横島はなんとなく悪い予感がしていた。心臓のあたりが詰まったように息苦しいのである。万年床の敷き布団が汗で湿っていく。目を瞑りながら横島は心臓のうえに手を置いた。するとちょっと楽になった気がする。眠りにつく前は、近頃いつもこうだった。
(畜生、なんだよこれ……)
かさかさとビニール袋の擦れる音が小さく聞こえてくる。夜の静けさだった。が、自分の内部は夜になってうるさく喚きちらしている。胸の動悸はずっと収まらない。だんだん不思議な焦りがそこに混じり始めるのを横島は感じていた。貧しい食生活がたたったのだろうか。このまま血管が破れてしまいそうだ。だからといって今日までどうこうしようとは思わなかったが、不眠症になりそうだったら、すぐにでも病院に行ってやろうと決意した。しかしそう思い始めたところで、毎夜のような唐突さで、横島はぐっすりと眠りについた。
コン、とひと声何かが鳴いた。
朝になって目が覚めると、突然、
「あ、おはよう」
と声がした。見ると、タマモが当然のような顔で隣に寝そべっていた。畳みの上である。
「どうしたんだよ」
なんでもない風を装ったが、さすがに横島の声は震えた。
「別になんにもないわ。でも、鍵を開けっ放しにするのは良くないんじゃない?」
悪びれもしないタマモを怒ろうとしたが、少し考えて、なんとなく横島は説教をやめにした。
「悪いな、今夜から鍵かけるよ」
「そうしたほうが良いわ、寝込みを襲われたら横島だってイヤでしょ?」
「……まあ、そうかな」
動悸は就寝前の時間だけにみられた。横島は胸を確かめるように叩いてから、着替えを手早く済ませた。後ろではタマモがぺらぺらと雑誌をめくっている。いったい何しに来たんだろう。最近のタマモには、なんだか奇妙な違和感を覚える。だが、よく分からないままにしろ、そっとしておけば明日も来てくれるかもしれないので、口には出さなかった。かわりに
「美神さん、今日はどこに行くって?」
と仕事について訊いてみた。
「なに言ってるの?」
タマモは意外そうな顔をした。雑誌から上がった顔が、日に射されて、白い肌に花のような赤味を帯びた。そのまま口を閉ざすと、これまた茎のように首を傾げて、横島をじっと見つめた。どうやら本気で意外ならしい。横島は思い出そうとしたが、まったく駄目だったので、なんだか悪いことをしたような気分になって、
「美神さん、具合でも悪いのか?」
「なんでよ」
とタマモはまた訊いた。それから細い足を交互に動かしてとんとん畳みを鳴らす。
「二日酔いになったから……んなわけないか、あの人に限って」
「本当に分からないの?」
「ああ、教えてくれ」
「まったく」
タマモは小さく笑った。笑ったら、九つ、生えている尻尾が綿のように揺れた。そうして雑誌に目を落として、
「横島、もう独立できたんでしょ? 今日から一人立ちよ」
と嬉しそうにささやいた。
〜〜〜
「私は反対よ!」
美神が威勢よく怒鳴り散らすのを聞いて、横島はやっぱりバイトのままでいた方が良い、そうに決まってる、とひそかな確信を抱いた。第一もとからバイトの身に不満もなかったのである。入れ知恵はちょっと前の隊長の一言で、「あなたはもう一人前よ。二人で令子を驚かしてやりましょう、そうしたらきっとあなたのことも見直すわ」と真顔で言われたからであったが、隊長に言われたら誰でもそういうものかもしれないと思うだろう。しかし現実は美神さんの本気の怒声なのだから仕方なかった。それもこれも全て隊長の所為なのに、怒られるのは自分だけというのは無性にやるせない。
「す、すんません、美神さん。俺……」
そこでさっさと謝ってしまおうとしたところへ、それを阻止するように
「令子、黙りなさい」
と恐ろしげな口調で美智恵は言った。ドスのきいた声である。横島どころか、美神もこれには黙った。机に乗り出していた身体を椅子に落ち着けると、
「ママには関係ないでしょ? 横島くんは私の事務所のメンバーなんだから」
「そ、そうでござる! いきなり独立だなんて」
シロが尻尾をピンと立てながら所長を援護した。毛が逆立って針金のように見える。以前、シロがなんのかんの言って横島の自宅でごろごろ寝そべっていたとき、誤って尻尾を踏みつけたことがあったが、本気で嫌そうな顔をされたのを思い出した。タマモとは似ているようで異なる尻尾を眺めながら、横島はぼんやり状況を見守ることにした。この場にはタマモ以外の全員が揃っている。美知恵は腰に手をあてて、
