卒業してから久しぶりに高校に来ることになった。
記憶に残るままの古びた校舎に、我知らず目を細める。
ここに通っていた頃のことが、昨日のように思い出され、思いがけずノスタルジックな気分になる。
俺にだって若かりし頃を懐かしむくらいの感性はあるのだ。今も若いが。
「まだ若い、まだ若い……二十五って十分若いっスよね?」
事務室で借りた来賓用のサンダルでぺったらぺったら廊下を歩き、懐かしの我がクラスに辿り着く。
相も変わらず立て付けの悪い引き戸を開き、人間の居ないはずの夕暮れ時の教室に、足を踏み入れた。
「―――よう、久しぶり」
「…………うん、久しぶりだね……」
赤い教室の窓際最後尾、濡れ羽色の長い髪の女生徒がひとり、一際古びた机のひとつに腰掛けていた。
「久しぶり……か。うん、本当に久しぶりなんだ……」
女生徒―――愛子は、感慨深げに目を伏せる。
「まあ、卒業して以来だからな……七年ぶり、か?」
「六年でしょ? 横島くんってば出席日数が足りなくて、結局一年留年したもの」
「つまんないこと憶えてんなぁ……本人だって忘れてたのに」
「普通は忘れたりしないと思うけど………横島くんだしなぁ」
くすくすと、困ったような表情で笑みを漏らす愛子。
それから、ふたりで過ごした時間に思い出話を咲かせる。
愛子が俺に語るのは、俺が余計に通った一年間の話。
俺が愛子に語るのは、愛子と出会ってから卒業するまでの、二年間の話。
思い出してみれば、二度目の三年生は大変だった。
同級生にはさん付けされるし、おふくろはわざわざナルニアから帰国してまでシバきに来るし、他にも色々……。
―――そういや、愛子の方はクラスにすぐに溶け込んじまったな。
「私は……学校の妖怪だから」
誰よりもクラスという集団に馴染みやすいの。と、寂しげな―――本当に寂しげな笑顔で、そう言った愛子。
愛子の気持ちは俺には分からない。
俺は既にここを去った人間で、愛子はいつまでもここにいるモノ。
彼女はいつだって学校に居る、人気者の同級生。
でも、彼女は学校から去り、大人になった者にはいずれ忘れ去られる、それだけの存在。
真昼の月のような、陽炎のような、曖昧模糊としたクラスメート。
俺には……分からない。想像するしかない。
永遠に学校に留まり続け、常に取り残され続ける愛子の気持ちは。
馬鹿な昔話も、目を細めるような輝きを持って語られる、ふたりだけの放課後。
会話に混じる愛子の笑顔は、昔のままに屈託無いもので…………それが、悲しい。
「―――なぁ、愛子……ピートには会ったか? ちょっと前にここに来たはずなんだが」
「…………いいえ、会ってないわ。ピート君はオカルトGメンに入ったのよね」
「ああ、西条の野郎が漸く使える人材が入ったって喜んでたっけな」
「懐かしいわね」
「そうだな」
会話が途切れる。語ることは、そう多くは無い。
愛子と俺の間に通じる話は、懐かしいと口を突くものばかり。
俺と愛子の間には六年の溝がある。決して埋められない、六年間。
俺はその間に大人になってしまった人間で、彼女は永遠に子供のまま、ここに留まるもの。
夕日に伸びる愛子の影が、いつの間にか俺の足元まで届いていた。
その影を踏むのがなんとなく嫌で、そこから一歩引く。
「――――――ねぇ」
「ん?」
「どうして来てくれたの?」
何かを堪えるような声で、愛子が訊ねた。
俺は―――俺は、自分のつま先を見つめたまま、何と答えようかと迷いながら。
「―――本当は、ピートに会ったんだろう?」
「…………………………会ったわ」
何と、答えようかと、迷いながら。
「どうして逃げなかった?」
「逃げる気にはならなかったのよ……逃げてもどうにもならないって、わかっていたから……」
彼女と俺と、過ごした時間を思い出し―――
「なら、どうして来たのかなんて、訊くな」
「………………」
「俺はオカルトGメンと、この学校からの依頼で来た」
いまも、何と答えようかと迷いながら。
「この教室で消えた、三十一名の生徒と……」
日の沈む早さで伸びる影が、また俺の足元に掛かるのを見つめる。
「救出の依頼を受けて、おまえを説得に来たはずのピート……」
顔を上げて、赤い夕日に濃い陰を与えられた愛子の顔に、視線を向ける。
「おまえが取り込んだそいつらを、おまえを退治して取り戻すために来たんだ」
虚(ウロ)のように光を吸い込む陰は、彼女の表情を覗かせない。
ただ、たとえ見えたとしても、俺にはもう記憶にある愛子と、目の前に居る彼女を同じものとは思えなかった。
「―――うん、そうだよね。横島くんは、仕事で来たんだよね」
「おまえが……おまえが取り込んだ生徒とピートを無事に返すなら……それで済むんだけどな」
その気はないんだよな。
もしも愛子に生徒を解放する気があったなら、ピートが解決して終わっていた除霊だ。
そうなっていれば、オカルトGメンが―――あの西条が俺に依頼を振ってくるわけが無い。
それに、本当は、もう遅い。
愛子はなにも言わない。俺もなにも言えない。
まだ、答えに迷っているから。
「―――気まぐれ……」
「あ?」
ひたり、と机から足を下ろす愛子。
そのまま、ゆっくりと机の間を縫い、俺のいる場所を目指して歩いてくる。
「最初のひとりは、ただの気まぐれ……気の迷い……魔が差しただけだったわ」
