『奇跡のマグロ』
朝の河川敷を歩く四人の男女。
いわずと知れた美神令子除霊事務所の従業員と居候である。
冬の早朝と言うことで肌寒いがそれでも朝の空気というのは気持ちの良いもので、それにつられたわけでもないだろうが早起きした近所の子供たちが川原で凧揚げなんかして遊んでいる。
近頃滅多に見れない光景とはいえ、やはり外で遊ぶ子供と言うのは見てて微笑ましくなるものだ。
もっとも横島たちは前日の除霊作業で朝帰りであり、「さぁ寝るか」と横島が腰を上げた途端にシロがいつもの散歩をねだり、つられておキヌやタマモも同行を申し出たという次第である。
シロにしてみれば師匠との時間を邪魔された気もするが、対する横島にしてみればおキヌやタマモが一緒ならば無茶なハードなランニングはないだろうと二つ返事で頷いたのだ。
最初から散歩を拒否するという選択肢を考えないあたり彼も諦観したのだろう。
どこか悟った目で欠伸交じりに歩く横島に付き従う三人の少女たち。
傍から見れば羨ましい光景であるが、眠気に脳がふやけているのか、はたまた単に慣れたのか横島の顔には喜びの表情は無い。
それが何だか悔しくておキヌは眠そうに目を擦っている横島に話しかけた。
「いい気持ちですね。横島さん」
「そうでござろう!やっぱり朝の散歩はいいのでござる!」
「俺は寝ていたかったがな~」
「実は私も…」
女心に無頓着な横島の台詞に同調するタマモ。
だったら何でついてきたのか?という問いをおキヌはすんでのところで飲み込むとそっと胸を撫で下ろした。
下手に藪を突付けば蛇が出てくる気がしたのである。
元々彼女は優秀な霊能者、しかも恋する乙女心標準装備。
この手の霊感には自信がある。
なるべく自然体を心がけながらおキヌはさらりと話題を変えた。
「今日は川も綺麗ですね」
確かにいつもは濁っている川も今日は綺麗に見える。
最近は雨が少なく上流の土砂流入が少ないのと、河川環境を元に戻そうという運動が実を結びつつあるのだろう。
まあ物の美醜というのは見る人の感情に左右されることも多いものだから、おキヌの気持ちが好きな少年との早朝散歩というシチュエーションによって昂ぶっているというのも大きな要因には違いない。
おキヌの言葉に横島は眠そうに頷きながらも川面に視線を向ける。
ぼんやりと見ていた横島の目が川の一点に釘付けなったかと思うとその顔に不思議そうな表情が浮かんだ。
「あれ?」
少年の口から漏れた言葉にシロタマも川面に目をやってみる。
水量がいつもより少ないが、それでも水深数メートルはあるこの一級河川の水面に特に変わったことは見受けられない。
ただ少し濁った水が渦巻きながら流れているだけ。
なにが不審かと訝しんだシロが首を傾げる。
「どうしたんでござるか?」
「なんか今でっけー魚が泳いでいた気がして」
言われて目を凝らす三人の前でなるほど横島の言うとおり、大き目の魚の背びれが浮かび上がってくる。
秋の日差しを銀色に跳ね返す魚はピチピチと生命の躍動を漲らせながら川面を浮き沈みしていた。
「へー。この川ってあんな大きな魚もいるのね」
常日頃、都会の自然の少なさに多少辟易していたタマモが感嘆の声を上げる。
シロはしばらく流れに逆らって上流に向かって泳ぐ背びれを見つめていたが、ポンと手を打って納得した。
「あれはマグロでござるな!」
「阿呆! マグロがこんなところにいるかいっ!!」
大きさは確かにマグロぐらいであるが、東京の真ん中の川をマグロが遡上するというのはちょっと信じられない横島。
彼の頭の中には前にテレビで見たマグロ漁のシーンが再生されている。
それによればマグロという魚は大海原を群れをなしてスイスイと泳いでいたはずだ。