「いきなりではないわ」
と美神を見つめた。
「彼が見習いになってから、どれくらいの時間が経ってるかしら? もう充分すぎるわ」
「……でも、時間なんて」と娘。
「そうです、大事なのは」
とおキヌが言いかけたところで、また美智恵が遮った。
「時間だけではないわ。実力もよ。あなたも分かってるでしょ?」
そう言うと、いやな雰囲気が応接室に広がった。言いかけたおキヌも気まずそうな顔で黙ってしまう。
いわば禁句なのである。そういう話は控えてほしいと横島は思った。自分は実力がどうのこうの言って辞めるつもりはないのだから、わざわざ雰囲気を悪くする必要もなかった。加えて、美神除霊事務所のずっと昔からの丁稚と主人という関係には少なくない執着があったので、いまさら美神さんの上に立とうといきり立つはずもない。そういうものである。隊長にもそのあたりを理解してほしかったが、本人はこの空気にまるでこたえない。
優秀な霊能力者が集まっているだけに、無意識に霊波が漏れ出て、重苦しさは尋常ではなく、そのうちに空気が粘液のように感ぜられ、横島は堪えかねて切り出した。
「そんな、買い被りすぎっすよ。隊長には悪いですけど、俺、美神さんのところ辞めるつもりはないっす」
「横島くん……あなた…」
美智恵は驚いたように横島を見た。するとそのとき、彼女の大きな瞳に何か影のようなものが走った。それがなんであるか、横島はふと、自分のあずかり知らない思惑をそこに感じた。そうして覗き込むように見つめると、美知恵はついと眼を逸らしてしまう。やけに必死なのである。しかし、横島はそれ以上踏み込めなかったので、なんとなく胸に手を当てた。そうすると落ち着くようになっているが、自分でも何時からそうなったかは分からない。
「とにかく」
美智恵は急に断言した。
「横島くんは明日から独立します。分かったわね、令子」
「分かるわけないでしょ!」
「まあまあ」
と心配そうにおキヌが宥めた。仲が良いのか悪いのかよく分からない親子を宥めながら、ちらちらと視線を送ってくる。さりげない心配りであった。横島はすぐ察して、
「あの俺、ちょっとトイレ!」
と部屋を逃げ出して、これはもう事態をうやむやにしてしまえと廊下を走った。そこで、階段の陰からこちらをじっと窺っているタマモを見たような気がする。しかし一瞬だったので横島にもよく分からなかった。
結局、横島の逃亡のため、美智恵のごり押しもあって横島の居ないところで独立が決定したのであった。
〜〜〜
そんなこんなで朝早くから独立のことを聞かされた挙句、美神の事務所に行こうとする横島をタマモは強引に引き止めた。そうしてタマモひとりだけ張り切って電車に乗り、バスに乗り、それに横島はつき合わされ、――。六道女学園である。
「……で、どうして俺はここに来てるんだ?」
ゆるゆる手を引っ張られながら横島は言った。二人は六道女学園の敷地を歩いている。まだ早すぎるようで、女生徒は見られなかった。
「どうしてって」
うーん、と考えるように目線を白い空にやってから、タマモは答えた。
「それが普通だから、かな?」
「普通? なんの話だ、それ」
「まあいいじゃない、早速講師の仕事が入ったんだし」
「講師?」
「ええ、中等部の生徒に除霊を教えるんだって」
そう言って、横島と繋いだ手をぶらぶら振るってきた。なんとなく微笑ましくなって、横島も少し握り返して、大きくタマモの手を前後に振ってやった。するとタマモはちょっと喜んで、
「えい、えい」
と高くはしゃぎ声をあげた。しかし、はしゃいでいるタマモはどうか知らないが、そんな話を横島は聞いた覚えがないのである。
大きな校舎に沿って秋の緑が立ち並んでいる。その流れを割って二人は校舎に入った。昇降口でスリッパに履き替え、暗い廊下に出る。しばらく訳知り顔のタマモに先導されてから、
「講師って……、マジっすか?」
と横島は思い出したように訊いた。職員室らしき扉の前まで来て、やっぱりタマモの勘違いのような気がしてきたのだった。薄雲のような不安が胸を掠め、横島の心臓は落ち着かなかった。
「入ってみたら分かるでしょ?」
しかしタマモは恐ろしく強気である。となると、横島もうじうじしていられなくなる。少し考えて、「確かに」と何気ない顔で頷いてから、
「失礼します」
とドアを開けた。
