耳を澄ませば、静かな空気に綺麗な歌声が溶け込んでいる。
それは本当に小さな小さなメロディ。
この耳に届いたのもきっと偶然だった。
途切れ途切れ、微かに聞こえてくるそれはどこか自分を安心させてくれた。
うたをうたおう。
今日も仕事を頑張ろうと気合を入れて事務所の入り口を開けようとした彼は、ふとその場で立ち止まる。
そんな彼に人工幽霊が怪訝そうな声を出した。
その声に彼は天井を見上げて、そっと左手の人差し指を口元へと持っていき、それからとんとんと何度か耳を指で叩く。静かにしておいてくれ、と頼むように。
そのジェスチャーに何処か納得したような人工幽霊の声に、彼は腕に巻かれた安物の腕時計をちらりと一瞥する。
まだ何時もよりは早い時間。この音の元へと行く程度ならば大丈夫であろうと思った。
だから、その旋律に導かれるようにふらふらと彼は足を動かした。
静かだった。
外の喧騒すら耳には届かない。
ただ、それだけが聞こえている。
ぎしぎしっという床を踏む足音を忍ばせるように、ゆっくりとそれに近付いていく。
命の危険が高い職業柄か、或いはライフワークである覗きで鍛えられたのか、彼は何時の間にか気配を殺すことを自然に覚えてしまっていた。
故に、彼女は彼に気付かなかった。
コトコトと鍋の中で何かが煮える音。
トントンとリズミカルな包丁でまな板を叩く音。
そんな日常が彩る歌に混じって、それは静かに流れていた。
小さな小さな歌声。
微かに空気を震わせるのは、聞き覚えのないメロディ。
しかし、それは何処か遠い日に聞いたような、そんな懐かしい旋律。
何故か、彼女に声を掛けようとは思えなかった。
きっと、この優しい空気にもう少しだけ揺蕩っていたかったから。
入り口に半身を隠すように彼は彼女のずっと後姿を見つめていた。
小鳥が囀るように歌を歌いながらも、食事の用意をする彼女の後姿は流れるように踊り、とても楽しそうだった。
ふと、そんな彼女のことを美しいと思った。ずっと、見ていたいとも。
「ぇ――!?」
不意に、前触れなく彼女の身の翻る。
入り口に半身を隠した彼の姿を認めると数秒ほど不思議そうな顔をしていたが、すぐに顔を真っ赤に染めあげて、まるで鳩が驚いたような声がその喉から滑り出る。
「ぇ、ぇ? な、なんで、こんなところにいるんですか?」
白い肌を見事に真っ赤にした彼女の様子は、それはそれは見事なもの。
ぱたぱたと慌てふためく様がどこか滑稽で、彼は思わず笑みを零してしまった。
「いや、その歌があんまり綺麗だったから、ついつい釣られて――」
笑みを顔に貼り付けた彼からは、そんな自分でも驚くような言葉がするりと口から出て行った。
それは彼の性質からは有り得ないような言葉ではあったが、一度出てしまったものはもう二度と帰っては来ない。
そんな言葉に、まるでぷしゅっと頭から湯気を出すかのようにして硬直した彼女に思わず彼はうろたえてしまった。
「あ、ち、ちゃうや。なんつーか、その、ご、ごめんっ!」
「い、いえ。そんな……謝られる事じゃ……」
彼女はどうにかそれだけを返したが、顔を俯かせてますます縮こまってしまう。
とくとくと早鐘を打つ心臓の音が、現実に流れていってしまいそうで、何だかとても気恥ずかしかった。
「あの、さ……」
そんな戸惑いを持たせたような彼の声にも、彼女は今にも飛び上がらんばかりにびくりと反応し、彼をますますうろたえさせた。
しかし、言い掛けたことを最後まで言い切ってしまおうと彼は勇気を振り絞ることにした。
「もう少し、聞かせてもらっていいかな――?」
きっと、その声には様々な感情が含まれていた。
だから、何処か優しいその声に、俯いたまま口を噤んでいた彼女は一回だけこくんと頷いて、彼女は再び旋律を唇でゆっくりとなぞり始める。
そこでは優しい旋律が、静かに流れていた。
その後、何時まで経っても来ない彼に彼の雇い主が数時間に渡ってオシオキをしたのはまた別の話。
―了―
後書き。
即興で書いたものに少しだけ肉をつけたお話。思い付いたネタ元は某昔話のあの有名な曲。
何だか、彼があまり彼らしくなくなってしまいましたが、見逃してくれると大変有難いです_no
以下、月と子猫と夏の夜のレス返しです。
>米田鷹雄様
確かにギャップがありますね。次回から気をつけます(汗
>白様
有難うございます。一味違う珍味を目指しました(笑
>偽バルタン様
有難うございます。優しさはとても大事なものですよね?(笑