冬は好きな季節だ。
とは言ってもそう何度も経験した訳じゃない。
転生してから六度。
その間に何となく思ったこと。
灰色に染まっているような都会の街並みも、冬の風が洗い流してくれるから。
車と、人と、不自然に囲まれた街も、この季節は少しマシになる。
山々は白く染まり、生き物の気配は途絶える。
でもそれは春に向けてじっと耐えているだけ。
冬があるから、春の緑が萌える様に心踊る。
冬が来るから、秋の実りに感謝の意を忘れない。
だから、私は冬が好きだった。
街を歩く。
冬に彩られた街は、様々な表情を見せてくれる。
寒さに背を曲げて歩く中年の男。
白い息を吐きつつ楽しそうにお喋りをしている女子高生。
コートのポケットに手を突っ込み、ぼうっと空を見上げる青年。
腕を組んで歩く幸せそうな恋人達。
……私の隣には、誰も、いない。
街角にある小さな公園。
くすんだ白い色のベンチに腰掛け、コンビニで買った缶珈琲を飲みつつ、空を見上げる。
さっき見た青年に影響されたのだろうか。
それとも、仲がいい恋人にあてられたのか。
前を向いていると、何かが溢れて来そうで。
瞬きもせず、ただ空を眺めていた。
重く圧し掛かってくるような空。
気分も比例してどんどん重たくなってゆく。
少し、冬が嫌いになったかも知れない。
ふと、持っていた缶珈琲がぬるくなっている事に気が付く。
ため息を一つ吐いて立ち上がる。
どれだけ呆けていたのだろうか。
人肌の珈琲を流し込み、空き缶を屑籠に投げ入れた。
そろそろ事務所に戻ろうかと思い公園の出口へと目を向けると、仲良く手を繫ぐ男女の姿が見えた。
また、重いものが胸の下に広がってゆく。
それ以上幸せそうな彼らを見ているのが苦痛で、私は走り出した。
風が、頬を斬るかの様に吹く。
構うものか。いっそ斬れてしまえば良い。
斬れても人外の治癒力は小さな傷をものともしない。
冬の空気にミニスカートから出た足が冷たくなってゆく。
知らない。どうせなら凍てついてしまえば良いのに。
冷たいと感じたとたんに身体が熱を帯びる。
傷ついてくれれば気が紛れるのに。凍てついてしまえば楽になるのに。
人より遥かに丈夫なこの身体を理不尽だと理解しつつも憎々しく思う。
屋根から屋根へと飛び移り、人では在り得ない速度で駆ける。
人狼である相棒ほどでは無いが、私も犬神と呼ばれるものがひとつ。
地を駆け抜ける事は本能のレベルで叩き込まれた行動。
走れなければ、今生きていない。
視界がうっすらと滲むのを気のせいだ、と自分に言い聞かせ、ただ、走り続けた。
どれだけ走ったのだろう。
気が付けば、何処かの山の中にいた。
(これじゃアイツを莫迦犬なんて言えないわね)
今度からは違う事を言おうと考え、街を眺める。
そこに在るのは万の灯と、人と、恋人達。
また視界が滲む。
違う。私はこんなに弱い女じゃないはず。
……はず、だった。
よく考えてみればこの体になってから失恋なんて経験したことが無い。
そもそも恋愛感情というものを持ったのも一度だけだ。
前世を鑑みても、伝説通りなら失恋なんて程遠い。
そうか、おキヌちゃんもこんな痛みを感じてたんだな。
失恋で一月ほど落ち込んでいたおキヌちゃんを、私は何処か覚めた目で眺めていた。
因果、応報、か。
自分が同じ苦しみを味わうなんて考えた事もなかった。
その苦しみが、どれだけ肉体的にも、精神的にも辛いかなんて考えも及ばなかった。
(帰ったら、おキヌちゃんにも謝ろう)
きっとおキヌちゃんはきょとんとした顔をするだろう。
理由を話しても、気にする事無い、と言ってくれるだろう。
もしかしたら、逆に慰めてくれるのかもしれない。
おキヌちゃんの性格からして多分間違いない。
でも、今は優しさなんか欲しくなかった。
いっそ酷く傷付けて欲しいと思う。
激しく、無残に、私と言う存在が砕け散ってしまうほどに。
それこそ、失恋などというものをその言葉ごと忘れられるように。
「こんな所にいたのか、アホ狐」
どれほどの時間が経ったのだろう。
座り込んで、ただ街の灯りを眺めていた私の背後から声が掛けられた。
