「ふう…」
中心部よりは少し離れた、しかしテムズ川にほど近い、もうすっかりと住み慣れたアパートの一室。
Gメン御用達のアパートの5階、やたらに古い建物にはエレベーターもありはしない。
今日も横島の動向についての情報は手に入らず、気落ちしたせいか普段より重い足をなんとか動かしつつ、部屋の前にたどり着く。
鍵を差込みドアを開け、持ち歩く事が習慣になってしまった傘を少し乱雑に置く。
「全く、ロンドンに気候は無くとも天候はある、などと誰がいったのでござろう」
通年を通してあまり変化のない気候に反して、とても変わりやすいロンドンの天候。
今日にしても昼は快晴だったのだが、夕暮れから急に土砂降りに見舞われた。
おかげで買ったばかりのパンプスも台無しになってしまったのだから、愚痴の一つも言いたくなろう。
ぶちぶちと文句を言いながら、水気を取りシューキーパーをはめると、ようやく部屋に上がる。
いつもの様に暗い部屋の明かりをつけると、雑然とした部屋が浮かび上がる。
持って変えるには少し多かった荷物をテーブルの上に放り出し、冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出すと、口に含んだ。
乾いた喉を落ち着かせると、改めて部屋を見回す。
洗い物のたまったキッチン、乱雑にちらばる私服、しわくちゃのベッド。
さすがにゴミ箱から物が溢れたりはしていないが、そこかしこに埃が目に付く。
「西条殿には見せられない部屋でござるなぁ…」
ジャケットをハンガーにかけると、窓を開け放ち、空気を入れ替える。
「全く、うぃんざーだかなんだかは知らんでござるが、いつまでもこの【ねくたい】には慣れないでござる」
窓べりに腰掛けつつ、誰に聞かせるでもなくつぶやき、夜の街の景色を見渡す。
目の前にそう高い建物は立ってはいないが、別段ビックベンと呼ばれる国会議事堂や、ロンドンアイと言う観覧車、エジンバラの駅といった夜景の名所が見える訳ではない。
テムズ川の近くとはいえ5階くらいの高さから見える夜景は、代わり映えのしない路地裏の町並み。
石畳や街灯ばかりが目に付くが、家々の明かりや家路を急ぐ人たちは日本にいた時と変わりない。
「さてさて、今日も終わった、と…」
6月、ロンドンの夜は格別に冷え、寒さのせいか景色は透明なまま。
雨を降らせた雲が月を遮り、かすかに合間から光がこぼれている。
「明日は晴れると良いのでござるが」
体まで冷えない内に部屋に入り、窓を閉める。
カーテンを引くと、シロはブラウスのボタンを外しつつ、バスルームに向かう。
ノブをひねると、湯気と共にお湯が勢い良く飛び出してくる。
手をかざすとちょうどいい湯加減で、古い建物ではあるが、帰ってすぐに入れるこのお風呂は気に入っていた。
色々と日本とのお風呂の様式が違い、当初は階下に水漏れをさせてしまったりしたが、今ではすっかりくつろげるようになっていた。
「服を脱いで、と…」
部屋に戻ると、スカートのフックを外しジャケットと同じハンガーにかける。
ネクタイを外し、ブラウスも脱いだシロは、下着姿でベッドに飛び込む。
沈めた顔をふと上げると、部屋の端にある電話機のランプが点灯している事に気付く。
「おや、珍しいでござるな…」
携帯の普及した今、わざわざ家の回線に留守電を残す人物は少ない。
ゆえに、そのランプがついているだけで誰からの伝言かは想像がついた。
「タマモから、かな」
それほど頻繁ではないが、海を越えて連絡を取り合う事も珍しくもなかった。
4年前からずっと、小憎らしいのは変わらないが。
再生ボタンを押すと、背中に手をまわしブラのホックを外す。
締め付けから解放された胸は幾分か楽になったが、それだけ肩にかかる重さが増す。
ふっと力を抜くと、機械的な案内が終わり、タマモのメッセージが聞こえてきた。
「…シロ?久しぶりね。
ロンドンはどうって聞きたい気分もあるけど、今回はパス。
用件だけを、話すわ」
