薄汚れた木製のドアを押し開けると、その女性は店の入り口で店内を見渡した。薄暗く陰気な空気が漂い、客も少ないこの店はある界隈にある寂れたバーであった。
女性はコートを身にまとい、顔にはサングラスをしていた。素性を知られたくないという意思がそこからは伝わってくる。目深にかぶった帽子もそれを裏付けていたが、そこから覗く緋色の髪は、彼女の意思に反して彼女を特徴付けていた。
女性の目が隅にあるぼろぼろの長ソファをとらえた。店の入り口から最も遠く、もっとも目立たない位置。そこには男が一人腰掛けており、琥珀色の液体が入ったグラスを傾けている。無精髭を伸び放題にしているその顔には、凶の相が色濃く浮き出ていた。一般の人間なら、通常関わり合いになりたくない類の人間。それが一目で見て取れる、そんな男である。
しかし彼女は足を踏み出した。ハイヒールで床を鳴らしながら、まっすぐに男の本へと向かっていく。そしてテーブルを挟んで男の前に立つと、見下ろす形で口を開いた。
「仕事を……お願いしたいんだけど」
男は飲み下している液体と同様の濁った目をその女性に向け、そして下卑た笑みを浮かべた。
「どこで俺のことを知ったのかは聞かねえ。……ターゲットは?」
女性は一枚の写真を取り出すと、テーブルの上に放った。そこに映っているのは若い一人の女の子だった。歳は十歳半ばほどだろうか。ショートボブの髪型が似合うその女の子は、撮影者に対して裏表のない明るい笑顔を見せている。それはその女の子の、撮影者に全幅の信頼を寄せている証といえるだろう。
男はその写真を一瞥すると、口笛を吹いた。
「ほお、可愛いじゃないか。将来美人になるぜ? ……あんたに似た美人にさ」
「………」
「おっと失礼、失言だ。依頼人のプライバシーに首を突っ込む趣味はねえ。だがよ、せめてターゲットの名前ぐらいは知りてえもんだな」
覗きこむようにして表情を窺う男に、女性はサングラスの位置を直しながら言った。
「……この子の名前は麻奈よ。そしてあんたの察する通り……あたしの娘」
「ほお、そうかい。まあ、さっきも言ったが事情はどうでもいいんだ。俺からすれば楽しめるかどうかなんでな。その点こいつは、ヤル時随分と楽しめそうだ」
男の物言いに、女性の表情がぴくりと動いた。
「……楽しむ?」
「どうせ殺すんだからよ。女に生まれた喜びと不運を身体に教え込んでやるのさぁ」
そして男は所々抜けた歯をむき出して、楽しくて仕方ないといった笑い声を上げた。
どこかに出かけるとなると、化粧は必須の歳になった。姿写しに映った自分の顔には紛れもない皺が見て取れる。そのことに溜息を吐くと、彼女は化粧品に手を伸ばした。
かつて自分には、こんなものがなくても輝かしい美貌があった。しかし現在ではこれがなくては外も歩けない。年々衰えていく自分の美しさが、悲しく、悔しく、そして恨めしい。
昔は自分の美しさに自信があった。自分の身体に自信があった。しかし今はどうだろう。同年代と比べるならば負けるつもりはないが、自分より年若い娘だったら? 年を重ねるごとに綺麗になっていく若い娘と、年を重ねるごとに衰えていく自分の容姿。今はまだいい。しかし……いずれ女の魅力という面で、太刀打ちできなくなる時が来るだろう。
恐ろしかった。手に入れた大切なものが攫われてしまうかもしれない恐怖。振りほどこうにも振りほどけない。そんな想いを、彼女はここ数年ずっと持っていた。
「やめやめ」
彼女は渦巻く思いを振り払うように首を振ると、ルージュを塗る為手鏡を手に取った。そしていざ塗ろうと唇に当てた時、夫と十歳になる娘の話し声が耳に聞こえてきた。
