われるが、あれだって別にお金が惜しいわけじゃない。自分への評価を掠め取られるようで気に入らないだけだ。
 お金が世界にはっきりと存在する評価の基準だからこそ、令子はお金を好み、頓着しているに過ぎない。
 だがその為に、横島の給料は今をもって少ないともいえる。お金は評価なのだから、高い給料を渡すことは高く評価していると公言しているようなもの。それは令子にとって、とても恥ずかしいことだった。
 しかしいつまでもそのままで良いとは、さすがの令子も思っていない。先日母親につつかれた経緯もある。
 だからその日、珍しく顔を引き締めた横島が次の言葉を言ったとき、令子は迷うことなく即答した。
「給料上げてください。時給二千円で」
「却下」
 横島の要求をあっさりと切り捨てつつ、令子は自分の頬が熱くなっていくのを感じていた。
「そうっすか……」
 横島の意気消沈した声が聞こえた。それが次にどう変化するのか思うと、令子はますます頬が紅潮するのを感じる。
「横島くん」
 令子が口を開いたのは、横島が何か言おうと口を開きかけたときだった。
「時給二千円じゃ年収に直して三百万から四百万よ。冗談じゃないわね。……最低でも時給二万円。これ以上は下げられないわ」
 時給二万円。年収に直せば単純計算で三千万から四千万になる。
「……へ?」
 その言葉に口を開きかけていた横島は、そのままぽかんとした表情を浮かべた。
 呆ける横島に令子は、してやったりと思わず会心の笑みを浮かべた。
「あのね、あんた自分でわかってないのかもしれないけど、霊能力者としてはかなりのもんなのよ。高校卒業して仕送りもとまるとなればもう立派な社会人。生活も自己責任なんだから、それ相応の待遇はするわよ」
 母親につつかれたときに言われた言葉そのままを引用し、理由とする。
「いや、でも……」
「と言っても勘違いしないように。霊能力者としてはともかく、GSとしてはまだまだなんだから。もう少し知識や技術を深めるまでしばらくは見習いのままよ……」
 そしてまだ見習いなんだから、この事務所から出て行くのは認めないと釘もさす。
 完璧だと令子は思った。見習いとはいえ待遇は破格だし、文句などあるはずはないだろう。
「………」
 しかし何故か横島の顔に浮かんだのは、戸惑いの表情だった。
「横島くん……?」
 令子の美麗な眉が、不安そうに歪んだ。予想外の僥倖に大喜びするだろうぐらいに考えていた令子にとって、横島がこんな反応をするのは予想外だった。
「……不満なの?」
「あ、い、いえ。嬉しいっす。びっくりしちゃって。ありがとうございます」
 令子の言葉に横島は慌てたように頭を下げた。
 そして先ほどまでの雰囲気が嘘だったかのように明るい笑みを浮かべ、
「いやぁ、俺をそこまで評価してくれるなんて、もう愛の告白としか!! 時給二万円なんて要りません。代わりにあなたを、もっと詳しく言うとあなたの身体を下さブッ!」
 令子の電光石火の正拳突きが横島の顔に刺さった。
 悶絶する横島にじとりとした視線を向けながら、令子は事務的に言った。
「給料は今日から反映。きりきり働け」
「……了解っす」
 鼻を押さえて横島は頷くと、そのまま踵を返した。
「道具、準備してきます……」
「そうしなさい」
 いててと呟きながら歩く横島の後姿を見送り、令子は溜息をつく。そして書類整理の続きをしようと手を伸ばして、ふと先ほどの横島の顔を思い浮かべた。
「さっきの、横島くん」
 給料を告げたときの横島の戸惑いの顔。
 それが何故か、とても気になった。
「何でだろう……」
 呟くも、答えは出なかった。


 高層ビルの最上階に位置するそのバーは、酒を楽しみながら綺麗な夜景を眺めることが出来ると人気がある。夜景の美しさに霞まないほどに美味しい飲食も、当然人気の理由の一つだ。