とてもこんな都会の川を一匹でうろうろしてるのがマグロとは信じられないのも無理は無い。
ていうかマグロは川を上らない。
ありありと不審の目で自分を見る横島に珍しくもシロが反論する。
普段は師匠に反論するなんて滅多にしない彼女がここまでムキになるからにはかなり自信があるらしい。
「間違いないでござる!」
普段は「肉!」と言うシロが魚に詳しいと知って横島は思わず感嘆の溜め息を漏らすとシロの頭を撫で始めた。
別に意識してした行動ではない。
横島にしてみれば単に宿題で100点を取った子供を誉めるようなもんだろうが、ここにはそれを黙って受け入れられない少女が居たりする。
嫉妬には違いないが微笑ましいのも事実だ。
「あ、そう言えば!」
おキヌが彼女にしては珍しい大き目の声を上げる。
「何?」と目を向ける一同に「はっ」と我に返って頬を染めつつおキヌは以前に事務所で見たニュースについて語り出した。
「確か川を綺麗にする運動のひとつとしてマグロの稚魚を放流したはずです」
「それ私も見た覚えがある」
おキヌの話によれば数千匹のマグロの稚魚を放流したそうだ。
なんだか放流時にサカナの帽子を被った青年が必死に止めようとしていたという話もあったが、行政とは一度予算がついたものはとりあえず実行するという習性があったりするので強行されたらしい。
だったらその一匹が長い旅を終えて、この川に帰って来たとしても不思議は無いのかも知れない。
「ちゃんと放流された川に帰ってくるなんて横島より賢いわね…う゛っ!」
感心したのかタマモが川面に浮き沈みしつつ上流を目指す背びれを眺めている。
もっとも魚類よりアホだと言われて黙っている横島ではない。
さりげなくタマモの後ろに近づくと無防備なその首筋にトスッと手刀を落とした。
延髄に痛撃を受けてプルプルと震えながら蹲るタマモの頭をおキヌがヨシヨシと撫でる。
やがて痛みが消え立ち上がったタマモが抗議するより早く、横島の第二撃が全盛期の巨人レスラーばりに「あぽー」と炸裂した。
今度は脳天を押さえて蹲りプルプルと震えるタマモ。
それでも必死に痛みを堪え、目に涙を浮かべながらも立ち上がってくるのはキツネのプライド。
「な、なにをするのよっ!」
「誰が魚以下じゃ…」
ジト目で返してくる横島にギリリと歯を噛み鳴らすタマモ。
オロオロと見守るおキヌ。
師匠に加勢しようか相棒に加勢しようかと自縄自縛に陥って固まるシロ。
「女に手を上げる奴なんか魚以下で充分よ!」
「女? どこに?」
明らかに小ばかにした態度にタマモの頭に血が上る。
未だ幼い見かけとは言え前世で数多くの男を手玉にとった自分になんという言い草か。
ここで引くのは負けを認めるに等しいとタマモは地団太を踏んで抗議の声を上げた。
「こんな美少女を目の前にしてそういうこと言うなんて。やっぱりあんたはアホだわ!」
「そういう台詞はもう少し体にメリハリをつけてから言え!」
「なっ!!」
密かに気にしていることをあっさり穿り出され、一瞬、言葉を失ったものの忙しく視線を動かして思考をめぐらせる事数瞬、何とか反論の糸口を掴んで立ち向かう。
「わ、私はこれからよ! これから育つの!! 前世はそうだったんだから!!」
だが横島も引かない。よほど魚以下の扱いが腹に据えかねたと見える。
その思考はタマモをやりこめることのみに狭窄していた。
元々器用な人間じゃないし、脳のスペックも不足気味だから仕方ないのだ。
「わっはっはっ! 平安期のナイスバディなぞ今の時代は貧乳に決まっておろうが!」
「何を根拠に!!」
「日本人の体型が劇的に変化したのは戦後じゃ!!」
「くっ…」
なんだかわけのわからない理屈でやり込められたタマモに勝利の眼差しを向ける横島。
