「カナター、鏡拭き終わったら休んでいいかんなー」
「わかったカナー」
開店前の掃除にせいを出すあの方の――彼の声が脱衣場に響き、それに応える弟の声が、浴場から聞こえて来た。私は、そんな二人のやりとりを、たくさんの楽しさと、ほんの少しのもやもやした思いを抱きながら聞いていた。
「こりゃお主! ちっとは家臣としての自覚を持ったらどうじゃ?! カナタ様をこき使うなど!」
「お? だったらこっちゃ家主様だ。おめーも居候なら居候らしく手伝えや。みろ、ユウリさんなんぞ率先して働いてくれてんぞ?」
「ひ、姫ぇ!」
憤慨するじぃの抗議に、彼は軽く笑って応えて私の方を振り返った。向けられた笑顔が、何だか妙に嬉しくて、私もつい、モップを手にしたまま、笑みを漏らしてしまう。
「まあまあ、リョウ様もおっしゃるのももっともですよ。われらは宿をお借りする身。弁えるのは大切です」
そう言って微笑みながら、彼の背中をそっと見やる。彼はすでにモップを手に床みがきにいそしんでおり、私の視線には気付かない。
それが、少し寂しくもあり、同時にまた、不思議な嬉しさを覚えることでもあって、その複雑な感覚を味わうのが、最近、少なからずクセになりつつあるのを、私は自覚していた。
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一番湯のカナタ 二次創作
彼の背中
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故郷の星を追われ、銀河の辺縁系にまで流れ着いた私たちは、ともすれば野辺に朽ちる破目に陥っていた事だろう。
それを救ってくださったのが、あの方だった。
星野涼。この星の住人。少なからず乱暴な雰囲気はあるけれど、でも、それ以上に義侠心に溢れた彼の好意で私達は、この星之湯に仮住まいをさせていただいている。
本当なら、叩き出されてもおかしくないと言うのに、彼は何だかんだと言いつつも、私達を受け入れてくれている。
それどころか、本星から送られてきた刺客を彼の協力で撃退した事すらもあったし、彼の助けで、弟の秘められた力を解放することさえ出来た。
まるで、彼は私達の幸運の星のようだ。そんな風にさえ、私には思えた。
しかし、そうした事々を差し引いてもなお、私にとっての彼は、とても、とても不思議な人物だった。
不思議だと、素直にそう思う。例えば。働くと言う、喜びについて。
労働の楽しさと言うものを、私はこの年まで知らなかった。何かお手伝い出来ればと申し出てやってみて、初めてその楽しさに気付いた。彼の、真摯に働く姿が、そう思わせたのだろうか。
きっと、そういう事なのだろう。彼のそばにいると、何故かつらい筈の、慣れない労働でも楽しくなってしまう。そうさせてしまう何かが、彼にはあるのだろう。だって、一度彼のいない時に、彼の真似をして働いてみたときは、あまり楽しくはなかったのだから。
それでも、彼が帰ってきてから一緒に働いた時には、昼間のつまらなさがまるで嘘のように楽しかった。本当に、本当に不思議な人だ。
モップを持つ彼の背中が、たくましく動く。その様子を見ると、何故だかほんのり顔に血が上るのを覚える。もしかして、彼にも何か、弟のような力があるのだろうか?
そうかも知れない。だってほら、自分だけでなく、弟だって彼が大層お気に入りだ。しょっちゅう彼の周りをちょろちょろして。
でも、何故だろう。弟と彼が親しくしてるのを見ると、少しだけ、ほんの少しだけ、胸のうちがもやもやしてしまう。どうするべきだろう。じぃに相談してみようか。それとも――自分も、弟のようにしてみようか。
何故か、それは凄く素晴らしいアイディアであるかのように思えた。弟のように、彼に始終ひっついて、弟のように、彼と始終そばにいて。妙に楽しくなって、くすりと笑みが漏れた。
「ん? どしたユウリさん」
「あ……」
すぐ近くに彼の怪訝そうな顔があった。顔の熱さが急速に高まる。
「具合でも悪いのか? だったら少し休んでていいぜ、あんたむしろ働きすぎなぐらいだからよ」
「いえ、そんな事は」
「だいじょぶカナ、姉上。カナタとじぃがちゃんと働いてるカナ」
「わ、わしもですか?」
「そうそう、ここは彼等にまかせてユウリさんは私とあっちへ」
「おめーが一番働け!!」
何時もどおりの親子のやりとりが起こり、何だかんだで、その場はうやむやになってしまった。けれど――あの、彼の顔を間近に見た時の、胸の高鳴り。あれは――凄く楽しかった。
決めた。今度、やってみよう。弟のように、彼の側に寄って、弟のように、彼に、あの背中に、そっと抱きついてみよう。
はしたないようにも思えるけれど、きっと、それはとても――とても楽しく、嬉しい事な筈だから。
――了――