 しかしこれもやはり当然と言うか、このバーの単価は席料含めて中々に高価となっている。自然、ここへ訪れる客層は裕福な人たちが多い。
「令子……」
 グラスを傾けながら夜景を眺めていた緋色の髪をした女性が、背後からかけられた声に振り向いた。
「ママ……」
 半ば呆れたような表情を浮かべながら、声の主、美智恵はバッグ片手に娘の隣に座る。
「いきなり呼び出してどんな店かと思ったら……。ママ、こんな高価な所に来たことなんてほとんどないわよ」
「わたし、稼いでるもん。自分のお金なんだからいいでしょ。ほら座って。今日はおごるからさ。……ワインでいい?」
 促されるまま頷いた美知恵の前で、バーテンがワインをグラスに注いでいく。
「はい。乾杯」
 ワインの注がれたグラスに、令子が軽く自分のグラスを合わせた。軽く溜息をつきながら、美智恵はグラスを手にとって口をつける。
 ……絶句した。そのワインの芳醇な香りと味は、美智恵がこれまで経験したことのないものだったからだ。
「令子、これ……」
「美味しいでしょ。この人、以前は結構名の売れたソムリエだったの。こだわりって言うのかな、良いワイン置いてるのよ。もちろん、他のお酒も美味しいから、色々試してもいいんじゃないかしら」
 確かにワインは美味しいし、バーテンの前身もなるほどと頷ける。しかし美智恵が聞きたかったのはそんなことではない。気になっていたのは値段だ。
「そういうことじゃなくて、これ……」
 言いかけた美智恵の前に、令子が頼んだのだろう、料理が運ばれてきた。
 料理を置いたバーテンは言った。
「フォアグラのキャビア添えでございます」
 どんな料理だ、それは。こんなもの食べたことがない。
 美智恵が頬を引きつらせて隣を窺うと、令子は何の感慨もなくその料理を口にしていた。
 ……もはや、何も言うまい。
 全てを諦めて、美智恵も料理を口にした。十年以上も密林の奥深くで隠遁生活をしていた身には、大分刺激が強すぎる味が舌を突き抜ける。
「ねえ、ママ」
「……え?」
 料理を口にして唸っていた美智恵は、令子に声をかけられて我に返った。
「なに、令子」
「横島くんのことなんだけどさ。今日、給料上げたのよね」
「……思ったより早かったわね」
「向こうから言ってきてさ。まあママとの約束もあったし、機会としてはよかったから」
 美智恵は頷いた。
 あれだけの人材をコンビニ以下の時給で雇っていたのだ。多分に問題はあった。いい加減に待遇改善しろと説得し、令子がしぶしぶといったふうに頷いたのは一昨日の話。
「ん。これで真人間へ一歩近づいたわね」
「どういう意味よ……」
 憮然とした令子に美智恵は言う。
「脱税は……してないでしょうね」
「してない」
 はきはきと即答しつつ、すすっと母親から顔をそらす娘。美智恵は令子を軽く睨んだ。
「あのねぇ、令子……」
「ちょっと待ってよ。そんな話をしようとしたんじゃないんだから!」
 令子の言葉に美智恵は目を瞬かせた。
「……何かあったの?」
「うん……」
 唇を尖らせながら、令子は話し出す。それは昼間時給を上げたときの、横島の反応についてだった。
「馬鹿なことを言うからとっさに殴っちゃったけど、今考えると誤魔化されたっていうか……」
 ふうむ、と美智恵は腕を組んだ。
「戸惑っていた、か。つまり、実際に給料が上がるなんて思っていなかったということになるわよねぇ」
 駄目で元々、と言うわけでもなかっただろう。もしもそうならば、万が一の可能性が現実となったことにおそらく喜んでいただろうから。
 となると、横島は給料が上がることなどまったく予想していなかったことになる。だから戸惑ったのだ。
「断られることを前提としていたのなら、横島くんが戸惑ったことは説明がつく。となると問題は、何故あえてそんなことを言い出したのか……」
 美智恵はじっと愛娘の目を覗き込んだ。
「普通に考えるなら、それを口実に事務所を辞めるっていうのが自然よね」