だが彼が勝ち取った勝利の高揚感も僅かな時間だった。
なぜなら彼の放った言葉の弾丸は跳弾となってもう一人の少女の肺腑を抉っていたのだから。
「わたしは江戸時代ですけど…」
「おうっ!?」
後ろから聞こえる陰隠滅滅とした声に思わず飛び跳ね、恐る恐る振り返ってみれば、垂れた前髪の影に隠れた顔の下から漏れる「くくく…」という笑い声。
どうやらおキヌちゃんのダークソウルを叩き起こして冷水を浴びせてしまったようである。
「あ、あはは…そ、そういう意味じゃなくて…」
「へー。ふーん。ほー。じゃあどういう意味ですか?」
ジリジリと影を背負ったまま近寄ってくるおキヌにしどろもどろに後退る横島。
先ほどまでの口論相手だったタマモも突然のことの成り行きにポカンと口を開け、ジワジワと追い詰められていく横島を見守るだけだ。
下手に間に入ろうものなら巻き添えになるのは必至。
ここは知らぬふりを決め込もうと決意するタマモとは裏腹に、「師の危機は弟子の危機」とシロが尻尾を股に挟みながらも割って入った。
「先生! 大変でござる!!」
「どうした?!」
渡りに舟とはこのことであるとばかりに涙目のシロに、やはり涙目で感謝の気持ちを伝え横島はシロの指差す川へと向かって走り出す。
闘気をすかされて踏鞴を踏んだおキヌと傍観者に成り下がってちょっと悔しかったタマモも後に続き、朝の爽やかな空気はかろうじて守られたのであった。
川辺に立つシロに皆が近づいて彼女の指差す方を見れば先ほどのマグロが二メートルはあろうかという堰堤に阻まれてウロウロしていた。
それでも何とか超えようとジャンプするのだが、いかんせん高すぎる落差は頑としてマグロの遡上を阻んでいる。
傷だらけになりながらもジャンプを繰り返すマグロを黙ってみていた横島におキヌが遠慮がちに話しかけてきた。
その声音には先程の暗さは無い。
元々おキヌは人一倍優しい心の持ち主である。
目の前で空しい努力を続けているマグロの姿に先ほどまでの暗い怒りは忘れたのだろう。
「なんか可哀想ですね」
「そうだね」
「何とかならないでござるか?」
「そうよ。何とかしなさいよ!」
シロタマにくらいつかれ、おキヌからも懇願の目で見られた横島は苦笑いしつつも昨夜の除霊で一個だけ余っていた文珠に『浮』の文字を込めてマグロに放り投げてやった。
文珠は淡い光を放ってマグロを包み込むと彼の体を静かに宙に浮かべた。
最初は驚いていたように動きを止めたマグロだったが、しばらくすると戸惑いながらも宙を泳ぎ堰堤を越えていく。
堰堤を歩きながらマグロを見守る彼らの前で文珠の効果が切れ、マグロはゆっくりと水面に身を躍らせた。
「良かったでござるなマグロ殿!!」
笑顔のシロに応えるかのようにマグロの尾びれが水面から突き出されると、彼はまた上流を目掛けて泳ぎ出した。
気になって付いて行く一行の前に時折、川面から現れる背びれがマグロの健在振りを教えてくれる。
「やっぱり横島さんは優しいですよね」
「へ?」
いつの間にか自分の横に立っていたおキヌの言葉にマヌケな返答を返す横島である。
そんな少年の手にそっと手を添えておキヌは頬を染めた。
なんだか背後に花とか点描が飛びそうな空気に焦ったシロが次の話題を探そうと、あたりを見回したときに大きな水音と魂消るような女性の悲鳴が沸き起こる。
水音の方を見れば一人の少年が川を流されていくところだった。
水量が少ないとはいえ川の位置によっては深いところも速いところもある。
事実、少年はかなりの速度で流されていく。
その先にあるのは先程の堰堤。
2メートルの落差といえばちょっとした滝だ。
そこに落ちたら流れにまかれて子供など一瞬で川底まで引き込まれてしまう。