いつも無駄話などしないではないか、タマモの仏頂面を想像して思わず笑う。
「横島が、帰ってきたの」
そう、横島が。
意識していなかった言葉は、右から左へ抜ける。
ショーツに手をかけて、脱ぎおろそうとしていた瞬間、ぴたりとその手が止まって。
「あんたは研修があるでしょうけど、逃げないように捕まえとくから…」
突然、言葉が明確に言葉となって頭の中に飛び込んでくる。
シロは殴りつけるように停止ボタンを押すと、また最初から聞きなおす。
「―横島が、帰ってきたの―」
停止させて、巻き戻して。
何回そうしたろうか、ようやく自分にその言葉を理解させた。
「先生が…戻ってきた…」
咀嚼できた言葉に、どれほどの力があったのだろうか。
ぺたんと電話の前に座り込むと、しばらくの間呆けていた。
「先生が…戻ってきたのでござるか…」
早まる鼓動、上気する顔。
苦しくて、思わず自分自身を抱きしめる。
「先生…」
何度口にしたか分からないその言葉、今はもう虚しく消えていく事は無い。
シロは一人、じんわりとした嬉しさに包まれていた。
「…全く、タマモも間が悪いでござるな」
三分の一ほど張った湯の中でしばらくつかると、石鹸を使い体を洗う。
洋式のお風呂に慣れたシロが、連絡の取れなかったタマモに聞こえるはずも無い文句を言う。
あれから日本に連絡を取ろうと神父の教会に電話をしたのだが、どうしたことか誰も出なかった。
日本は丁度朝くらいの時間だろうに。
シロは今日に限ってといぶかしがっていたが、それも仕方ない事と諦めると、気分を切り替えて風呂に入る事にしたのだった。
「まあ、逃がさないといっている事だし。
イギリスから気ばかりはやらせても、どうにもならないでござるしな…」
胸から腰へ手をまわしつつ、柄の付いたスポンジで泡を伸ばす。
ロンドンにしては珍しく湿気が強かった1日、汗を流す事が心地よい。
シロは腰の辺りを念入りに洗うと、今度は足を伸ばしてつま先までスポンジをかける。
余裕のあるバスタブは、ゆったりと体を洗う事を許してくれていた。
「ふぅ…」
汚れを洗い落とすと、シロはバスタブから出てシャワーを使う。
水事情が日本ほど良くなく、また最初にお湯を溜めたタンクの水量を使い切ると後は水しか出ないのであまり長くは使えないが、それでもこの瞬間が一番気持ちよいことに変わりは無かった。
頭からしばらくお湯をかぶり一度止め、肩から足へ、流れていく石鹸の泡を眺める。
撫でた肩、張った胸の谷間から、くびれた腰、突き出した大きい尻、長く伸びた足へ。
するりと落ちるそれを見ながら、シロはこの4年間を思う。
「随分と…変わってしまったでござるなあ…」
それは横島も同じなのではないだろうか。
かつての美神と同じ様に、女らしいと言えばあまりに女らしくなった自身の体をまじまじと見つめ、考える。
「先生は拙者を見て。
どう思うのでござろう」
遠いというには少し近い、昔。
自分はあまりに幼く、無意識に過剰ともいえる接触をしていた事を改めて思い起こす。
今の自分には、間違っても目の前でショーツをずり下ろすなど出来ない。
「あの頃、今の様であれば…。
先生とは、どう接していたのでござろう」
ずっと前から愛してましたー、などといって飛び掛る横島を、美神の様に殴り倒していたりしたのだろうか。
今更考えても仕方ないことと分かってはいるけれど、どうしてあの頃、自分はもっと大きくなかったのか。
なぜ、幼かったのか。
悔やんでも悔やみきれない、歯噛みするような想いが駆け巡る。
あの日。
紅に沈んだ横島を見て。
必死にヒーリングするおキヌと呆然と座り込む美神の姿。
平和な日常が砕け散るその瞬間まで気がつけなかった自分への、後悔の念。
幼かったと言い訳するには、あまりにも強かった血の匂い。
全てが通りすぎた今に、横島を惹きつける様な肢体を持ったとして、それがなんになろう。
薄い桜色の、肉つきの良い唇。
形の良い胸、ほのかに淡い薄紅色の乳首も。
