「おっはよーございまーす! これどうぞ!」
外を漂う空気も幾分暖かくなり、台所を預かる主婦には水仕事の厳しさも軽くなってきたある日のこと。
いつになく張り切った表情の横島は、出勤するなり美神に小さな包みを突き出した。
「おは……え? な、なによ?」
目の前に出されて反射的に受け取ってしまったものの、何が何だか判らない美神。
包みは綺麗にラッピングされている。何か持って来いと言った覚えもないし、プレゼントとしてもいきなりすぎて理由がさっぱり――
「あら、おはようございます」
「あ、おキヌちゃんもおはよう。はいこれ」
遅れて部屋に入ってきたおキヌにも、横島は形は違うが小さな包みを差し出した。
それを受け取ったおキヌは、まあ、と目を丸くして言った。
「お返しですか? ありがとうございます」
「いやあ。これまで毎年――同じ年だけど――いつも、もらうだけでお返しできなかったからね」
「別に気にしなくても良かったんですよ? 私、あまりチョコの意味分かってませんでしたし」
そこまでを聞いて、ようやく美神にも合点がいった。
そういえば今日は三月十四日。これは、横島からのホワイトデーのプレゼントなのだ。
最近いくらか給料が改善されてきたので、この辺にも気を配れる余裕が出たということだろうか。
お返しに何を送るかで返答の意味合いが異なるとも言うが、諸説あるというし、美神も知らない。おそらく横島にもそこまでの考えは無いだろう。
元々この手のイベントを気にかけてなかった美神は、ああなるほどと納得しかけて、ふと気付いた。
「あれ? でも、私先月、あんたにあげてない気がするけど」
気がするというか、絶対あげてない。
西条には例のごとくブランドメーカーのチョコを送った。また、今回は同じものを父にも送った。
しかしそういえば、普段なら駄々をこねてチョコを欲しがる横島が、まるでその日を忘れたかのごとく何もしなかったが。
「はっはっは。なあに、例え女性側から愛がもらえずとも、プレゼントは出来ます。愛とは与えるものなのですよ」
「え……あ、はあ」
どっかで聞いた言葉をわざとらしくイイ笑顔で語りかけてくる横島に、それでも納得しかけてしまう美神。
だが、
「そういうわけで来年はその三分の一でいいから愛ををををっ!」
「――って、そういう魂胆かっ!?」
げしっ! どべしゃっ!
突撃してきた横島を叩き伏せて、美神は呆れつつ包みをつき返した。
「与えるだけじゃあないじゃない。そういう打算的な代物なら要らないわよ」
「つう……って、あ、ちょっと! お返しはともかく、一応気持ちなんだし、受け取ってくださいよ!」
包みから逃げつつあくまで返品不可を言い張る横島に、まあいいかと思い直して美神も包みを引っ込めた。
下心が見え見えの代物と言えども、その下心がここまでばればれなら無いも同然だ。プレゼントをもらうことは嫌ではないし。
「まったく。ま、捨てるのももったいないし、もらってあげるわ」
強気な口調のその実、美神の口元が僅かににやけてることには、本人も横島も気付かなかったが。
さて、それを微笑みつつ見ていたおキヌが、包装を破らないようにそっと自分の包みを開けた。
中から出てきたのは、ちょっとばかり値が張りそうな豪華な箱に納まった、真っ白なマシュマロ。
「わあ、これ、大手デパートまで行かないと売ってないやつじゃないですか」
「あ、うん。クッキーだと、下手なものよりもおキヌちゃんが作ったものの方が美味いからと思ってね」
「えへへ、そんなことないですよ……」
横島からの言葉に、おキヌは照れる。
知る人ぞ知るお菓子メーカーの製品で、おキヌが普段買い物する商店街などでは扱ってない物だ。
普段こういうものの種類など考えない男が、こういう気を配ってくれたことは、おキヌには凄く嬉しい。
美神も感心した。その辺で買ったクッキーとかで済ませるかと思いきや、それなりに考えられているではないか。
おキヌをべた褒めするような言葉が少し気に食わないが、その辺の黒い感情は片隅に追いやることにする。
「それに、白くてふわっと柔らかくて、おキヌちゃんにぴったりだ」
「えっ……い、いやだもう。横島さん、今日はなんかお世辞が上手すぎますよう……」
「………」
くねくねと身をよじり真っ赤になったおキヌを見て、美神が片隅に追いやった何かが膨れ上がったが、とりあえず目を背ける。
おキヌはいつも横島にチョコをあげてたし、あれくらいのトーク含めてお返しがあってもいいだろう。横島らしくない気もするが。
だがしかし。いくらチョコをあげてないとはいえ、普段世話をしている――はずの――自分には?
