ドアの向こうから産声が聞こえてきた時、俺の目の前の何かが一気に拓けた気がした。
事務所に来てたこの時代の隊長が、急に産気付いたのが数時間前。
病院に着いてからずっとリノリウムの廊下で、あまり快適ではないベンチに座ったまま待ち続けた。
目の前で産気付かれたから、成り行きで病院までついてきたけど、実際俺は帰ろうと思えば帰れる立場だったと思う。
分娩室の前、ドアの上のランプが点灯しているのを見つめたまま、緊張した時間を過ごす。
扉から漏れ聞こえるのは、医師や看護婦の声と、小さなうめき声だけ。
美神さんは緊張しすぎで肩を叩いても反応が鈍く、声を掛けても生返事しかしなかった。
たぶん胸や尻に触っても気づかないんじゃないか、と思ったが、気づかれたら後が怖いし、さすがに不謹慎だからやめておいた。
おキヌちゃんもお守りらしきものを強く握り締めていた。思うにおキヌちゃんの時代だと、お産、特に四十前での出産などは今より危険だったのだろう。
今はそこまで危険じゃないと言おうとしたが、祈ることが悪いわけでもないし、俺の分も祈ってもらうことにした。
俺もそんな二人に影響を受けてはいたものの、かといって今ひとつ緊張感が足りず、変に居心地の悪い思いをしていた。
俺自身は隊長と血のつながりがあるでもなし、おキヌちゃんみたいに他人の身を必死で案じられるタイプでもない。
先の事件の時には面倒なこともやらされたし嫌な思いもしたので、あんまり関わりたくない気持ちが強かった。美人なんだけど人妻だし。
だけど、帰ろうとはしなかった。生まれるまで、この場で見届けたかった。
赤ん坊の誕生の瞬間に、その場にいたいと思っていた。
俺はまだ17歳だ。結婚どころか彼女もまだ。
あの時美神さんに言われた話、頭では納得したけど、実感がなかった。
彼女が、ルシオラが、俺の子供としてなら転生できるかもしれないなんて。まず「俺の子供」なんてものが具体的に想像つかないのに。
ここに来る前、隊長の大きくなったお腹に手を当てさせてもらったのも、何か手がかりが得られないかと思っての行動だった。
でも、想像がつかなくてもいずれは直面することになる、直面しなきゃならない話なんだ。
自分の子供に生まれ変わったなら、子供として愛してやれば、それで形は違えど彼女を幸せに出来るはずだ、と。
――理屈はわかっていても、子供として愛するなんて出来るのかどうか分からなかった。
ほんの一時、幼い美神さんや、猫又のケイや、天竜童子なんかの子供の相手をしたことはある。
だけど、子供を一から育てるってのは重さが違う。もっと色んな責任がのしかかってくるものなんだろう。
そんなことが、俺にも出来るんだろうか?
親としての愛情が、親になれば誰にでも自然に身につく、ってものではないはずだ。だったら子供を捨てる話はなくなるだろう。
特に父親は、自分が腹を痛めたわけでないため、子供に愛情を注ぐのが出来ない奴も多いらしい。
教会に来る相談では、自分の娘に性的暴行――セクハラなんてレベルじゃない――をはたらく父親がいるとか。
俺がそんな親になってしまったらどうしよう。
あまりにも短すぎる一生を送ったあいつを、生まれ変わったその魂だけでも幸せにしてやりたい。
所詮自己満足だと言われようと、俺に出来ることとしては悪くないと思う。――そのとおりに実行できれば。
そもそも普段女性に振り撒いてる愛情が、ただの欲情だと指摘されるような俺だ。
十分に健全な愛情を注いでやることが出来る自信がない。
それこそ間違って歪んだ欲望をぶつけてしまい、転生前だけでなく転生後ですら幸せの少ない一生にしてしまわないか?
だが、自分が信用ならないからといって、母親に任せて避け続けてちゃ、俺が幸せにしてやることにならない。
父親との関係が悪い例も身近に知っている。
結局、実際にその状況になったときにどうすればいいのか、分からなかった。
そう、だから俺は、普通の人が「親」になる瞬間を見たかったんだ。
そうすれば、俺でもその人の真似をすることで「親」になれる気がしてた。
隊長はすでに美神さんの親なんだけど、まあ、普段「親」って言う雰囲気の人じゃなかったから。
――でも、その考えはちょっと間違ってたと分かった。
「おぎゃぁ、おぎゃぁ、おぎゃぁ! ……!」
分娩室の大きな扉を突き抜けて耳に飛び込んでくる、最初の声。
生後数秒の命が、こんなに大きな音を上げられることに驚きを感じる。
外界という新しい環境に戸惑って泣いているだけのはずなのに、なんでだか、勝ち鬨の声のようだ。
美神さんのこわばってた顔が、笑顔に塗り替えられていく。
おキヌちゃんの不安な表情が、満面の喜びに占められていく。
この泣き声は、たぶん今後、何度も耳にするはずだ。
美神さんなんかは子供の夜鳴きが嫌いだと言ってたし、うんざりする羽目にもなるんだろう。
なのに、たった今だけはこの声は、この場の誰にも厭われない祝福された音なのだ。
どうして俺も笑ってるのか?
なんで他人の赤ん坊の生誕が嬉しく感じるのか?
さっきまで感じていた緊張と、それに伴う疲労が、今の間だけは吹っ飛んでいるのは何でなのか?
複雑に考えることはなかったんだ。いきなり「親」になろうとしなくても良かったんだ。
この世に生を受けた瞬間の声を聞いて、それを守りたいと思えたなら、それが親、家族としての第一歩なんだ。
たとえ、子育ての苦労や困難が襲い掛かってきても、この声とこの瞬間を忘れないなら、たぶん大丈夫。
この声は、「いのち」の上げる純粋な声そのものだから。それを消したいなんて人は、なかなかいないはず。
ましてや、その「いのち」と自分が繋がっている人なら、なおさらだろう。
その後しばらく時間を置いて、ようやく赤ん坊と対面した時。
その隊長の姿は、まさしく俺が探していた「親」そのものだった。
だけど、もう俺はどうやってそうなるかなんて考えない。
あの、赤ん坊に向ける目の優しさも、口元に浮かぶ微笑の意味も、全てあの赤ん坊が呼び起こしたものだから。
子供は、生まれてくるだけで親に、周りに、幸せを与えてくれるものだと聞いたことがある。
命がこの場で一つ実を結んだという幸せ。親のほうは、その幸せを子ども自身に返してやればいいんだ。
それが、親から子に愛情を与えると言うことだと。
無償の愛とか言われるものの一つなんだろうと。
この光景を幸せに満ちたものだと受け止めれるなら、俺自身が父親になる場合も同じように「親」になれるだろうと。
確信して安心できたから、嬉しくて。
この場にいたことでその幸せを分けてもらった俺も、この子に幸せをお返ししてあげたくなって。
下心とかとは無縁なこの気持ちを、煩悩魔人とすら呼ばれる俺が抱いてると思うと、なんだかむず痒くって。
そして、その幸せを一番満喫している隊長の姿が、うらやましくて。
待ち疲れた体を床にぐったりと横たえながら、
「……俺も早く子供が欲しいな……」
なんて小さく呟いてみたりするのだった。