ここは少々一般的な人間社会とは異なるのではないだろうか、と思う。
たとえば、今目の前でなんとも微妙な空気を形成している男女。
ともに強力な霊能力者である。
だが、とてもそうは見えない。
女の方はボディコン。そう、ボディコンである! あぁ古き良きバブル経済の象徴よ!いや、よく知らないけど。
所長机に座ったその女は、凄まじい形相で男を睨み付けている。
そのようにしか見えない。だが、先ほど廊下で
「引き抜きの話も来てるし、やっぱ給料上げてやんなきゃ駄目かしら・・・でもあいつに大金渡してもどうせエロ本やら何やらに消えてくだけだろうし・・・あーでもあいつの事だから美人が勧誘に来たらヘコヘコ付いてっちゃうかも・・・・」
などとブツブツと呟きながら廊下を行ったり来たりしているのを見た。
どうせ何と言って自給アップを切り出すか考えているのだろう。意地っ張りここに極まれり。
従業員の昇給ぐらいちょちょいと済ませればいいと思うのだが、それが出来ないからこその美神令子なのだろう。
一方、睨み付けられている方の男。赤いバンダナによれよれのジーンズ、くたびれたスニーカー。見ているだけで貧乏臭さが滲み出るような青年である。
容姿は彼自身が言っているほど悪くは無いと思うが、本人は身だしなみに気を使うつもりはさらさら無いらしい。
正確には、気を使えるだけの金銭的余裕が無いだけなのだが。
青年はソファーに腰掛け手に持った新聞で顔を隠しているが、視線は遮れても気配まではシャットアウト出来なかったらしく手が小刻みに震えている。
おまけに持っている新聞は逆さまである。つくづく動揺が隠せない男だ。
彼の考えていることなど、大体想像はつく。
(何だ!?何か睨まれるような事やったか俺!?えーっと、こないだ風呂を覗いたのはその場でシバかれたし・・・こないだ厄珍堂へおつかいに行った時お釣りをチョロまかした事か?でもあれは厄珍に美神さんの下着掴ませて領収書ごと改ざんさせといたからバレる筈無いし・・・・それともその為に下着パクったのがバレたか?畜生、あの変態親父め、匂いだけで本物かどうか識別しやがるからな・・・そうでなければその辺で買った下着で騙し通して、こんな危ない橋渡らずに済むってのに・・・・」
「へぇ。危ない橋渡ったっていう自覚はあるのね、横島クン」
いつものパターンか。横島の顔に脂汗が噴出すのが見える。気の毒に、これで今回も昇給はパァである。
彼の懐具合は自分の食生活にも影響するだけに残念ではあるが、いつもの事だからさほど気にはならない。
食べかけのポテトチップスとなんとなく目を通していた女性向け週刊誌を持ち、こっそりと部屋を出る。
「なら、その危ない橋から落っこちたらカエルみたく潰れちゃうことも勿論解ってるわよね?」
巻き込まれるのは御免だ。横島は気の毒だとは思うが、流石に相手が悪い。目を閉じて十字を切り(以前美神の師匠に教わった。美神の師匠であることも納得の実力と、美神の師匠であることが信じがたい人格の持ち主であった。)、ドアをそっと閉める。
「―――――――! ―――――――――――!!」
耳を覆わんばかりの悲鳴を背に逃げるようにその場を後にする。許せ横島。
この事務所は俗に言う一般社会とは異なると思う。少なくとも、おびただしい量の血痕の為に一週間に一度は事務室の絨毯が総取替えされるような場所は普通では無いと思う。
ついでに言えば、それだけの重傷を負いながら数分後には何事もなかったかのように蘇生する横島も普通の人間ではないと思う。
残された血痕が無ければ幻術でもかけられたのかと疑うところだ。
結局、横島の部屋へとやって来た。一旦は自室へと退却したのだが、十分以上経っても鳴り止まない騒音に耐え切れなくなり、とうとう事務所を後にしたのだ。
鍵の隠し場所は郵便受けの中。隠す気があるのかと疑問に思ったが、横島曰く「盗られて困るもんなんて別に無い」だそうだ。
確かにどうせ空き巣に入るならもっと金がありそうな場所を選ぶだろう、自分でもそうする。
鍵を開け、部屋に入る。一時の魔窟っぷりは鳴りを潜め、それなりに人が住めるようになった部屋。
今では勝手知ったる他人の家である。・・・いや、他人ではないが。
早速部屋に上がると、まずはポットで湯を沸かす。恐らく横島はズタボロになって帰ってくるだろう。
血の汚れは早めに温水で洗わなければ落ちなくなってしまう。彼にとって衣服は消耗品ではないのだ。美神は金持ちだけあってこういう配慮が足りないと思う。
・・・いや、決してシバくのは服を脱がせてからにしろ、と言っている訳では無い。
次に部屋を片付ける。こうして定期的に片付けないと、この部屋はあっという間に人外魔境と化してしまうのだ。
おっと、大人向けの絵本を発見しました、隊長。隊長って誰だ。
表紙の女が女豹のポーズでこちらにたわわに実った胸部を見せ付けている。
悔しいが。非常に悔しいが、自分の肢体が美神のものと比べて明らかに見劣りすることは事実である。おのれ、あのオッパイお化けめ。
一時の栄光を謳歌するがいい。おごる平家は久しからず。あの乳はいずれ垂れるに違いない。というか垂れろ。
とにかく、自分が未成熟である事は如何ともしがたい事実であり、こういったたわわな質量に惹かれてしまう男心の機微を理解してやるのも女の甲斐性である。さっき読んだ週刊誌にそう書いてあった気がする。
でもなんかムカつくので発行日時順に机の上に並べておいてやろう。
気を取り直し、次は布団を干す。出来ればもう少し早い時間の方が良かったが、まだ日は長い。問題ないだろう。
ふと思う。自分はこんなに甲斐甲斐しい性格だっただろうか?