じぐざぐ、じぐざぐと、時に遠ざかり、あるいは近づき……目を伏せたまま、出鱈目に歩を進める愛子。
「三人で放課後のおしゃべり……まだ帰したくないなって、そう思ったの……」
「…………」
「ひとり取り込んで、あとのひとりが逃げるから……悲鳴なんか上げるから……」
声が震える。
ゆっくりとした足取りは変わらない。
ただ、縫うようだったその歩みは、並んだ机を突き飛ばす激しさへ。
「ふたり目を取り込んだら自制が利かなくなった。次の日登校してきたクラスメートを、目に付く端から取り込んだわ……!」
次々と机の、椅子の倒れる音が、赤い教室に空しく響く。
「みんな取り込んで、それでやっと気付いた……寂しいのは嫌っ……! 私ひとり残されるのはもう嫌っ……!」
愛子は手当たり次第に机を倒し、椅子を払う。
滅茶苦茶に荒らされた教室の中心には、永遠にこの場から抜け出せない、哀れな少女がひとりだけ。
綺麗に梳かれていた黒髪は乱れに乱れ、獣のように息を荒げたそのうしろ姿は―――酷く、つらい。
「残されるのが嫌だから、ひとりが嫌だから……それで話し合いで解決しようとしたピートまで取り込んだのか?」
「―――ええ、そう。二番目に楽しかった頃の友達だもの。今も仲良く授業を受けてるわ、私の中でね」
顔にかかった髪を、そっと背に流しながら振り向いた愛子、その表情。
「でも、今度はもっと楽しくなる。……だって、今までで一番楽しかった頃の、一番仲の良かった人が来てくれたんだもの……」
その笑顔は、人の不幸を啜る、妖怪そのものだった。
「すみませんでした、横島さん……」
「ああ、いいって別に…………いや! やっぱり駄目だ! 悪いと思うなら、今度Gメンの綺麗どころと合コンを企画してくれ! 雪之丞とタイガーも誘うから!」
ピートとふたり、校門前で待っていた父兄教師およびGメンに、救出した生徒三十一名を引き渡す。
無事を喜び合う生徒たち、我が子を抱きしめる父母。
クラスメートは三十二名。数え得る生徒は三十一名。
このクラスの最後の一人は、この場には―――この世には、もう居ない。
「いえ、あの……愛子さんのこと、なんです、が……」
「んあ~? まあ、気にするなよ。仕方ねぇだろ……あいつには前科もあったからな。二度目はさすがに庇いきれないさ」
「―――! けどっ!」
「はいはい! いいからあそこで待ってる長髪中年に報告にイケやヘタレ吸血鬼っ!」
食って掛かるピートをいなし、苦い表情の西条に押し付ける。
ピートはなおも何か言いたそうな素振りを見せたが、今回の除霊失敗について西条に突付かれて、それどころではなくなってしまったようだ。
まあ、西条が気を利かせたんだろうさ。俺にもピートにも。
ちらりとこちらを見るその目には「この貸しは高くつく」……って、なんでだよ! 依頼の件とで相殺だろうが変態中年!
がるるる! と歯を剥いて威嚇して見せる俺を、西条の野郎は鼻であしらうような仕草でシカトしやがった。
「ちっ! まあいい……なんか言ってきても、とぼけりゃいいだけの話だ」
実際、西条には借りを作ったのだろう。
今回の依頼をまずピートに任せたことも、民間GSであるはずの俺に振ってきたことも、あいつなりの気遣いってこった。
古い友人の除霊。ちょっと他のヤツには任せられんな。
「しかし、まぁ本当に――――――」
後味の悪い仕事だった。
愛子がおかしくなったのは、妖怪としての業のせいだった。
一代限りで生まれる九十九神ならば、常に付き纏う業。
誰とも繋がらない、誰にも繋がれない。
孤独で居ることへの恐怖感。
人間では寄り添えない。
それに、科学が幅を利かせる現代では、彼女の居場所など最初からなかった。
ならばいずれは、いつかはこうなることだったのだ。
これがきっと、彼女の運命だった。
そう、思うしかなかった。
――――――ねぇ どうして来てくれたの?
「さあ……どうして、かな……」
不意に、彼女の問いが耳に蘇った。
わずかに残っていた夕日は沈み、懐かしい学校もまた、夜の闇に沈もうとしている。
まるで初めて見るような違和感を滲ませ始めた校舎を見上げながら、彼女が居た教室を思い出す。
「いや……そうか……なんで俺が来なきゃならんと思ったかなんて、決まってるじゃねぇか」
赤い日の差し込む教室。
その日も遠ざかり、いずれは月の光に晒される別世界。
誰も居ない教室で、ひとり朝を待ち続ける彼女を幻視する。
いつまでもいつまでも、彼女はそれを繰り返す。
それには耐えられないと、そんな寂しい思いには耐えられないと、そう泣き叫んでいた同級生。
なぜ来たのか? と問いかけた彼女は、何と答えることを望んでいたのだろうか。
「俺と―――俺たちと愛子が、友達だったからだ」
彼女の望む答えとはきっと違っただろう。
それでも彼女なら笑ってくれただろう。
彼の友人であった愛子ならば―――……
あとがき。
息抜きに書いてみたのでごぜぇますです、はい。
なんか、愛子とらぶらぶした話を書こうと思っていたら、とんだダークネス。駄目じゃん!
我ながら吃驚するくらい予定を守らん奴です。
それと私がちょこちょこ上げている、因果~はちゃんと骨を作ってから書いていこうと考えておる次第。見切り発車は怪我をしますね! ボキッと!
では、おさらば。