期待と恐怖にやや逸る心を抑えつつ、美神はそっと包みを解いた。
そして。
「……横島くぅん?」
びくっ!
「は、はい?」
包みを解いて数秒固まった美神が発したのは、妙なほど猫なで声の、だが何かを押し殺したような声だった。
横島も、ついでにおキヌも、明らかに不機嫌さを内包する美神の声に、ずざっと身を引く。
だが美神は、それを一瞥しただけで特に反応を示さず、左手で横島に包みの中身の箱――箱の前面が透明で中が分かる――を掲げて見せた。
「これは、なんのつもりかしらぁ。説明してくれるぅ?」
「あ、そ、その。高級ブランド品ですし、とりあえず美神さんにぴったりだと思って……お気に召しませんでした?」
その言葉に、笑顔を貼り付けたままの美神のこめかみから、ビキッ!と音がした。
どうやら地雷を踏んだらしいとさらに半歩引いた横島に向って、ズン!と一歩踏み出す。その表情は笑顔のままだが、殺気が隠し切れていない。
おキヌは横島から身を離した。そして美神をなだめようと口を開きかける。
だが、その瞬間に美神にぎん!と睨まれ、すくみ上がってしまった。美神と横島を交互に見ておろおろするものの、何も出来ない。
「どう、ぴったりなのぉ? 教えてくれないかしらぁ」
「て、手触りや、大きさや、値段……じゃなくて、えーと、そう! 透き通るように白くて柔らかで華やかで、雰囲気とかもぴったり!」
「ほほぅ」
横島が言葉を放つたびに美神は前進し、ついに横島を壁際に追い詰めた。
逃げ道を捜そうにも、プレッシャーのせいで横島は美神から視線を外すことすら許されない。
彼の視界の隅で、おキヌが救急箱を取り出していた。自然治癒は間に合わないだろうとの判断か。
「いい表現じゃない? お世辞にしても、それだけ言われれば悪い気はしないわねぇ?」
「そ、それなら」
「でもね……」
一縷の望みをかけた横島の言葉は、あっさり遮られ。
美神は左手の包みを、横島の顔面にずべしっ!と叩き付けた。
「こんな破廉恥な下着なんて贈るのは、どう考えてもセクハラなのよっ!」
どごめしゃっ!
「おぶぅっ!?」
叫ぶと同時の神速の右ストレートを腹部に受け、血へどと共に壁にめり込んだ横島。
「えっ! それ、下着なんですか!?」
驚いた声をあげるおキヌ。彼女の目にはそれは、ただの布切れにしか映らなかった。
白いのはいいとして、薄くて小さすぎて、形も下着には見えない。
さもありなん。これは下着という名の装飾品である。装飾品以上の意味も用法もまったく無い代物だ。だって隠せないし。
彼女の驚きを無視して美神がさらに横島に躍り掛かる。
「あんたわっ! こういうっ! エロスしかっ! 私にっ! 求めてないのかあっ!?」
ごすっ! めしゃっ! ずごっ! べきっ! ばきばきぃっ!!