「っ!」
 令子は顔を青ざめさせ、その身体を硬直させる。美智恵が示唆した可能性は、令子も考えていたのだろう。
「あんな賃金、横島くんでなくても出て行くわよ。一昨日、ちゃんと説得しといてよかったわ。ねえ、令子? あの子に出て行かれちゃったら大変だもんね?」
「べ、別にそんなことはないけど! ……で、でもまあ、いてくれた方が助かるってのは、その、認めるわよ……」
 口の中でもごもごと呟く令子に苦笑して、美智恵はグラスに口をつけた。
(でも……)
 ワインを口に含み、その味を楽しみながら美智恵は考える。
(一番の問題は、どうして令子のところを辞めようと思ったのか、なのよね)
 賃金を理由に辞めようとした……その考えはおそらく間違ってはいない。だがだからといって、それがそのまま本当の理由とは限らない。横島という人間を考えると、どうもしっくりこないのだ。
 もしかしたら、むしろこれからの方が大変なのかもしれない。横島の辞意……その真の理由如何によっては、遠からず彼は辞めることになるだろうから。
 美智恵は隣に座る令子にちらりと視線を送った。娘はうつむいたまま、まだもごもごと呟いている。
 少しだけ目を細めた美智恵は、すぐに表情を戻してグラスを傾けた。
(言わない方がいいか……)
 まずは自分の方で少し探ってみよう。西条にお願いすれば、本人はきっと嫌がるだろうけど、それなりに調べてくれるだろうから。
「ほんと美味しいわね、これ……」
 呟きながら、美智恵はグラスを傾け続ける。
 その思考を深く己の中に沈めながら。


 オカルトGメンは対霊障を担当する公的機関だ。正式には国際刑事機構超常犯罪課をいう。発足されてからまだ時が経っておらず、優秀な人材は多いとはいえない。しかしそれでも民間のGSに依頼できない人間にとって、オカルトGメンは唯一霊障を解決してくれる頼もしき組織なのだ。
 オカルトGメンの日本支部は美神所霊事務所の隣に位置している。何故そんなこところにあるのかは気にしてはいけない。誰かが裏で手をまわした……という噂もあるが、当然深く考えてもいけない。
 世の中色々あるものなのだ。
 ともあれ警察機構であるオカルトGメン日本支部ビルは、今日も今日とて昼も夜もなく、煌々と美神除霊事務所の隣で輝いていたりする。
「夜勤者がいるからね……」
「は? なにかおっしゃいましたか、西条主任」
 ぼそりと呟いた言葉に、近くにいた部下が律儀に反応した。
 西条は乾いた笑いを浮かべながら首を横に振る。
「なんでもないよ。少しぼやきたくなっただけさ」
「支部長から先ほど連絡があったようですが、その件ですか?」
「……そうだね。そうかもしれない」
 深い溜息を吐きながら、西条は先ほどかかってきた美智恵の電話を思い出す。その内容は一言で言えば、身辺調査。それも彼にとって仇敵とも言えるあの男についてだ。
(なんで僕が横島くんの身辺探らにゃならんのだ……)
 西条にとって横島とは、反りが合わない上に前世からの因縁も有り、抹殺対象リストの常に上位に位置している男なのだ。実際にことに及ぼうと考えたことはないが、月のない夜にふと見かけでもしたら、思わずジャスティスの柄に手も伸びようというものである。
 そんな自分に横島の身辺を探れとは、美智恵は何を考えているのか。
 西条は考えてみたが、理由はわからなかった。しかしわざわざ自分に言うからには、それ相応の理由があることは間違いないはずだ。
 稀代のGS美神美智恵。その一番弟子が自分、西条輝彦なのだから。
「ただ、もう少し暇なときが良かったんですけどね、先生……」
「え? 何かおっしゃいましたか?」
 ぼそりと呟いた言葉に、やっぱり部下が律儀に振り向く。
「なんでもないよ。少しぼやきたくなっただけさ」
「……お疲れですか? 仮眠を取ってきたらいかがです?」
 部下の言葉に西条は首を振る。