「先生!」
「おう!」
頼もしい言葉に振り返ったシロが見たのはエッチラオッチラと準備運動中の横島の姿。
思わず膝が砕けそうになるシロだったが事態は急を要する。
ずっこけている場合ではないと頼りない師匠にかわり飛び込もうとするシロ。
だがそれよりも一瞬早く頭上を鳥の羽音が通り過ぎた。
「タマモちゃん!」
おキヌの声に見上げたシロの目に手を翼に変えたタマモが溺れる少年に向けて一直線に飛んでいく姿が飛び込んでくる。
固唾を飲んで見守るうちにタマモは魚を狙うカワセミのように降下すると溺れる少年を助けようとして空中でハタと固まった。
「どうしたんでしょうか?」
「ていうか…両手が翼なのにどうやって捕まえる気だったんだ?」
ポツリと呟いた横島の言葉に顔を見合わせる一同。
しばしお互いに視線を行きかわせていたが一つ頷くと再び慌て出した。
「わーっ! タマモぉぉぉ! 今、行くでござるうぅぅぅ!!」
「タマモちゃーん」
「待ってろタマモ! もうすぐ深呼吸が終わる!!」
混乱する一同に業を煮やしたかタマモが溺れる少年に足を伸ばして叫んだ。
「つかまりなさい! 早く!!」
差し出されたタマモの脚に少年は必死で手を伸ばすとその白い足首を掴んだ。
かってシロを乗せて水妖と戦闘した経験のあるタマモだったが水難者の救助は始めてである。
だから知らなかった。
例え子供といえど溺れた人間はとてつもない力を出すことを。
必死になった子供に足首を掴まれたタマモはたちまちバランスを失って川に落ち、凄まじい水しぶきとともに一瞬沈んだ二人だったがすぐに流れに浮き上がってきた。
しかし必死にしがみつく子供に自由を奪われたタマモは、もつれ合ったままなすすべもなく流されていく。
「タマモっ!」
飛び込もうとシロが身構えた瞬間、彼女の横をすり抜けた横島が派手な水しぶきをあげて川に飛び込むと抜き手をきってタマモと少年目掛けで泳ぎ出す。
さすが先生と尊敬の念を視線に込めたシロと心配と憧憬を込めた目で見つめるおキヌの前、一直線にタマモたちに突き進む横島だったが川岸とタマモの中間でふと泳ぎが止また。
「横島さん?!」
横島は悲鳴にも似たおキヌの声にぎこちなく振り向くとニッコリと笑った。
「足…つった…」
はからずもラ〇オ体操唯一の弱点、下半身の柔軟が甘いという欠点が露呈した瞬間である。
「先生えぇぇぇぇ」
バッシャバッシャと溺れ出す師匠を助けようと飛び込んだシロに横島が叫ぶ。
「俺はいいからタマモたちを!!」
頷いてシロが流されていくタマモ目掛けて突き進んだ。
しかしもう堰堤までは数メートルしかない上に流れはますます速くなっているのだろう、シロとの距離は縮まる様子を見せない。
「タマモちゃん!」
一人岸に残っていたおキヌの悲鳴が響いた時、突然タマモの体が激しい流れの中でそこだけ時が止まったかのように静止した。
「え?」
自分の身に起きた奇跡に驚くタマモ。
助けた子供にしっかりとしがみつかれ、満足に泳ぐこともままならないはずなのにいつしかタマモたちはゆっくりと助けに来たシロの方に向かって流れに逆らいながら進み始めた。
古式泳法には立ち泳ぎで鎧や大砲を運搬する技法があるが、タマモがそんなものの使い手であったとは聞いた事が無い。
それに当のタマモも未だに自分の身に何が起こっているのか把握していないのは、そのキョトンとした顔を見れば一目瞭然だ。
ゆっくりと流れに逆らって岸に近づくタマモに追いついたシロが子供を背後から受け取った時、彼女は見た。
タマモの背中に曲がった鼻先を押し付けて力強く彼女たちを押すマグロの姿を。
「マグロ殿!!」
「え? マグロ?」
言われて初めてマグロに助けられたと気づくタマモ。