きゅっとしまった細身の腰、その代わりに広く大きい尻。
セックスシンボルとしては十分に過ぎる。
だがそれは、シロにとってむなしい物でしかなかった。
「先生…」
久しく忘れていた、横島の匂い。
もう、とうに現実感は無く、記憶の中にしかないが。
体の中に匂いは残っているようで、自身の感覚と共に匂いが体中にまとわり付くように広がっていく。
少しして気付き、シロは、はたと内股を撫でる。
「ん…」
そのぬめりのある透明な液体、反対にシロの顔は赤く色づいて。
指の間で絡めると糸を引くそれがなんなのか、もうシロは知っていた。
「いまさら、こんな…」
もう一度、確かめるように女性器に手を触れる。
縦になぞるように指を引くと、それはますますあふれ出してきて、そして指を先端の小さな丸い出っ張りで止めた。
円を描くようにゆっくりと、でも少しだけ強く。
水滴で湿った壁に左手をつくと、女性器から体中に伝播する刺激。
「こんな事、したって…」
何が変わる訳でもないのに。
口からこぼれ、徐々に早くなる息遣いにシロは羞恥心を覚えつつも、その行為にシロは身を任せた。
翌日の昼、日本ではちょうど夜だろうか。
研修の合間に、ようやくシロはタマモを捕まえる事が出来た。
朝はどうしたのかと問うシロに、タマモの声は優れず。
ただ一言、横島の事は心配するなと、冷静な口調で言った。
それが余計にシロにはおかしく思え、大丈夫かと聞き返したが、タマモは大丈夫だと言うばかり。
「あんたは心配しないで、研修無事に終わるように頑張んなさい。
横島も、あんたに会いたがってるわ」
タマモの言葉を信用するほかにはないのだが、一抹の不安がシロを捉える。
だがそれにもまして、横島が確かに日本にいて、タマモがそばにいるのだと思うと、喜びが溢れてくる。
4年間、どんな思いで待ち続けたか。
里での気楽な暮らしを捨ててまで、Gメンに入隊したのは、ひとえに横島の動性を掴みたかったが故だ。
結果として、日本に残ったタマモが先に横島に再会したのは皮肉だが、それも今は些細な違いでしかない。
この研修が終われば、横島に会えるのだから。
それが待てずにイギリスを飛び出そうとするほど、自分はもう子供ではない。
「そう、でござるか…。
研修はあと一月もすれば終わるでござるから、先生にもよろしく伝えてくだされ」
「わかったわ、じゃあね。
シロ」
チン、と音がして電話が切れる。
電話口の向こうで、先生は今どうしているのでござろうか。
シロは受話器を掴みつつ、思う。
「声を聞きたい、と言えばよかったでござるかな…」
タマモもシロも、お互いに横島を電話に出そうとはしなかったのは、とにかくも自分自身で確かめたいという思いが強かったのかも知れない。
だが、そんな思いを振り切るようにシロは焦る事はないと自分に言い聞かせると、ようやく受話器を置いた。
「さて、今日もまだまだやる事は山積みでござる。
頑張って頑張って、胸を張って先生に会いにいくでござるよ!」
勢い良く席を立つと、数々の書類を挟み込んだバインダーを手にして駆け出す。
スカートから飛び出した長めの、カールした尻尾は左右にパタパタと忙しい。
カツカツと軽快に響く音は、勢い良く署内の皆に届く。
美しくあでやかに成長したシロが、おしゃまなアルテミスと愛情を持って呼ばれる所以はこの辺りにあるのだが、シロはそんな事にはお構いなく。
今日も騒がしく、働いていた。
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こんにちは、とおりです。今回はシロの夜明け前、いかがでしたか?
少しばかりアダルトな描写が入りましたので、一応15禁にさせていただきました。
ストーリーは順次進む予定ですので、楽しみにしてくださっている方々には、お待ちいただけるようお願いいたします。
ではでは。
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