「そんな暇はなくなったよ。やることが増えたし」
「しかしもう四十時間以上勤務しっぱなしですよね……。家にも帰っていないのでしょう?」
「恋人に捨てられやしないか、それが今一番の心配事だよ」
 心配そうに眉根を寄せる部下に、西条は溜息を吐いてみせる。
 かつての後輩である魔鈴と交際を始めて早数ヶ月が経つが、多忙の為にほとんど会う時間がない。魔鈴は女遊びをしているかつての自分を知っている為、西条としては勘違いされやしないかと戦々恐々だったりする。
 こういってはなんだが、西条はもてる。甘いマスクと豊かな金銭、そして長年身につけてきた教養が女をひきつけるのだ。
 しかしそれと比較して、長続きした関係ははっきりいってない。色々と理由はあるが、最たるものは西条が本気で付き合う気がなかった、という一言に尽きる。
 女の敵、と言うなかれ。女の方も西条の表面しかみないような人間ばかりだったから、ある意味お互い様といえるのだ。
 そんな西条にとって、魔鈴は初めて本気になった相手だ。自分の過去を知っているし、表面だけでなく情けないところも承知している。それを全て込みで、自分のことを好きだといってくれた相手だ。
「ああ、会いたいね……」
 思わず遠い目で呟いてしまったりもする。住居を異世界に取り、かつ趣味は最悪ともいえるが、それでも西条にとっては天使なのだ。
 恋すれば皆こんな感じになるのだろうか。自分にも初心な所があったんだなぁ、と西条は溜息をつく。……今日何回目だかもうわからない。
 とりあえず会えないなりに電話でもしようか……。
 そんなことを考えて電話に目を向けた西条は、ふと思いつくことがあって腕を組んだ。
「そういえば……」 
 最近魔鈴と電話したとき、よく店に横島が現れるのだと言っていた。最近雇ったウエイトレスが目当てらしい。自分を差し置いて魔鈴の店に行くなんて許せん、とそのときは思ったが、よく考えると少し妙ではないか。
 なんだかんだで魔鈴の店はレストランであり、薄給の横島が頻繁に訪れることのできる店ではないはずだ。しかし実際横島は、そのウエイトレス目当てに頻繁に店に訪れている。当然そこで食事をしていくし、正規の値段で支払いもするらしい。
 そのお金は、一体どこから来るのか……。
「……まずはそこから、調べてみようかな」
 魔鈴に電話する口実にもなるし……とは口にせず、西条は笑みを浮かべながら受話器を手に取った。


「それじゃ、お疲れ様。いつも遅くまでありがとう」
「いや、仕事だからね。給料もらってるし、文句はないさ。じゃ、また明日」
 軽く手を振りながら彼女は店を出て行った。その後姿を見送りながら、彼女を雇ったのは大正解だったと魔鈴は満足する。
 容姿端麗で働き者。その上少々尖った所はあるが、性格だって問題無し。名実ともにこの店の看板娘といっていいかもしれない。
 楽しそうに料理や掃除をして、姉御肌で客に応対し、それなりに人気がある。女らしさをかもし出す姉御という奴に世の男は惹かれ、女は憧れるらしい。
 そして、確かに人をひきつけるものがあると魔鈴も思う。
「負けていられませんね」
 オーナーたるもの、従業員に負けていては示しがつかない。自分もこれまで以上にがんばらなければならないだろう。客足が伸びている昨今、それは必要なことでもある。
 魔鈴は店で一人微笑むと、キッチンに踵を返した。試作中の料理を完成させねばならない。味見をしてもらった横島は旨い旨いと食べてくれたが、もう少し何かが足りないように感じていた。
「横島さん……か」
 手際よく料理を作りながら、最近頻繁に店に訪れる青年のことを考える。
 最近横島が店を訪れる理由は明らかだった。目当てはどう考えても従業員である彼女だ。注文はいつも彼女にするし、雑談だって交える。隙間時間などに呼び止めたりもする。さすがに忙しい時間はおとなしくしているが、その視線はずっと彼女を追っている。ここまであからさまだと返って清々しい。