「………」
彼女は気配を殺して立ち上がると、そっと半開きのドアに歩み寄る。
娘の話す声が、はっきりと聞こえた。
「パパ。あたし、大人になったらパパのお嫁さんになる!!」
バキリと音を立てて、手にしていた手鏡が砕けた。破片が手の皮を破り肉に突き刺さる。熱い血液が指を伝って滴る。それでも痛みは感じない。
ルージュを中途半端に塗った唇をかみ締め、彼女は無言で立っていた。
かつての蛍の幻影が目の前に立っている。母親譲りの緋色の髪と、父親譲りの目の輝き。それ以外はどれも、あの女にそっくりだ。美神の血が流れているとは思えないスレンダーなボディーも、魂の影響を受けているとすれば納得がいく。
自分と夫の面影を持ち、それでもなお主張する蛍の影。
蛍は、ゆっくりと彼女に向かって歩いてくる。ゆっくりゆっくりと近づいてくる。
自分の手に、いつの間にかナイフが握られていることに彼女は気づいた。蛍の歩みは、それが目に入らないかのように変わらない。
やがて蛍との距離が後一歩になったとき、彼女は腕を振り上げた。ナイフの刃が、鈍い光を放つ。
数瞬の時が過ぎた。
最後の一歩を近づき、蛍は彼女の胸にその身を預けた。彼女が振り上げた腕はナイフを握ったまま小刻みに震え、結局振り下ろされてはいない。
蛍が、彼女の胸の内で呟くように言う。
「ママ。大好きだよ……」
その言葉は彼女の胸をえぐった。ナイフがボトリと落ち、全身がわなわなと震える。
「ママは馬鹿だよ。パパの想いはいつでも、ママに向いていたのに」
「あ、あたしは……」
「ママは馬鹿だよ。ママはこんなにも、あたしのことを愛してくれていたのに。いいんだよ、自分を責めなくて……」
「あたし、は」
彼女の腕が、蛍の背に回った。
「あたしは……!」
「ママ、大好きだよ。何度でも、言うよ。……大好きだよ、ママ」
彼女の両目から、涙が溢れ出た。
「令子」
「あなた、あなた」
ベッドに横たわる妻の体を、彼は力いっぱい抱きしめた。
「夢を見たの。悪夢だったわ。とてもとてもいやな夢だった。でも、最後はなんだか、いい夢だったのよ」
熱に浮かされるように、彼女は言葉をつむぐ。その目はもうどこにも焦点は合っていない。妻の言葉に一々頷く夫の姿も、その目は捉えていない。
「あなた、あなた。抱きしめて……」
「ああ、ああ」
妻の言葉に、彼はいっそう力を込めて抱きしめた。
「ああ、あなた……。温かい」
その言葉を最後に、妻の体から一切の力が抜けた。
断続的な電子音を発していた脳波計が、間が抜けるほど長い音を立てる。
「令子……。令子!!」
涙に濡れる彼の目に、妻の安らいだ表情が映った。ここ数年、見ることのなかった表情だ。
「この馬鹿……。最後の最後に満足そうな顔で逝きやがって……」
彼は零れ落ちる涙を拭いもせずに妻の死に顔を眺めた。
いつも泣いていた。いつも怯えていた。いつも謝っていた。何かに? 誰かに? それは忠夫にはわからない。
「結局、何故お前が病んでしまったのか、わからなかったな。ヒャクメも、そして」
彼は振り返った。そこには彼の最愛の娘が立っている。緋色のショートカットが似合う彼の娘は、前世の能力を受け継いでいた。
「お前の精神ダイブでも、原因はわからなかった……」
「……うん」
かすかに娘は頷いた。その目からは、とめどなく涙が流れている。
「それでも最後にこんな顔で逝ったんだから、不遇な死じゃないよな、きっと」
彼はまるで言い聞かせるように言うと、妻の体に額を押し付けた。だんだんと失われている体温を感じた彼は、さらに涙を流した。