転生してから、最も多くの時間を共に過ごし、最も多くの話をした、友、相棒、片割れ、兄弟。
「あら、関西人にアホは褒め言葉よ? 単純な狼さん」
可能な限り平静を装って首だけ後ろに向ける。
目に映るのは、少し息のあがった銀色の髪をポニーテールに纏めた麗人。
「誰が関西人だ。まったく、心配してきてみれば」
ほんの一瞬、驚いた表情を見せたが、二、三度頭を掻いた後には元に戻っていた。
ホレ、と言って赤い球体を放り投げてくる。
真っ赤な、林檎。
彼女の髪の一部を切り取ったかのような鮮明な赤。
「どうせ朝から碌なもの口にしてないだろ。食え」
そう言うと隣に座り、もう一つリンゴを取り出すと豪快に齧る。
こちらには視線を向けず。
眼が赤い事も、声がくぐもっている事もばれている。
それに気が付かない振りをして接してくるのは、優しさか、残酷さか。
どちらにしろ、今はそれがありがたかった。
しゃり、と一口林檎を口に含む。
最初は酸っぱく、その後爽やかな甘さがのどにしみ渡るように広がってゆく。
くぅ、と小さくお腹が鳴る。
どうやら、失恋しててもお腹は減るものらしい。
しゃり、と口に含んだ二口目は、ほのかにしょっぱかった。
「美神殿から聞いたのだが、悩みは人に話すと軽くなるそうだ」
三口目を口に含んだところで、しょっぱさの原因が自分の涙だと気付いた。
一度流れ始めた涙は、拭おうと、まぶたを閉ざそうと止める事が出来なかった。
「ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー!!」
何を言ったのかは憶えていない。
多分、相棒にも何を言っているかは分からなかったと思う。
ただひたすら、相棒の胸に顔を埋め泣いていた。
生まれたての赤ん坊のように、夢破れた男のように、狂った様に、ただ、大声を上げて泣いていた。
相棒は、何も言わず肩を抱いていてくれた。
「あたしね、恋に恋していたんだと思う」
ぽつり、ぽつりと話す。
「運命の出会いとか言うモノを信じてしまってたのよ」
今までの事を思い出しながら。
「人間に影響されすぎたのかな? 五年前にたった一日一緒に居ただけの人間に惹かれてたの」
出会いは確かに衝撃的、と言って差し支えなかった。
事務所の人間以外で偏見無しに自分を見てくれた数少ない存在。
「もう一度出会わなければ、消えてく感情だったんだけどね、不幸な事にね、偶然街で会ってしまったのよ」
実際に半分忘れかけていた。
遊園地や風船を見ると思い出すが、ただそれだけ。
「多分、その時に惹かれていたのがいきなり恋になったのね」
一度目は偶然でも二度目は必然。
この出会いは運命以外どのような呼び名があろうか。
「今思い出してみると、懐かしい匂いを何となく追いかけてたのよ。そりゃ、出会うわよね」
当時の自分にとって意図して作り出した機会かどうかなんて関係なかった。
もう一度会えたのが嬉しくて、細かい事なんか全て意識の外に追いやっていた。
「薄々感づいてたのよ? 妖狐の嗅覚を誤魔化せる筈もないんだから」
別の女の匂い。
不快なそれも意識的に無視した。
「なのにね、何を期待してたんだろ」
結局、私は彼の中では昔の思い出でしかなかった。
「真友の、馬鹿野郎!!!」
立ち上がり虚空に向い叫ぶ。
霊力を篭めた声を、遠吠えの要領で吐き出した。
「もういいのか」
じっと、ポケットに両手を突っ込んで立っていた相棒が声を掛ける。
「帰ろう。皆が待ってる」
沈黙を肯定と取ったのか、私の返事も待たずに歩き出す。
最近必要な事以外あまり話さなくなった。
内面での変化は確実に外面に変化をもたらす。
真っ直ぐな瞳はそのままに、無邪気さがなりを潜め、代わりに意志の強さが前面に出てきた。
思えば相棒が変わったのも失恋を経験してからだ。
多分、私も変わっているのだろう。
自分では気が付かないだろうが、確実に。
「早くしないと置いてくぞ」
振り返って私を呼ぶ相棒は同姓である点を差し引いても格好良く映った。
コイツが男なら良いのに、等とくだらない事を考えつつ銀髪の揺れる背中を追いかけた。
二、三歩歩いたところで街を振り返り、
バイバイ、私の幼い初恋。
最後に小さく、呟いた。