 しかしもっと驚くことがある。……彼女の方も満更ではないように見える、ということだった。見方によっては、仲のよい恋人同士にも見えるぐらいに。
「もしかして、本当に付き合ってたりして……」
 これまで目にしていたことから、それが一番しっくり来るような気はする。
 しかしそうすると疑問点が一つ。
「いつから付き合ってるのかなぁ」
 彼女がここで働き始めたのは、今から二ヶ月ほど前だ。雇って欲しいと訪れた彼女を、即断即決で雇用することに決めた。ちょうど人手が欲しかったこともあったが、彼女が霊能を有していたことが大きかった。
 魔法が普通に使われている店なのだ。霊能のない人間を雇うことは危険が大きく、それを考えると雇用できる人間が中々いない。魔鈴が彼女を雇うことを即決したのは、そういう理由があったからだった。
 ともあれ二ヶ月前から彼女を雇っているわけだが、彼女が働き始めた初日から横島は姿を現している。そしてよく考えると、その時から二人の間には他人のそれではない雰囲気が漂っていたような気がするのだ。
 もしかしたら二人は最初から知り合いだったのかもしれない。彼女がここに訪れたのも、横島がこの店を紹介したのがきっかけという可能性だって考えられる。
 だとするなら、もっとずっと前から二人は付き合っていたのかもしれない。
「そういえばあの娘と初めてあったとき、初対面じゃないような印象を受けたのよね……。どこかで見かけたような感じだったっけ」
 もしも二人が昔から付き合っていたのなら、横島の周囲に彼女の行動範囲があることになる。そしてこの店は横島のアパートはそう遠くなく、彼女の行動範囲と魔鈴の行動範囲が重なっていた、と仮定することも出来るだろう。
 矛盾はまったくない、ような気がする。
「想像、というより妄想に近いか……」
 魔鈴は苦笑して首を振った。
 正直今の想像が正しくても間違っていても、魔鈴としてはどうでもいいのだ。それなのに何故こんなことを考えてしまうといえば、やはり恋人の存在があるだろう。
 魔鈴は料理を作る手を止めると、軽く溜息をついた。
「先輩の馬鹿……」
 最近西条に全く会えない。西条本人との付き合いは先輩後輩の時代から長いが、恋人同士になってからはまだ浅い。それなのに西条は仕事が忙しく会えないと言う。
 自分も店を切り盛りしているし、時にはGSの仕事だってしているから暇というわけではない。それでも、もう少し会えてもよさそうなもんじゃないか……。
 魔鈴が口を尖らせたとき、不意に店の電話が鳴り響いた。耳障りな電子音に物思いからはっと現実に引き戻される。
 鳴り響く電話に向かいながら、魔鈴はちらりと時計を確認した。
 時刻は午前零時を過ぎている非常識な時間だった。しかしそれゆえに、誰がかけてきたのかがすぐにわかる。
 魔鈴は飛びつくように受話器を取った。
「はい、魔鈴です……」
 頬をほころばせた魔鈴は、受話器から聞こえてきた声にさらに笑みを深くした。


「ようよう姉ちゃん。ちょっと待ちなよ」
 進路を塞ぐように立った数人の男たちに足を止め、彼女は深い溜息とともに考える。
 今日も閉店作業を終わらせてから帰路についたわけだが、そうなるとどうしても日をまたぐような時間になってしまう。電車を利用するような距離ではないとはいえ、歩きでは少々不安を覚える時間だ。しかも自分は妙齢の女なわけだし、容姿だってそれなりに整っている。よからぬ考えを持つ輩にとって、自分は垂涎の的だろう。
 目当ては彼女の身体が、それとも金銭か。
(どちらにしろ、馬鹿な奴ら……)
 氷もかくやという程の冷たい視線にさらされて、しかし当の男たちは全く気付いていない。弱者を踏みにじり、己の快楽を優先させてきた男たちにとって、彼女は獲物でしかなかった。
 その勘違いはすぐに正されることになる。