「うがっがががっあががっあがっ!?」
零距離からラッシュラッシュ。右に左に上から下から。横島はなす術も無く翻弄される。
壁にめり込んでいるので、回避はおろか、衝撃を逃がすことも出来ない。
ちょっとばかり涙目の美神の表情も、打撃で揺れる視界では捕らえることが出来ないでいた。
ガチャッ
「やあ令子ちゃん。ホワイトデーの……」
無限コンボが続くその最中、室内に入ってきたのは、花束かぬいぐるみだろうか、大き目の包みを二つ抱えた西条。
突然の訪問者に、美神の動きも止まり、振り返る。
「って、し、失礼っ!」
部屋に入って最初に目にしたのが、血だるまの肉塊と、それを掴む般若の形相の女性である。
西条にも見慣れた光景だが、だからこそ、美神の怒りが治まっていないのが分かった。回れ右をしようとした西条に非はないはずだった。
だがその時、単なる肉塊と思われた物体から声が出た。
「お、俺は、西条に言われて……」
「「な!?」」
固まる西条と美神。
美神が視線だけで尋ねると、西条は両手で違う違うとゼスチャーした。
「なな、何を言ってるんだい!? 僕がそんなセクハラまがいのプレゼントなど、考案するはずが無いじゃないか!?」
……いきなり語るに落ちている。
「西条さぁん? 何で、横島クンのプレゼントがセクハラまがいの代物だって、ご存知なのかしらぁ?」
「しまっ!? いや、そのっ! 彼をからかっただけで、それをしろと言ったわけでは!」
ぼとり。
美神の手から離れ、横島だったと思われる肉塊が壁から落下する。
それに一瞥だけくれると、美神はゆっくりと西条の元へ歩を進めた。
手持ちの荷物を床に落としたのも構わず、西条は冷や汗をかき後ずさりしながらもなんとか言葉を紡ぐ。
「いや、落ち着け令子ちゃん! 僕はホワイトデーにどんなものを贈るべきか聞かれて、例を挙げただけだ!」
「ふうん? つまり、私みたいなあばずれには、ああいう薄くて小さくて透けてフリルレースで紐で、あちこち切れ込んでるエロエロな下着がお似合いだと?」
「切れっ!? ま、待ってくれ! 下着を贈る話を教えたのは僕だが、品物を選んだのはっっ!?」
いきなりの前蹴り……と見せかけて足を踏みつける。痛みで足元に気をとられ、頭を下げてしまった西条のネクタイが、がっしと捕まえられた。
引っ張り下ろされた西条の顔に、怒りに燃えた美神の顔と、霊気を纏っているのか光り輝く平手が迫る。
「そういえば横島クンがあんなブランド知ってるわけないわ! まして買いに行くような機会もないわよ! 西条さんの差し金でしょう!」
「ち、違ぶほっ! お菓子のブランドはべふっ! 教えたがぼはっ! 下着は知らなばひゃっ!?」
「この期に及んで見苦しいわよっ!?」
……びしばしべしびたんびたんべたんぼこべこ……
口答えも許されず連続ビンタを叩き込まれ、確実に顔面を風船にされていく西条をとりあえず無視して、おキヌは横島に駆け寄った。
手早くヒーリングと止血をしながら、呆れた様子でお説教する。
「なんで下着送ろうなんて話に乗っちゃったんですか」
「いや、なかなか美神さんに贈るもの思いつかなくて、半分ジョークで……あそこまで怒るとは」
ジョークと言いつつも、あれに身を包んだ美神が「お返しは体で……」となる展開を彼が妄想したことは想像に難くない。
それに、あそこまで怒った理由はおキヌへの贈り物との対比もあるはずである。
そう思ったおキヌは、ちょっと思いついて尋ねた。
「……私に、その、ああいうの贈ろうとは?」
「え? いや、おキヌちゃんには“全然”似合わないって」
あっさり言い放った横島に、おキヌは消毒液をたっぷりかけた。
「ふんぎゃあっ!?」
「あ、染みました? 我慢してくださいね」
平然と返すおキヌに、やや怯えた目を向けて震える横島。
何か怒りに触れたことは分かっても、横島にはさっぱりその辺の理屈が分からないだろう。
おキヌの八つ当たりはそこまでで、後は普通に手当てが進んでいく。
最後に横島の顔を拭いつつ、おキヌはやや躊躇いながら質問を口にした。
「もしかして、さっき私に言った台詞も西条さん仕込みなんですか?」
「うっ……ま、まあ」
怒らせてしまったかと身を硬くした横島だったが、おキヌは怒った様子はなかった。
他愛もないいたずらをした子供を叱るような、ちょっとだけ悲しげな、でも優しく包み込むような笑顔で、横島の手を握る。
「結構嬉しかったけど、借り物だなんて残念です。……次は、横島さん本人の言葉でお願いしますね?」
「う、うん……わかった。ごめんな」
そうおキヌに微笑みかけられ、横島も顔を赤くしつつ答えた。
向こうで、その雰囲気を感じ取ってさらに暴走する美神により、意識を手放しかけている西条。
そこから思わず目を背けたため、不自然な格好になってしまったが。
(ていうか、お菓子と同様、ブランド品の集まるデパートで買っただけなんだが……。贈り物なのにエロに負けた俺を許せ、西条)
(許せ、る、かあっ……! げふっ)
ちなみに。
「なあに、この程度のもので大騒ぎしたの? これよりもっとエグいの、いくらでもあるのに」
「……この程度って、ママ……もしかして、こういうの結構持って」
「あ、こ、コホン。とりあえずこれは私が引き取るから、令子は横島クンに何か別のもの買ってもらいなさい」
「え、あ、ちょっと! それどうするつもりなのよぉっ!?」
問題の代物は闇に葬られたと、何故か残念そうな美神は言ったという。
END