どちらかと言えば自分は男を使う側のタイプだったと思う。そういう意味で、美神令子には非常に近しいモノを感じていた。
だがこれはどういう事だろう、まるで通い妻である。我ながらなんと健気な事か。
もしかしたら美神令子にもこういった一面があるのかもしれない。だとしたら危なかった、あのプロポーションで通い妻などされたら横島など五分と持つまい。
自分は横島と出会って随分と変わってしまったようだ。だが、それに不快感はない。『今回は』こんな健気な女として生涯を送ってみるのも悪くは無い、そう思う。
と、この部屋に向かってくる足音に気付く。歩調で判る、横島が帰ってきたのだ。だが、その歩みは妙に弱弱しい。余程こっぴどくやられたのだろう。
どれ、可愛い通い妻が慰めてやるとしよう―――
ふと、目が覚めた。となりには裸の横島が気持ちよさそうに寝ている。まだ夜明けは随分と先である。こんな時間に目を覚ますことは殆ど無いのだが・・・
となりで眠る横島を見やる。頼りなさそうな外見とは裏腹に徹底的に鍛え上げられた肉体。だが、それよりも目に付くのは傷の多さである。
とりわけ、胸部の刺し傷のような痕はかなり大きい。自分に初めて見せた時、「こんなじゃ海やプールでナンパ出来ないよなー」等と言って笑っていたのを思い出す。
今更意味が無いとは解っているが、その傷跡をぺろり、と舐める。くすぐったそうに身じろぎをする横島。
横島は基本的に自分が何をしても起きない。自分の線の内側に入れてしまった者に対しては徹底的に無防備なのだ、横島は。
そして片っ端から線の内側に引っ張り込もうとする。それこそ幽霊だろうが妖怪だろうがお構いなしで。
危うい、と思う。だが、それが横島という人間なのだろう。そしてそういう彼を自分は好きになった。
だから、自分が彼を守ろう。身内を疑う役目は自分が全て引き受けよう。だから、横島にはこのままでいて欲しい、そう思う。
胸を締め付けられるような感情。横島といる時にたびたび感じるこの感覚。恐らくこれが人を愛しく思うという事なのだろう。
布団に潜り込み、横島の胸元に顔を摺り寄せる。起きている時には恥ずかしくてとても出来ない事も今なら出来る。
鍛えられた筋肉の硬い感触。お世辞にも心地よい感触とは言えないが、この精神的な充足感は何物にも代え難い。
考える。横島には、欲しいモノ、何物にも代え難いものは有るのだろうか?
自分はこうしてかけがえの無いものを手に入れた。ならば、横島にも彼の欲しいものをあげたいと思う。
お金は嫌いではないようだが、美神のように金銭そのものに価値を置いているわけではないようだ。
権力や地位にも興味は無いらしい。
もし横島がその気になったのなら、業界最高のGSになる事も、億万長者になる事も自分がいれば容易い。自分はそういう存在だから。
だが、彼はそういったものに全く興味を示さない。
本人に聞けば、「それならネーちゃんでいっぱいの日本武道館でジョニー・B・グッドをーッ!」といったところか。
―――少しムカついたので鼻を摘んでやった。
「―――!―――――――――――――・・・ぶはぁッ!」
ふふふ、ざまあみろ。
しかし、そう考えると実に無欲な男だと思う。いや、先ほどのジョニー・B・グッド云々は冗談だということにして。
横島の大事なもの。何物にも代えられないもの。
・・・・それが自分であったなら嬉しいな、と思う。この男にそんな気の利いた文句は期待していないが。
さて、明日は確か朝から除霊が入っていた筈だ。別に自分は美神除霊事務所の所員という訳では無く給料も貰っていないが、美神は横島は勿論自分も連れて行こうとするだろう。
自分達の使い減りしない能力は、何よりも経費削減に重きを置く彼女にとって大層魅力的に映るらしい。
正直面倒だとは思うが、あの事務所にはなんだかんだで世話になっているし、横島の力になれることは本意である。
ならば、少々残念だがもう寝たほうがいいだろう。あまり夜更かしをすると明日の除霊に差し支える。
名残を惜しむようにもう一度横島に頬擦りをし、寄り添うように床に就く。
「おやすみ、ヨコシマ―――――」
後書き
題名通り、何も無い日の彼女の話です。
全編一人称、セリフを極力使わずに書いてみました。
『彼女』が誰であるかはバレバレですが解らなかった方は好きなキャラをヒロインにしてお楽しみください。