「お姉ちゃん。遊ぼうぜ? あ、一応誘ってるけどさ、拒否れないぜ?」
「それに正しくは遊ぶのは俺たちだけなんだよ。……あんたで遊ぶのさ」
 男たちは彼女を囲み楽しそうに言うと、一斉に掴み掛かってきた。
 手を持ち足を持ち、そして口を塞ぎ……。己の分担をわかっているのか、なかなか動きが揃っていた。手際にやりなれたものを感じる。
 そういえば痴漢に注意という看板があったか。
 彼女はそんなことを考えながら、男たちに掴まれたまま藪の中に連れ込まれた。その藪の中には一台のワゴンが隠されており、彼女は問答無用でその中に押し込まれる。
 ワゴンのドアが閉じる音が、静かな公園に響いた。
 それから一分後。彼女は何事もなかったかのようにワゴンから降りる。開いた扉の奥では、男たちが全員白目をむいていた。
 殺してはいない。毒を打っただけだ。効能は一気に昏倒して前後三十分間記憶が無くなり、かつ男性機能が不能になるというもの。
「女性の敵には相応しい毒だろ? ま、命があっただけ儲けものだね」
 彼女は呟き、あとは後ろも見ないで歩き去る。
 余計な時間をとらされた。早く帰らないと彼が心配するだろう。人間にどうこうされるような柔な存在ではないのに、はっきりいって彼よりもよっぽど強いのに、彼はいつでも彼女を心配する。
 それを嬉しく感じる自分に、彼女は唇をかんだ。
 よくない傾向だった。自分はあくまで影に過ぎない。彼に好意を寄せることなど許されないし、その必要もないはずなのだ。
「それなのに、あたしは……」
 彼の恋人はいついかなるときでも、ルシオラであるべきだ。それなのに彼女を殺した自分が、空いた席に座るなど言語道断。あくまで自分は影に過ぎない。ルシオラの、姉の影に過ぎない。そうやっていつでも自分を戒めている。
 彼が望むなら、いつでもこの身体を自由にさせるつもりが彼女にはある。慰み者にするもよし。ルシオラを転生させる道具にするもよし……。それで彼が楽になるなら、少しでも救われるなら……彼女にとって全く異存のないことなのだ。
 しかし、心を渡すことだけはやってはいけないと思っている。そんな資格などないし、万が一にも受け止められたら姉に合わす顔が本当になくなる。だから、それだけはできない。
「でも、あいつはあたしに触れようとしない……」
 自分はそれなりに魅力的な女だと思う。それなのに彼は自分に触れない。煩悩人間のはずなのに、その性欲を自分で晴らそうとはしない。
 その理由を考えると、思い浮かぶ理由はただ一つだけだった。
 つまり、彼は性欲の対象にすらならないほどに自分を嫌悪しているのだろう。
「彼はあたしを心配する」
 しかしそれは、彼女がルシオラの妹だから。
「でもきっと、あたしを憎んでる……」
 それは、彼女がルシオラの仇だから……。
 自分がそばにいることが、彼を苦しめているのかもしれない。しかし彼の元を去ることは考えない。彼の心を救うまでは、責任もってそばにいることに決めたから……。
 ふと彼女は足を止めると、顔を上げた。
 考え事をしながら歩いているうちに、いつのまにか見慣れたアパートの前に着いていた。とてもぼろっちいアパートだが、ここ数ヶ月はこのアパートが自分のねぐらだ。
 ベスパは階段を上ると、ある部屋の扉の前に立った。そしてノックもせずに扉を開ける。
 その部屋の表札にはこう書いてある。
『横島 忠夫』と。


 彼の腕の中で彼女は身体を丸め、静かな寝息を立てていた。子供のようにあどけない顔で眠るその寝顔からは、心からの安心が見て取れる。
 それが自分の腕の中で眠っているからだなどと、以前の横島ならばうぬぼれることも出来なかっただろう。
 しかし今は違う。自分こそが彼女の安定剤になっていることを、さすがの横島も確信していた。
 横島は狭い布団の中で、ベスパに愛しげな視線を注ぐ。
 三ヶ月前、彼女は唐突に横島の前に現れた。