マグロは振り向いたタマモにニヤリと笑顔で応えるとそのまま彼女の背を川岸まで押し続けた。
「大丈夫か? タマモ?」
「私は大丈夫! それよりその子は?」
足の痙攣から回復し自力で岸に戻っていた横島に救い上げられ小さく咳き込みながら聞くタマモに、先にシロによって救出されていた子供を介抱していたおキヌが安堵の笑顔を見せる。
「大丈夫みたい。気を失っているだけで命に別状は無いと思う」
「そう…良かった。」
ホッと一息ついたタマモ。
フーッと大きく息を吐いて自分を助けたマグロに礼を言おうと振り返ったタマモの体が凍りついた。
「マグロ!?」
マグロはタマモたちを救うのに全精力を使い果たしたのだろう。
先ほどまでの力強さは微塵も感じられない動きでユラユラと流れに煽られて行く。
「マグロ殿!!」
「マグロっ!!」
叫ぶシロと横島の声が届いたのか、マグロは流の中で一度身をくねらせ、その胸ビレを高々と天に突き上げるとそのまま静かに流れに飲まれて二度と浮かんでこなかった。
「嘘…マグロ…」
「そんな…マグロさん…」
「マグロ殿……立派でござった…」
「くっ…マグロ…」
滔々と流れる川の流れを見つめる横島たち。
遠くから誰かが呼んだのだろう、救急車のサイレンの音が聞こえてくる。
次第に騒がしくなる川岸で横島たちは必死に川面を見つめ続けた。
だけどどれほど目をこらしても、ついに上流を目指して泳いでいたあのマグロの姿は見えなかった。
「私がちゃんと子供を助けていれば…」
「それは違うぞタマモ…」
悄然と落ちた肩に力強く、それでいてかすかに震える手が乗せられる。
振り向いた向こうには何かをこらえるかのように唇を噛み締め、滔々と流れる水面を見る瞳がある。
「横島?」
「マグロはな…きっと知っていたんだ…」
シロが、タマモが横島の口元を見つめた。
ただおキヌだけは哀しそうに彼の背中を見つめ、今にも少年に抱きつきそうになる自分を必死に堪えている。
「………本当はマグロは川を上ったりしないってことを…」
「そんな…なぜ…?」
「わからない…でも…あのマグロは放流され立派に育った自分を見てもらいたかったんじゃなかろうか? だからシャケでもないのに川を上ってきた。それはマグロにとってきっとなによりも大事なことだったんだろう。そしてあのマグロはお前と子供を助けて散ったんだ…少なくとも無駄死じゃなかった…俺はそう思う。そして俺たちはあのマグロを忘れない!」
「そうですね…」
ついに堪えきれなくなったおキヌが少年の背中に顔を埋めた。
彼女の唇から漏れる嗚咽が横島の背中に染み入っていくのを見たタマモの瞳からも真珠の雫が零れ落ち、少女は拳で顔をグシッと擦ると川に向きなおった。
「マグロォォォォォォォォォ!!!」
タマモの叫びに吸い込んで川は再び渦を巻いた。
助けた子供の親に礼を言われ、そのことに安堵しつつも残り割り切れない思いを胸にま事務所の玄関をくぐる横島たち。
その濡れた体から滴る水滴が彼らの心から零れる涙にも似て、人工幽霊は「おかえりなさい」との言葉を飲み込んだ。
「ただいま…」
暗い声で帰宅を告げる横島たちを、珍しくも早起きしていた令子が満面の笑みを湛えて出迎える。
「あ、横島君おキヌちゃんは?」
「私ならここですけど…」
おキヌの声も哀しみに満ちている。
なんで散歩に行ってみんなこんなに暗いんだろうと思ったが、気を取り直して令子はおキヌに朝食の仕度を頼んだ。
無言のまま頷くおキヌに違和感を感じたものの、今日はよい食材が手に入ったと知れば料理好きの彼女のこと、きっと機嫌も直るわねと楽観的に考えて令子はおキヌに笑いかける。
「あ、おキヌちゃん。さっきねママが来てね。コレお裾分けって置いていったのよ」