中は思ったより狭く、辞書やらなにやらが四方の棚に押し込められており、窮屈な印象だった。机は四つほどあったが、そこには一人しか居なかった。女性である。彼女は驚いたように顔をあげ、やや訝ってから、ピンと来たようで、ああそういえばと呟いた。
「もしかして、横島さんですか?」と畏まって言う。
「ええ」
「講師として新しく来られたんですよね?」
「ええ」
横島は入り口に立ったまま、いかにも尤もらしく、ええ、ええ、と言うほかなかった。自分でも、なぜここに来て講師になろうとしているのか、やはり分からなかった。
「あの、理事長のところには行かれましたか」
「いえ」
ここで初めて、女性はほっとしたように顔を崩して、
「やっぱり。横島さんは多分、ここの受け持ちにはならない筈ですから、びっくりしたんです」
「あ、間違えてたんですね、すみません」
横島はなんとなく謝っておいた。
「まだ早いですけど、理事長はいらっしゃると思うので、そちらに向かわれたらどうでしょう」
「あ、はい。本当にすんませんでした」
「いいえ、どういたしまして。横島先生、これから頑張って下さいね」
にこりと笑うと、女性はそれきり、横島の退室を待っている様子なので、無言のタマモを引き連れて職員室を出た。そうしてドアを閉めると、
「ね、これで信じたでしょ?」
と嬉しそうにタマモは言った。横島は不承不承頷くしかなく、
「しっかし、おかしいなあ。なんで忘れてたんだ、俺。……まさか、この若さでボケたんじゃ」
「大丈夫よ」
タマモはおかしそうに笑い、
「さ、早く行きましょう。理事長のところでしょ」
と妙な自信をもって急かした。
「あ、そういや場所分からないな」
「良いから。私、知ってるのよ」
「え?」
横島の疑念はますます膨らんでいく。やはり、タマモが一人で仕事をもらってきたのだろうか。でもまさか、自分に断りもなくそんなことはしないだろうとも思う。
「どうしたの?」
「タマモ、もしかしてこの仕事、お前が勝手に?」
「そんなわけないじゃない」
タマモはびっくりしたように否定した。じっと見つめてくる感じからして、どうも嘘ではないように見える。
「そうだよな、すまん」
「もう、驚かさないでよ」
「悪い悪い」
そうして迷いそうにない足取りのタマモに引かれていると、理事長室に行くまでもなく廊下で理事長に出会い、二人はその場で立ち止まった。
「あら〜、来てくれたのね。おばさん、心配したのよ〜」
理事長は面のような笑い顔を浮かべたが、横島は軽々しくその笑顔に同調できなかった。気分が乗らないのである。夢のなかで記憶を零してきたような不安がそうさせた。横島はしかし微笑むしかない。隣のタマモもやけに満足そうで、わずかにはにかむ赤ん坊のような顔をしていたからである。
「もう、大丈夫って何度も言ったじゃない。心配することないのに。ね、ヨコシマ?」
タマモは全身で嬉しさを表現している。横島はやっぱりここでも頷いておいた。
「そうっすよ、……多分」
しかし、いつまで頷いていればいいのか。横島は自分が分からなくなりつつあり、その疑惑を心のなかで見つめるように二人から目をそらし、窓に浮かんでいる空をぼうっと眺めた。
朝の透明な光が地面に滑り落ちている。薄い雲の隙間で陽が揺れている。それは無心の動きのように見えた。朝は虚ろの静けさを漂う。いまの横島もそうであり、だからこそあれもこれも飾りにすぎないと不意に思った。よく分からない感覚なのである。
「ねえ、ヨコシマ? どうしたの?」
「いや、なんでもない」
そう答えたときすでに理事長の姿はない。それに正門の騒がしさも聞こえてきた。
タマモは自分が気づくまでずいぶん待たされたのかもしれない。なんとなく悪いことをした気分になった横島は、何か言おうとして、何を言うべきか分からず、
「――それで、俺はどうすればいいんだ?」
と言った。タマモはにこりと笑い、前に向かって歩き出し、腕組みをしながら振り返った。
「そうね、どうしよっか」
そのときタマモの目の奥のほうへ狐が走っていったように見えた。が、見ようと意識するとすぐに消えてしまうのである。まただ、と横島は思った。隊長のときもそうだった。何か蝿のような不純物が眼球に紛れこんでいる気がする。こりゃ真剣に病気かも、と横島は急に不安になって心臓を押さえ、幻覚だったら厭だなあとうつむいた。それから文珠で病気を治せるか真剣に考え始めたところへ、
「もう授業が始まっちゃうわ」