父親の背後でその様子を見ていた娘は、涙にぬれた顔をまっすぐ母親に向け、呟く。
「ママ。大好きだったよ」
小さな小さな呟きは、彼の父親の耳には届かなかった。
*
目覚めるとベッドの上だった。ここ数日見慣れた白い天井が視界に入る。病院の天井らしく汚れはほとんどなく、清潔感を感じさせる天井だった。その天井をぼーっと見ながら、彼女は深い溜息をつく。
夢だった。はっきりと思い出せる上に、とても現実感のある悪夢だったが、夢は夢だ。気にするようなものではない。そう彼女は言い聞かせる。
つと横に視線を向けると、彼女の最愛の夫が涎を垂らして寝ていた。その間抜けな表情に、どうしてこれに惚れたんだろうと少し疑問に思う。もっともその疑問はすぐに霧散する。何故……そう考えた瞬間、その理由が怒涛の勢いで脳裏に浮かんだからだ。
顔を赤くした女性は、夫から視線をはずすと自身の腹部に目を向けた。
臨月を迎えた彼女の腹部は張っており、いつ陣痛が始まってもおかしくない状況にある。だからこそこうして入院しているわけだが……。
「考えてみると、やっぱり縁起でもない夢だったわね」
一度は気にしないと結論を出した夢に、彼女の思いは向かった。たかが夢。そう思うには、やはり不吉すぎる夢だ。……特にこれから産む子供が女の子だと知っている上に、多分あの娘の転生体だと予測がつく故に。
「予知夢……とか?」
普段強がっているが、自分が本当は弱い女だということを認める位には、最近素直になってきたと思う。だからこそ、この未来も有り得るかもと思ってしまう。
できるなら回避したい未来だ。よりにもよって自分の娘を殺すよう、殺し屋に依頼をするような母親に自分はなりたくはない。結局あの後、胸糞悪くなる笑い声を発する殺し屋をその場でボコボコにするとしても。
また、たわいもない父と娘の会話に本気で嫉妬し、我を忘れるような母親にもなりたくはない。母親が手から血を流しているのに気づいた娘に泣かれて、愛情いっぱいに思いっきり抱きしめるとしても。
そして何より娘を心から愛していて、それなのに憎いというジレンマなぞ味わいたくはない。そのせいで心を壊し、夫と娘を悲しませるなんてことも、したくはない。
「ルシオラの転生体でも娘には変わりないのに。母親の娘に対する想いも、娘の母親に対する想いも、どちらも本物なのにね。……人間って難しいわ」
ただ愛していればよかった。その愛を信じていればよかった。ただそれだけだったのに、夢に見た自分は歯がゆいほど弱かった。ふとしたことでその心を乱した。
「大丈夫。私はあんなふうにはならないから」
そっと腹部をなでる。それに応える様にとんと蹴られた。彼女の顔に優しげな笑みが浮かぶ。愛しそうに限界まで張った自分のお腹を見る。
その表情が、不意に歪んだ。突然激痛が走ったのである。
「っ、き、来た。来たわよ、あなた!!」
陣痛が始まったことを寝こける夫に叫んだ。しかし寝起きの悪い夫はむにゃむにゃと顔を歪めながらポツリと呟くのみ。
「ダメだぁ令子……もうこれ以上おっぱいは飲めない……」
「どんな夢を見ているか! 起きんかいっ!!」
横島令子は叫びながら、思わず夫、横島忠夫をどつくのだった。
あとがき
テイルです。
パソコンのデータが吹っ飛んだとです。
諸々、パーです。
そろそろバックアップをとろう、そう思っていた矢先だったとです。
神様、そんなに私が嫌いですか……。
連載物も根こそぎ吹っ飛び、ちょっと今書く気力が沸かんとです……。
というわけで短編を書き書きする、消沈中のテイルでした。