そうして令子がテーブルの影から取り出したのはでっかい発泡スチロールの箱。
その上に描かれた絵を見た横島たちの目に剣呑な光が宿る。
なんだかその視線に嫌な予感を感じながらも、コレをみせれば機嫌も直るだろうと令子は箱を開けて見せた。
「これよ。これ! 北海道は函館産のホンマグロだって! なんでも一匹で数十万円はする高級マグロらしいわ。早速みんなで食べ……って…何? なんでみんなそんな目で私を見るのカナ?」
横島たちから立ち上る異様な空気に「なにカナ? なにカナ?」と首をかしげながらだんだんと腰が引けていく令子を醒めた目で見ながら「ふーっ」と重い息を吐く横島。
ヤレヤレと頭を振るタマモ。
はっきりと抗議の視線を向けてくるシロ。
そして顔を伏せるおキヌ。
なんだろう…なんだかとっても居心地が悪い。
だけど今までの会話を巻き戻してみてもどこにも落ち度が見当たらない。
「ちょっと! 何よ横島君その態度は!!」
「だってなぁ…」
「そうでござる! 美神殿にはデリカシーがないでござる!!」
「あ、あんたがそゆこと言う?!」
さすがにシロにデリカシーが無いと言われれば聞き捨てならないといきり立つ令子にタマモが追い討ち。
「だってないし…」
「タマモまで! な、何があんたたちをそうさせたの?!!」
「まあまあ…美神さんは知らないんですから…」
うろたえ始める令子を冷たい目で見ていたシロタマをおキヌが宥めた。
もっとも彼女も今ひとつ本気でとりなそうとは思っていないのか、その声にいつもより硬かったりするのだが。
当然、令子には何が何だか意味不明だ。
「何? なんのこと?」
「そうだな…」
「仕方ないわね」
「美神殿でござるしな…」
おキヌのとりなしに横島たちも納得したのかヤレヤレと肩をすくめた。
一人取り残された令子してみれば面白くはないが、それでも何か自分の行動が皆の不興をかったのは何となくわかる。
こういう時の対処法は話を逸らすに限ると令子は心中の汗をそっと拭った。
幸いにも話題を逸らすのにはピッタリの逸品がここにはあるではないか。
「な、なんか納得できないけど…まあいいわ。おキヌちゃん朝ごはんにしましよう。これさばいてくれる? 私はトロがいいなー♪」
途端に再び凍りつく室内の空気。
令子さん…今一番言ってはいけない台詞を言っちゃって。
さすがに気まずいのかおキヌの声が暗くなる。
「すみません美神さん…それはちょっといくらなんでも…」
「お、おキヌちゃん? …あれ? なんでみんなまた出て行こうとするの? わ、わた、私、何か変なこと言った?!」
「どっかに食いに行くかぁ」
「そうでござるな…」
「うん。どこでもいいわ…この時間なら喫茶店も開いているでしょ。」
「そうですね」
「え? え? え?」
混乱する令子を置いて一同は部屋から出て行く。
最後におキヌだけがちょっと申し訳なさそうに振り向いて優しい溜め息をつくとそのまま部屋を出て行ったのである。
「ちょっと! どういうことよぉぉぉぉ!! 私がなにをしたのよおぉぉぉぉ!!」
それからしばらくして忘れ物を思い出して再び事務所を訪ねた美智恵が見たものは、台所の片隅で半身のマグロを抱きながらグシグシと泣く娘の姿だったそうな。
おしまい
後書き
ども。犬雀です。
えー。新年明けましておめでとうございます。
旧年中は管理人様、そして読者の皆様にたいへんお世話になりました。
お礼申し上げます。
今年もよろしくお願いいたします。
本来なら続きものを先に仕上げて投稿すべきでしょうが、まだちょっとバトル系のものは書けそうにないので失礼とは思いますがこんな脱力系の話を投稿させていただきました。
申し訳ありません。
ではでは