タマモが鳥のようにピョンピョンと走り出した。
「廊下を走ったら怒られるぞ」
横島はなんでもない風にいった。
「そうなったらヨコシマの所為にするから」
「なんでやねん!」
「あ、関西弁になった」
タマモがあははっと笑うので、今日はよく笑うなと気づいて横島は嬉しくなった。そう。体のことはあとで考えればいい。タマモのことを気にするべきだ、今日のタマモはおかしいと密かに思っている。
「俺、じつは関西人やからな〜」
「じゃ、関西弁ずっと続けてよ。そっちのほうが面白いもん。――あ、やっぱりずっとじゃなくて私が飽きるまでね」
「なんか美神さんみたいだな、タマモ」
「う……やっぱりさっきのなしね」
そうこうしながら講義室に着いた。生徒たちがぎっしり詰まっている。不審そうな顔をしている生徒も居れば、楽しそうな顔の生徒も居た。しかし横島は教壇まで上がったところで俄かに焦りはじめ、「ええっと、……忘れ物が」と言い訳がましく引き返し、廊下の隅までタマモを引っ張っていくと、こそこそ耳打ちした。
「そういえば、俺は何を教えればいいんだ?」
が、タマモは心外だと言う顔をして、
「さあ……そんなこと言われても」
肝心なところで頼りにならないのである。
「そんなことも俺には一大事じゃー!」
ただでさえ講師など出来る能力があるのか自分が自分に疑問だった。テンパッた横島はタマモの肩を揺さぶって叫んだ。そうすれば揺れた脳みそからぽろっと智恵が転がり出てくるんじゃないかと、少しだけ思ったのである。しかし、
「一大事って、……プロでもないんだし適当でいいんじゃない? 相手は子供なんだから」
と、いかにも投げやりなのである。
横島はタマモは当てにならないと諦めると、「くそー! どうせ人間は孤独じゃー!」とすぐ落ち着けるトイレに駆け込み、トイレを装うため便器に座って時間を稼ぎながら悶々と考え込んだ。
そうするうちに、いっそ妙神山で小竜姫さまに稽古をつけてもらえばいいんじゃないかと思った。そうだ、それって良い考えかも。俺が教えなくても、先生の上手い人は他にもいくらでも居る。だいいち知り合いという知り合いは小竜姫さまのところへ修行に行っているような気がする。
老師とゲームをしたくらいで、そもそも小竜姫さまに教えてもらったことはないような気がする横島だが、きっと教えるのは上手いはずだと無責任に考えた。つまるところあのお堅い小竜姫さまをどうにか講師役として呼べたら……と考えるところまで追い詰められ、何だか泣きそうになった。
「くっそー、やっぱ独立なんてするもんじゃないな……。隊長、恨みますよー」
美神さんの鉄拳さえ恋しくなるほどである。
「そもそも、俺がどないして講師なんてやらなあかんねん。銀ちゃんみたいに演技できるわけでもないし……ダメだ、嵌められてる気がしてきた」
しかしやらねばならないときはくるものである。トイレにこもった横島は、
「横島く〜ん? おばさん、本当に待ちくたびれちゃったわ〜」
という理事長の気軽な声を聞き、びくっとした。軽い声の裏側に、明らかに静かな怒りのようなものを感じる。それに呆れ声のタマモが続いた。
「まだ悩んでるの? 悩むことなんてないのに。どうせ何もわかってないやつばっかりなんだから、適当でいいのよ、適当で」
その適当が分かれば苦労しないっちゅうねん。横島はそんなことを頭の片隅で考えながらも、授業のことやその責任のことや記憶の曖昧さのことで、いかにもいっぱいいっぱいであり、ひぃっと怖がるように頭を抱えて黙っている。
「あら〜、タマモちゃん、それはないんじゃないかしら〜。おばさん、とっても悲しいわ〜」
一応言っておくわね〜、という具合で理事長が口を挟んだ。
「大丈夫よ、気にしないで」
「どうして〜?」
「だって、ヨコシマの適当をそこらへんの適当と一緒にしちゃダメなんだから。そうよね、ヨコシマ。美神のしごきに耐えたんだもん、とにかく普通じゃないわ」
「それもそうね〜」
「当然よ。というわけでヨコシマ、早く出てきてね」
「って、その前にここは男子便所じゃー!」
ついにプツンと緊張の糸が切れた横島は、しかし悲鳴のような声をあげながらも講師役を務める覚悟を決めたのだった。
続く
――あとがき。
どうもはじめまして、銭湯といいます。
堅苦しいSSでありますから、皆さんがお気に召すかどうか心配ですが、どうぞこれからよろしくお願いします。