 久しぶりに見たその顔に一瞬柔らかな表情を浮かべた横島は、しかしすぐにその表情を消した。ベスパの顔が以前とは比べ物にならないほどの影に覆われ、輝かしいばかりだった表情はその痕跡も残さず消えていたからだ。
 その顔を見た瞬間、横島は悟った。ああここに、あの事件を乗り越えられなかった娘がいる……。
 ベスパは言った。
「あんたを助けに来た。あんたは苦しんでいるだろ? あたしに何をしてもいい。何でも言うことを聞く。姉さんを産む道具でもいい。あんたに詫びたいんだ。だから、あんたを助けに来た」
 それを聞いた瞬間、横島は思った。守らなければ。愛しい彼女の妹を守らなければ、と。
 助けを求めているのは彼女だ。どうしていいのかもわからなくなって、すがりつきに来たのだ。それが、横島にはわかった。
 だから横島は頷いた。以来、ベスパはここに住み着いている。
 ベスパは嘘をつかなかった。確かに横島の言うことを何でも聞いた。こうして一緒に寝るように言ったのもそうだ。
 最初に寝床を共にしたとき、ベスパの顔にあったのは無感動な表情だった。身体を脱力させて何をされても抵抗しないという意を示しつつも、天井に力ない視線を注ぐその姿からは、彼女が投げやりになっていることがよく伝わってきた。
 だから横島は彼女を抱きしめた。やさしく顔を胸に抱き寄せ、あやすように背中を撫でてやった。そしてそれ以上何もせずに眠りについたのだ。
 煩悩魔人であることを自覚している横島とて、ベスパには他に何も出来なかった。する気にもなれなかった。
 それから毎晩、同じことが続いた。変化が起きたのは一ヵ月後。
「どうして……」
 口から漏れたのはただその一言。その瞳から零れ落ちた雫も、たったの一滴。
 だが、それで十分だった。
 それ以来ベスパは、まだまだ完全ではないとはいえ、持ち前の元気さを取り戻した。横島の腕の中にいるときには、心からの安心も見せるようになった。
 リハビリを兼ねて魔鈴の店で働くように言ったのは、その頃だった。そしてその試みは大正解だったと思っている。
 今、ベスパは魔鈴の店の看板娘として有名になっている。客に向かって笑顔で対応する様は、見ていて横島も嬉しいものだ。自然頻繁に様子を見に行ってしまう。
 しかし横島は、それがそのままベスパにとって一番いいものであるとは思っていなかった。魔鈴の店で働くことがベスパの薬になっているのは間違いないだろうが、特効薬にはなりえないだろう。
 根本をなんとかしなくてはならない。そしてその答えは、既に横島の中にあった。
 ベスパの心を苦しめている原因は簡単だ。ルシオラのことに他ならない。ならば、ルシオラを幸せにしてやることができれば、それは解消される道理だ。
 つまり、ベスパにルシオラを産んでもらい、二人で幸せにする。それが単純明快な答え……。
「これはなんなんだろうな?」
 眠るベスパに、小さくささやく。
 これは愛情か? それとも単なる傷の舐めあいか?
 横島は、あのときの事件を乗り越えることが出来たと自分では思っている。しかしだからといって、えぐられた胸の傷が跡形もなく治っているというわけではない。
 胸には確かな傷跡があり、それを見るたびに過去のことを思い出し、そして時に狂おしいほどの後悔が彼を襲う。
 恋人を見殺しにしたのだ。他にどうすることも出来なかった悔しさが消えることは、おそらく一生あるまい。
 だからこそ、ルシオラを転生させて幸せにすることは、横島にとっても絶対に必要なことといえる。
「傷のなめあい、かな。やっぱり」
 夜の帳が下りる部屋の中でベスパの寝息を聞きながら、横島は自嘲気味に呟いた。


あとがき
 昼休みにつらつらと書き続けていたものです。
 続く、のでしょうか。。。


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